(2)舞台役者・ボードビリアン時代(18歳~26歳)
1922年
この年の終わり頃、父と和解。新しい就職口を世話すると言う父にだまされ、フォリー=ベルジェール(Folies-Bergère)の支配人フレジョルに会わされ、役者に採用される。ギャバン曰く、父に「尻を足で蹴とばすようにして」フォリー=ベルジェールの舞台に送り出される。
1923年
18歳でフォリー=ベルジェールの舞台に初めて立つ。月給600フラン。
12月、フォリー=ベルジェールのオペレッタ「夜会服の女」が開演。プログラムに初めて「ジャン・ギャバン」の名がのる。バーテンダーの役。
1924年
新人歌手ギャビー・バッセ(Gaby Basset)と知り合い、相思相愛になる。ジャン19歳、ギャビーは2歳上の21歳だった。パリのモンマルトルの安ホテルで同棲する。
20歳になり、兵役義務のためフランス海軍陸戦隊に入隊。ブルターニュのロリアン基地へ行く。独身のため外出許可がおりず、鬱屈とした兵役生活を送る。妻帯者が優遇されるのを知り、ギャビーとの結婚を決意。
1925年
この年の初めにギャビー・バッセと結婚。父は喜び、パリ・モンマルトルのビストロで披露宴を開く。結婚したおかげで、パリ市内の海軍省に転属になる。主な任務は省の前に立つ衛兵であった。
1926年
兵役を終え、パリでギャビーと新婚生活を送る。
ギャビー・バッセと
ブッフ・パリジャンで上演中の人気オペレッタ『三人の若い裸婦』で代役を引き受けたが、出演機会はなかった。この出し物には父フェルディナン(ギャバンの芸名で)と妻ギャビーが出演していた。9月、やっと海軍士官の役が回ってきて、父と妻との共演が実現。
1927年
『三人の若い裸婦』の終演後、失業状態が続き、妻ギャビーの歌手としての稼ぎに頼る。二人は貧乏生活を続け、モンマルトル界隈の安ホテルを転々とする。この頃、同じように貧乏な役者たちと親しくなる。そのなかにピエール・ブラッスール、マルセル・ダリオがいた。また小説家のジョセフ・ケッセルもいた。しばらく歌手として各地を回り、生計を立てる。
1928年
オペレッタのブラジル巡業に妻ギャビーと加わり、リオデジャネイロへ行く。
帰国後、パリのムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)でオーディションを受ける。ジャンは憧れていたモーリス・シュヴァリエの歌を唄う。それを見た大スターのミスタンゲットMistinguettに気に入られる。
4月、ムーラン・ルージュのショー『回るパリ』でミスタンゲットと共演。ジャン・ギャバン24歳。ボードビリアンとして活躍の場を与えられ、人気スターへの道を進む第一歩となる。
ミスタンゲットとデュエットで初めてレコードに歌を吹き込む。曲名は「ラ・ジャヴァ・ド・ドゥドゥーヌ」。
ミスタンゲットと
https://www.youtube.com/watch?v=tTXAi3Z0u2c
12月、『回るパリ』終演。ミスタンゲットはカジノ・ド・パリへ移るが、ギャバンはそのままムーラン・ルージュに残る。
1929年
1月、ムラーン・ルージュのショー『もしもし、こちらパリ』に出演。幕間の寸劇『調教師』(別名『ライオン』)で道化役者ダンディと共演、大好評を博す。この寸劇は短編喜劇映画となり、ダンディとジャン・ギャバンが出演したという(ジャン・ギャバン本人の話)。
3月、ブッフ・パリジャンBouffes-Parisiens(以下略してブッフ)の支配人アルベール・ウィルメッツと会い、月額3,000フランで出演契約を結ぶ。
5月、ブッフで『フロッシー』開演。牧師の甥ウィリアムというコミカルな役を演じ、好評を博す。『フロッシー』はロングランとなり、翌1930年春まで続く。
11月、ウィルメッツはギャバンの将来性を買って3年契約を結ぶ。出演料が月額5,000フラン(1年目)になる。
妻ギャビー・バッセも売れっ子歌手になり、舞台女優としても成功をおさめる。すれ違い生活が始まり、ギャバンが『フロッシー』の共演女優ジャクリーヌ・フランセルと浮気をして、5年に及ぶギャビーとの関係が破局をむかえる。
1930年
ギャビー・バッセと離婚。
5月、ブッフでのオペレッタ『銀行家アルセーヌ・ルパン』に出演。
秋、映画会社パテ=ナタン社に呼ばれてキャメラ・テストを受けたのち、破格の条件を提示され出演契約を結ぶ。撮影日の日給が500フラン(20日で10,000フラン)だった。
11月、ミュージカル映画『誰にもチャンス』Chacun sa chance の撮影が始まる。ジャン・ギャバンが主役で、恋人役は元妻のギャビーだった。
1922年
この年の終わり頃、父と和解。新しい就職口を世話すると言う父にだまされ、フォリー=ベルジェール(Folies-Bergère)の支配人フレジョルに会わされ、役者に採用される。ギャバン曰く、父に「尻を足で蹴とばすようにして」フォリー=ベルジェールの舞台に送り出される。
1923年
18歳でフォリー=ベルジェールの舞台に初めて立つ。月給600フラン。
12月、フォリー=ベルジェールのオペレッタ「夜会服の女」が開演。プログラムに初めて「ジャン・ギャバン」の名がのる。バーテンダーの役。
1924年
新人歌手ギャビー・バッセ(Gaby Basset)と知り合い、相思相愛になる。ジャン19歳、ギャビーは2歳上の21歳だった。パリのモンマルトルの安ホテルで同棲する。
20歳になり、兵役義務のためフランス海軍陸戦隊に入隊。ブルターニュのロリアン基地へ行く。独身のため外出許可がおりず、鬱屈とした兵役生活を送る。妻帯者が優遇されるのを知り、ギャビーとの結婚を決意。
1925年
この年の初めにギャビー・バッセと結婚。父は喜び、パリ・モンマルトルのビストロで披露宴を開く。結婚したおかげで、パリ市内の海軍省に転属になる。主な任務は省の前に立つ衛兵であった。
1926年
兵役を終え、パリでギャビーと新婚生活を送る。
ギャビー・バッセと
ブッフ・パリジャンで上演中の人気オペレッタ『三人の若い裸婦』で代役を引き受けたが、出演機会はなかった。この出し物には父フェルディナン(ギャバンの芸名で)と妻ギャビーが出演していた。9月、やっと海軍士官の役が回ってきて、父と妻との共演が実現。
1927年
『三人の若い裸婦』の終演後、失業状態が続き、妻ギャビーの歌手としての稼ぎに頼る。二人は貧乏生活を続け、モンマルトル界隈の安ホテルを転々とする。この頃、同じように貧乏な役者たちと親しくなる。そのなかにピエール・ブラッスール、マルセル・ダリオがいた。また小説家のジョセフ・ケッセルもいた。しばらく歌手として各地を回り、生計を立てる。
1928年
オペレッタのブラジル巡業に妻ギャビーと加わり、リオデジャネイロへ行く。
帰国後、パリのムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)でオーディションを受ける。ジャンは憧れていたモーリス・シュヴァリエの歌を唄う。それを見た大スターのミスタンゲットMistinguettに気に入られる。
4月、ムーラン・ルージュのショー『回るパリ』でミスタンゲットと共演。ジャン・ギャバン24歳。ボードビリアンとして活躍の場を与えられ、人気スターへの道を進む第一歩となる。
ミスタンゲットとデュエットで初めてレコードに歌を吹き込む。曲名は「ラ・ジャヴァ・ド・ドゥドゥーヌ」。
ミスタンゲットと
https://www.youtube.com/watch?v=tTXAi3Z0u2c
12月、『回るパリ』終演。ミスタンゲットはカジノ・ド・パリへ移るが、ギャバンはそのままムーラン・ルージュに残る。
1929年
1月、ムラーン・ルージュのショー『もしもし、こちらパリ』に出演。幕間の寸劇『調教師』(別名『ライオン』)で道化役者ダンディと共演、大好評を博す。この寸劇は短編喜劇映画となり、ダンディとジャン・ギャバンが出演したという(ジャン・ギャバン本人の話)。
3月、ブッフ・パリジャンBouffes-Parisiens(以下略してブッフ)の支配人アルベール・ウィルメッツと会い、月額3,000フランで出演契約を結ぶ。
5月、ブッフで『フロッシー』開演。牧師の甥ウィリアムというコミカルな役を演じ、好評を博す。『フロッシー』はロングランとなり、翌1930年春まで続く。
11月、ウィルメッツはギャバンの将来性を買って3年契約を結ぶ。出演料が月額5,000フラン(1年目)になる。
妻ギャビー・バッセも売れっ子歌手になり、舞台女優としても成功をおさめる。すれ違い生活が始まり、ギャバンが『フロッシー』の共演女優ジャクリーヌ・フランセルと浮気をして、5年に及ぶギャビーとの関係が破局をむかえる。
1930年
ギャビー・バッセと離婚。
5月、ブッフでのオペレッタ『銀行家アルセーヌ・ルパン』に出演。
秋、映画会社パテ=ナタン社に呼ばれてキャメラ・テストを受けたのち、破格の条件を提示され出演契約を結ぶ。撮影日の日給が500フラン(20日で10,000フラン)だった。
11月、ミュージカル映画『誰にもチャンス』Chacun sa chance の撮影が始まる。ジャン・ギャバンが主役で、恋人役は元妻のギャビーだった。