聖書納言の御言葉に恋して

聖書の御言葉から慰められ励まされたこと、教えられたこと。および聖書研究

イエスの誕生

2025-01-09 07:05:45 | デボーション
 
今日は、ルカ 2章1〜20節からデボーションをします。


「男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(7節)
 
ヨセフとマリアはベツレヘムに着きました。
しかし、イエス様が生まれそうになっても、
宿屋はどこも満員で泊めてもらえず、
やっとのことで家畜小屋に泊めてもらえました。
 

1.神様がおられるなら、なぜもっと快適な場所を備えられなかったのかと思います。
 
しかし、それでも神様がなさることは《最善》なのです。
ちなみに、家畜小屋と飼い葉桶は、羊飼いたちがイエス様と出会いやすくなるためでもありました。

私たちも自分が今置かれている環境や境遇に不満があるかもしれません。
しかし、神様がなさることは《最善》なのです。


2.宿屋はどこもお客さんでごった返していて、そのために、ヨセフとマリア、マリアの胎内にいるイエス様は宿屋の中に入れてもらえませんでした。

それでは、私たちの心の中はどうでしょうか?
思い煩いや心配事、不安など、色んな《お客さん》で心の中がいっぱいになって、そのためにイエス様が心の中に入れないということはないでしょうか?

自分の心の中にイエス様をお迎えしているだろうか。
しかもイエス様を心のすみっコに追いやってしまうのではなく、心の真ん中に、人生の、そして生活の真ん中にイエス様をお迎え入れしているだろうかと問われているような気がしました。


私たちは、今まで自分の心を支配していたものをイエス様に明け渡して(不要なものなら捨てて、あるいは後回しにして)、
今日、今、イエス様を心の真ん中に、心の王座にお迎え入れしたい。
デボーションをしていて、そう思わされました。


*****


8節からは、羊飼いたちに救い主キリストの誕生が伝えられ、羊飼いたちが拝みにやって来る出来事です。

羊飼いたちは、羊を飼っているために、安息日も守れず、神殿にも入れてもらえなかったようです。

羊飼いたちは、自分たちは神様の御心にかなわない、神様に愛されていないと思っていたかもしれません。

しかし神様の御使いは、そんな彼らのところに、真っ先にやって来てくださいました。
そして神様の御使いは羊飼いたちに、こう語っています。

「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」(10節)

「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(14節)


10節では「民全体に与えられる大きな喜び」
=民全体、つまりすべての民。もちろん羊飼いたちも入っているし、障がい者や乞食のような人も含まれています。
 ※現代では「乞食」という言葉が差別語・不快語になるようです。

つまり、ここで羊飼いたちは、自分たちのような者にも、神様の大きな恵み、大きな喜びが与えられるということを知ったのです。


次に14節の「平和がみこころにかなう人々にあるように」です。

羊飼いたちは、自分たちは安息日も守れず、神殿にも行けないから、神様の御心にかなっていないと思っていたかもしれません。

しかしそうではなかったのです。
御使いたちは羊飼いたちに「あなたがたも(今あるがまま、そのままで)神様の御心にかなっているのですよ」と語ったのです。

 羊飼いたちは、それを聴いて、どんなに嬉しかったことでしょう。
それは、この上ない喜びで、至福の時でした。

そしてそんな彼らが真っ先に(羊たちを他の羊飼いに預けて)イエス様に会いに出かけて行ったのです。
家畜小屋と飼い葉桶は、そんな彼らでも会いに行ける場所であったのです。


現代の私たちで言えば、礼拝で(あるいは自宅での平日のデボーションでも)神様のことばを聞いた時が、それに当てはまります。

私たちも「自分なんて、神様の御心にかなわない。」「心が汚れているから(あるいは失敗して)もう駄目だ」と思うこともあるでしょう。

しかし大丈夫なのです。
今のあなたのままで、イエス様に会えます。
そして、こんな自分でも、神様に愛されている、受け入れられているということを知り、この上ない喜びに満たしていただけるのです

私たちも、今日、その喜びに満たしていただきましょう。
そして次の日曜日には、イエス様を礼拝するために教会に行きましょう。
 




ザカリヤの預言と私たちの信仰

2025-01-08 07:17:45 | デボーション
ルカ 1:69〜80

ザカリヤの預言

"この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。
主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。
私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。
主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。"
(ルカ1章 71〜74節)


変わることのない約束

趣旨は、神様はアブラハムとの約束――「あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。(創世記 22章 17節b)」――を忘れないで覚えておられ(72〜73節)、
約束を守って(約束どおりに)、敵の手から救い出してくださった。
そして私たちが敵を恐れることなく(おびえることなく)主に仕えることができるようにしてくださった。ということです。


ザカリヤは、おそらく、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を救い出して、カナンの地を与えてくださったという「出エジプト」の出来事を意識して預言したのでしょう。

ザカリヤがいた当時は、ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあり、
民は重税や労役に苦しみ、
そこから解放されることを望んでいました。

神様は出エジプトの時と同じように、ユダヤの民をかえりみてくださり、
ローマ帝国の支配から解放してくださる。ザカリヤはそう預言したのです。


現代的意味

私たち現代のクリスチャンにとって、豊かな信仰生活をおびやかす敵というのは、何でしょうか?

人によっては、信仰に反対する家族や親族、あるいは、仕事や仕事仲間などが、霊的な意味での敵であるかもしれません。
(そのような時、教会に来るとホッとしますよね。)


しかし、何よりも、私たちの豊かな信仰生活をおびやかす敵というのは、
悪魔(サタン)であります。
あるいは、自分の中にある罪意識や劣等感が敵かもしれません。


サタンは私たちの過去の罪や失敗を並び立ててきて、すでに解決されているはずの罪意識を私たちに植え付けようとしてくることもあります。

そして「お前なんか駄目だ。神様はお前を愛してはおられない。」と、神様の愛を疑わせようと仕掛けてきます。


しかし、神様はアブラハムとの約束を今でも忘れることなく覚えていてくださり、そのような霊的な敵から私たちを守り、救い出そうとしておられるのです。

まさにそれが、イエス・キリストの十字架なのです。

救いの業はすでに成就しています。
神様はイエス・キリストの十字架によって、私たちの過去の罪や失敗を完全にゆるしてくださったのです。

ですから、もう過去の罪や失敗にいつまでも捕らわれるのはやめにしましょう。 
そして聖霊に満たしていただいて、恐れることなく、主にお仕えさせていただきましょう。


神様の愛は変わることはありません。
神様の約束も変わることはありません。
 
「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」(創世記 1章 31節)
という御言葉は今でも有効です。


影のたとえ

ある人は、私たちをおびやかす罪意識を「影」に譬えました。
影はいつも私たちにつきまとい、無くなることはありません。

解決法はただ一つ、回れ右をして、太陽の方向を見ることです。

つきまとう罪意識から目を離して、回れ右をして、義の太陽であるイエス様のほうを見、イエス様の十字架を見上げるのです。(回れ右をすることを回心と言います。)

そうすれば、私たちは罪意識という影におびえることなく、キリストの十字架を見上げ、聖霊に満たされて、恐れることなく、主に仕えていくことができます。


結論

私たちは、敵(サタン)の挑発や誘惑に乗ることなく、キリストの十字架のみを見上げ、聖霊に満たしていただくことによって、それらに打ち勝ち、恐れることなく、主にお仕えさせていただきましょう。







神に従うことの喜び

2025-01-07 09:02:51 | デボーション
 神に従うことの喜び

ルカ 1:57〜66

いよいよ洗礼者ヨハネが誕生します。
この箇所をデボーションしていて思ったことは、神に従うことにこそ本当の喜びがあるということです。

59節では、まず生まれて8日目に割礼を授けます。

この日は親族がみな集まり、おそらくユダヤ教の祭司か指導者も招いて、
子どもが生まれたことを共に喜び、
割礼を授け、さらに子どもに名前を付けます。

さていよいよ子どもの名前を付ける段になって、一悶着が起こりました。

まず集まって来た人たちが生まれた子どもに「ザカリヤ」と命名しようとします。
すると、父親のザカリヤはしゃべれないので、代わりに母親のエリサベツが「名はヨハネとしなければなりません」と言いました。(60節)

当時は子どもの名前は父親(女の子の場合は母親)か親族の名を取って付けることになっていました。

驚いた人たちは父親に尋ねようと書き板を持って来させました。
父親は書き板に「ヨハネ」と書きました。

するとしゃべれなかった父親の舌がほどけて、いきなり神様をほめたたえ賛美し始めたのです。


世に従うか、神に従うか

この箇所から教えられることは、
神様から特別な指示があった場合は、この世の習慣に従うより、神様に従ったほうが、より大きな喜びがあるということです。

集まってきた人たちは、この世の習慣(慣例)に従って「ザカリヤ」と名付けるように圧力をかけてきました。

しかしザカリヤもエリサベツも、圧力に屈することなく、一貫して神の御使いに指示されたように「ヨハネ」と付けることを主張しました。

そしてザカリヤが神様の御心に従ったときに、声が出るようになって、開口一番、神様をほめたたえたのです。


私たちも親族の圧力、あるいは、この世の中の習俗や習慣などに従わなければいけないのではないかと、プレッシャーを感じることがあります。

そのようなときは、早計に判断しないで、まず神様に祈って、神様の御心とお導きを求めるべきです。

ある人が仏式の葬儀に行って、焼香をしなければいけないときが来ました。
その人がどうしたら良いか神様に祈っていると、「◯◯さん、ちょっと受付を代わって」と言われ、急きょ受付をやることになりました。
焼香をしなくて済んだというのです。

もちろん葬儀で焼香をしてはいけないと言うのではありません。
そうなると律法主義になってしまいます。
大切なことは、神様に祈って、導きを求めること。
また、避けられるならば避けることです。
 
日曜日に地域の掃除当番が回ってきたら、土曜日や日曜日の朝早くににやっておくのも一つです。
神様の栄光が表されることを第一とすることです。


神の器――バッハとヘンデル

2025-01-06 17:02:50 | 音楽

神の器――バッハとヘンデル


※昨年6月にnoteに発表したものを、ここに転載いたしました。


教会べったりのバッハ

音楽の父と呼ばれる大作曲家のバッハは、毎日曜日の礼拝のために、毎週、礼拝音楽(カンタータなど)を作曲し続けなければなりませんでした。

バッハが作曲を始める時には、
楽譜の一番上に "JJ" (=Jesu Juva の略。「イエスよ、助けたまえ」)と記し、
作曲が完成した時には、
楽譜の一番最後に "SDG" (=Soli Deo Gloria の略。「ただ神にのみ栄光を!」)と記したそうです。

日曜日には教会に通っているクリスチャンも、平日はそれぞれの業があります。
仕事、家事、育児、老後の自由な生活、人それぞれ過ごし方は違いますが、今日も1日主の助けとお守りがあるように、必要な知恵と力が与えられるように、そして神の栄光を汚さないように過ごすことができるように祈って🙏1日を始め、そして1日の終わりにはただ神にのみ栄光を帰して、終えるように心がけたいものです。

***

ヘンデルの逸話 

バッハと同じ年に、同じドイツで生まれた大作曲家のヘンデルは、
一時は歌劇(オペラ)作曲者として成功し、名声を得、裕福になりましたが、
50代になってから、度重なる不幸が彼を襲います。

オペラの歌詞はイタリア語で書かれていましたが、
新たに台頭してきた富裕層(中産階級)はイタリア語は理解できなかったため、
オペラは斜陽化し、興行ができなくなり、借金まみれのジリ貧生活になります。

その上に脳卒中が彼を襲い、ほぼ右半身不随となってしまいます。


ヘンデルの転機

そんなある日、彼の友人が1冊の台本を持って来て「曲を作ってほしい」と依頼します。
それがあのあまりにも有名なオラトリオ「メサイヤ」の台本だったのです。

それはヘンデルにとって、大きな転機となりました。
彼は神様の恵みによって立ち直っただけでなく、
オペラから聖書を題材にしたオラトリオに軸足を変えたのです。


教会の中か外か

しかも、バッハの音楽が教会の中(主に礼拝)で演奏されたのに対して、
ヘンデルの音楽は教会の外(劇場など)で演奏されました。

それは、教会に来ない人たちにも聖書の素晴らしさを伝えるためであったのです。

バッハが神の器であったのと同様に、
ヘンデルも神の器であったのです。

神様がなさることの多様性と素晴らしさに、
ハレルヤ!!





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パウロとヨハネの功績

2025-01-06 16:54:32 | 聖書研究


※昨年6月にnoteに発表したものを、ここに転載いたしました。


パウロとヨハネの時代

聖書(使徒行伝など)に記されていることは割愛させていただきます。

重要な項目だけを挙げておくと、
初代教会は、ペテロとヨハネを中心にして指導されました。

しかし、ステパノの殉教後まもなく、当時、厳格なユダヤ教徒であったサウロ(ローマ名:パウロ)がキリスト教に劇的な回心をします。

第1世紀のキリスト教会の教理的な問題は大きく分けて2つありました。

一つは、パウロ時代(A.D.30年代〜60年代)に起きた割礼などの律法問題です。

そして、もう一つは1世紀の終わりごろに起きた仮現論問題です。

前者(律法問題)はパウロらによって解決を見、
後者(仮現論問題)はヨハネらによって解決を試みられました。


1.律法と信仰義認
   (パウロ)

パウロは書簡や説教、討論などを通して、《信仰義認》の教理――行いによらず、信仰によってのみ神のみ前に義(正しい者)とされる――を全面に押し出しました。

それに対して、ユダヤ教からキリスト教に入信したいわゆるユダヤ主義者たちは、洗礼を受けてキリスト教徒になっても、割礼を受けなければならないと説き、さらに異邦人キリスト者にも割礼を強要したようです。

このことが大きな問題となり、その問題を解決するために、A.D.49年ごろに「エルサレム会議」が開催されました。

その結果、偶像に供えられたもの、絞め殺した動物の肉、淫らな行為を避ければ、それだけでかまわない。割礼などの律法を守る必要はないという結論に達しました。


2.仮現論(ヨハネ)

60年代以降になると、公生涯中の肉体を持ったイエスと直接出会った人たちは、この世を去っていきました。

すると、イエスは肉体を持たれた本当の人間ではなかった。神が仮の姿をとって現れたに過ぎないという仮現論を信じる人たちが現れました。

それに対して、ヨハネは地上に肉体をもって生きたイエスの伝記のような体裁(つまり福音書)を取って、それに対抗しました。
【例】「言は肉体となった(1:14)」

仮現論の根本的な誤りは、神やイエスを人間が制限を加えたり、人間が概念や規定を与えてしまうことです。
神もイエスも絶対的な御方であり、人間が相対化できるものではないのです。




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