広瀬橋(仙台の広瀬川にかかる橋)は、江戸時代は「永町橋(ながまちばし)」と呼ばれ、
奥州街道の仙台の入口にあたる重要な橋とされていました。その「礎石」が残されています。


真ん中に穴があいています。直径42cm~柱の直径ですね。

プレートが隠れるように立てかけられています。「旧永町橋の礎石」と書かれています。


大きなイチョウの木の下に1個、置かれています。

今の季節、黄色い葉をつけたイチョウの木はとても目立っています。

また、ここに小さな祠があります。橋姫明神です。

”橋姫伝説・・・藩政時代、この地に初めて永町橋(今の広瀬橋)を架けることになったが、長雨続きで広瀬川は氾濫し、橋を架けようにも架けられない状態であった。これは竜神様のお怒りに違いないとして、誰言うことなく信心深い若い娘を人柱にしないと橋は架けられないと噂が広まった。そのとき、長町根岸(百代の里)の長者の一人娘が「私が参ります」と申し出た。娘は儀式に従って十八夜観音堂に籠って断食をした後、川べりの木箱に入り埋められた。祈りの声と鉦の音はしばらく続いたが、やがてそれも消えるように途絶えた。すると川に光が射し、大水は見る見る間に引いて、無事に橋を架けることができた。娘は橋姫として、今も地元で供養が行われている。”
・・・・悲しいお話です。冥福を祈り、感謝の気持ちで拝みました。
”橋供養の石碑は、長町の伝説である橋姫を供養するために、現在の根岸町にあった木場に働く木場連の人々が、藩政時代の文政6年(1823)建立したものと伝えられる。その後、広瀬橋たもとでそば屋を営業していた南部家で石碑と橋姫祠を預かり、長い間祭祠を執り行ってきた。都市計画道路によって南部家も移転を余儀なくされ、昭和57年(1982)に南部家では仙台市に橋姫明神と橋供養碑、及び永町橋の礎石を寄贈した”
と、石碑に記されています。
なお、現在の広瀬橋は昭和34年に作られたものです。橋の上方に「日本最初の鉄筋コンクリートの橋」と表示されていますが、それは明治42年のこと。そんな昔に頑丈な橋が作られていたんですね。