朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

大きな報いがあるのだそうですから

2016-08-26 07:59:45 | 聖書から
ダニエルは引き出されたが、

   その身に何の害も受けていなかった。

 神を信頼していたからである。ダニエル書6:24 




 自分の確信を捨ててはいけません。

この確信には大きな報いがあります。ヘブル書10:35




 ヤコブ書2:5~13

 マルコ10:32~45

      (ローズンゲン日々の聖句8/26;金)




 ユダヤから捕囚としてバビロンに連れて来られていたダニエルは、バビロン帝国で、知者たちの長官として用いられたのだそうです。




 紀元前539年、バビロン帝国が滅ぼされ、その国を受け継いだメディア人(ペルシャ)ダリヨス。彼は、全国に120人の太守を任命し、国を治めさせたのだそうですが、その上に、3人の大臣を置き、ダニエルはそのうちの一人として用いられたのだそうです。




 ダニエルは、彼のうちにすぐれた霊が宿っていたので、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていたので、王はダニエルに全国を治めさせようとしたのだそうです。




 他の大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようとしたのだそうですが、ダニエルは忠実で、なんの怠慢も欠点も見つけられなかったのだそうです。




 それで、この大臣や太守たちは策謀をめぐらし、王に進言して、

「今から30日間、王以外に、いかなる神にも人にも、祈願する者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれる」という法律を制定させたのだそうです。




 けれども、ダニエルは、それを知りながらも、自分の家の、窓がエルサレムに向かって開いている屋上の部屋で、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神に祈り、感謝していたのだそうです。




 それで、ダニエルは訴えられ、王は、何とかダニエルを救おうとしたのですが、大臣たちは制定した禁令を執行するよう迫り、ついにダニエルは捕えられ、獅子の穴に投げ込まれることになったのだそうです。




 王は、一晩中断食をし、眠けももようさず、夜明けに日が輝きだすとすぐ、獅子の穴に急いで行き、悲痛な声でダニエルに呼びかけ、

「生ける神のしもべダニエル。

あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか」と呼びかけたのだそうです。

獅子の穴から出て来たダニエルには、何の傷も認められなかったのですね。




 そのとき、ダリヨス王は、全土に書き送ったのだそうです。

「あなたがたに平安が豊かにあるように。

私は命令する。

私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。

この方こそ生ける神。

永遠に堅く立つ方。

その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。

この方は人を救って解放し、

天においても、地においても

しるしと奇蹟を行い

獅子の口からダニエルを救い出された」と(ダニエル6章)。







 ヘブル人への手紙10:32~39には次のように記されています。

「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを思い起こしなさい。人々の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。

それは大きな報いをもたらすものなのです。

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

『もうしばらくすれば、

来るべき方が来られる。

おそくなることはない。

私の義人は信仰によって生きる。

もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。』

私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」と。







 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と言われ、

「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。

人の子(イエスご自身のこと)は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。

彼らは、人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。

すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。

しかし、人の子は三日の後に、よみがえります」と言われ、そのとおりを受けられた方、




 弟子たちに、「異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、

また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

しかし、あなたがたの間では、そうではありません。

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

あなたがたの間で人の先になりたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、

また、多くの人のための、贖(あがな)いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10:32~45)と言われる方が、あわれみによって、私たちを、自由の律法によってさばかれる者らしく語らせてくださり、確信をもって進ませてくださいますように(ヤコブ2:5~13)。

今日も。


イメージ 1











[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]









"哲学・思想 ブログランキングへ"









[269RANKのランキングサイト]









<ahref="http://www.blogmura.com/point/00697809.html" ><imgsrc="http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/>

あなたが贖ってくださったこの魂は、あなたにほめ歌を歌います

2016-08-25 12:31:48 | 聖書から
私の唇は喜びの声をあげ、

  あなたの贖(あがな)ってくださったこの魂は、

    あなたにほめ歌をうたいます。詩編71:23




 あなたがたの名が

天に書きしるされていることを喜びなさい。ルカ10:20




 使徒4:32~37

 マルコ10:28~31

      (ローズンゲン日々の聖句8/25;木)




 「贖(あがな)い」とは、失われたものを、代価を支払って買い戻すこと。

 「天に名が書きしるされている」とは、天の御国の国籍を与えられていること、

    天の御国の国民にしていただいていることなのだそうです。




 私たち人間は、天の神、主、「わたしはあるという者だ」と名乗られる方から、

「われわれのかたちとして、われわれに似せて、

われわれのような者を造ろう」と願われて造られたものなのだそうです(創世記1:26)




 天の神、主、「わたしはあるという者だ」と名乗られる方は、

「父である神」、「御子である神」、「聖である霊」と呼ばれる神が、それぞれ、全知、全能、永遠不変の方でありながら、

それぞれが自己主張をするのでなく、

自由意思で、自発的に、愛と尊敬をもって一つになっていらっしゃる方、

一つ思い、一つ心になり、行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる方なのだそうです。




 そして、その自分たちの一つに加わる者がもっと欲しいと願われたようですね。

自由意思で、自発的に、愛と尊敬をもって、ご自身と、一つ思い、一つ心になり、行動を一つにし、存在を一つにする者を造ろうと。




 イエスが、ご自分の十字架刑での処刑を明日に控えて弟子たちに語った次の言葉も、この神と私たち人間との一つになる関係、それが回復されることを言っていらっしゃるということでしょうか。




 「聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保って下さい。

それは私たちと同様に、彼らが一つになるためです」((ヨハネ17:11)




 「真理によって彼らを聖(きよ)め、(世から)分かってください。

あなたのみことばは真理です。

それは、父よ。あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。

また、彼らもわたしたちにおるようになるためです」(ヨハネ17:17~21)。




 「また私は、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。

それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。

わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。

それは、彼らが全うされて一つとなるためです」(ヨハネ17:22~23)。







 人間イエスとなられた御子である神の命が、私たち人間をご自身に買い戻す贖い代(あがないしろ)、買い戻しの代金として差し出され、私たちすべての人間の身代わりとして、十字架刑で処刑されてくださっている今は、その贖い、買い戻しを自分のこととして受け取る者は、天の御国の国籍を与えられた者としていただけるのだそうです。




 そして、喜びと感謝をこめて、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に、ほめ歌をうたう者になるというのですね。







 そして、「彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配する(管理し治める)ように」(創世記1:26後半)と言われているように、

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方と一つ思いになり、

この方の思いを受けて、それを地にもたらす者として用いていただけるのだそうです。




 これを認めた者は、自分の置かれている環境、持っているもの、すべては、天の神主から預かっているもので、管理を任されているものと受け取り、イエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方によって、「父である神」の御思いを心に置いていただいて、「父である神」の御思いを受けて、御思いのとおりに預かっているものを用いていくようになるのだそうです。




 それで、イエスの弟子たち、信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にし、必要に従って用いたので、彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかったのだそうです(使徒4:32~37)。




 私たち、ペテロのように、「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちはなにがいただけるのでしょうか」(マルコ10:28~31、マタイ19:27)と言うような者です。




 けれども、今持っているものを天の神、主から預かっているものとし、イエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、御思いを心に置いていただいて、その御思いのとおりにこれを用いていくなら、

天の神、主の御前に帰ったとき、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、わたしはあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21、23)と喜んでいただける者にしていただけるのだそうです。

今日。


イメージ 1




[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]







"哲学・思想 ブログランキングへ"







[269RANKのランキングサイト]







<ahref="http://www.blogmura.com/point/00697809.html" ><imgsrc="http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/>



愛の実りの喜びを共にしようと

2016-08-24 07:22:16 | 聖書から
恵みの業の種を蒔き、
  愛の実りを刈り入れよ。ホセア書10:12

 あなたがたに勧めます。
怠惰な者を戒め、
小心な者を励まし、
弱い者を助け、
すべての人に対して寛容でありなさい。

 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、
お互いに、またすべての人に対して、
いつも善を行うよう努めなさい。Ⅰテサロニケ5:14~15

 申命記24:(10~13)17~22
 マルコ10:17~27
      (ローズンゲン日々の聖句8/24;水)

 天の神、主、「私はあるという者」と名乗られる方は、この世界を平均的平等にするのではなく、差があることを許しておられるようです。
そして、その差を、愛を行う場として用いるようにと願っておられ、常に、弱い立場にある人を心にとめておられる方のようです。

 それで、今からおよそ3500年ほど前にも、出エジプトしたイスラエルの民に、モーセを通して、
「在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。
やもめの着物を質に取ってはならない。
あなたが畑で穀物の借り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。
あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や「、みなしご、やもめのものとしなければならない。
ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。
だから、私はあなたにこのことをせよと命じる」(申命記24:17~22)と語っておられます。

 また、パウロを通して、
「困っている人に施しをするために、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい」(エペソ4:28)と勧められ、
「私はこのこと(エルサレムの貧しい人たちのための支援献金)によって、他の人々には楽をさせ、あなたがたに苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。
今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるからです。こうして、平等になるのです。
「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」(出エジプト16:16~18)と書いてあるとおりです」(Ⅱコリント8:13~15)と語られるのです。

 ある、金持ちで、社会的な地位もある青年が、「永遠のいのち」を自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいのでしょうかとイエスに尋ねながら、イエスが、「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」と言うと、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ったのだそうです(マルコ10:17~27)。

 そのように、私自身の「生まれた時からの霊」から出てくる思いは、自分が困らないようにと、出し惜しみをする思いばかりです。

 けれども、「聖である霊」と呼ばれる方が心に置いてくださる「父である神」の御思いは、ご自身に対する、必ず養ってくださるとの信頼と困っている人を思う愛の思いなのでしょうね。


 「わたしはあるという者」と名乗られる方は、愛のない私とも、「恵みの業の種を蒔き、愛の実りの借り入れ」の喜びを共にしようと思っていてくださるのでしょうか。
今日も。
イメージ 1


[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

"哲学・思想 ブログランキングへ"

[269RANKのランキングサイト]
<ahref="http://www.blogmura.com/point/00697809.html" ><imgsrc="http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/>

「わたしを求めて生きよ」

2016-08-23 08:19:35 | 聖書から
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、
   いかなる仕事もしてはならない。出エジプト20:9~10

 安息日は、人のために定められた。マルコ2:27

 アモス書5:4~15
 マルコ10:13~16
      (ローズンゲン日々の聖句8/23;火)

今から3500年ほど前、天の神、主が、モーセを通してイスラエルの民に示された律法には、安息日について、
 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
六日間働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。
あなたはどんな仕事もしてはならない。
――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も――
それは主、「わたしはあるという者」と名乗られる方が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。
それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された(出エジプト20:8~11新改訳)と記されています。

 日本では、仕事を休めるのは、盆と正月、あと、お祭りという時代が長かったのでしょうか。
その後、月に1~2回になったのかもしれませんが。
 私が中学を卒業して、京都の友禅染の向上に住み込みで働き始めた、昭和32年(1957年)頃、週休にはなっていましたが、日曜日になると、「今日、休んでもいいの?」って思う状態でした。

 3500年前から、しかも、奴隷や家畜にまで、週休を与えるよう、文章にして示されていたとは驚くべきことですね。

 けれども、これを自分の力で守ろうとしたとき、では、どこまでが仕事で、どこまでが仕事でないのか、どこまでやらなくすれば安息日を守ったことになるのか、ということで、人間は、細かい定めを作り、それを守らなければならないとして、この安息日の、神様からの恵みの出来事が、熱心に神の律法を守ろうとするほど、その人を縛る定めになってしまっていたようです。

 法律というものは、それを定めた事情、背景とか、目指した考え方とかがあるのでしょうが、時とともに、それが薄れ、文章だけが一人歩きしてしまう傾向があるようで、この安息日についての定めも、これを与えられた神様の御思いとは関係なく、人を縛るものになってしまっていて、イエスは父である神の御思いのとおりの安息日に戻そうとしておられたのかもしれません。

 天の神、主は、アモスを預言者として立てて、言っておられます。
まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。
わたしを求めて生きよ。
(宗教を求めるのではなく)
主、「わたしはあるという者」と名乗られる方を求めて生きよ。

 すばる座やオリオン座を造り、
暗黒を朝に変え、昼を暗い夜にし、
海の水を呼んで、それを地の面に注ぐ方、
その名は主、「わたしはあるという者」と言われる方。
主は強い者を踏みにじり、要塞を破壊する。
彼らは門で戒めを与える者を憎み、
正しく語る者を忌み嫌う。
あなたがたは貧しい者を踏みつけ、
彼らから小作料を取り立てている。
それゆえあなたがたは、切り石の家々を建てても、
その中に住めない。
美しいぶどう畑を作っても、
その酒を飲めない。
わたしは、あなたがたのそむきの罪がいかに多く、
あなたがたの罪がいかに重いかを知っている。
あなたがたは正しい者をきらい、まいないをとり、
門で貧しい者を押しのける。
それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。
それは時代が悪いからだ。

 善を求めよ。悪を求めるな。
そうすれば、あなたがたは生き、
万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。
悪を憎み、善を愛し、
門で正しいさばきをせよ。
万軍の神、主は、
もしや、ヨセフの残りの者を
憐れまれるかもしれない」(アモス5:4~15新改訳)と。


 イエスは言われます。
「子どもたちを、私のところに来させなさい。
止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、
決してそこに、入ることはできません」(マルコ10:13~16)と。


 「わたしを求めて生きよ」
天の神、主、「わたしはあるという者」と言われる方は、私たちに代わって十字架刑で処刑されてくださったイエスが遣わしてくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方によってご自身の御思いを求めて生きてほしいと私たちに願っておられるようです。
今日も。
イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

"哲学・思想 ブログランキングへ"

[269RANKのランキングサイト]

<ahref="http://www.blogmura.com/point/00697809.html" ><imgsrc="http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/>

天国と地獄の分かれ目、羊とヤギのちがいとは

2016-08-22 20:57:50 | 聖書から
 マタイによる福音書25章31節~46節に、
今から、およそ2000年ほど前、ローマ兵によって十字架刑で処刑されたイエスが、
すべての御使いを従えて、もう一度、来られ、
すべての国々の民が、その御前に集められ、右と左に分けられる、
羊飼いが羊とヤギを分けるように分けられるということが起こる、という、イエスの話しが記録されています。

 そして、右の人、羊とされた人には、
「さあ、わたしの父に祝福された人たち。
世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」とおっしゃられ、

左の、山羊とされた人たちには、
「呪われた者ども、
わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ」と判決を言い渡される、
というのです。

 つまり、この箇所では、イエスが、神の国(天国)を受け継ぐ人と、永遠の火(私たちがよく言う地獄)に放り込まれる人を分ける時が来ると、おっしゃっておられるようです。

 天国へ入れてもらえるか、地獄に放り込まれるか、
私たちは、簡単に、「イエス様を信じて洗礼を受けたから、天国へ入れてもらえる」と教えられ、そう思っています。
しかし、イエス様は、この箇所で、さらに深く、「では、イエスを信じる」とはどういうことか、ということを話しておられるのかもしれません。

 この聖書の箇所に関連させて、「イエスを信じる」とはどういうことか、を見ていくとき、
それは、聖書で「肉」と書かれ、「生まれた時からの霊」と言われている私自身を、イエス様の十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだもの、としていただくこと、

 そして、その十字架で処刑され、三日目に墓より復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国について教えられ、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを示され、オリーブ山から、弟子たちが見ている前で雲に迎えられ(使徒2:3~12)、天の、父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる、
新しい霊、「聖である霊」と呼ばれる神をお迎えし(ヨハネ14:16、使徒2:33)、この方によって、律法(文字にされた、原則としての律法、あるいはロゴス)の奥にある神の御思いに基づく、一つ一つの具体的な思い、あるいはレーマ〔話し言葉〕)、そのとき、その時の、この人、あの人に対する父である神の御思いを心に書き付け、置いていただいて、その部分において父である神と同じ思いを思い、心を一つにし、父である神が私を通してしようと思っていらっしゃることをする、一つ行動をとる者としていただくこと(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~31、ヘブル10:12~19)を受け取ることまで含まれるのでしょうか。

 それで、「聖である霊」と呼ばれる神によって心に来た、「空腹である人を見た時、食べ物をあげようかな」という父である神からの思い、「渇いている人を見て、飲み物をあげようかな」という父である神からの思い、「旅人に、宿を貸してあげたいな」、「裸の人に、着る物をあげようか」、「病気の人を見舞ってあげようか」、「牢にいる人を尋ねてあげようか」という、心に来た父である神の御思いに従い、その思いを行動に移した人、
それが、イエスが言われる、右側に置かれた、羊とされた人なのでしょうか。

 すると、左側に置かれた、山羊とされた人は、
イエスの十字架刑で処刑での処刑による、私自身の処刑を不要とし、無視し、受け取ろうとしない人もそうなのでしょうが、
「イエスの十字架で私の罪は赦されました。これで私は天国に行けます。ハレルヤ」だけで留まってしまって、「聖である霊」と呼ばれる方が心に置いてくださる、「父である神」が、そのとき、その時に、この私を通してしたいなと思われる御思い、「空腹の人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、旅人を泊まらせ、裸の人に着せ、病気の人、牢にいる人を訪ねる」御思いについて行こうとしないで、
「肉」と言われている「生まれた時からの霊」から出てくる思いのほうで行動している人のことなのかもしれません。

 羊は、自分で自分を守ることのできない、放っておかれると迷ってしまう弱い存在、
羊飼いの声についていく従順の象徴。

 山羊は、自分の思いのままに山を駆け回り、
羊飼いの声など聞こうとしない者の象徴なのでしょうか。

 私たち、日々に、
自分は「神のひとりのように、なんでも知っている者に、なんでもできる者に、いつまでも生きている者になろう。
善悪を知る者、自分一人の理性の判断で善悪を決め、その判断のとおりを実現しよう」(創世記3:5、22)と思う者、

「私は天に上ろう。
神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
北の果てにある会合の山、天の神、主と天使たちの会合の席に議長として座ろう。
密雲の頂、天の神、主の御座よりも上に上り、いと高き方のようになろう」(イザヤ14:13~14)としている者の性格を受け継いでいる者であること、
山羊のように「うなじのこわい」、自分の考えを押し通し、言われることを聞こうとしない者で、地獄の火に投げ込まれるはずの者であることを、日々の具体的な出来事の中で認め、

そのたびごとに、イエスの十字架刑で、その私自身も、処刑されていることを受け取り、
「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、
羊のように、御思いについて行く歩みを、一歩、踏み出し、
天の神、主が、私を通して、今、しようと思っていらっしゃることをして行けますように。
イエスから、羊と認められ、「良い、忠実なしもべよ。よくやった。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21)と言っていただけますように。
今日も。
イメージ 1

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

"哲学・思想 ブログランキングへ"

[269RANKのランキングサイト]

<ahref="http://www.blogmura.com/point/00697809.html" ><imgsrc="http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/>