今日は、ルカ 2章1〜20節からデボーションをします。
「男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(7節)
ヨセフとマリアはベツレヘムに着きました。
しかし、イエス様が生まれそうになっても、
宿屋はどこも満員で泊めてもらえず、
やっとのことで家畜小屋に泊めてもらえました。
1.神様がおられるなら、なぜもっと快適な場所を備えられなかったのかと思います。
しかし、それでも神様がなさることは《最善》なのです。
ちなみに、家畜小屋と飼い葉桶は、羊飼いたちがイエス様と出会いやすくなるためでもありました。
私たちも自分が今置かれている環境や境遇に不満があるかもしれません。
しかし、神様がなさることは《最善》なのです。
2.宿屋はどこもお客さんでごった返していて、そのために、ヨセフとマリア、マリアの胎内にいるイエス様は宿屋の中に入れてもらえませんでした。
それでは、私たちの心の中はどうでしょうか?
思い煩いや心配事、不安など、色んな《お客さん》で心の中がいっぱいになって、そのためにイエス様が心の中に入れないということはないでしょうか?
自分の心の中にイエス様をお迎えしているだろうか。
しかもイエス様を心のすみっコに追いやってしまうのではなく、心の真ん中に、人生の、そして生活の真ん中にイエス様をお迎え入れしているだろうかと問われているような気がしました。
私たちは、今まで自分の心を支配していたものをイエス様に明け渡して(不要なものなら捨てて、あるいは後回しにして)、
今日、今、イエス様を心の真ん中に、心の王座にお迎え入れしたい。
デボーションをしていて、そう思わされました。
*****
8節からは、羊飼いたちに救い主キリストの誕生が伝えられ、羊飼いたちが拝みにやって来る出来事です。
羊飼いたちは、羊を飼っているために、安息日も守れず、神殿にも入れてもらえなかったようです。
羊飼いたちは、自分たちは神様の御心にかなわない、神様に愛されていないと思っていたかもしれません。
しかし神様の御使いは、そんな彼らのところに、真っ先にやって来てくださいました。
そして神様の御使いは羊飼いたちに、こう語っています。
「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」(10節)
「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(14節)
10節では「民全体に与えられる大きな喜び」
=民全体、つまりすべての民。もちろん羊飼いたちも入っているし、障がい者や乞食のような人も含まれています。
※現代では「乞食」という言葉が差別語・不快語になるようです。
つまり、ここで羊飼いたちは、自分たちのような者にも、神様の大きな恵み、大きな喜びが与えられるということを知ったのです。
次に14節の「平和がみこころにかなう人々にあるように」です。
羊飼いたちは、自分たちは安息日も守れず、神殿にも行けないから、神様の御心にかなっていないと思っていたかもしれません。
しかしそうではなかったのです。
御使いたちは羊飼いたちに「あなたがたも(今あるがまま、そのままで)神様の御心にかなっているのですよ」と語ったのです。
羊飼いたちは、それを聴いて、どんなに嬉しかったことでしょう。
それは、この上ない喜びで、至福の時でした。
そしてそんな彼らが真っ先に(羊たちを他の羊飼いに預けて)イエス様に会いに出かけて行ったのです。
家畜小屋と飼い葉桶は、そんな彼らでも会いに行ける場所であったのです。
現代の私たちで言えば、礼拝で(あるいは自宅での平日のデボーションでも)神様のことばを聞いた時が、それに当てはまります。
私たちも「自分なんて、神様の御心にかなわない。」「心が汚れているから(あるいは失敗して)もう駄目だ」と思うこともあるでしょう。
しかし大丈夫なのです。
今のあなたのままで、イエス様に会えます。
そして、こんな自分でも、神様に愛されている、受け入れられているということを知り、この上ない喜びに満たしていただけるのです。
私たちも、今日、その喜びに満たしていただきましょう。
そして次の日曜日には、イエス様を礼拝するために教会に行きましょう。
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