ジャン・ギャバンが《フォリー=ベルジェール》のオペレッタ『夜会服の女』に端役で出演し始めた頃、ギャバンに一目惚れして熱烈なファンになり、通いつめてこの若き芸人のハートを射止め、恋愛、同棲の末、結婚するに至った最初の女性がギャビー・バッセである。
二人が知り合ったのは1924年春、ギャバン19歳、バッセ21歳の頃。ギャバンもパリの芸能界にデビューしたばかりの駆け出しの芸人だったが、2歳年上の彼女も《ラ・シガール》の新人の踊り子で、場末のカフェにも出演する無名に近い歌手だった。おかっぱ髪に夢見がちな大きな目、小柄で庶民的な愛嬌のある可愛い娘を、ギャバンは愛した。
ギャバンは彼女を初めは「トゥトゥ」(犬の幼児語)という愛称で呼び、やがて「ペペット」(お金の俗語)と呼ぶようになる。財布のひもをしっかり握っていたからであろう。二人は恋に落ちるとすぐモンマルトルのクリニャンクール街の安ホテルで同棲生活を始めた。貧しいながらも幸福なカップルであった。パンを分かち合い、コーヒーは同じカップで、まずギャバンがブラックで飲み、それからバッセがミルクを入れてカフェオレにして飲むのが朝食の習慣だった。
ギャビー・バッセは、本名をマリー・ルイーズ・カミユ・バッセといい、1902年3月29日、ソーヌ=エ=ロワール県ヴァレーヌ=サン=ソヴールで生まれた。父親を早くに失くし、母親の女手一つで育てられた。母親は自宅で裁縫の仕事をしていた。彼女も初等教育を終えるとお針子になって服飾店に勤め家計を支えた。仕事の合間、得意の歌を唄い、おどけた真似をして、お針子仲間を喜ばせていたという。一時期速記タイピストを目指すが、やはり憧れの歌手になろうと志し、パリのカフェやキャバレーに出て歌を唄いだした。ある時有名なキャバレー《ラ・シガール》で踊り子の欠員があり、アルバイトのつもりで踊り子もやってみたところ、本番でずっこけ、それがかえって客に受けてしまった。そこで毎回ずっこけ役になり、人目を集めるようになった。ギャバンと知り合ったのはそんな頃であった。
モンマルトルで同棲中、ギャバンが20歳になり、兵役義務のためブルターニュのロリアンの海軍基地へ行くことになった。二人は1年ほど離れ離れに暮らさなければならなくなり、二人とも寂しさは募るばかりだった。兵役では独身者より妻帯者の方が優遇され、外出許可も下りやすいのを知り、ギャバンはギャビーとの結婚を決意したのだという。
兵役中に休暇を願い出て、1925年2月26日、二人はパリで結婚した。
そのおかげで、ギャバンはパリの海軍省へ転属となり、二人が会う機会も増えた。ギャバンの兵役が終わると、新婚生活が始まった。ギャビー・バッセは《ブッフ=パリジャン》のオペレッタ『三人の若い裸婦』に出演し、人気が出始めていた。ギャバンはしばらく彼女の稼ぎに頼っていたが、公演中の『三人の若い裸婦』で海軍士官の代役がギャバンに回ってきて、二人は同じ舞台に立った。
その後、二人は共稼ぎで貧しいながらも仲睦まじく暮らした。
1928年春、オペレッタのブラジル巡業があり二人揃って、リオデジャネイロへ行った。ギャバンもバッセも生まれて初めての海外旅行であった。
ギャバンがボードビリアンとして活躍を始めるのは、巡業から帰って、パリの《ムーラン・ルージュ》に出演するようになってからだった。オーディションで大スターのミスタンゲットに気に入られ、4月に開演した《ムーラン・ルージュ》のショー『回るパリ』でミスタンゲットの相手役に抜擢されたのだ。ギャバン24歳、人気スターへの道を進む第一歩を踏み出す。ギャビー・バッセも歌える女優としてスターへの道を歩み始めていた。
二人とも人気が出て仕事が増えるにしたがい、すれ違いが多くなった。売れっ子芸能人夫婦の間に生じる溝である。
1929年、ギャバンがオペレッタの共演女優(ジャクリーヌ・フランセル)と恋愛関係になり、同年末、バッセはギャバンと離婚した。バッセの方が離婚を申し出たというが、所詮夫婦の仲は他人には分からない。
二人が離婚したほぼ1年後、ギャバンはオペレッタ映画『誰にもチャンスが』(1930年12月フランス公開)で映画デビューするが、なんとその恋人役がギャビー・バッセであった。バッセの方はすでに映画デビューしていて、彼女の名前の方がポスターでは上にあったという。
『誰にもチャンスが』を先日私はYou Tubeで見たが、無邪気で楽しい恋愛喜劇であった。ギャバンは服飾店のしがいない店員、バッセは劇場のロビーのチョコレート売りで、実際にはこの二人が主役。これに男爵夫婦、その愛人たちが加わって、すったもんだの挙句、ギャバンとバッセが結ばれるというストーリー。ギャバンがショーウィンドーの高級服を着込み、劇場に行くと、そこで初対面の男爵に頼まれ、服を交換して替え玉にされる。男爵に成りすましたギャバンが、可愛いバッセをレストランに誘い、酒の勢いでくどくと、バッセが名刺を見て男爵邸にまで付いて来る。仕方なく、ポケットにあった鍵を出して中に入り、豪華な居間で二人が楽しげに歌を唄う。ここが見せ場で、ギャバンとバッセは恋人時代に帰ったようなむつまじさで、映画とはいえ二人の関係がうかがえて、微笑ましかった。
『誰にもチャンスが』 バッセとギャバンのデート場面
以後ジャン・ギャバンは大スターになり、ギャビー・バッセも映画女優の道を歩んでいくが、娯楽映画の脇役が多かったようだ。添え物の短篇映画にも数多く出ている。フランスのデータ・ベースを調べると、1931年から39年までの9年間で、長篇23本、短篇10本というのが彼女の出演作である。フェルナンデル、ジャン・ミュレ、ノエル=ノエル、ピエール・リシャール=ウィルム、ジュール・ベリー、アリー・ボールなどそうそうたる男優と共演している。
1939年、バッセは、歌手のジャン・フレデリック・メレと再婚。いったん芸能界から引退するが、戦後の1949年、映画界に復帰。この間、第二の夫とは別れたようだ。ギャバンとの親交は断続的に続いていたようで、戦後はギャバンが彼女のことを気にかけ、自分の映画で彼女に向いた役があると出演を依頼している。ギャバンは糟糠の妻ギャビー・バッセのことを決して忘れなかった。
ギャバンの戦後の代表作『現金に手を出すな』で、キャバレーの経営者(ポール・フランクール)の妻をやっているのがバッセである。この役は、ギャバンが監督のジャック・ベッケルに頼んで、出演するようにはからったという。
『現金に手を出すな』 バッセ、ジャンヌ・モロー、ドラ・ドール
ほかにも端役を含め7本ほどキャバンの映画に出ているが、『殺意の瞬間』で家政婦の役をやっていたのが、私の印象に残っている。フランスのフィルモグラフィーを調べると、1949年から1962年までのギャビー・バッセの出演映画は36本である。イヴ・モンタン、ジルベール・ベコーとも共演している。1962年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督のオムニバス映画『フランス式十戒』の第5話でダニエル・ダリューの衣装係に扮しアラン・ドロンと共演したのがギャビー・バッセの映画女優としての最後の花道であった。
1962年、バッセは、ヌイイ=シュール=セーヌ警察に勤めるオーギュスト・シャポンと三度目の結婚。60歳だった。
ギャビー・バッセは、1976年にギャバンが死んだ10年後、84歳の時に、「ジャン・ギャバン」の著者アンドレ・ブリュヌランのインタヴューに応じ、ギャバンの思い出を語っている。そのほんの一部だが、引用しておこう。
――ジャンはほんとにいい男でした。女には大モテで、そのことを自分でもよく知っていたのね。あの人の優しい笑顔を見るともう何も言えなくなるの。ほんとうに優しくて、意地悪したり、皮肉を言うようなことは決してなかったわ。口がとても達者で、すぐ人をからかったけど、不愉快な気分にはさせませんでした。不思議なのは内気なくせに女の子たちにはとても大胆なの。そんな彼に私はすっかり参っていた、というわけ。食うや食わずの生活だったれど、ほんとうに楽しかった。(アンドレ・ブリュヌラン著「ジャン・ギャバン」清水馨訳、時事通信社刊)
2001年10月7日、ギャビー・バッセは、ヌイイ=シュール=セーヌの老人ホームで亡くなった。100歳に間近い99歳であった。彼女はオート=オワール県マゼラ=ダイエの墓地で三人目の夫のかたわらに眠っている。