ジャン・ギャバンと映画人たち

Jean Gabin et ses partenaires au cinéma

リーヌ・ノロ Line Noro

2015-10-02 | 女優


 『望郷』でペペ・ル・モコ(ギャバン)の情婦イネスを演じた演技派女優である。ミレーユ・バランが扮したギャビーが美しく着飾った高級娼婦まがいのパリジェンヌだったのに対し、彼女は野卑で情熱的なカスバの女であり、汚れ役だった。ギャビーの引き立て役でもあった。イネスは、ギャビーに一目惚れしたペペ・ル・モコに愛想をつかされ、嫉妬に燃えて最後は彼を引きとめようと警察に彼の居所を教えてしまう。
 実はギャバンとミレーユ・バランの場面よりギャバンとリーヌ・ノロの場面の方が多く、監督デュヴィヴィエは男に捨てられかかった女の情欲と嫉妬をリアルに描き、リーヌ・ノロは演技力で監督の期待に見事に応えている。『望郷』という映画を傑作にした大きな要因はカスバの情婦に成りきった彼女の迫真の演技にあったと言ってもよい。
 

『望郷』でギャバンと 

 リーヌ・ノロは、本名をアリーヌ・シモンヌ・ノロといい、1900年2月22日、ロレーヌ地方モーズ県ウドランクールで生まれた。少女の頃から女優に憧れ、パリに出てコンセルヴァトワールで学んだ。22歳のとき二等賞の成績で同校を卒業。1920年代は舞台女優としてパリのあちこちの劇場に出演。そのときデュヴィヴィエに見出され、1928年、無声映画『神聖なる巡航』に出たのが映画デビュー。この時すでに28歳であった。
 トーキー時代になり、レイモン・ベルナール監督の『モンマルトルの街』(31)、アベル・ガンス監督の『ドロロサ母さん』(31)などに出演したのち、1933年、再びデュヴィヴィエ監督に起用され、アリー・ボールのメグレ警視が活躍する『モンパルナスの夜』で街娼役を演じた。ロシア出身の異才俳優インキジノフ扮する殺人犯に誘われ、安ホテルの一室で春を売る場面に出演しただけであったが、その演技が注目された。以後映画出演が増え、1936年、アンドレ・ベルトミュー監督の『炎』に出演し、撮影終了後ベルトミュー監督と結婚した。
 そして、リーヌ・ノロという女優をフランスだけでなく世界的に有名にした映画が、1937年の『望郷』であった。デュヴィヴィエ監督作品に三度目に出演して、最も重要な役をもらったのである。
 以後、リーヌ・ノロはコンスタントに映画出演を続けるが、主演女優を引き立てる二番手の脇役が彼女の持ち役となった。ジャック・ベッケル監督の『赤い手のグッピー』(43)、ジャン・ドラノア監督の『しのび泣き』(45)と『田園交響楽』(46)はいずれも名作であるが、リーヌ・ノロの地味だが情感のにじみ出るような演技がいぶし銀のように光っていた。とくに『田園交響楽』の牧師の妻の役は素晴らしかった。
 1950年代はコメディー・フランセーズの舞台に出て活躍し、映画ではアンドレ・カイヤット監督の『われらはみな暗殺者』(52)『洪水の前』(54)に出演し、50歳代半ばで第一線から退いた。1985年11月4日パリにて死去(85歳)。

マドレーヌ・ルノー Madeleine Renaud

2015-10-02 | 女優


 戦前にギャバンはマドレーヌ・ルノーと4度共演している。相手役として最も回数が多く、ギャバン自身、個人的に共演を好んだ女優の一人であった。初共演は1932年の『ラ・ベル・マリニエール号』で、ルノーは船長ギャバンの若妻役、続いて33年の『トンネル』でもトンネル建設技師ギャバンの若妻役、そして34年、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『白き処女地』ではカナダのフランス人移民の美しい娘をルノーが主役で演じ、猟師のギャバンが恋人役を務めた。実はルノーはギャバンより4歳年上だった。しかし彼女は1930年代には実年齢よりずっと若く見えた。『白き処女地』でルノーは34歳だったのに20歳そこそこの乙女の役を演じたのである。
 その後ギャバンが大スターとなって4年ほど二人の共演はなかったが、第二次大戦の直前から戦中にかけて製作されたジャン・グレミヨン監督の『曳き船』(41年)でルノーはギャバンを愛する心優しき病身の妻を演じた(ギャバンの愛人役はミシェール・モルガン)。
 戦後は、ルノーが夫のジャン=ルイ・バローとルノー=バロー劇団を結成し演劇活動に専念したため、ほとんど映画に出演しなかった。が、それでもマックス・オフュルス監督の『快楽』(1952年)で12年ぶりにギャバンと共演した。『快楽』はモーパッサンの短編小説を映画化したオムニバス映画で、オフュルス監督作品では『輪舞』と並ぶ秀作であった。とくに第二話「テリエ館」は、モーパッサンの初期の名作だが、映画も素晴らしく、出演者はマドレーヌ・ルノー、ダニエル・ダリュー、ピエール・ブラッスール、ジャン・ギャバンといった面々。地方都市の売春サロンの女将がルノー、ギャバンはノルマンディーの田舎の村に住む建具職人で、ルノーの弟の役だった。ルノー扮する女将が二日ほど店を休み、娼婦たち五人を連れて、社員旅行がてら、弟夫婦の家を訪ねて一泊し、翌朝教会で弟の娘の聖体拝受の式に出席するという話である。この映画に出演した頃、ルノーは52歳で、ずいぶん老けてしまったように見えたが、なかなかしっかりした女将ぶりで、女学校のベテラン教師のようであった。
 若い頃のマドレーヌ・ルノーは、夢見る文学少女といった雰囲気を持ち、清純で繊細なタイプの女優であった。小柄で160センチに満たない背丈であろう。
 私がリアルタイムで知っているマドレーヌ・ルノーは、70年代後半に夫のジャン=ルイ・バローとルノー・バロー劇団を率いて来日した時の彼女である。テレビでインタヴューを見た記憶があるが、品の良いおばあちゃんであった。


 『曳き船』でギャバンと

 マドレーヌ・ルノーは、1900年2月21日、パリで生まれた。10代の頃から小説や戯曲を執筆していたが、中等教育を終えてコンセルヴァトワールに入学するとラファエル・デュフロの生徒となり、同期のシャルル・ボワイエ、マリー・ベルらと共に学んだ。20年の進級公演『女の学校』のアニェス役で2等賞をとる優秀な成績で、翌年卒業時にはマリー・ベルと並んで1等賞となり、揃ってコメディー・フランセーズに入団。同時期22年の『逆風』で初めて映画出演した。彼女が数多くの映画に出演したのは1930年代で、ギャバンとの共演作画3本あることはすでに述べたが、ジャン=ルイ・バローと共演するのは1936年の『美しき青春』で、二人は40年頃結婚する。ジャン=ルイ・バローは10歳年下だった。
 マドレーヌ・ルノーは、舞台では古典劇の模範的女優といわれたが、新しい演劇を求めて1946年にコメディー・フランセーズを夫とともに退団。ルノー=バロー劇団を結成して『ハムレット』を旗上げ公演した。59年9月、夫とともにテアトル・ド・フランスの座長となり、以来オデオン座を主な活動の場として演劇全般の向上に力を注いだ。
 1968年、五月革命の学生たちに劇場の占拠を許したことで、オデオン座を追われ、エリゼ・モンマルトル劇場、オルセー駅構内の仮小屋など転々としたのち、1981年、ロン・ポワン劇場に落着いた。
 ルノー=バロー劇団は1960年、1977年、1979年の3度、来日公演をしている。
 1994年、夫ジャン=ルイ・バローを亡くした8ヶ月後の9月23日に、パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌで死去。享年94歳。

 上記以外の主な出演映画:『母の手』(33)、『不思議なヴィクトル氏』(38)『高原の情熱』(42)『この空は君のもの』(44)(以上3作はジャン・グレミヨン監督作品)、『史上最大の作戦』(米 62)。

ブリギッテ・ヘルム Brigitte Helm

2015-10-02 | 女優


 ジャン・ギャバンが映画で初めて共演した大スター女優はドイツ人のブリギッテ・ヘルムであった。フランス語読みはブリジット・エルム。『グロリア』(1930)のフランス語版(主役のブリギッテ・ヘルムは代役を使わずに出演)で初共演し、『ヴァレンシアの星』『さらば美しき日々』(1933)でも共演している。ギャバンと3度も共演したほどであるから、二人は恋愛関係にあったのではないかと思われるが、確証はない。「ジャン・ギャバン」の著者アンドレ・ブリュヌランも彼女との間に「恋愛感情の交流がなかったはずはない」と書いている。
 ブリギッテ・ヘルムは、1906年3月17日、ベルリンで生まれた。本名ブリギッテ・エーファ・ギゼラ・シッテンヘルム。中学卒業後、学生劇に参加している時、フリッツ・ラング監督の目にとまり、27年サイレント映画の大作『メトロポリス』のマリア役(アンドロイドとの二役)で鮮烈に映画デビュー。石膏像のような端正な美貌と妖艶な肢体が注目され、21歳の若さでたちまちドイツのナンバーワン女優になった。トーキーになっても活躍を続け、デビュー後8年間で約30本の映画に出演。35年実業家フーゴ・タンハイムとの再婚を機に引退。以後スイスに住み、映画界からの誘いや取材を一切拒み続けた。1996年6月11日、スイスで死去(90歳)。
 主な出演作:『世界の果て』『ジャーネ・ネイの愛』(27)『邪道』『バーデン・バーデンのスキャンダル』(28)『悪魔の寵児』(29)『南の哀愁』『グロリア』(30)『愛国者』(31) 『アトランティッド』(32)『マラソンの走者』『アランフェスの美しき日々』(33)『ゴールド』『島』『コスモポリス』(34)『理想の良人』(35)


ギャバン出演映画リストについて

2015-10-02 | ギャバン出演映画リスト
 このリストを作成するにあたり、以下の著書、インターネットの資料を参照した。
「ジャン・ギャバン」(アンドレ・ブリュヌラン著 清水馨訳 時事通信社) 日本語版巻末のジャン・ギャバン出演映画作品リスト
「シネアルバム62 ジャン・ギャバン 粋でタフなパリ野郎」(責任編集:林冬子 芳賀書店)
「わがジャン・ギャバン」(英知出版)
 インターネット フランス語版ウィキペディア
 インターネット・ムーヴィー・データベース(IMDb)
 インターネット Ciné-Ressources―Fishes Personnalité
 インターネット ユニフランス・フィルムズ(uniFrance films)
 インターネット Movie Walker
 インターネット allcinema(Movie&DVD Database)

 ジャン・ギャバンが出演した映画は、初期の短篇喜劇映画2本を含めないと、全部で95本ある。第二次大戦でギャバンがフランス軍に入隊していた時期で区切ると、戦前が33本、戦後が62本である。ただし、戦前最後の2本はギャバンが米国滞在中に出演したハリウッド製の映画であった。そしてこの2本だけがアメリカ映画で、ほかの93本はすべてフランス映画である。
 この95本の映画のうち、ギャバンの生前、日本で公開された映画は半数に満たない45本である(『ナポレオン』はギャバンの出演シーンがカットされていたので除く)。日本で太平洋戦争前(約5年間)に公開された映画はわずか9本で、ギャバンが映画デビーしてから出演した14本は未公開であった。また、『望郷』以降に作られた戦前作品10本のうち公開されたのは『珊瑚礁』の1本だけで、あとの9本は未公開のままだった。『愛慾』『大いなる幻影』『霧の波止場』『獣人』は戦後(1948年から1950年)公開されている。この4本も含め、また戦中に作られたハリウッド映画2本を加えると、戦後(47年~75年)日本で公開されたギャバンの出演作は36本である。戦後作られた映画62本のうち30本が公開され、半数以上の32本が未公開に終ったわけである。
 ギャバンが亡くなったのは1976年11月15日であるが、日本では未公開だった映画が死後10年後に1本(『サン・フィアクル殺人事件』)、20年後にもう1本(『冬の猿』)追悼上映されている。つまり、日本の映画館のスクリーンで上映された映画は全部で47本ということになる。
 ギャバンの死後、ギャバンの映画は映画館ではほとんど見られなくなった。しかし、テレビで放映されたり(この時私はずいぶんビデオに録画した)、数多くの映画がビデオ化されたので(私はずいぶん買った)、ギャバン・ファンないしはギャバンの出演したフランス映画の愛好者は、自分の家のテレビの画面で彼の映画を鑑賞してきたわけである。そして、近年DVD(フランス版も含め)が一般化し、現在ではインターネットのYou Tube(日本語字幕はない)で日本では未公開だった映画、ソフト化されていない珍しい映画が見られるという時代になった。また、インターネットのおかげで、フランスで作成されたホーム・ページなどもパソコン上で見たり、読んだりすることができるようになった。ただし、フランス版DVDやYou Tubeは、日本語字幕がないので、ある程度フランス語のリスニングができないと鑑賞できず、またインターネットの資料や記事もフランス語が読めなければ参考材料にはならない。私は20代後半から30代半ばくらいまでフランス語を勉強したことがあり、25年ほど怠けていたのだが、最近、フランス映画に接することが増え、フランス語を勉強し直そうと思い始めている。
 この半年間で私はギャバン出演映画を55本見たが、以前見てもう一度見直した映画が24本で、初めて見た映画が31本もあった。同じ映画で2度、3度と見たものも20本以上あるので、100回以上はギャバンの映画を見たことになるだろう。ギャバンの出演していないフランス映画も折に触れて見ているので、かなりフランス映画漬けになっている。あと20本ほど未見の映画を見れば、現在見ることのできるギャバンの出演映画は全部見たことになるので、今後も見続けようと思っている。残念ながら恐らくもう永久に見られない映画が20本ほどあるようだが、これは仕方があるまい。
 
 ギャバンは映画俳優となって本格的に映画デビューする前に、短篇喜劇映画に2本出演している。そのデータを掲げ、ギャバン自身のコメントを引用しておこう。

 
①リレットの遺産 L'héritage de Lilette
 1929年or1930年 黒白 短篇
〔監督〕不明(?ミシェル・デュ・ラック)
〔ギャバンの役〕不明
〔共演〕レイモン・ダンディ(主役)
〔封切〕1930年(?)
〔日本公開〕不明
〔ソフト〕なし
〔注〕別題 Ohé! Les valises(旅行かばん)。ゴーモン社製作の無声映画か?


②調教師を求む On demande un dompteur
 1929年or1930年 黒白 短篇(210メートル)
〔監督〕不明(?ミシェル・デュ・ラック)
〔ギャバンの役〕浮浪者
〔共演〕レイモン・ダンディ(主役)
〔封切〕1930年
〔日本公開〕不明
〔ソフト〕なし
〔注〕別題 Les lions(ライオン)。ゴーモン社のスタジオで無声で撮影され、あとでパラマウント社のスタジオで音入れされたようだ。


――1928年から29年の初めにかけて、ささやかながら映画の仕事を引き受けたことがある。ムーラン・ルージュでの相棒だったダンディとの共演だった。詳しいことは忘れてしまったが、とにかくゴーモンのスタジオへ行き、短編を2本続けて撮った。ダンディと私が、なぜか“例の持ち物”と呼んでいた『リレットの遺産』という作品。それからムーラン・ルージュでやった『もしもし、こちらパリ』というショーの中の寸劇『ライオンと調教師』の、今で言えば映画化だった。ダンディと私の役は浮浪者。『調教師を求む』という貼り紙のある猛獣小屋の前で足を止める。何人かの屈強な男たちがやってきては中に入り、そのたびに猛獣の咆哮が聞こえて、入った男たちが担架に乗せられて出てくる。身長わずか1メートル50。私の肩までしかないダンディが中に入る。すごい叫び声が聞こえてから彼が『ライオンを求む』と書いたプラカードを持って意気揚々と出てくる。と、まあこんなギャグなのだが、結構面白かった。この2本の映画が一般に上映されたかどうかは定かではないし、恐らくもうどこにも存在していないに違いない。(ジャン・ギャバン アンドレ・ブリュヌラン著「ジャン・ギャバン」より清水馨・訳)