朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

神の口から出ることばで、生きる

2023-03-21 09:19:38 | 聖書から
人はパンだけで生きるのではなく、
人は主の口から出る
すべての言葉によって生きる。申命記:8:3



主よ、
私たちはだれのところへ行きましょうか。
あなたは永遠の命の言葉を
持っておられます。ヨハネ6:68



 ヨブ記9:14~23、32~35
 ロマ書11:1~10(通読箇所)
   (ローズンゲン『日々の聖句』3/21;火・祝)



   ―――― ☆ ――――



 人間には、
この肉体が生きていくのに必要な食べ物だけではなく、
霊と魂が生きていくための食べ物が
必要なのだそうですね。

どのようなものを食べるかで、肉体が決まっていくように、
心に何を入れるかで
その人の魂・霊も決定されていくようです。



だから、心に何を心に入れるかで、
その人の人生は大きく変わっていくのですね。




イエスが、人里離れた寂しいところに退かれたたとき、
多くの人々がイエスを追いかけて来ました。
イエスは、その人々に神の国のことを語り、
病の人、障害のある人、
悪霊に憑かれた人を癒されました。



午後になり、陽も傾き始めたので、
人々を解散させようとしましたが
空腹のまま帰らせるのはかわいそうに思われ、
少年が持っていた大麦のパン五つと二匹の干し魚を、
手に取り、【父なる神】に感謝の祈りをして裂き、
弟子たちに渡されました。
弟子たちはそれを人々に配りました。

それで、食べて満腹になった人たちは、
男だけで5千人だったそうです。



 その人々は、イエスを探し、
カぺナウムに帰ったイエスを見つけ、
イエスを王としようとしました。



しかし、イエスが、
「まことに、まことに、あなたがたに言います。
あなたがたがわたしを探しているのは、
(イエスが神の独り子キリストである)しるしを
見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。

なくなってしまう食べ物のためではなく、
いつまでもなくならない、
永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。
それは、人の子が与える食べ物です。

わたしがいのちのパンです。
わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる(信頼する)者はどんなときにも、
決して渇くことがありません。

わたしが天から下って来たのは、
自分の思いを行うためではなく、
わたしを遣わされたかたのみこころを行うためです。
わたしを遣わされた方(父である神)のみこころは、
わたしに与えてくださったすべての者を、
わたしが一人も失うことなく、
終わりの日によみがえらせることです。

わたしは天から下って来た生けるパンです。
だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。
わたしが与えるパンは、
世のいのちのための、わたしの肉です」と話されると、


人々は、「あれは、ヨセフの子ではないか。
私たちは父親と母親を知っている。
どうして今、
『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか。
この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて
食べさせることができるのか。
これはひどい話だ。
だれが聞いていられるだろうか」と言って、
弟子のうちの多くの者が離れ去り、
もはや、イエスとともに歩もうとはしなくなったのだそうです。



それで、イエスは12人に、
「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた、
するとシモン・ペテロが、
「主よ、私たちはだれのところへ行けるでしょうか。
あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、
また知っています」(ヨハネ6:1~69)と答えたのだそうです。





 ウツの地にヨブという人がいました。
彼は、神を恐れ、悪から遠ざかり、
東の人々の中で一番豊かで有力者だったのだそうです。

そのヨブが、
一日のうちに七人の息子と三人の娘全部を失い、
財産もすべて失ってしまったのだそうです。

そのうえ、今度は、足の裏から頭のてっぺんまで
悪性のできものができ、
灰の中に座り、土器のかけらでからだを引っかくようなことに
なったのだそうです。



それで彼は言いました。
「どうして私がこんな目に遭わないといけないのか。
私がどのような悪いことをしたので
このような目に遭うのか、
それを神と論じたい」と。



そして言いました。
「神は、私のような人間ではありません。
その方に、私が応じることができるでしょうか。
『さあ、さばきの座に一緒に行きましょう』と。

私たち二人の上に手を置く仲裁者が
私たちの間にはいません。
神がその杖を私から取り去り、
その恐ろしさが私をおびえさせませんように。
そうなれば、私は恐れず神に語りかけます。
しかし今は、そうではありません」(ヨブ9:32~35)と。





 【父である神】は、ご計画の時が満ちて、
このヨブが求めた
私たち人間と神との間に立つ仲介者として、
【御子である神】を人間イエスとして、
人間の世界にお遣わしくださいました。



私たちすべての人間の身代わりとなり、
私たちの神の創造の目的からの「的外れ」の責任を
この方に負わせて、
神に呪われた者として十字架刑で処刑されました。
私たちの、
「的外れ」になっている〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑が終わっているもの、死んだ者と
手続きしてくださるために。



その手続きが完了したので、【父である神】は、
この方、死んで墓に納められたイエスを、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から、新しい霊のからだに復活させました。

このイエスは、40日にわたって何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語り、
公開処刑されたご自分が
確かに生きていることを見せたのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、雲に迎えられ、
天の、【父である神】の右の座に復帰されました。



そして、その【父である神】の右の座の位にあって、
もう一人の方、【聖である霊】と呼ばれる方を
私たち人間にお遣わしくださいます。

この方によって私たちの心に
【父である神】が私たち一人ひとりに思っておられる思いを
置き、書き記して、
私たちのうちに【父である神】の御思いがあるようにし、
私たちが【父である神】と思いを一つにして生きるように、と。



食べた食べ物が私たちの肉体の内にあって
私たちの肉体を形成しているように、
神のことば、
【父である神】の御思いが私たちのうちにあって、
私たちの霊・魂を新たに生まれさせ、
永遠のいのちに生きるように、と。

かみのくちからでることば
神の思いで生きる者へと。

今日も。



      ~~~~~~~~~~~~~~

 
(聖書のことばへの疑問やご意見、
近くの教会を知りたい等の方、
また、婚活で広く出会いを求めたい、
教会に行っていないけれど
葬儀をキリスト教でしたい、等の方、
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私の恋い慕う方

2023-03-18 21:22:18 | 聖書から
一粒の麦は、
地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。
だが、死ねば多くの実を結ぶ。
      ヨハネ2:24(3/19の週の聖句)



主のように聖なる方はなく、
あなたに並ぶ者はいません。サムエル記上2:2

召しだしてくださった聖なる方に倣って、
あなたがた自身も
生活のすべての面で
聖なる者となりなさい。Ⅰペトロ1:15

 Ⅱコリント1:3~7
 詩篇84(通読箇所)
   (ローズンゲン『日々の聖句』3/19;Ⅲ日曜)

   ―――― ☆ ――――



 イエスは、このように仰られたお言葉のとおりに、
一粒の麦として十字架刑での死刑を受けられました。

そして、そのおことばのように多くの人が神に立ち返り、
イエスが、
【父である神】と思いを一つにして生きておられるように、
【父である神】と思いを一つにして生きる、
新しい生き方を生きるようになっているのですね。



このようなことをしてくださる神は、
この方以外にはありません。



そして、【父である神】と思いを一つにして生きていくとき、
召してくださった方の聖なる思いが
私たちの生活のすべての面に及び、
私たちも、神に似た者、聖なる者となっていきます。





 それで、使徒パウロは書いています。

私たちの主イエス・キリストの父である神、
あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神が
ほめたたえられますように。

神は、どのような苦しみのときにも、
私たちを慰めてくださいます。
それで私たちも、
自分たちが神から受ける慰めによって、
あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。


私たちに苦難があふれているように、
キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。

私たちが苦しみにあうとすれば、
それはああたがたの慰めと救いのためです。

私たちが慰めを受けるとすれば、
それもあなたがたの慰めのためです。
その慰めは、
私たちが受けているのと同じ苦難に耐え抜く力を、
あなたがたに与えてくれます。

私たちがあなたがたについて抱いている望みは
揺るぎません。
なぜなら、あなたがたが私たちと
苦しみをともにしているように、
慰めもともにしていることを、
私たちは知っているからです。(Ⅱコリント1:3~7)と。





 それゆえ、詩篇の作者は、このお方に向かってうたいます。

万軍の主よ あなたの住まいは
なんと慕わしいことでしょう。
私のたましいは 【主】の大庭を恋い慕って
絶え入るばかりです。
私の心も身も 生ける神に喜びの歌を歌います。
雀さえも 住みかを
つばめも ひなを入れる巣を
あなたの祭壇のところに得ます。
万軍の【主】 私の王 私の神よ。
なんと幸いなことでしょう。
あなたの家に住む人たちは。
彼らはいつも あなたをほめたたえています。


なんと幸いなことでしょう。
その力があなたにあり
心の中に シオンへの大路のある人は。
彼らは涙の谷を過ぎるときも
そこを泉の湧く所とします。
初めの雨も そこを大いなる祝福でおおいます。
彼らは力から力へと進み
シオンで神の御前に現れます。


万軍の神 【主】よ
私の祈りを聞いてください。
ヤコブの神よ 耳を傾けてください。
神よ われらの盾をご覧ください。
あなたの油注がれた者の顔に
目を留めてください。


まことに あなたのお庭にいる一日は
千日にまさります。
私は悪の天幕に住むよりは

私の神の家の門口に立ちたいのです。
まことに 神である【主】は太陽 また盾。
【主】は恵みと栄光を与え
聖日に歩む者に良いものを拒まれません。
万軍の【主】よ
なんと幸いなことでしょう。
あなたに信頼する人は。(詩篇84篇)




 私たちの身代わりとなり、
一粒の麦として死んでくださったイエス。


死んで墓に納められ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日にわたって何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語り、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の、【父である神】右の座に復帰されたイエス。

そのイエスを通して私たちにも来てくださる
【聖である霊】と呼ばれる方。
私たちも、この方によって
【父である神】の御思いを心に置いていただき、
【父である神】と思いを一つにして生きる生き方を生きて、
神がしようと思われることをしていくのですね。

慰めをいただき、
そのいただいた慰めで、まわりの苦難の中にいる人を慰めて。
この方に感謝とほめ歌をささげながら。

今日も。



      ~~~~~~~~~~~~~~

 
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この方への信頼の中 狭い門、細い道を

2023-03-17 22:00:05 | 聖書から
すべての者が神を離れ、
ことごとく腐れ果てた。
善を行う人はいない。
一人もいない。詩篇14:3



命に至る門はなんと狭く、
その道はなんと細いことでしょう。
そして、それを見い出す者は
わずかです。マタイ7:14



 マタイ16:24~27(28)
 ロマ書10:5~15(通読箇所)
   (ローズンゲン『日々の聖句』3/18;土)

   ―――― ☆ ――――



 聖書が啓示している神、
天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と
名乗られる方(出エジプト3:14)は言われるのですね。



「すべての者が神を離れ、ことごとく腐れ果てた。
善を行う人はいない。一人もいない」と。





 イエスは言われます。
「狭い門から入りなさい。
滅びに至る門は大きく、その道は広く、
そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門はなんと狭く、
その道もなんと細いことでしょう。
そして、それを見い出す者はわずかです。」と。





 また言われました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を負って、
わたしに従って来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしのためにいのちを失う者は
それを見い出すのです。



人は、たとえ全世界を手に入れても、
自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。
そのいのちを買い戻すのに、
人は何を差し出せばよいのでしょうか。


人の子は、やがて
父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。
そしてそのときには、
それぞれの行いに応じて報います。」(マタイ16:24~27)





 パウロは書き送っています。

モーセは、律法による義について、
「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」
と書いています。



しかし、信仰(信頼)による義はこう言います。
「あなたは心の中で、
『だれが天に上るのか』と言ってはならない。」
それはキリストを引き降ろすことです。

また「だれが深みに下るのか」と言ってはならない。」
それはキリストを死者の中から引き上げることです。
では、何と言っていますか。
「みことばは、あなたの近くにあり、
あなたの口にあり、あなたの心にある。」

これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、
あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえられたと
信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、
口で告白して救われるのです。



聖書はこう言っています。

「この方に信頼する者は、
だれも失望させられることがない。」



ユダヤ人とギリシャ人(異邦人)の区別はありません。
同じ主がすべての人の主であり、
ご自分を呼び求めるすべての人に
豊かに恵みをお与えになるからです。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。



しかし、信じたことのない方を、
どのようにして呼び求めるのでしょうか。
聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。
宣べ伝える人がいなければ、
どのようにして聞くのでしょうか。
遣わされることがなければ、
どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。

「なんと美しいことか。
良い知らせを伝える人たちの足は」
と書いてあるようにです。(ロマ10:5~15)





 私たちも自分が、
神の創造の目的から「的外れ」になっていて、
神と思いを一つにする者ではなく、
神に対立、対抗して、自分の良さを建て上げていこうとする
「役に立たないもの」であることを認めるのですね。


そして、狭い門、細い道であるイエスによる救いを
いただいていく道を進むのですね。



「自分の十字架を負って」、死刑場まで、
自分が架けられる十字架を背負っていく者として、
イエスが受けられた十字架刑での死刑に
合わせていただいて、死んだ者としていただきながら。



イエスは、死んで黄泉の深みにまで下られ、
三日目、死人の中から新しい霊のからだによみがえり、
40日にわたって何度も弟子たちに現れ、
ご自分が確かに生きていることを見せたのち、

オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の、【父である神】の右の座に復帰されたのですから。



そのイエスを通して来てくださる【聖である霊】が
心に置いてくださる【父である神】の御思いと
一つ思いになって生きる、新しい生き方を生きて。
この方への信頼の中を。
今日も。



      ~~~~~~~~~~~~~~

 
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今、任せられていることを、忠実に

2023-03-17 09:16:43 | 聖書から
主よ、あなたのまなざしは、
真実に向けられてはいないのですか。
      エレミヤ書5:3

ごく小さなことに忠実な者は、
大きなことにも忠実である。
ごく小さなことに不忠実な者は、
大きなことにも不忠実である。ルカ16:10



 マルコ9:38~41(42~47)
 ロマ書9:30~10:4(通読箇所)
   (ローズンゲン『日々の聖句』3/17;金)

   ―――― ☆ ――――



 聖書が啓示している神、
天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」と
名乗られる方(出エジプト3:14)は、
真実を、私たちの本当の姿を見ておられるのですね。



イエスは言われます。
「ごく小さなことに不忠実な者は、
大きなことにも不忠実である。
だから、今、任されていることに、
あるいは、他人のものに忠実でない者に、
だれがまことの富を任せるでしょうか」と。 





 また、ヨハネが
「先生。
あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、
やめさせようとしました。
その人が私たちについて来なかったからです」と言った時、
イエスは言われました。
「やめさせてはいけません。
わたしの名を唱えて力あるわざを行い、
そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。
わたしに反対しない人は、わたしたちの味方です。

まことに、あなたがたに言います。
あなたがたがキリストに属する者だということで、
あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、
決して報いを失うことがありません。」(マルコ9:38~41)と。





 パウロは、ローマにいる
イエスと心を合わせて生きている人たちに宛てた手紙に
書いています。


それでは、どのように言うべきでしょうか。
義を追い求めなかった異邦人が義を、
すなわち、信仰(信頼)による義を得ました。

しかし、イスラエル(ユダヤ人)は、
義の律法を追い求めていたのに、
その律法に到達しませんでした。
なぜでしょうか。信仰(神への信頼)によってではなく、
行いによるかのように追い求めたからです。
彼らは、つまずきの石につまずいたのです。



「見よ、わたしはシオン(エルサレム)に
つまずきの石、妨(さまた)げの岩を置く。
この方に信頼する者は
失望させられることがない」と書いてあるとおりです。


兄弟たちよ。私の心の願い、
彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。
私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、
その熱心は知識に基づくものではありません。
彼らは神の義を知らずに、
自(みずか)らの義を立てようとして、
神の義に従わなかったのです。
律法が目指すものはキリストです。
それで、義は信じる(信頼する)者すべてに
与えられるのです。」(ロマ9:30~10:4)





 私たちも、
私たちの真実、本当の姿を見ておられる方の御前で、
この方が、
イエスを通して与えてくださっている新しい生き方、
私たちの身代わりとなって
十字架刑での死刑を受けてくださり、
墓に納められ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の【父である神】の右の座に復帰しておられる
イエスを通して来てくださる、
【聖である霊】と呼ばれる方が心に置いてくださる、
【父である神】の御思いと一つ思いになって生きる生き方を
忠実に生きていくのですね。


この方が、わたしを通してしようと思われることをして。

今日も。



      ~~~~~~~~~~~~~~


(聖書のことばへの疑問やご意見、
近くの教会を知りたい等の方、
また、婚活で広く出会いを求めたい、
教会に行っていないけれど
葬儀をキリスト教でしたい、等の方、
お問い合わせは、
shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。)



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