聖書納言の御言葉に恋して

聖書の御言葉から慰められ励まされたこと、教えられたこと。および聖書研究

受胎告知とキリスト論

2025-01-05 20:06:00 | 聖書研究
ルカ福音書1章26〜38節の「受胎告知」の記事には、キリストがどのような御方であるかというキリスト論が明確に記されています。

それはA.D.451年のカルケドン公会議で正式に制定された
キリストは全き神であり、同時に全き人でもある
という命題です。


処女降誕の意味

マリアによるイエスの処女降誕には、どのような意味が秘められているのでしょうか。

それは、救い主キリストは、人間どうし(ヨセフとマリア)が「そろそろ救い主を作ろうか」と、お互いに話し合って(相談し合って)生み出したものではないということを表しています。

処女降誕は、神様が罪深い私たち人間を救うために、神ご自身の御子を救い主キリストとして私たちにプレゼントしてくださったということを表しています。キリストは完全に神の御子なのです。

救い主キリストの誕生は、
人間の計画ではなく、神様のご計画によるものであり、
何とかして人間を救いたいという神様の愛と一方的な恵みによるものなのです

処女降誕はそのことを表しています。

 

なぜマリアからなのか

それでは、なぜマリアから生まれたのでしょうか。

かぐや姫のように竹から生まれても、
桃太郎のように桃から生まれても
よかったのではないでしょうか?

しかし、神様はキリストをマリアという1人の女性から生身の人間の子として誕生させられたのです。

それは人間の生活を体験させると同時に、人間のすべての罪を身代わりに背負って十字架に架かるためでもありました。


仮現説との戦い

A.D.64年ごろにネロ帝による迫害で、シモン・ペテロが殉教しますが、
その頃から、生身の肉体を持って公生涯を過ごされたイエス様のことを知っていた人たちが次々とこの世を去って行きました。

すると、イエス様は生身の肉体を持った人間ではなかったのではないかと疑う人たちも現れてきました。

つまり、イエス様は御使いたちのように、仮の姿を取って現れたに過ぎないという「仮現説」を主張する人たちが出てきたのです。

この中には「魂や霊は善であり、肉体は悪」とするギリシア思想(グノーシス)の影響を受けた人たちもいました。

しかし、それだと、イエス様の十字架の死と復活はどうなってしまうでしょうか?

イエス様は私たちと同じ生身の肉体を持っておられたからこそ、生きることの苦しみを味わわれましたが、
さらに肉体を持っておられたからこそ、私たち人間の罪や弱さを身代わりになって背負い、
さらに十字架の上で血を流して死なれたのです。
そして肉体の死があったからこそ復活もあったのです。

イエス様が生身の人間として生まれたことには、このような大切な意味があったのです。

イエス様(キリスト)は、全き神であり、なおかつ全き人でもあられた。
だからこそ私たち人間を救うことがおできになられたのです。

神様の知恵は計り知れないものがありますね。



御言葉を聞く2人

2025-01-05 17:25:00 | デボーション
ルカ 1章5〜38節

デボーション・テキスト『みことばの光』では、
1月4日(土)にルカ1:5〜25のザカリヤ物語を、
1月5日(日)にルカ1:26〜36の受胎告知物語をやることになっていますが、今日は2日分をまとめてやってしまいます。

なぜザカリヤ物語と受胎告知を一度に行うのかと言いますと、ザカリヤの信仰姿勢とマリアの信仰姿勢を比較してみたいからです。


1.ザカリヤ
 
ザカリヤは神殿で神様に仕える祭司であり、なおかつ
「"二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行って」いました。(6節)

一言で言えば、ザカリヤ夫妻は神様の一番近くにいて、いつも神様と共に歩んでいました。

しかし、それなのに、ザカリヤは神様からお言葉をいただいたとき、神様のことばを信じなかったのです。

御使いはザカリヤにこう言っています。

「見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」(20節)


2,マリア

それに対して、マリアは主の御使いから男の子(イエス・キリスト)を産むという受胎告知を聞いたとき、
最初は逡巡していましたが、彼女は神様のことばを受け入れました。

「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」
 (38節)

一番神様の近くにいるはずの祭司ザカリヤは神様のことばを信じず、
名もなき一人の乙女マリアは神様のことばを信じて受け入れました。


これと同じことは、マタイ福音書の2章の東方の3賢者の物語にもあります。

東方(おそらくバビロン)からやって来た占星術の博士たちは「キリストはベツレヘムで生まれる」ということを聞いたとき、すぐにベツレヘムに向かって行きました。

しかし、一番神様の近くにいるはずの、そして毎日聖書を読んでいる律法学者たちは、イエスを拝むためにベツレヘムに行こうともしなかったのです。

律法学者たちは聖書の知識だけで、本気で信じる信仰がなかったのです。
それに対して、占星術の学者たちは聖書の知識はほとんどなかったのに、本気で信じて、すぐに行動に移しました。


私はどうだろうかと思わされます。
家族が救われるように祈りながらも、本気で信じているかどうか。

マリアが「神にとって不可能なことは何もありません。」(37節)という言葉をそのまま素直に信じて受け入れたように、
自分は神様に祈っていながらも、
「神にとって不可能なことはない」「神はどんなことでもおできになる(マルコ10:27)」
と本気で信じているだろうか、そのことを問われたように思います。