ジャン・ギャバンと映画人たち

Jean Gabin et ses partenaires au cinéma

ギャビー・バッセ Gaby Basset

2015-09-20 | 女優


 ジャン・ギャバンが《フォリー=ベルジェール》のオペレッタ『夜会服の女』に端役で出演し始めた頃、ギャバンに一目惚れして熱烈なファンになり、通いつめてこの若き芸人のハートを射止め、恋愛、同棲の末、結婚するに至った最初の女性がギャビー・バッセである。
 二人が知り合ったのは1924年春、ギャバン19歳、バッセ21歳の頃。ギャバンもパリの芸能界にデビューしたばかりの駆け出しの芸人だったが、2歳年上の彼女も《ラ・シガール》の新人の踊り子で、場末のカフェにも出演する無名に近い歌手だった。おかっぱ髪に夢見がちな大きな目、小柄で庶民的な愛嬌のある可愛い娘を、ギャバンは愛した。
 ギャバンは彼女を初めは「トゥトゥ」(犬の幼児語)という愛称で呼び、やがて「ペペット」(お金の俗語)と呼ぶようになる。財布のひもをしっかり握っていたからであろう。二人は恋に落ちるとすぐモンマルトルのクリニャンクール街の安ホテルで同棲生活を始めた。貧しいながらも幸福なカップルであった。パンを分かち合い、コーヒーは同じカップで、まずギャバンがブラックで飲み、それからバッセがミルクを入れてカフェオレにして飲むのが朝食の習慣だった。

 ギャビー・バッセは、本名をマリー・ルイーズ・カミユ・バッセといい、1902年3月29日、ソーヌ=エ=ロワール県ヴァレーヌ=サン=ソヴールで生まれた。父親を早くに失くし、母親の女手一つで育てられた。母親は自宅で裁縫の仕事をしていた。彼女も初等教育を終えるとお針子になって服飾店に勤め家計を支えた。仕事の合間、得意の歌を唄い、おどけた真似をして、お針子仲間を喜ばせていたという。一時期速記タイピストを目指すが、やはり憧れの歌手になろうと志し、パリのカフェやキャバレーに出て歌を唄いだした。ある時有名なキャバレー《ラ・シガール》で踊り子の欠員があり、アルバイトのつもりで踊り子もやってみたところ、本番でずっこけ、それがかえって客に受けてしまった。そこで毎回ずっこけ役になり、人目を集めるようになった。ギャバンと知り合ったのはそんな頃であった。
 モンマルトルで同棲中、ギャバンが20歳になり、兵役義務のためブルターニュのロリアンの海軍基地へ行くことになった。二人は1年ほど離れ離れに暮らさなければならなくなり、二人とも寂しさは募るばかりだった。兵役では独身者より妻帯者の方が優遇され、外出許可も下りやすいのを知り、ギャバンはギャビーとの結婚を決意したのだという。
 兵役中に休暇を願い出て、1925年2月26日、二人はパリで結婚した。
 そのおかげで、ギャバンはパリの海軍省へ転属となり、二人が会う機会も増えた。ギャバンの兵役が終わると、新婚生活が始まった。ギャビー・バッセは《ブッフ=パリジャン》のオペレッタ『三人の若い裸婦』に出演し、人気が出始めていた。ギャバンはしばらく彼女の稼ぎに頼っていたが、公演中の『三人の若い裸婦』で海軍士官の代役がギャバンに回ってきて、二人は同じ舞台に立った。
 その後、二人は共稼ぎで貧しいながらも仲睦まじく暮らした。

 1928年春、オペレッタのブラジル巡業があり二人揃って、リオデジャネイロへ行った。ギャバンもバッセも生まれて初めての海外旅行であった。
 ギャバンがボードビリアンとして活躍を始めるのは、巡業から帰って、パリの《ムーラン・ルージュ》に出演するようになってからだった。オーディションで大スターのミスタンゲットに気に入られ、4月に開演した《ムーラン・ルージュ》のショー『回るパリ』でミスタンゲットの相手役に抜擢されたのだ。ギャバン24歳、人気スターへの道を進む第一歩を踏み出す。ギャビー・バッセも歌える女優としてスターへの道を歩み始めていた。
 二人とも人気が出て仕事が増えるにしたがい、すれ違いが多くなった。売れっ子芸能人夫婦の間に生じる溝である。
 1929年、ギャバンがオペレッタの共演女優(ジャクリーヌ・フランセル)と恋愛関係になり、同年末、バッセはギャバンと離婚した。バッセの方が離婚を申し出たというが、所詮夫婦の仲は他人には分からない。
 二人が離婚したほぼ1年後、ギャバンはオペレッタ映画『誰にもチャンスが』(1930年12月フランス公開)で映画デビューするが、なんとその恋人役がギャビー・バッセであった。バッセの方はすでに映画デビューしていて、彼女の名前の方がポスターでは上にあったという。
 『誰にもチャンスが』を先日私はYou Tubeで見たが、無邪気で楽しい恋愛喜劇であった。ギャバンは服飾店のしがいない店員、バッセは劇場のロビーのチョコレート売りで、実際にはこの二人が主役。これに男爵夫婦、その愛人たちが加わって、すったもんだの挙句、ギャバンとバッセが結ばれるというストーリー。ギャバンがショーウィンドーの高級服を着込み、劇場に行くと、そこで初対面の男爵に頼まれ、服を交換して替え玉にされる。男爵に成りすましたギャバンが、可愛いバッセをレストランに誘い、酒の勢いでくどくと、バッセが名刺を見て男爵邸にまで付いて来る。仕方なく、ポケットにあった鍵を出して中に入り、豪華な居間で二人が楽しげに歌を唄う。ここが見せ場で、ギャバンとバッセは恋人時代に帰ったようなむつまじさで、映画とはいえ二人の関係がうかがえて、微笑ましかった。


『誰にもチャンスが』 バッセとギャバンのデート場面

 以後ジャン・ギャバンは大スターになり、ギャビー・バッセも映画女優の道を歩んでいくが、娯楽映画の脇役が多かったようだ。添え物の短篇映画にも数多く出ている。フランスのデータ・ベースを調べると、1931年から39年までの9年間で、長篇23本、短篇10本というのが彼女の出演作である。フェルナンデル、ジャン・ミュレ、ノエル=ノエル、ピエール・リシャール=ウィルム、ジュール・ベリー、アリー・ボールなどそうそうたる男優と共演している。
 1939年、バッセは、歌手のジャン・フレデリック・メレと再婚。いったん芸能界から引退するが、戦後の1949年、映画界に復帰。この間、第二の夫とは別れたようだ。ギャバンとの親交は断続的に続いていたようで、戦後はギャバンが彼女のことを気にかけ、自分の映画で彼女に向いた役があると出演を依頼している。ギャバンは糟糠の妻ギャビー・バッセのことを決して忘れなかった。
 ギャバンの戦後の代表作『現金に手を出すな』で、キャバレーの経営者(ポール・フランクール)の妻をやっているのがバッセである。この役は、ギャバンが監督のジャック・ベッケルに頼んで、出演するようにはからったという。


『現金に手を出すな』 バッセ、ジャンヌ・モロー、ドラ・ドール

 ほかにも端役を含め7本ほどキャバンの映画に出ているが、『殺意の瞬間』で家政婦の役をやっていたのが、私の印象に残っている。フランスのフィルモグラフィーを調べると、1949年から1962年までのギャビー・バッセの出演映画は36本である。イヴ・モンタン、ジルベール・ベコーとも共演している。1962年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督のオムニバス映画『フランス式十戒』の第5話でダニエル・ダリューの衣装係に扮しアラン・ドロンと共演したのがギャビー・バッセの映画女優としての最後の花道であった。
 1962年、バッセは、ヌイイ=シュール=セーヌ警察に勤めるオーギュスト・シャポンと三度目の結婚。60歳だった。

 ギャビー・バッセは、1976年にギャバンが死んだ10年後、84歳の時に、「ジャン・ギャバン」の著者アンドレ・ブリュヌランのインタヴューに応じ、ギャバンの思い出を語っている。そのほんの一部だが、引用しておこう。

――ジャンはほんとにいい男でした。女には大モテで、そのことを自分でもよく知っていたのね。あの人の優しい笑顔を見るともう何も言えなくなるの。ほんとうに優しくて、意地悪したり、皮肉を言うようなことは決してなかったわ。口がとても達者で、すぐ人をからかったけど、不愉快な気分にはさせませんでした。不思議なのは内気なくせに女の子たちにはとても大胆なの。そんな彼に私はすっかり参っていた、というわけ。食うや食わずの生活だったれど、ほんとうに楽しかった。(アンドレ・ブリュヌラン著「ジャン・ギャバン」清水馨訳、時事通信社刊)

 2001年10月7日、ギャビー・バッセは、ヌイイ=シュール=セーヌの老人ホームで亡くなった。100歳に間近い99歳であった。彼女はオート=オワール県マゼラ=ダイエの墓地で三人目の夫のかたわらに眠っている。


アナベラ Annabella (1)

2015-09-20 | 女優


 アナベラは、1930年代前半、ヨーロッパで最も人気のあったフランス人のスター女優である。日本でもフランス映画を愛好する往年の洋画ファンの間では絶大な人気があった。アナベラ・ファンを激増させたヒット作は、なんといってもルネ・クレール監督の『巴里祭』(原題『7月14日』1933年)である。アナベラが演じたアンナという可憐な花売り娘は、下町のパリジェンヌの一つの理想のタイプと見なされ、とくに日本では、この映画同様、ヒロインの彼女も愛され続けた。いや、今でもフランス映画ファンの多くの人に愛され続けていると言えよう。
 私が映画『巴里祭』を初めて見たのはもう35年ほど前だが、その時、遅ればせながら私も、アナベラ・ファンになった。映画が作られたのもアナベラが花売り娘のアンナを演じたのも、その50年前のことだったにもかかわらず、アナベラを見て好きになり、こういうパリジェンヌを恋人にすることができたらどんなに幸せだろうと思った。



 最近また『巴里祭』を見直してみた。
 ストーリーは、パリの下町に住む花売り娘(アナベラ)とタクシーの運転手(ジョルジュ・リゴー)の相思相愛の二人が一度は喧嘩別れして別々の道を歩むが、偶然再会して、今度はほんとうに結びつくという、ごくありふれたものにすぎない。この二人の周りに、老若男女いろいろな人たちが出て来て、その人間模様がポンチ絵のように面白おかしく軽快に描かれていくわけだが、ルネ・クレール独特の小気味の良さと洒落っ気に溢れた楽しい映画であった。
 石畳の街路、古いアパート、その内階段と室内、高級レストラン、ビストロなど、舞台になっているパリの下町はすべて美術監督ラザール・メールソンの作ったセットなのだが、この舞台に現れる人々が人形劇のように躍動し、モーリス・ジョベールの音楽にのせ、淀みなく流れるような映像でこの映画は構成されている。
 クレールはその前に『巴里の屋根の下』(1930年)というトーキー第1作となる名作を撮っている。この映画も最近見直したが、こちらはまだ無声映画の特色が強く、主題歌のシャンソンをうまく使ってパリの街の雰囲気を出していた。『巴里の屋根の下』は、名場面も多く、味わい深い作品であるが、『巴里祭』と主役の男女だけを比べてみれば、アルベール・プレジャンとポーラ・イレリよりもジョルジュ・リゴーとアナベラの二人の方がずっと良い。後者の方が青春カップルらしく、ういういしさが感じられるからだ。『巴里の屋根の下』は、女好きのおじさん臭いアルベール・プレジャンが主役だが、『巴里祭』は可愛いアナベラが主役だからでもあろう。プレジャンの相手役をやったポーラ・イレリも、パリジェンヌではなく、彼女の出身地同様ルーマニア人という設定だったが、娼婦のように見えて、魅力がなかった。彼女は『巴里祭』にも出て、ジョルジュ・リゴーの元恋人でアナベラの恋敵を演じていたが、こっちの方が柄に合っていた。『巴里の屋根の下』を見て驚いたのは、アナベラが端役で顔を出していたことである。ビストロに座っている客の一人であったが、しっかり確かめたので間違いない。これは今回見て初めて気づいたのだが、アナベラはクレールのトーキー第2作『ル・ミリオン』で準主役の踊り子に抜擢され、続いて『巴里祭』で主役をやるのだが、すでに『巴里の屋根の下』にも出演していたのだった。
 『巴里祭』でアナベラが扮した花売り娘は、ルネ・クレールが創り出したパリのお伽話のような恋愛物語の中だけで生きている架空のヒロインなのだろう。しかし、そうは言っても、アナベラという女優あっての『巴里祭』である。彼女の個性と人柄がこのヒロインにぴったりはまって生き生きと描き出され、輝きを放っている。もちろんそれを引き出したのは監督のクレールで、クレールは、アナベラがたたずんでいる姿を、真正面からバスト・ショットで、何度も映し出している。彼女の住むアパートの窓辺、花かごを持って入っていくレストラン、建物の入口の前での雨宿り、ビストロのカウンターの中、などであるが、彼女一人の立ち姿が実にうまく映画の中で生かされている。台詞はなく、ただアナベラがこちらに顔を向けて立っているだけなのだが、その時の表情から彼女の思いや気持ちがこちらに伝わって来て、アナベラを一層愛らしく感じさせるのだ。

 恋愛映画の名作は、ヒロインあっての名作だと言える。恋愛映画の名作が古くならず、いつみても新たな感動を与えてくれるのは、男と女の恋愛がいつの世も変わらないからだと思うが、やはり映画の中で生き生きと輝いているのはヒロインであり、映画はヒロインの美しさとともに時代を超えて永遠に近い生命を持ち続けると言えるだろう。『ローマの休日』とオードリー・ヘップバーン、『風と共に去りぬ』とヴィヴィアン・リー、フランス映画では、『うたかたの恋』とダニエル・ダリューがそうである。アナベラは決して美人とは言えないが、『巴里祭』とアナベラは、作品の素晴らしさとヒロインの輝きから言って、上記の3本にひけをとらないと思う。

 私はアナベラ・ファンの一人であるが、では、アナベラが出演したほかの映画を何本も見ているかというと、そうではない。正直言って、デュヴィヴィエの『地の果てを行く』(1935年)とマルセル・カルネの『北ホテル』(1938年)の2本だけなのだ。それでアナベラ・ファンだと言うのはおこがましく感じるが、ほんとうは、『巴里祭』の花売り娘に扮したアナベラだけのファンだと言った方が良いのかもしれない。とはいえ、『巴里祭』と『地の果てを行く』と『北ホテル』はそれぞれ7、8回見ているので、アナベラの姿が私の目に焼きつていることだけは確かだ。この3本でアナベラに関してだけ言えば、『巴里祭』が抜群に良く、『北ホテル』はまあまあで、『地の果てを行く』は別にアナベラがやらなくても良かったと思っている。


『北ホテル』 アナベラとルイ・ジューヴェ

 『北ホテル』でアナベラはジャン=ピエール・オーモンとルイ・ジューヴェを相手役に、二人の間を揺れ動くパリジェンヌを演じたが、好演しているわりには引き立っていなかった。マルセル・カルネは、『巴里の屋根の下』と『ル・ミリオン』でルネ・クレールの助監督についていたこともあり、『北ホテル』はカルネ版『巴里祭』といった作品であるが、世代も作風もルネ・クレールとは異なり、クレールのように古き良きパリを楽しく洒落っ気たっぷりには描かず、『北ホテル』は、ドラマ性が強く陰影に富んだ作品になっていた。アナベラの役は、『巴里祭』の花売り娘の延長線上にあるのだが、悲劇的な人物に仕立てたため、かえってつまらないものになってしまったと思う。また脚本と台詞を書いたアンリ・ジャンソンが恋愛話を好まなかったらしく、アナベラが生かされていなかった。『北ホテル』は、ルイ・ジューヴェとアルレッティが印象に残る作品になったが、それはそれで良かったと思う。

 『地の果てを行く』でアナベラはジャン・ギャバンの相手役だったが、この映画はデュヴィヴィエが男同士の対決を描いたもので、アナベラは脇役であった。アナベラのアイシャという役は、モロッコのベルベル族の娘でキャバレーの踊り子だった。『巴里祭』のヒロインとは似ても似つかぬような化粧と衣装のエキゾチックな娘で、これがあのアナベラなのかと見違えるような役であった。民俗舞踊を踊ったり、カタコトのように思わせるフランス語の台詞を話したりする有様で、もっとまともな役でギャバンと共演してほしかったと思ったほどである。外人部隊の兵士のギャバンと愛し合って、結婚するのは良かったが、その時、互いに腕を傷つけ合って血を舐め合う場面があって、こんなことをアナベラにやらせていいのかと思った。が、最近、ギャバンの本を読んで知ったことなのだが、『地の果てを行く』にアナベラが出演したのは、ギャバンに対する友情出演だったことが分かり、納得がいった。
 ギャバンは『地の果てが行く』の撮影に入る前に、『ヴァリエテ』(1935年)というドイツの大手映画会社ウーファ社で製作された映画で主役のアナベラと初共演した。
 『ヴァリエテ』というタイトルはドイツ語で「サーカス」のことで、主役のアナベラは空中ブランコ乗りで、同じブランコ乗りの男二人に愛され、この三角関係がこじれて、片方の男がもう一方の男を殺そうとする内容だったという。この映画はまずドイツ語版が作られ、続いてフランス語版が作られた。この頃はまだ声優による吹き替えがなく、出演者をドイツ人からフランス人の俳優に入れ替えて作り直していた。すでにヨーロッパの人気スターだったアナベラは両方に主演し、フランス語版は男優をフランスから呼んで撮ったのだが、男の一人がギャバンで、もう一人がフェルナン・グラヴェだった。ギャバンは同僚を殺そうとする男の方を演じたという。
 『ヴァリエテ』のフランス語版はフィルムが失われたらしく、現在は見ることができない。また、『ヴァリエテ』のドイツ語版は日本で公開されたが、ギャバンが出演したフランス語版は日本では知られていない。また、ギャバンのフィルモグラフィでは『地の果てを行く』のあとに『ヴァリエテ』を記載しているが、これはフランスでの公開時期に従ったもので、製作時期は『ヴァリエテ』の方が先である。

 さて、ギャバンとアナベラは、ベルリンで『ヴァリエテ』の撮影時にかなり親しくなったようだ。ただし、私生活の上ではなく、仕事をしながら互いに好意を抱き、とくにギャバンの方がアナベラにいろいろ気をつかい、親切にしたようだ。二人の関係が恋愛にまで発展しなかったのは、アナベラが俳優のジャン・ミュラと結婚したばかりだったからである。
 アナベラ自身が語っている話では(アンドレ・ブリュスラン著「ジャン・ギャバン」)、アナベラがサーカスで使う熊に襲われ、足を挫いて、撮影が遅れてしまった時、ギャバンはフランスで『地の果てが行く』の準備があるのに、一言も文句を言わず、アナベラに優しくしてくれたそうだ。また、ギャバンは『地の果てを行く』の製作に大変な情熱を燃やしていたという。この時は、『地の果てを行く』にアナベラが出演する予定はまったくなかったのだが、『ヴァリエテ』の撮影が終わって、アナベラがフランスへ帰って田舎の別荘で休養していると、ある日突然、ギャバンからの伝言を持って製作主任が訪ねに来たそうだ。ギャバンの相手役のモロッコ人の女優が使いものにならないので、是非アナベラに代わって出てもらいたいのだという。それでアナベラは、ギャバンのためならと思い、すぐにオーケーし、その日の夜行列車に乗り、ギャバンと監督スタッフが待ち構えるパリの撮影所に直行したのだった。


『地の果てを行く』 ギャバンとアナベラ

 アナベラの話を少しだけ引用しておこう。

――この役どころは比較的小さな役だったので当時、なぜ私が引き受けたのか不思議がられました。でもそれはただ一つ、ジャンから折り入って頼まれたから、というほかはありません。(中略)彼のために私は出演したのです。ということはジャンという人はそれほど他人を動かす何か魅力のようなものを持っていたのです。

 アナベラというのは、もちろん芸名である。戦前の日本では、アンナベラと書いたり、その前はアンナ・ベラと書いて、ベラが苗字のように思っていた時期もあった。フランスの俳優や歌手は、ひと頃前まで、姓か名のどちらか一方、または愛称を芸名にしている人が何人もいた。こうした一語だけの芸名の方が観客や聴衆に親しみやすかったのだろう。男優ではフェルナンデル、ブールヴィル、女優ではアルレッティが有名である。
 アナベラという名前は、エドガー・アラン・ポーの詩に登場する女性名アンナベル・リー(Annabel Leez)から取り、映画監督のアベル・ガンスが彼女を大作『ナポレオン』(1927年)に出演させた時に付けたのだという。(つづく)


アナベラ Annabella (2)

2015-09-20 | 女優
 アナベラは、本名をスュザンヌ・ジョルジェット・シャルパンティエといい、1907年7月14日、パリ(9区)で生まれた。日本の映画資料では(古いフランスの紹介記事をもとにしたのだろうが)、ずっと1910年、セーヌ県ラ・ヴァレンヌ=サン・ティレール生まれ、となっていたが、最近のフランスのデータを見ると、上記のようになっている。生年に関しては、女優にはよくあるように、3歳ほどサバを読んでいたのかもしれない。生地についても、生まれて間もなく、両親がパリからその南東の郊外にある閑静な村ラ・ヴァレンヌ=サン・ティレールに引っ越したため、アナベラはここで育ったということだ。
 アナベラは1996年に亡くなったが、その10年後に、アナベラの長年の知人でもあったジョゼ・スリランという人がアナベラのドキュメンタリー映画を製作し、テレビで放映され、その時にデータが完全に訂正されたようだ。ジョゼ・スリランは、アナベラの一人娘アンの協力も得て、2010年にインターネットでアナベラの公式サイト「アナベラ、心はふたつの岸辺に」ANNABELLA, un Coeur entre deux rivesを作成しているが、これが現在アナベラに関する最も確実な資料である。これから私が書くことは、主にこの資料を参考にしているが、アナベラの個人的なことに関しては書かれていないことも多々あり、その辺はインターネット・ムービー・データ・ベースのアナベラの経歴などを参考にした。(キネマ旬報社の「映画人名事典」のアナベラの項目は間違いが多く、信頼できない。その他の日本の映画書籍のアナベラについての記述もこれに基づいているので同様である)

 アナベラの誕生日は7月14日で、フランスの革命記念日、つまり日本でパリ祭と呼んでいる日である。パリ祭というのは映画『巴里祭』の邦題(輸入配給会社の東和商事の社長夫妻・川喜多長政と川喜多かしこが付けたという)から始まった呼び名で、この映画の原題は『7月14日』(フランス語で「カトールズ・ジュイエ」)である。フランスでは最も重要な国民の祝日で、パリだけでお祭りをするわけではない。
 アナベラの誕生日が7月14日で、映画『巴里祭』で一躍大スターになったというのは、どうも出来すぎた話なのだが、戦前からアナベラは巴里祭の申し子のように言われてきたので、信じることにしたい。アナベラの公式サイトでも、生い立ちのところで、「革命記念日と同じ誕生日が奇しくも26年後に彼女の映画のタイトルになった」とある。『巴里祭』が撮影されたのは1932年の後半なので、正確にはアナベラが25歳の時だった。もっと若いかと思ったが、意外に年がいっていたのにはいささか驚いた。

 アナベラの父ポール・シャルパンティエは、《ジュルナール・デ・ヴォワヤージュ》(旅行ジャーナル)の発行元の社長で、フランスでボーイ(ガール)スカウト活動を根づかせることに貢献した人であった。母のアリスはコンセルヴァトワールの音楽科で学び、二等賞をとったほどのピアニストだった。ショパンの演奏が得意で、家では一日中ショパンを弾いていたという。叔父はオデオン座の俳優、二人の叔母もコメディー・フランセーズの有名な女優だった。
アナベラは、子供の頃からこうした文化的家庭環境に恵まれ、しばしば父に連れられて仲間のスカウトたちとキャンプ旅行を楽しみ、また、パリでは一流劇場でクラッシック音楽や演劇を鑑賞しながら育った。『巴里祭』の貧乏な下町娘とは程遠いような、活発かつ芸術好きなお嬢さまだったのだ。
 アナベラの父は旅行を仕事にしていたため写真撮影を好み、娘の写真もたくさん撮った。その写真がたまたま映画監督のアベル・ガンスの目に留まり、彼が手がけていた無声映画の超大作『ナポレオン』に彼女を出演させた。若き日のナポレオンに恋する乙女ヴィオリーヌの役であった。これがアナベラの映画デビューになるのだが、ガンスの『ナポレオン』は1924年6月に撮影が開始され、1927年に完成するまで3年かかっているので、アナベラがいつ頃この映画に出演したかは不明である。1925年から1926年までの間だと思うが、アナベラが18歳か19歳の頃であろう。前回書いたように、アナベラという芸名はアベル・ガンスが付けたものである。
『ナポレオン』のオリジナル版は12時間に及ぶものだったらしいが、1927年、パリのオペラ座で封切られた時は約5時間で、トリプル・エクラン(三つのスクリーン)に映写され(シネラマの先駆)、大変な話題になったという。一般公開時には3時間半に短縮されたため、前半でアナベラの出るシーンはほとんどカットされてしまったようだ。
 翌27年、ジャン・グレミヨン監督の『マルドンヌ』に出演。アナベラは、この映画の製作者兼主役で舞台俳優としても著名だったシャルル・デュランと知り合い、その後彼に師事し、演技を学んだという。
 1928年、オペレッタ映画『三人の若い裸婦』に出演、タイトルにもなっている若い裸婦の一人をやっている。興味深いことに、この映画がなぜ作られたかと言えば、同名のオペレッタがパリの劇場《ブフ・パリジャン》で大ヒットし、1年以上のロングラン(1925年暮~1927年春)を記録したからで、これにはジャン・ギャバンの父(芸名ギャバンという)と妻のギャビー・バッセがずっと出演していて、兵役を終えたジャン・ギャバンも途中から出演している。もちろん、ギャバンが映画デビューする前である。ギャバンの父は映画の方にも出演していたというから、アナベラはギャバンより前に父親と共演していたことになる。
 これまでのアナベラ出演作3本はすべて無声映画である。

 日本の映画資料(キネマ旬報社の「人名事典」など)では、その後、コンセルヴァトワールでジョルジュ・ルロワの教えをうけ、1929年、卒業試験に失敗してファッションモデルになろうとしたと書いてあるが、これは本当かどうか不明である。アナベラの学歴も分からないが、コンセルヴァトワールに在籍したというのもフランス側の資料には見当たらないのだ。
 アナベラが初めて出演したトーキー映画はドイツで作られた『バルカロール・ダムール(愛の舟歌)』(カール・フローリッヒとアンリ・ルッセル監督、1930年)という作品である。主演はシャルル・ボワイエで、アナベラの名前はクレジットされ、ボワイエの妹役だったようだ。
 1929年から30年にかけてフランスでもトーキー映画が続々と作られ始めるが、アナベラは、1930年公開作品に4本出演している。前々回、クレールの『巴里の屋根の下』(1929年製作)にアナベラが顔を見せていることを書いたが、クレジットに名前はない。台詞もなくエキストラのような役だが、クレールがキャメラ・テストでもするつもりだったのかもしれない。
 アナベラがクレールの『ル・ミリオン(100万)』で準主役の踊り子に抜擢されるのは、この1年後で、1930年末のことだ。主役は人気俳優のルネ・ルフェーブルで、パリのモンマルトルに住む貧乏画家ミシェル、アナベラは彼のフィアンセでオペラの踊り子ベアトリスである。ルフェーブルの買った富くじが100万フラン当たるのだが、券を入れた彼の上着をアナベラが警察に追われた泥棒にあげてしまい、ここから上着をめぐって騒動が巻き起こるといったドタバタ喜劇であった。『ル・ミリオン』はYou Tubeに数分間だけアップされているのでそれを見たが、面白そうな映画である。『ル・ミリオン』は、1931年4月フランスで封切られ、日本では同年9月に公開されている。
 ここからアナベラはスター女優への階段を一気に駆け上り、『巴里祭』でスターの座につく。『巴里祭』のフランス封切りは1933年1月であり、その後ヨーロッパ各国で公開され、日本では同年4月に公開されている。日本では『ル・ミリオン』でアナベラが初めて注目され、『巴里祭』でその人気は爆発したが、この2作品の間にアナベラの出演作は1本も公開されず、『巴里祭』の後、6月にアナベラ主演の『春の驟雨』(原題「マリー」ハンガリー人ポール・フェジョ監督、1932年)が公開され、これがまたアナベラ人気をあおったようだ。『春の驟雨』は『巴里祭』より前に作られた映画で、輸入配給会社の東和商事が日本でのアナベラ人気にあやかり、急いで買い付けて公開したようだ。ハンガリー・ロケで撮られ、自然の美しさと哀愁に満ちた名作で、アナベラの可憐さが際立っていたという。是非、見たい映画であるが、もう見ることができないかもしれない。

 フランスやアメリカのインターネットでいろいろ調べてみると、アナベラの実像が輪郭だけ掴めてきた。アナベラ・ファンだと言いながら、これまでまったく知らなかったことが分かってきたので、書いておこう。多分、日本人のアナベラ・ファンの99パーセント以上が知らなかったことだと思う。
 まず、アナベラの一人娘のアンが、1928年4月生まれだということである。彼女はアン・パワー=ヴェルナーという名で通っているが、アンは、1939年にアナベラがアメリカの映画俳優タイロン・パワー(第三の夫)と結婚した時、養女になり、アン・パワーとなった。そして1954年、アンはオーストリア出身の国際俳優オスカー・ヴェルナーと結婚。1968年離婚し、以後アメリカのニュー・ハンプシャー州に住んでいたが、2011年のクリスマスに癌で死去している。その追悼記事を読んで、彼女の生年が分かった。
 また、インターネット・ムービー・データ・ベースでは、アナベラの初婚が1930年とあり、夫になったのはアルベール・ソーレという作家(不詳)で、1932年に死別したと書いてある。アンはこの二人の間にできた娘だとしているが、根拠不明である。別の記事では、アナベラはアルベール・プレジャンの愛人で、娘のアンはプレジャンとの間に出来た子だと書いたものがあったが、これも根拠不明である。単なる噂話なのかもしれない。アルベール・プレジャンは、前回、女好きのおじさん臭い俳優と述べたが、1920年代後半から30年代まで、フランスで最も人気のあった男優の一人であった。彼は第一次世界大戦で活躍し勲章までもらった飛行士で、芸能界入りした後、ルネ・クレールの処女作『眠るパリ』(1923年)に出演し、映画俳優としても注目されるようになった。1894年(または1893年)生まれで、『巴里の屋根の下』に出た時は35歳だった。プレジャンは女にもてそうだし、アナベラも恋多き娘であったから、二人の間に恋愛関係があっても不思議はないが、今更どうでもよいような気もする。
 いずれにせよ、アナベラは、21歳で娘を生んで未婚の母となり、23歳で結婚し、2年後には夫に先立たれ、25歳の時に4歳の娘を抱えた未亡人になっている。ちょうどこの頃、『巴里祭』に出演したわけで、私はこれを知って、大変驚いた。アナベラはスターへの道を歩んでいった一方で、個人的に大変な人生を送っていたのだ。

 アナベラの第二の夫は、フランス人俳優のジャン・ミュラであるが、彼は無声映画時代からの二枚目スターだった。1888年生まれなので、アナベラより19歳も年上である。ジャン・ミュラは、ジャック・フェデール監督の『女だけの都』(1935年)で、スペイン軍隊長の公爵を演じ、市長夫人のフランソワーズ・ロゼーに接待される役をやっている。アナベラは1931年『パリ・地中海』でジャン・ミュラと初共演し、親しくなったようだ。この頃、ジャン・ミュラは43歳で男盛りだった。アナベラは、他の作品でもミュラと共演し、1934年10月に彼と結婚した。ギャバンと『ヴァリエテ』で初共演し、続いて『地の果てを行く』で再共演するのはこのすぐ後である。
 1935年から37年までは、アナベラが映画女優として最も安定していた時期であった。『戦ひの前夜』(マルセル・レルビエ監督)で1936年度ヴェネチア映画祭女優賞を受賞し、また、イギリス初のテクニカラー映画『暁の翼』(ハロルド・シュスター監督 1937年)ではヘンリー・フォンダの相手役を務めている。ハリウッドの20世紀フォックス社がアナベラに注目し、契約を結んだのはこの時であった。1938年、アナベラは渡米し、『男爵と執事』(ウォルター・ラング監督、共演ウィリアム・パウエル)と『スエズ』(アラン・ドワン監督)に出演。『スエズ』で共演した二枚目スターのタイロン・パワーと恋におちる。タイロン・パワーは1914年生まれで、アナベラより7歳年下だった。同年秋にフランスへ帰り、マルセル・カルネの『北ホテル』に出演し、12月、ジャン・ミュラと離婚を済ますとまた渡米し、1939年4月にタイロン・パワーと電撃結婚した。


『スエズ』 アナベラとタイロン・パワー

 以後、アナベラはタイロン・パワーの妻としてハリウッドに居住し、第二次大戦前後の9年間をアメリカで過ごした。数本のアメリカ映画に出演し、またブロードウェイの舞台にも立っている。しかし、タイロン・パワーとも破局をむかえ、46年に離婚。48年、フランスへ帰り、数本の映画に出演したが、50年、スペイン映画に2本出演して引退した。
 その後、スペイン国境に近いバスク地方のサン=ペ=シュル=ニヴェルに住み、余生を静かに暮らし、1996年9月2日に死去。享年89歳であった。

エーモス Aimos

2015-09-20 | 男優


 1930年代後半のギャバン主演の映画で脇役としてコミカルな味を出し、忘れられない印象を残した俳優がエーモスであった。脇役と言ってもいろいろあるが、主役をほんとうに脇で支える最も重要な役である。エーモスは、以前はエイモスと表記していたが、エーモス、エモスの方が発音に近いようだ(最近はエーモスと書いたものも見かける)。また、レイモン・エーモスRaymond Aimosと姓名で呼びこともあるが、単にエーモスの方が芸名としては一般的である。映画のクレジットも、私が見た限り、ほとんどがそう書いてある。
 ギャバンとの共演作は3本あるが、エーモスはギャバンの相棒役を務めた。愛すべき友達か仲間、ギャバンに付き従う頼りない弟分のような存在であった。年齢はギャバンよりずっと上なのだが、エーモスは若く見えた。1891年生まれなので、この頃40代半ばであった。一方、ギャバンは30代初めでも老けて見えたので、二人は釣り合っていた。
 デュヴィヴィエ監督の『地の果てを行く』でエーモスは、外人部隊に入ったギャバンが最初に意気投合して友達になる兵士を演じた。ギャバンは胡散臭いロベール・ル・ヴィガンと対立するが、エーモスは最後までギャバンの戦友であった。敵に囲まれた小屋での壮絶なラスト・シーンで、エーモスは、喉が渇き、引きとめようとするギャバンを振り切って、小屋から這い出し、水を一口飲むと銃で撃たれてしまう。「ああ、これで思い残すことはない」と言って死ぬ時のエーモスの笑顔! なんともあわれだった。


『地の果てを行く』 エーモスとギャバン

 同じくデュヴィヴィエ監督の名作『我等の仲間』でエーモスは、富くじが当たって共同レストランを作る仲間の一人、タンタンという陽気な男を演じた。完成祝いの日に旗を掲げるため喜んで屋根の上に登り、おどけてタップ・ダンスをしようとした途端、転落死してしまう。あっけない最期であった。
 マルセル・カルネ監督の名作『霧の波止場』でのエーモスも良かった。脱走兵のギャバンを避難所へ案内するホームレスの酔っ払い(愛称カトル・ヴィッテル)で、白いシーツにくるまってベッドで安眠するのがただ一つの願いだと言うのが口癖の男であった。稼いだ日銭を酒代にかえてしまい、宿泊代がなくなっていつも酔っ払ってフラフラしているのだが、ラストで酒を我慢し、ようやくホテルのベッドの白いシーツの中に潜り込む。この映画でエーモスは死ななかった。

 これらの役はどれも、エーモスでなければできない役であったと思う。 
 痩せぎすで飄々とした風貌、イタズラっ子のような目つき、何か企んでいそうな表情、ろれつが回らない喋り方など、エーモスという俳優は、ほかに見当たらないような稀少価値のある役者であった。彼の軽やかなおかしみは独特で、喜劇役者にありがちなしつこさや臭みがなく、落語で言う「フラ」(持って生まれた人柄のボーッとしたおかしさ)があった。
 映画の中でエーモスを見ていると、演技しているという感じがなく、この人の個性そのままなのだろうと感じるが、ヒョロヒョロしていていつも地に足が着いていない雰囲気があった。吹けば飛ぶような、押せば倒れるような軽さである。
 そんな役者だから、堂々として押し出しの強いギャバンに合ったのだと思う。エーモスが脇にいるとギャバンが引き立ち、エーモスの役柄が、言うなればギャバンの演じた人物に心の暖かみをにじみ出させていた。ギャバンは、何かを深く思いつめた真面目な人物を演じることが多く、またそれがギャバンの個性に合った役柄なのだが、それとは好対照に、エーモスは何も考えずに能天気にその日暮らしをしている感じなので、二人のコンビが互いに補完しあって、ぴったり合ったのだろう。ギャバンの脇役には、ダリオ(『大いなる幻想』のユダヤ人ローゼンタール)やジュリアン・カレット(『獣人』の同僚機関士)もいるが、私の個人的感想ではユーモラスなエーモスがいちばん好きだ。エーモスは、映画にほほえましさをもたらす、貴重でかけがえのない役者だったと思う。


『我等の仲間』エーモス、ギャバン、シャルル・ヴァネル

 ご存知の方も多い(?)かと思うが、エーモスは第二次世界大戦中、レジスタンス運動に加わり、最後のパリ解放の戦いでバリケードで銃弾に当たり死んでいる。1944年8月20日のことで、53歳だったそうだ。
 フランスの資料を調べてみると、エーモスは、無声映画時代の出演作は除き、1930年から1944年までのトーキー映画に約110本も出演している。フランス映画の黄金期に脇役として最も人気のあった俳優の一人で、いかに重宝に使われていたかがわかる。110本と言っても、もう今では有名でなくなってしまった監督の娯楽映画が多く、大半は現在見ることができないようだ。
 しかし、その中の10本は名監督の傑作とも言える作品で、映像ソフトもあるため、現在も見ることができる。エーモスがギャバンと共演した上記の3本のほかに、ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』『巴里祭』『最後の億万長者』、デュヴィヴィエの『商船テナシチー』『巨人ゴーレム』『シュヴァリエの流行児』、アナトール・リトヴァクの『うたかたの恋』である。私が見た映画はその10本のうち7本であるが、『巴里祭』でのスリの役と『うたかたの恋』での見張りの警官の役をやったエーモスが印象に残っている。が、やはりギャバンとの共演作がエーモスの代表作だと思う。
 エーモスは、本名はレイモン・アルテュール・コドリエといい、1891年3月28日、エーヌ県ラ・フェールで生まれた。父は時計宝石商。子どもの頃から見世物が好きで、エーモスの名で歌手を志した。12歳の時にジョルジュ・メリエスの映画に出演したというが、正式な映画デビューは1910年、ジャン・デュラン監督の無声映画らしい。その後、主に添え物の短篇喜劇などに出演し、有名な俳優のスタンドイン(危険な場面での吹き替え)もやっていたらしい。
 トーキー時代になって、ルネ・クレールやデュヴィヴィエといった監督に認められ出世していったが、下積みから這い上がった役者だけあって、どんな役でも引受け、またみんなに愛された役者だったようだ。


ロベール・ル・ヴィガン Robert Le Vigan

2015-09-20 | 男優


 フランス映画の数多い名優のなかで、「呪われた天才」と呼ばれる特異で悲運の存在が、ロベール・ル・ヴィガンであった。そして、ル・ヴィガンは、戦前のジャン・ギャバンの名作『地の果てを行く』『どん底』『霧の波止場』で重要な脇役を務めただけでなく、他の映画でも独特な役作りで異彩を放った男優でもあった。彼がフランス映画で華々しく活躍した時期は1931年から44年までの14年間にすぎない。それは彼が、第二次大戦でドイツ占領下のフランスが解放されて間もなく、ナチス・ドイツの協力者の一人として有罪とされ、懲役10年の刑を受けたからである。実際には3年で仮釈放されたが、ル・ヴィガンはフランスを離れ、スペインからアルゼンチンへ渡り亡命した。アルゼンチンで映画に数本出で、1952年に引退。以後、貧窮生活を送り、二度と故国フランスの土を踏むことなく、1972年10月12日、アルゼンチンのタンディールで死んだ。享年72歳であった。

 ロベール・ル・ヴィガン、本名ロベール・シャルル・アレクサンドル・コキーヨは、1900年1月7日パリに生まれた。父は獣医だったが、父の後を継がずに、早い頃から演劇に興味を覚え、中等教育を終えると、パリのコンセルヴァトワールに入学。一年の時演劇科で二番の成績をとったが、一番を取らなければ意味がないと思ったらしく、コンセルヴァトワールを中途退学している。その後兵役期間をはさんで数年間は、ミュージック・ホールに出たり地方巡業に参加したりして下積み生活を送りながら、演劇への情熱を高めていった。1924年、ガストン・バティの劇団に入り、シャンゼリゼ劇場に出演してからは舞台俳優に専念して活動を続け、1927年から29年にかけてキャバレー《ムーラン・ド・ラ・シャンソン》で軽演劇に出演したのち、また劇場の舞台に戻って、シャンゼリゼ劇場やピガール座で活躍し、頭角を現していった。
 1930年、ピガール座でルイ・ジューヴェの演出でジュール・ロマンの劇を演じている時、映画監督ジュリアン・デュヴィヴィエの目に留まり、1931年『カイロの戦慄』(原題は「呪われた五人の紳士」)で映画デビューする。ル・ヴィガン、31歳だった。
 この映画は以前NHKの衛星テレビで放映され、その時に私は見ている。エジプトのカイロを舞台にしたデュヴィヴィエの犯罪サスペンス・ドラマで、主演はルネ・ルフェーブル、ロジーヌ・ドレアンの若い男女の恋人同士だった。デュヴィヴィエの映画では欠かせない名優アリー・ボールがロジーヌ・ドレアンの父親役で、映画の原題にもあるように呪われた五人の紳士が登場するのだが、主役のルフェーブルと彼の友人たちの全部で五人が現地の占い師に順番に死んでいくと宣告される。その一人がル・ヴィガンの役で、一人、二人、三人と変死していくのだが、ルフェーブルとル・ヴィガンの二人が残った時に、実は、ル・ヴィガンが友人を事故死や自殺にみせかけて殺害した犯人だったことが判明する、といったストーリーであった。ル・ヴィガンは変質的な殺人犯を初めは平然と演じ、最後は半狂乱になって演じていた。この映画で最も強烈な印象を与えたのが、ル・ヴィガンであった。
 この鮮烈なデビューの後、ル・ヴィガンは次々に映画出演していった。彼のフィルモグラフィーをフランスのインターネットで調べてみると、1931年の映画デビューから1935年までの4年間に、なんと二十数本の映画に出演している。これは驚くべき本数で、ル・ヴィガンがいかに引っ張り凧だったかがわかる。この間、ルイ・ジューヴェの劇団に入り、シャンゼリゼ座で舞台公演もやっているので実に精力的に俳優活動を続けていたようだ。
 先日、You Tubeでギャバン主演の『トンネル』(1933年)という映画を見ていたら、ル・ヴィガンが労働者の役で出演しているのに気づいた。おそらくこの映画がギャバンとの初共演だったと思われる。映画ではデュヴィヴィエの『白き処女地』にも出演しているが、この映画はずいぶん前に一度見ただけなので、彼が何の役で出ていたか記憶にない。ギャバンと同じシーンに出ていたのかも分からない。今度再見して確かめたいと思う。また、ジャン・ルノワールの『ボヴァリー夫人』にも出演しているが、残念ながら私はこの映画を見ていない。これがルノワール監督作品に初めて出たものである。
 ル・ヴィガンは、1935年、デュヴィヴィエ畢生の大作『ゴルゴタの丘』で主役イエス・キリストを熱演し、一躍注目を浴びる。この作品でル・ヴィガンは類まれなキリスト役者と呼ばれたが、まさに入神の演技で、キリストに成りきっているとしか思えないほどであった。『ゴルゴタの丘』は、キリストのエルサレム来訪から磔の刑を受けて復活するまでを描いた宗教映画である。私はキリスト教徒でもなく、聖書を扱った宗教映画を傍観的に、かつ興味本位にしか見ることしかできないが、『ゴルゴタの丘』はいろいろな点で見応えのある映画であった。



 『ゴルゴタの丘』にはギャバンも出演していて、ローマ領ユダヤの総督ピラトに扮し、キリストに磔の刑を言い渡す役を演じ、ル・ヴィガンと共演している。
 ル・ヴィガンは、続いてデュヴィヴィエの『地の果てを行く』で、またギャバンと共演し、白熱の演技を繰り広げる。ル・ヴィガンは外人部隊に入ったギャバンに付きまとう刑事リュカの役で、準主役とも言える敵役だった。丘の上でギャバンに殺されかかるシーン、そしてラスト、叛乱軍に追い詰められた小屋でギャバンを看取り、一足遅れて来た応援部隊の前で一人生き残った彼が点呼に答え、戦死者の報告をするシーンはとくに印象深い。


『地の果てを行く』 ギャバンとル・ヴィガン

 ギャバンがジャン・ルノアール監督に依頼されて初めてルノアール作品に出演した『どん底』は私の好きな映画で、何度も見ている。昔録画したビデオを5,6回、DVDを買ってから3,4回は見ていると思う。『大いなる幻影』よりも今までに見た回数が多いくらいだ。『どん底』を見るのは、ギャバン同様、ルイ・ジューヴェが見たくなるからでもある。『どん底』にはル・ヴィガンも出演していて、アル中で半ば気の狂った役者の青年を演じているが、男優ではギャバン、ジューヴェにつぐ役であった。ペペル役のギャバンとの共演シーンはなかったが、暗い木賃宿の中を夢遊病者のように歩き回り、目を見開いてうわごとのように台詞を言うル・ヴィガンの一人芝居は気味が悪いほどで目に焼き付いて離れない。「プシエール(埃)」「オルガニーズム(有機組織)」という言葉も耳に残る。ル・ヴィガンは最後に納屋で首をくくって死ぬが、『どん底』の中で最も暗い役であった。
 ル・ヴィガンはマルセル・カルネにも乞われて、カルネの初監督作『ジェニーの家』(1936年)にも出演している。『ジェニーの家』は最近DVDを買って2度見たが、とても初監督作品とは思えないほどの出来栄えで、カルネはこの時30歳なのにすでにベテランのような手腕を発揮していた。主役のフランソワーズ・ロゼーがパリの高級ナイトクラブ(実は売春業)の女主人で、ル・ヴィガンはナイトクラブにやって来る金持ちの色情狂の老紳士で、60歳近い老け役だった。また、カルネの第3作、ギャバンとミシェール・モルガンの悲恋映画『霧の波止場』では、ル・ヴィガンの出番は少なかったが、脱走兵ギャバンに身ぐるみ一式残して自殺する画家の役を演じ、悲愴感を漂わせていた。脚本家ジャック・プレヴェールの独白的な台詞を語るその語り口は見事であった。ル・ヴィガンの声は透き通るように明瞭で、詩を朗読したらどんなに素晴らしいかと思えるほどである。

 ロベール・ル・ヴィガンは端正な顔立ちの二枚目だったが、主役級の二枚目俳優にはならず、演じ甲斐のある個性的な脇役をあえて選んで、演じることを楽しんだ性格俳優であった。したがって、役の幅は広く、彼が演じたいくつかの役を見ると、ル・ヴィガンという同じ俳優が演じているとは思えないことがある。ギャバンとの共演作でも、『地の果てを行く』の刑事と『霧の波止場』の画家が同じル・ヴィガンだとは思えないにちがいない。『ゴルゴタの丘』のキリストはまったくの別人である。
 ジャック・ベッケル監督の『赤い手のグピー』(1943年)は、ル・ヴィガンの代表作の1本だと言えるだろう。この映画もずいぶん前に見たので、記憶が薄れかけているが、ル・ヴィガンはフランスの片田舎の農村に住むトンキンという名前の風変わりな若者で、失恋して高い木に登りわめき散らして飛び降り自殺をはかるのだが、強烈な印象が残っている。

 ル・ヴィガンは作家のルイ=フェルディナン・セリーヌと親友だった。セリーヌという毀誉褒貶のある作家について私は通りいっぺんの知識しかなく、彼の小説も昔「夜の果てへの旅」をフランス語で読もうとして数ページで放棄したほどなので何も言えないが、セリーヌは反ユダヤ主義とナチスに協力的な言動によって戦後フランス政府から逮捕されかかり、デンマークへ亡命している。彼が晩年に書いた自伝的な三部作にはル・ヴィガンが登場するそうである。
 第二次大戦が終わる頃、ル・ヴィガンはマルセル・カルネの大作『天井桟敷の人々』で古着商ジェリコの役を与えられ、撮影開始後1場面だけ撮ったところで、ドイツへ逃れ、この役を放棄している。対独協力によって弾劾されるのを恐れ、またドイツでセリーヌと会うためであった。こうしてジェリコの役はピエール・ルノワールが代わって務めることになった。

 最後にフランスの女流作家コレットのル・ヴィガン評を付け加えておこう。
――彼は人の心をつかみ、肉感的でも技巧的でもなく、まるで天から降りてきたような俳優である。