丹波の村寺 浄土真宗 竹内山 真證寺

京都府亀岡市曽我部町にある真宗寺院。
アクセス 亀岡駅から学園大行きバス10分、南条局前下車、徒歩3分。

念仏瞑想の試み(1)

2017-09-22 21:24:23 | 行事
この度、当方で「念仏瞑想」を開催します。
念とは、「今の心に、気づくこと」(サティ)であり、
仏とは、宇宙に働く調和作用や浄化作用であり、阿弥陀(アミタユース)
の働きのことです。つまり、念仏に合わせて、呼吸をし、それによって、
自分の心身が調和を取り戻し、浄化される実践です。
 具体的な方法は以下に書きますので、興味のある方は、
実践なさってみてください。


念仏瞑想資料(1)
作成:京都亀岡市真證寺 ・解説: アミタユースとは、宇宙に偏在するすべてのものを浄化する働き です。多すぎるものは減らし、足らないものは増やします。偏った場合は、
ちょうどいいところ(中道)に戻します。常に働く、調和の働きを阿弥陀(ア ミタユース)と言います。ケガをしても、いつのまにか治ってしまいます。 これは、薬の働きでなく、根本的に体に備わった自然治癒力のおかげです。 このような、無意識に働いている「大いなる宇宙に働く浄化の働きを、いの ちと言い、アミタユースとも言うと考えてください」。
・念仏瞑想の内容と方法 内容:浄化する働き(アミタユース)を今、この時に心身で感じる呼吸瞑想法
方法)
1.アミタユースとは浄化し調和させる働きであると、呼吸しながら感じます。具体的には、念仏に合わせて呼吸します。(念仏呼吸観察) 呼吸と念仏は、「なーまーん(吸う)だーぶーーー(吐く)ーーーー(止まる)」で、それぞれの長さは、おおよそ (ナーマーン(4拍)ーダーブーーー(6拍)ー止まる(4−6拍)のような長さになります。呼吸の速度は、ご自分の楽な速さで行います。呼吸をコントロールするのでなく、体が行う呼吸に任せます。坐相は寝て・座ってのどちらかで行います。意識は、呼吸に合わせて、調和させる働きが体を通って浄化してくれると意識する。
2.体の各部分に沿って、呼吸するつもりです。(念仏観察瞑想) 腕(肩ー肘ー手首ー手の甲ー手のひらー指)ー足ー腰ー背中下ー背中上ー腹ーむねー顔ー頭ー全身 各部分に息を吸い込み・吐くつもりで呼吸します。呼吸するたびに、その部分が深くリラックスしていきます。その部位を移動させ、全身がリラックスした呼吸をするようになります。同時に、体や心がどんな感じがするか観察してください。
3.途中で、リンがなります。その時には、「今、ここでしている呼吸」に 意識を戻します。(雑念から戻って、呼吸していることに気づく)
4.リン3打が打たれたら、終了します。手足や体をマッサージしてから、寝禅の場合は坐相に戻ってください。

・注意事項:
1)時間は約30分間です。最初は、聞こえてくる念仏に合わせて、呼吸してくださ
い。導師の念仏が止まったら、ご自分で念仏をイメージして、やりやすい速さで呼吸しま す。
長さは、ナーマーンよりダーブーーーが長くします。また、次の念仏までに、呼吸の間 (息が止まる)が起こることがあります。1回念仏呼吸をし息を吐き切ったら、次の念仏 呼吸が開始するまで、自然に待ってください。
2)楽に呼吸できているか、常に心と体を観察してください。(集中しすぎないこと)
3)途中で自然に体を動かしたくなったら、自由自在に動きたいように、動かします。

・姿勢は一番楽な姿勢である寝転んで行います。 これを寝禅(しんぜん)、仰臥禅(ぎょうがぜん)と言います。
・日常でもこの方法を応用すると、食事禅・歩行禅・仰臥禅・座禅となります。
・参考:この方法は真證寺で開発中の瞑想法ですが、近年研究が進んでいるマインドフル ネス瞑想法や釈迦如来が行った集中瞑想(サマーディ)、また、初めて悟りを得たといわ れる(初転法輪)方法である観察瞑想(ヴィッパサーナ)元にしたものです。 ・瞑想中に、不調やご気分が良くないと感じられた場合は、指導者にお伝えください。
<阿弥陀如来とは>
仏教における如来の一尊。浄土真宗においては本尊である。また密教においては五智如来の一 で、西方に配置される。唯識思想では、この如来が司るのは「妙観察智」であり、絶対的客観の 立場から世界を正しく観察する存在だとされている。 サンスクリット語では「アミターバ」あるいは「アミタユース」とされ、アミターバは「無限の 光」、アミタユースは「無限の寿命」を意味する。古代インドに起源を持ち、主に北インドで盛 んに信仰されていたと考えられる。

秋彼岸会のお知らせ

2017-09-05 17:50:52 | 行事
日時 平成29年9月24日(日)

午後7時から真證寺本堂にて
読経・お月見会
今年も、お茶と和菓子のもてなしがあります
*法要の後、念仏瞑想会(自由参加)を行います。どなたでも参加できます。瞑想会のみの参加も可能です。
お問い合わ先 真證寺 電話・ファックス 0771-22-4631 
http://www.asahi-net.or.jp/~NM7Y-TKUC/tera/tera.html

仏教における形式と実践について

2017-01-17 05:57:27 | 日記
大乗仏教に多く見られる、儀式重視の仏教。上座部に見られる、実践
重視の仏教。どちらが良いのかは、これまでも先学達が多く論じ、
また実践をされてきたであろうから、ここで改めて書く必要はないのかもしれない。
 しかし、布教の現場では、儀式の型ばかりを強調する場面や、また無駄に(?)
過酷な肉体的な実践を修行として行う場面に出会うことも多く、そのどちらもが
適切な仏道実践とは思えないことがある。
 釈迦が初転法輪で悟ったとされる内容を、理論として知識的に理解しても
それは知識であり、智慧とはならない。実践してはじめて、意味を発するのであろう。
 では、日本仏教における型や儀式は意味を持たないのであろうか?
 個人的な経験であるが、最近、仲の良いご夫婦であった方が、ご主人を
亡くされた。その還骨法要の折にお伝えしたのは、「毎日仏壇のお花・ロウソク・お香を
取り替え、御仏飯を新しく供え、短い読経をしてください」ということであった。
 その老婦人は、このアドバイスに従って、毎日の自ら行う法要によって、
亡き夫と、「改めて会話をすることができたように思えて、心が落ち着いて
行きました」と申されたことがある。また、重い病に起こされたご婦人が、
私財を多く使って、本堂の仏具の多くを新調してくださったことがある。
その後、そのご婦人は亡くなられたが、その時に「これで心が落ち着いて、
感謝する気持ちになりました。」とおっしゃった。これは、
喜捨による慈悲の喚起と捉えていいだろう。
 一方、長年に亘り仏教と自認して生活しながら、真実の救いがどんなものか
わからないまま苦しむ方々も多い。
 儀式や型が不要なのか?実践が重要なのか?
 これは、医学における医師と患者の関係に似ている。
 医師がいくら優れた治療方を知っていても、それを患者に施術しない
限り、治療としては意味を持たない。問題は、医学的理論ではなく患者の
体の状況である。 同様に宗教が”心”の問題を扱うとするなら、問題は
その仏教徒である方々の各々の”心”の状況がどうなっているかである。
 患者の体調によって治療方を変えない医師はいないように、僧侶や仏教徒も
また、相対する方の”心”の状況が見えていること、それに合わせた対応を
することが必要なのである。
 これは当たり前のことであるが、現実の布教の現場では、教団や
宗派の力が強く働いて、個人の心の状況が「置いてけぼり」になったり
していることも散見される。
 ティクナット・ハンが「 one Buddha is not enough」と述べられて
いるが、「それぞれがブッダと同じ道(方法ではなく)を歩み、目覚めること
につながれば良い」、と思うことであります。

葬儀や告別式の形と意義

2017-01-16 22:17:04 | 日記
親鸞は、自らの肉体は「閉眼せば、賀茂川に入れて魚に与うべし」と仰られました。そして、真宗教団では各派各々の立派な差定を持っていて、それを執り行うことで、優れた儀式と言われます。人間の持つ煩悩や渇愛が苦の因でありますから、そのサンカーラ(苦の継続でいいのかな?)を断ち切れればいい訳です。儀式に意味があるのか?しない事に意味があるのか?親鸞の信仰のテーマは「無我の追求」であると考える私にとって、親鸞のように「死んだら、水葬か鳥葬にして」欲しいと言い遺したいですし、遺族となるもの達は、「立派なお葬式」を上げてやりたいと、望むでしょう。(「無自我という事実が存在する」ワールポラ・ラーフラ著「ブッダが説いたこと」より:) 多くの場合、葬儀や告別式は、基本的に残された者の”癒し”としての意味をもち、その方法や内容が遺族それぞれや亡き人の意思と合致したり、しない事に気付かされる時に、自我(我が身の煩悩)が見えてきて、その反省から”無為な欲望”に気づいていただければ、儀式を通じてダルマに触れていただけるのです。 今日も、大雪の中でのお通夜から帰ったばかりで、まとまってなくて、すみません。

禅とマインドフルネスと上座部仏教の違い

2016-12-27 16:03:47 | 日記
釈尊は、四つの真実(四諦諦)を熟知し、八正道を実践すれば、一切の苦しみから解脱できると説かれた。
 八正道とは、ブッダがといた理想の境地に達するための八つの道で、
3つの部分(・道徳を守る・・集中力を高める・・・自己観察をし慈愛の心を育む)からなります。その第七の正念は今ここに生きている、ありのままの姿に気づくことができるという教えで、「幸せに気づく方法であり」、西洋にもたらされマインドフルネスという。第八は正定:「今、ここで」の気づきの継続(集中力)。サマーディ瞑想といい座禅による「呼吸の観察」によって行う。
第二が正思惟:雑念が起きたら、呼吸に気づき、自分にもどることで、マインドフルネスのプラクティスでも効果的に使われる。
 第一は正見:知恵や洞察力を得る(ヴィパッサナー瞑想)で、「全身の感覚をや心を心静かに、冷静に観察する」。すべては移り変わる(無常・アニッチャ)と気づき(サティ・目覚め)、無我に至り、自我を手放す。ここが、禅宗と上座部仏教の違いなんです。そして、慈愛の心を育む慈悲(メッタ)の瞑想で生きとし生けるものの幸せを祈ります。