朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

いつも、いつまでも、私たちと一緒にいて

2018-11-20 23:27:19 | 聖書から
あなたの出で立つのも帰るのも、
主が見守ってくださるように。
今も、
そしてとこしえに。詩121:8


 私たちは
この地上に永遠の都を持っておらず、
来るべき都を捜し求めているのです。ヘブル書13:14


 ヨハネ3:17~21
 イザヤ書1:10~20(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句11/20;火)


天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
私たちが出て行くときも、帰るときも、
いつも、一緒にいて見守っていてくださる方なのですね。
この地上を歩むすべての道において。
やがて実現する天の都に帰るその時まで。


〔父である神〕が、
〔御子である神〕を、
人間イエスとして、この人の世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため、なのだそうです。

 イエスを救い主として受け入れた者は、
もう、さばかれることはないのだそうです。

イエスが十字架刑での処刑を受けて成し遂げてくださった、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊の処刑を受け取った者は。

 墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語り、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。

そのイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
その方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いと思いを一つにして生きる者は。

けれども、この神からのプレゼントを無視し、受け取らなかった者は、
その、受け取らない行為自体で、
自分を、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)、
「的外れ」の状態のままにとどめることになるのだそうです。

 それで、その自分の責任を自分で取ろうとして、
アダムとエバがそうしたように、神から隠れ、
自分の「的外れ」を隠し、
自分を神の前の明るみに出そうとはしないのですね。

 ありのままの、
「的外れ」のままの自分を神の前に、
光の中に差し出せば、
イエスによって
光の中の出来事にしていただけるのに(ヨハネ3:17~21、エペソ5:13~14)。

 神は、
私たちの「緋のように、紅のように、赤い的外れ」を、
イエスによって、
雪のように、羊の毛のように、
白くしようとしていてくださるのだそうですから。

 イエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
いつも、いつまでも、私たちと一緒にいて、
私たちを見守り、
私たちの心にも
〔父である神〕の御思い、
善をなすことを習い、
公正を求め、
しいたげる者を正し、
みなしごのために正しいさばきをなし、
やもめのために弁護する思いも置いてくださるのだそうですから。
喜んで聞こうとする思いも(イザヤ1:10~20)。
今日も。

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私たちを、見放すことも、見捨てることもせず

2018-11-18 23:29:59 | 聖書から
わたしはあなたを見放すことも、
見捨てることもない。ヨシュア記1:5



 イエスの言葉:

あなたがたは悲しむが、
その悲しみは喜びに変わる。ヨハネ16:20



 マタイ7:21~27(28~29)

 イザヤ書1:1~9(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句11/19;月)



 モーセの後を継いだヨシュアに、

天の神、主、
「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方は、

このように言われたのだそうです。

 私たちにも言っていてくださるのでしょうね。
「あなたを見放すことも、見捨てることもない」と。

 イエスは予告されました。
ご自身の死に直面して、弟子たちは悲しむ。
しかし、その悲しみは喜びに変わる、と。

 それは、イエスは、
死人の中から新しい霊のからだに復活されて、
弟子たちは、その、復活されたイエスに会うことになるから、
なのだそうです。

 イエスは、さらに言われます。
「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです」と。

 私たち、
〔父である神〕の御心を示され、
それを自分の努力で行いなさいと言われても、行い得ない者、
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。
善を行う人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10~12)ので、
「律法を行なうことによっては、
だれひとり神の前に義と認められない」(ロマ3:20)ということを前提にして、
「〔父である神〕のみこころを行なう」とはどういうことなのか、を考えるとき、
律法とは別に、律法と預言者によって証しされている道とは、
〔新しい霊〕、〔わたしの霊〕と言われる方によって、
「受け入れる者に新しい心を与え、
わたしの律法を彼らの中に置き、
彼らの心にこれを書きしるし、
わたしのおきてに従って歩ませ、
わたしの定めを守り行わせる」(エレミヤ31:33、エゼキエル36:25~28)ことなのでしょうね。

〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いによって生きるのではなく、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置き、
書き付けてくださる〔父である神〕の御思いを土台として、生きていく、
岩の上に人生を建て上げていく(マタイ7:21~27)、
新しい生き方が始まるのだそうです。

 悲しみが喜びに変わって。
今日も。

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感謝のいけにえをささげながら

2018-11-18 09:50:52 | 聖書から

私たちは皆、
キリストの裁きの座の前に立たなければなりません。Ⅱコリント5:10



 告白(感謝)をいけにえとしてささげる人は、
わたし(神)を栄光に輝かすであろう。
道を正す人に、
わたしは神の救いを示そう。詩50:23



 どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、
キリスト・イエスにおいて、
神があなたがたに望んでおられることです。Ⅰテサロニケ5:18



 マタイ25:31~46

 詩50(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句11/18;Ⅲ日曜)



 私たち、人間は、

イエス・キリストの御前に立って、

どのような生き方をしてきたか、

創造の目的にあった生き方をしてきたかどうかの、

人生の清算をする時が来るのだそうですね。

イエスが、その栄光を帯びて、

すべての御使いたちを伴って来るとき、

すべての国々の民が、その御前に集められ、

イエスは、羊飼いが羊とやぎとを分けるように、

人々をより分けるのだそうですから。



 空腹の人に食べ物を与え、

渇いている人に飲ませ、

旅人の世話をし、

裸の人に着る物を与え、

病気の人を見舞い、

牢にいる人をたずねたかを。



 〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちの心に置いてくださる

〔父である神〕の御思いは、そのような思いなのだそうです。

 それで、その御思いによって生きて来たか、
それとも、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、
〔生まれたときからの私〕という霊の思いのままに生きて来たかどうかを。

 イエスの十字架刑での処刑によって、
この、私自身である〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑されたもの、死んだものとしていただき、
イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって生きるようにと、
〔父である神〕は願っておられるのだそうですから。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
〔父である神〕と思いを一つにし、
感謝のいけにえをささげながら。
この新しい週も。


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嘆きの日は終わるのだそうです。私たちにも

2018-11-17 09:15:01 | 聖書から
あなたの嘆きの日は終わる。イザヤ書60:20



 神が彼らの目から
涙をことごとくぬぐわれる。黙示録7:17



 マルコ13:1~8

 黙示録22:16~21(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句11/17;土)



 その日には、

太陽がもう受け入れる者の光とはならず、

月の輝きも受け取った者を照らさず、

天の神、主、

「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方が

受け取った者の永遠の光となり、

この方が受け取った者の光栄となる。

あなたの太陽はもう沈まず、月はかけることがない。

天の神、主、

「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方が

永遠の光となり、

受け取った者の嘆き悲しむ日が終わるのだそうです(イザヤ60:19~20)。



 御座の正面におられる小羊、

私たちの身代わりとなって命をささげてくださった方が、

受け取った者の牧者となり、

いのちの水の泉に導いてくださるのだそうです。

そして、神は

受け取った者の目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのだそうです。

 そのことが実現する前兆として、
キリストの名を名乗る者が大ぜい現れ、
「私こそそれだ」と言って、多くの人を惑わすのだそうです。
戦争があり、
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
方々に地震があり、
飢饉も起こるのだそうです。

 人々は、イエスを受け入れた者たちを議会に引き渡し、
会堂でむち打ち、イエスのゆえに裁判にかけます。
けれども、それが証しをする場となり、
そのようにして、
福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられるのだそうです(マルコ13:1~10)。

 だから、これらのことが起こるのを見たら、
その日が近づいていると知るのですね。

 イエスは言われます。
「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」

 御霊も花嫁とされた者も言うのですね。
「来てください」と。

「渇く者は来なさい。
いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」
と言ってくださっているのだそうです。

 嘆きの日は終わり、
神が私たちの目から涙をことごとくぬぐわれる日が
近づいているのだそうですから。
今日も。

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この方の御思いを人生の土台岩として

2018-11-16 07:40:04 | 聖書から

岩と頼むのは私たちの神のみ。サムエル記2:2



 イエスの言葉:

私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、
岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。マタイ7:24



 Ⅱコリント6:1~10

 黙示録22:6~15(通読箇所)

(ローズンゲン日々聖句11/16;金)



 天の神、主、

「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方だけが、

岩と頼むことができる方なのだそうです。



 それで、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる

この方の御思いを自分の土台として人生を建てていく者は、

どんなに打ち付ける嵐にも倒れることはないのですね。



 この方と思いを同じくし、

心を一つにして、

神と共に働く者としていただけるのだそうですから。



 そして、この務めがそしられないために、

どんなことにも人につまずきを与えないようにと、

あらゆることにおいて、

自分を神のしもべとして推薦するのだそうです。



 非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、

また、純潔と知識と、寛容と親切と、

聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力により、

左右の手に持っている義の武器により、



 また、ほめられたり、そしられたり、

悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、

自分を神のしもべとして推薦するのだそうです。



 人をだます者のように見えても、真実であり、

人に知られないようでも、よく知られ、

死にそうでも、生きており、

罰せられているようであっても、殺されず、

悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、

貧しいようでも、多くの人を富ませ、

何も持たないようでも、

すべてのものを持つようにしていただけるのだそうです(Ⅱコリント6:1~10新改訳)。



 〔御子である神〕、イエスは言われます。

「見よ。わたしはすぐに来る。

わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、

わたしの報いを携えて来る」と。



 それで、不正を行う者はますます不正を行い、

けがれたものはますます汚れを行ない、

正しい者はいよいよ正しいことを行ない、

聖とされたものはいよいよ聖なるものに、

神の御思いを土台として人生を建て上げる者は

いよいよ神の御思いと思いを一つにしていくのだそうです。

時が近づいているのだそうですから(黙示録22:10~12)。

今日も。



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