『百聞は一見に如かず』とは、
人から何回も話を聞くより、直接見てしまったほうがよいことのたとえ。
「百聞」は百回聞くこと、「一見」は一回見ること、「如かず」は、及ばないということ。
何回も聞くより、見た方が分かりやすいし良く分かるってとても分かりやすいし良く使います。
例えば、聞いたことに興味を持って「メモ」します。
この「メモ」の意味は?
「メモ」しても意味無いんじゃないか?聞いたことより見る方が早いよ?
ですので、ここでの「メモ」は、「一見」の方に重きを置いた「メモ」をとっています。
聞いたことを、あたかも知ったように錯覚する「メモ」ではなく、
今、話を聞いていること自体が直接体験ですのでそのための「メモ」をとっているのです。
(百聞の一聞ですが、聞いている状況は一見)
よって、ここでの「メモ」するポイントは、内容よりも
- 語り手の「伝えたいこと」
何を伝えようとしているのか?なぜ? - 自分の聞いたときの感想、感じたこと
どうして、どう感じた?なにをしよう思った? - など
のような内容が後で役立ちます。(いや、記憶という点では、その書いているとき、今に意味があるようにも思います)
そこで、次の疑問が沸く。
「メモ」は、あくまでも読み物です。
その「メモ」を見るより、実物を見ないと意味が無いのでは?と
しかし、「メモ」は自分が書いている(描いている)ということが、普通(他人の書いた)の書物と違います。
「メモ」は読み物でなく、そのときの状況や映像を思い出させてくれる、自分だけの記憶再生の鍵になっていると思っています。
だから、そのことを意識しながらメモしてます。
そして、実体験をしたときの「メモ」は、そのメモする目的が、現物と一致させる、感性を研ぎ澄ます最大の瞬間です。
このときこそは、「メモ」でいっぱいの記憶の鍵を書き留めておくことに意味があると感じています。
やっとここで、「聞いた話こと(メモ)」と「実際に体験したこと(メモ)」が同じ土俵の「メモ」で再会します。そのギャップも「メモ」すると
これまた面白い!
こんな「メモ」のことを今年はスイッチが入ったかのように考えています。
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