大作曲家メンデルスゾーンの苦悩
私(聖書納言)は、クラシック音楽を聴くのが好きなのですが、特にロマン派の音楽が好きです。
子どもの死を契機にカトリックの聖職者になったF.リスト、
長年オルガニストとして教会に仕え続けたブルックナー、フランク、フォーレ、サン=サーンス。
死者のためではなく、後に遺された遺族に希望を与えるためにドイツ・レクイエムを作曲したプロテスタント信者のブラームス。
オペラ王と呼ばれたヴェルディもクリスチャンでした。
しかし、今日ご紹介したいのは、ユダヤ教からキリスト教(プロテスタント)に改宗したメンデルスゾーンです。
メンデルスゾーンの苦悩
メンデルスゾーンというと裕福な銀行家に生まれ、生涯恵まれた生活を送ったと思われがちですが、そうとは言い切れません。
一番彼が悩んだのは、自分がユダヤ人であったということでした。
メンデルスゾーンはキリスト教(プロテスタント)に改宗しましたが、それでもユダヤ人差別を受けることがあったようです。
彼は1829年の秋に、翌1930年に控えていたアウグスブルク信仰告白300周年記念式典のために交響曲第5番「宗教改革」を作曲し始めました。
この曲は第4楽章にルターが作曲した「神はわがやぐら」のメロディが繰り返し奏でられます。
しかし、記念式典には、他の作曲家が作った曲が演奏され、彼が作曲した交響曲「宗教改革」は、演奏されませんでした。他の場所で行われた式典でも同じでした。
当時、作曲家として地位も名声もあったのに、なぜ採用されなかったのか。
それは彼がユダヤ人であったからです。
ユダヤ人が作曲した曲を国家的な事業に使うわけにはいかないというのです。
クリスチャンであっても、人種がユダヤ人であるというだけでドイツでは差別されていたのです。
失望したメンデルスゾーンは、交響曲「宗教改革」をお蔵入りにし、ドイツを離れ、足かけ3年間にわたるヨーロッパ各地を回る演奏旅行に出かけました。
そして1832年になって、ジングアカデミーの指揮者を決めるための演奏会でようやく交響曲「宗教改革」は初演されましたが、メンデルスゾーンは大差で敗れてしまいました。
敗れた原因も彼がユダヤ人であることを嫌った人たちが反対側に投票したためだと言われています。
結局、交響曲「宗教改革」の楽譜が出版されたのは、彼の没後19年も経ってからでした。
メンデルスゾーンの宗教観
ユダヤ人であることと、キリスト教徒であることは、少なくともドイツ社会では相容れないこと、両立できないことだったのです。
メンデルスゾーンの名前は、フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディと言いますが、
フェリックスはファーストネーム、メンデルスゾーンはユダヤ人の姓、バルトルディは彼のお父さんが付けた新しい姓でした。
お父さんはフェリックスに、メンデルスゾーンというユダヤ名を隠して「フェリックス・M・バルトルディ」と名乗るように勧めましたが、
フェリックスはバルトルディという新しい姓を嫌い、メンデルスゾーンというユダヤ名を使いました。
また、彼のお父さんは「真実(神)はただ一つであり、宗教の違いは単なる形式の違いである。」と言いました。
それに対して、フェリックスは「ユダヤ人の名前であっても、キリスト教という形の中で真実を追求することは可能なはずではないか。」と考えました。
晩年の結実
交響曲「宗教改革」の悔しさを挽回すべく、メンデルスゾーンは宗教曲(オラトリオ)の作曲に着手しました。
それが彼と同じくユダヤ教からキリスト教に改宗したパウロを描いた「聖パウロ」、
信仰を守るために異教と戦った「エリヤ」、
そして未完に終わった「キリスト」のオラトリオ(演奏会形式の宗教劇)3部作でした。
これらの曲は、すぐにドイツ人たちにも受け入れられ、交響曲「宗教改革」の挫折を乗り越え、見事に結実したのです。
おそらく神様(イエス様)が陰で働かれ、彼を成功に導かれたのでしょう。
ハレルヤ!!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます