ルカ福音書1章26〜38節の「受胎告知」の記事には、キリストがどのような御方であるかというキリスト論が明確に記されています。
それはA.D.451年のカルケドン公会議で正式に制定された
「キリストは全き神であり、同時に全き人でもある」
という命題です。
処女降誕の意味
マリアによるイエスの処女降誕には、どのような意味が秘められているのでしょうか。
それは、救い主キリストは、人間どうし(ヨセフとマリア)が「そろそろ救い主を作ろうか」と、お互いに話し合って(相談し合って)生み出したものではないということを表しています。
処女降誕は、神様が罪深い私たち人間を救うために、神ご自身の御子を救い主キリストとして私たちにプレゼントしてくださったということを表しています。キリストは完全に神の御子なのです。
救い主キリストの誕生は、
人間の計画ではなく、神様のご計画によるものであり、
何とかして人間を救いたいという神様の愛と一方的な恵みによるものなのです。
処女降誕はそのことを表しています。
なぜマリアからなのか
それでは、なぜマリアから生まれたのでしょうか。
かぐや姫のように竹から生まれても、
桃太郎のように桃から生まれても
よかったのではないでしょうか?
しかし、神様はキリストをマリアという1人の女性から生身の人間の子として誕生させられたのです。
それは人間の生活を体験させると同時に、人間のすべての罪を身代わりに背負って十字架に架かるためでもありました。
仮現説との戦い
A.D.64年ごろにネロ帝による迫害で、シモン・ペテロが殉教しますが、
その頃から、生身の肉体を持って公生涯を過ごされたイエス様のことを知っていた人たちが次々とこの世を去って行きました。
すると、イエス様は生身の肉体を持った人間ではなかったのではないかと疑う人たちも現れてきました。
つまり、イエス様は御使いたちのように、仮の姿を取って現れたに過ぎないという「仮現説」を主張する人たちが出てきたのです。
この中には「魂や霊は善であり、肉体は悪」とするギリシア思想(グノーシス)の影響を受けた人たちもいました。
しかし、それだと、イエス様の十字架の死と復活はどうなってしまうでしょうか?
イエス様は私たちと同じ生身の肉体を持っておられたからこそ、生きることの苦しみを味わわれましたが、
さらに肉体を持っておられたからこそ、私たち人間の罪や弱さを身代わりになって背負い、
さらに十字架の上で血を流して死なれたのです。
そして肉体の死があったからこそ復活もあったのです。
イエス様が生身の人間として生まれたことには、このような大切な意味があったのです。
イエス様(キリスト)は、全き神であり、なおかつ全き人でもあられた。
だからこそ私たち人間を救うことがおできになられたのです。
神様の知恵は計り知れないものがありますね。