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教養懇話会(83回)「デフレ脱却のパイオニヤ高橋是清について」・・・姶良市ふれあいセンター

2013-11-28 17:15:37 | 教養懇話会

11月28日、姶良市加治木町ふれあいセンターにおいて教養懇話会(第83回)が開催され、今月はNさんが当番で「デフレ脱却のパイオニヤ高橋是清について」発表されましたが、Nさんの了解を得たので紹介します。

Nさんが、このテーマを選んだ理由は、教養懇話会(第77回)で「日銀の金融政策の失敗と日本経済への復活」を発表したのと関連があり、今回はA4版4枚にまとめた本文と参考資料2枚を発表されました。

参考文献、 ・2014年~世界の真実 長谷川慶太郎  WAC

              ・生を踏んで恐れず  高橋是清の生涯   津本陽  幻冬舎

       ・高橋是清伝  口述 高橋是清  筆録 上塚 司  小学館

本文の概要は、①「デフレからの脱却」を成し遂げた高橋是清・・・2012年12月26日に誕生した安部内閣は、景気回復を実現する上で中心となるのは「デフレからの脱却」と認識し、3本の矢と称される経済政策を打ち出した。

ところが、「デフレからの脱却」には日本経済史に先例があり、昭和初期に大蔵大臣を務めた高橋是清の政策である。高橋が大蔵大臣に就任した1931年9月、日本は深刻なデフレ不況下にあり、高橋が打ち出した政策は「デフレ脱却第1号」ともいっていい、2本柱からなっていた。

一つ目の柱は、思い切った円安誘導。二つ目の柱は、財政支出を拡大することによって、国内景気を刺激することである。この2本柱からなる政策を実行して、見事に高橋是清は成功を収めた。

② 5年で2.5倍の円安を実現する・・・1929年から1931年にかけて、日本は貿易収支が赤字であり入超国だった。1931年、高橋是清が大蔵大臣になる直前に、イギリスが金本位制を離脱したが、高橋蔵相の下で日本も金本位制から離脱し、円高から円安に路線に転換した結果、2.5倍の円安になり、当時の日本の経済活動の中心だった繊維産業が息を吹き返した。

③ 新しい産業を次々と生み出した公共事業・・・デフレ脱却2つ目の柱は、赤字国債の大量発行で調達した財源を使い、公共投資を行ったことで、主として資金を投入したのは交通関係で、大都市と都市を結ぶ新しい道路、トンネル工事、東海道線の電化などであった。

また、造船業への補助、電話ネットワークの合理化、各地の放送局の設置によるラジオの普及など、高橋是清の行った公共投資におけるポイントは、それによって次々と新しい産業ができていったことである。

※高橋是清の主な経歴・・・日露戦争の時に日銀副総裁として外債の公募を成功させ、戦費調達に貢献する。1921年、内閣総理大臣に就任する。1927年金融恐慌時には、田中義一総理大臣にこわれて大蔵大臣を引き受け、金融危機を乗り切る。1931年も犬養毅総理大臣の要請で大蔵大臣に就任し、昭和恐慌の対策を手がけた。そして、1936年の2.26事件で青年将校に暗殺される。

高橋是清については、大蔵大臣で活躍し、2.26事件で暗殺された人物であることは知っていたが、恐慌などの国家危機で手腕を発揮し、当時の軍部に対しても直言する剛毅な人であり、ユーモアあふれた演説は「下手な講談より面白い」と評された人物であったことを知り、人間性豊かな素晴らしい人物だと思いました。   

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