シードン23

クモ、コウモリ、ネズミ……我が家の居候たち。こっちがお邪魔か? うるさい! いま本読んでるんだから静かに!

平和へと送るパス

2024-09-15 13:30:54 | 文化
 「高校時代、国語教科書で読んだ作品で印象に残っているのは?」——そう問われたなら何と答えるだろう?
 『AERA』誌は2020年にネットアンケートを実施して記事にしている。*1
 結果は、「山月記」「こころ」「舞姫」「檸檬」「羅生門」と文学作品が並んだ。*2

 中東ガザ地区では、イスラエル軍によるパレスチナの人々への無差別の攻撃が止むことなく続いている。
 いつ空爆に襲われるとも知れない環境下で、文学に親しむことは難しい。まして「書く」ことは無謀に違いあるまい。
 今のガザでの地獄のような生活を想像するとき、「文学に何ができるか?」と問われれば、「何も」とつぶやかざるを得ない——しかし今のガザでは、その「文学」を、「国連」や「政治家」に置き換えたところで、答えは同じかも知れない。

 高校の「国語科」では、2022年度実施の新学習指導要領から、「論理的な文章」や「実用的な文章」(契約書や取説)が幅を効かせることになり、「文学は好きな者が選べば良い」という路線が敷かれてしまった。
 現代日本では、科学やAIや経済に比べれば文学はモノの数ではない、という結論になったのだろうか? 人文系学部を潰しにかかった政治家の妄執(アベ-スガ)の亡霊のせいかもしれない。
 文学は今、教育を仕切る行政によって、歴史上初めて「味噌っカス」の席を与えらることになった。——それは妥当な方策なのだろうか?

 アメリカ在住のパレスチナ詩人ゼイナ・アッザームがガザをテーマにした詩を昨年発表した。
 ガザのまだ年端のいかない子を詩にした事情について彼女はこう語っている。

 ——子どもが殺された場合に身元がわかるように、足にその子の名前を書いておく親がガザにいることを知って驚き、十月、詩を書くことにしました。ガザの少年が足に自分の名前を書いているビデオも観ました。「バラバラになっても僕だとわかるように書いてるんだ」……そのことばを悲鳴のように聴きました。*3

 その詩の一部をメモしておこう。*4


   おなまえかいて

  あしにおなまえかいて、ママ
  くろいゆせいの マーカーペンで
  ぬれても にじまず
  ねつでも とけない
  インクでね


   ……(中略)……

  あしに おなまえかいて、ママ
  すうじはぜったい かかないで
  うまれたひや じゅうしょなんて いい
  あたしはばんごうになりたくない
  あたし かずじゃない おなまえがあるの
  あしに おなまえかいて、ママ
  ばくだんが うちに おちてきて
  たてものがくずれて からだじゅう ほねがくだけても
  あたしたちのこと あしがしょうげんしてくれる
  にげばなんて どこにもなかったって


 文学にはなるほど国際政治の力学を左右する力はないのかもしれない。
 しかし、私たちの魂を玉突きして揺さぶることはできる。

 高校国語の新必修科目は「現代の国語」と「言語文化」の2科目。
 選択科目には「論理国語」と「文学国語」もあり、近代文学作品が並んだ「文学国語」(4単位)も選べるはずだが、大学入試と関連深い「論理国語」も4単位なので、両方を選べる生徒はあまりいない。他教科との衝突が避けられなくなるからだ。
 必修科目「現代の国語」を、生徒たちは「げんこく」と呼んでいるそうだが、これはかつての「現代国語」と同じ呼び名である。しかし中身はまるで違ってしまった。「現代の国語」には文学作品は入ってこないからだ。*5 
 もうひとつの必修科目「言語文化」の方は、生徒たちから「げんぶん」と呼ばれているそうだが、この呼び名、かつての「現代文」(近現代の小説・評論等を載せていた選択科目)と同じである。しかし同じ「げんぶん」でも「言語文化」の方は、漢字混じりの方の名から想像できるように、古典と現代文のミックスで、しかも古文・漢文が中心。それに近現代の詩歌と伝統文化に関する解説文がちょっとだけ加わわってはいるが、近現代小説はひとつも載ってはいない。
 「言語文化」もかつての「げんぶん」とはまったく違う内容なのである。

 人文系学部を毛嫌いしたあの安倍アベくんの路線*6 、そして4年前、菅スガ首相が、日本学術会議の会員候補6人(いずれも人文系)を任命拒否した恐怖政治のような手法、それらの延長上に、「文学なんてやったって就職できないぜ」という世評の後押しもあって、こういう「歪んだ改革」の時代を迎えることになってしまったのであろう。

 作家・又吉直樹氏は、「絶対そうだ」という決めつけを留保し、「それは本当か?」と問うことによって視点を増やし、立体的に問題を把握する大切さを、教科書「現代の国語」掲載の文章の中で説いていた。*7 小説を代表とした読書のススメであり、偏狭な選択しかできない政治家たちへの戒めのようにも読めた。
 思想家・内田樹氏の、人間のやっている「仕事」の本質は「多彩で予測不能の攻撃の起点となるような絶妙の『パス』を『次のプレーヤー』の足もとに送り込むこと」だという文*8 も、その教科書には載っていて、ハッとさせられた。

 ガザの子に材を取った、ゼイナ・アッザームの「おなまえかいて」は、まさにその「絶妙なパス」であると思い当たったからだ。

 ——その絶妙パスを足もとに受けて、すぐそこにいるはずの次のプレーヤーに、いったいどんなパスを送ればよいか、考えた挙句の、この拙いパスなのである。

*1 AERA dot. 2020/01/11 記事「大論争・心に残る作品2位『こころ』は高校教科書でもう読めない!?」(『AERA』誌2020年1月13日号)
*2 これらが並んだのには、裏事情が絡んでいる。高校国語教科書は、出版各社がそれぞれ複数種出しており、それら全てにほぼ共通して採用されている教材はかなり限られている。これらの文学作品はそういう「定番教材」の筆頭格なのである。1年で「羅生門」(芥川)、2年で「山月記」(中島敦)「こころ」(漱石)、3年で「檸檬」(梶井)「舞姫」(鴎外)というのが、学習順の典型。従ってこれら5作品が「ベスト5」を占めたのは、偶然ではなく「必然」。文学をありがたがる裏付け資料としてはやや心許ない。但し、私の教職経験においても、高校生が現代文教材として歓迎するのは評論より小説であり、「印象に残った」と答えるのも小説が多かったから、この週刊誌記事も「ガセ」とは言えないと思う。
*3 拙訳。原文は”I wrote a poem at the end of October when I learned that some parents in Gaza were writing their children’s names on their legs so they could be identified should the parents or the children be killed. I recently saw a video of a little boy in Gaza who was writing his own name on his leg. “So l can be identified” he cried. It was truly heartbreaking as a parent and as a grandparent. I am so heartbroken. The poem is titled “Write My Name” and it’s in the voice of a child from Gaza.”
*4 詩の訳は、原口昇平。『現代詩手帖』2024年5月号「特集:パレスチナ詩アンソロジー」より。
*5 新指導要領スタート年の教科書検定では、「文学的な文章は除く」と文科省解説に示されたいたにもかかわらず、「羅生門」など5つの文学作品を載せた第一学習社の教科書がなぜか検定を通り、他社を抑えてシェアトップとなったが、2024年版第一学習社「現代の国語」の教科書(4種ある)のいずれにも文学作品は載っていない。
*6 2015年6月、下村文科相は各大学に対して「教員養成系や人文社会科学系の学部の廃止・転換を含めた組織見直し」の通知を発出した。(当時の首相は安倍晋三)
*7 第一学習社「標準 現代の国語」に掲載。又吉直樹「なぜ本を読むのか」(出典:『夜を乗り越える』小学館よしもと新書 2016)。
*8 掲載教科書は同上。内田樹「人はなぜ仕事をするのか」(出典:『期間限定の思想 「おじさん」的思考2』晶文社 2002)

地図が開く世界

2019-02-03 22:01:56 | 文化
子どものころから地図を見るのが好きだった。地図を眺めていると、想像が膨らんで夢の世界を歩くことができた。幸せだった。

 夏休みの自由研究で地図を作ったこともあった。
 生駒山を望む大阪郊外の田舎町に移り住んで間もなくのころだったと思う。南は見渡す限りの田んぼで、島のように藁葺き屋根の農家もあった。北側は町の中心方向で、住宅地だったが、家はまだまばらで平屋も多かった。そんな中ポツリポツリ転勤族のためのコンクリート製の社宅が建ち始めていた。そのうちの一棟の2階の角が我が家だった。小学校まで歩いて5分ほど。校門の前には、平屋瓦葺きの駄菓子屋兼文房具屋があって、おばあさんが店番をしていた。
 家にあった大きい四角い紙箱の蓋側を使った。その内側を地面に見立て、道を描き、川を塗り、割り箸を切って作った建物を糊付けしていった。普通の家の上には瓦の色を塗った紙を折って屋根型にして貼り付けた。——今でいう「ジオラマ」である。
 それを作るために自転車で周囲を走り回って「調査」を重ねた。建物の位置や形・大きさ、屋根の色などをである。我が家のあった社宅を中心に、小学校の校舎の割り箸は右上の方に貼り付けて赤い紙屋根を付けた。
 普通の地図とは違って、その自作地図では南が上になっていた。どこにも文字は書いてないので、どっちが上でも構わないのだが、私の中では、地図の上の小学校は右上だったから、その向きが「正位置」だった。それは我が家の南向きの窓からいつも外を眺めていたからだろうと思う。小学校は南西の向きだったので、自作地図でも右上の角。

 画面表示マップの走りはカーナビだった。
 我が家に導入されたのは2002年。買い替えた車(中古ミニバン)に付いていた。
 車を運転しながら地図を繰るのは至難の技だったが、それが一挙に解消。感激だった。
 その後「グーグルマップ」に初めて触れたときにもビックリした。その詳しさ、自由度にである。
 日本地図ではグーグルは「ゼンリン住宅地図」を買い取って使ったという話だから、ベースにあったのは国産アナログ地図。——だが、そんな詳細地図はほとんど見たことがなかったから、そこまで詳しくタダで見せてくることに感激した。

 ウェブマップはポイントをまず指定することから始まる。そのポイントから押し広げていくように世界は広がっていく。アナログ地図はまず開くところから始まる。広げたところでおもむろにポイントを探し始める。何が違うか? 別の世界観が生まれそうではないか。
 面的な広がりのどこかにポイントがあると捉えるのがアナログ地図の世界観、常に「全体」が前提にある。探すポイントはその全体布置の中のある部分に存在する。
 それに対して注目ポイントの集積のように世界を捉えるのがウェブマップの世界、面はポイントを起点にしてその周辺に広がっていく。
 樹の中に花を探すのがアナログ地図、花の背後の樹を少しずつ覗くのがウェブマップ。
 アナログでは樹の中の見覚えのある小枝や花を手掛かりに目的の花を絞りこんでいく。分節化され構造化された面がまずあって、その分節化された構造の中で狙いの花の位置を見定めていく。
 ところがウェブマップでは、世界の構造はしばらくは不明だ。ポイントを中心とした構造がマップを押し拡げるに従って徐々に見えてくる。広げ方が不十分だと、構造を捉え損なうかもしれない。川の中州か盆地の中かの区別もつかないことがある。
 アナログ地図を見比べて、そこに潜んでいる思想の違いを解読するような技*2 は、ウェブマップとの付き合いの中から生まれるのかどうか?

 松岡慧祐は従来の紙の地図を「見わたす地図」、グーグルマップを「導く地図」と呼んでいた*1 が、これは利用の仕方の違いを示したものだろう。
 ある地図会社の調査によれば、紙地図もパソコンのウェブマップもカーナビ地図も高齢者ほど利用率が高く、逆に若い人ほど利用率が高いのは、スマホのウェブマップだという。*3
 見開きB3サイズの分厚い地図帖を愛用している私のような「地図オタク」に言わせるなら、スマホの画面は狭すぎる。地図を眺めその場所を実際に移動する経験を積み重ねるほど空間認知が鍛えられると考えられるから、スマホ世代以降の若者は、空間認知が痩せて歪んでいることが推定されよう。(現に我が家のその世代は、パナマ運河の場所をつい最近まで知らなかった。)

 自分中心の狭い範囲の案内だけを期待するなら、地図に夢を見ることもないし、地図を見る楽しみもわかるまい。グーグルマップに馴染んでしまえば「周辺のジオラマを作ろう」など思いもよらないのではないか。
 私が最近買った手首を痛めそうなほど重く大きな地図帖を、我が家のスマホ世代は「ムダ」「ジャマ」としか認識していない。曰く「ググれば済む」——果たしてそうだろうか?

Here Comes the Sun!

2016-10-04 00:26:19 | 文化
 大学時代、飯田眞(精神医学・うつ病論)が「私が調子良いと患者も良くなって、患者が悪くなると、私も調子悪いんですよね」と呟くように語っていたのが思い出された。
 先日ここで紹介した木村敏(精神医学)と西村ユミ(看護学)との対談を読んでいてである。

 そこで木村は、しきりに「中動態」というギリシア語の「態」を援用して、西村の研究課題である患者と治療・看護者との関係を捉え直そうとしていた。ギリシア語の場合「能動態/中動態 」の区別から、「受動態」が生まれてきたということのようだが、医者や看護師が必ずしも「主体(主語)」として「能動」的に患者に対しているというよりも、自然にある状態に「なる」ような、状況の関数として治療の場に参与しているという視点を喚起しようとしてその語を持ち出してきたようにと思えた。

 英語を「する」言語、日本語を「なる」言語と対比して示したのは池上嘉彦(言語学)だったが、金谷武洋(言語学)は日本語を「『ある』言語」と呼んでいる。金谷によれば、文型で対比してみると、英語表現が「S−V−O」型を典型・標準とするのに対して、日本語は「(C)−V」なのである。日本語では「S」も「O」も必須ではない。主語を普遍的と考える生成文法など「普遍文法説」への正面きっての批判なのだが、なかなかの説得力である。金谷に言わせると「中動相(中動態)は印欧語における無主語文」なのである。
 つまり、木村の持ち出してきた「中動態」は、何も西欧の哲学や言語に詳しい木村のみの思いつきではなく、日本やアジアの言語話者なら誰もがよく知っている、無主語的な世界把握のことのようなのだ。
 
 言語の数からいうなら、英語のような「する」言語は少数派で、むしろ日本語のような「ある(なる)」言語の方が多数派だと言われている。それにそもそも英語も、古くは主語を必須としない言語で、ノルマンディー公に支配されてフランス語を強要されていた300年間(「ノルマン・コンクエスト」1066-1364)に、フランス語の影響を受けて大きな変化を遂げて、現在のような形になったというから、日本の鎌倉・室町時代以降という新しさだ。
 主語を必要としない「なる(ある)」言語的世界は地球上で普遍的な広がりを持っていたことになろう。
 
 そういえば、現代英語にも「中間態」と呼ばれる「態」があって、次のような文でよく知られている。

 This book sells well.(この本はよく売れてる)

 「神」の視点から、世の中を捉えるのが現代英語の特徴とされるが、それとは矛盾する、出来事中心の表現である。

 これと関連するが、日本語話者が英語を学び始めると、次のような表現に面食らうのが常だ。

 「ここはどこ?」→ Where am I ?

 “Where is here ?” とはならず、”Where am I ?” と "I" がしゃしゃり出てくるのは、"I" 中心というよりも、「私」も「彼」もすべての人間を眺め下ろす「神」の視点が世界把握の基本になっているからなのだ。
 ところが、そうではない世界把握の方が、実は普遍的だったということになると、日本でも英語を使わせたいと思っている「英語帝国主義」の手先どもは真っ青になることだろう。

 次によく知られた例だが、川端康成の名作『雪国』は、サイデンステッカー(E.G.Seidensticker)の英語訳で世界に知られたわけだが、その冒頭の英文は次のようになっていた。

 The train came out of the long tunnel into the snow country.
 (「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」)

 だが実は、これは誤訳に等しかろう。
 「誤訳」が厳しすぎるなら、英語話者に媚びた表現と言い直してもいい。
 川端の文には主語は欠けており、それはこの表現がどういう視点(世界把握)を基盤にしているかと密接な関わりがある。ーーだがもし、原文の視点を尊重し、次のように英訳してしまっていとしたら、川端が果たしてノーベル賞をもらえたかどうか、怪しいのかもしれない。

 Through the long border tunnel, there came the snow field.

 ここには、中動態とつながる表現が用いられている。現代英語でも文法家たちが説明に苦労する「出現文」と呼ばれる ”there came the snow field.” がそれである。よく出される例では ”Here comes the sun”(お天道さまだ!;ビートルズ・ナンバーにもある!)ーー古英語の名残と言われているようだが、「神」の視点に汚染されていない表現がここにはある。英語も古くは「する言語」ではなかったということだ。

 やや脱線気味になってしまったが、私たちも英語的(=現代英語的)な発想に感染して、日本語には普遍性がないかのような錯覚に陥っている傾きがあるが、実は、英語の主語中心主義、「する言語化」の方が特殊で、新参者に過ぎないのである。

 そして近年、医療の世界などで、出来事中心・状況中心の現場把握が見直されてきているのは、西欧の最新の流行でもあるのだが、それは同時に、日本(東洋)的な視点の再評価、いわば「第二のジャポニズム」とも呼ぶべき潮流なのであって、飯田眞がかつて語ったように、昔から私たち日本人が馴染んできた(だが、西欧では取り上げられることのなかった)視点なのである。
 その日本的な主語無用の視点にこそ、混迷の西洋式医学・看護を救うヒント(光明=sun!)があることに最近ようやく気付いたということなのだと思う。

病院の菩薩

2016-10-01 11:24:34 | 文化
 先日訪れた覚園寺(鎌倉)の本尊は立派な薬師如来(坐像)で、腹の前で合わせた両手に薬壷を載せていた。「薬師十二大願」のうち「除病安楽」(第七願)という現世利益が強調された薬師如来は日本では古くから人気で、多くの寺院で本尊となっている。薬師仏には通常、日光菩薩・月光菩薩が左右に配され、さらに四天王に守られ、十二神将が仕えて一揃いとなるのだが、覚園寺・薬師堂では、これらの仏像一式が一つの堂に収められている。寺院はかつて病院の役割も担ってきたのかもしれない。

 『摘便とお花見』というタイトルの本がある。(村上靖彦 医学書院 2013)
 「摘便(てきべん)」は、認知症だった私の母も時々やってもらった。頑固な便秘はパーキンソン症状のひとつなのだ。病気や運動不足などで腸が不活発なため直腸で固まってしまった便を指で掻き出す技術が「摘便」である。
 ある職業の人は、「摘便」に「萌え」を感じることがあるのだそうだ。ーーそう、看護師である。
 この本は、さまざまな現場での看護師たちのケアの営みを、彼女たち自身の語りを中心に記述したレポート集である。その第2章には、訪問看護の場で摘便とお花見が結びついたケースが取り上げられている。
 「摘便」は、厄介なケアとして取り上げられることもあるが、実は、看護師の中には、これが得意で「やらせて」という人も少なくないのだそうだ。確かに、岩のように出口をふさいでる塊を掻き出せば、やってもらった方だけではなく、やった方にも達成感があるのかもしれない。自身が頑固な便秘に苦しんだ経験があればなおさらかもしれない。
 
 「共感の言語」(金谷武洋)と言われる日本語をベースにした感性を身につけた看護師は、患者の病状や気持ちの変化に自然に気づき、自身の経験に依りつつ患者と呼応するようなケアの形が生まれてくる。直感的な共感の能力が、シンプルな《医療者/患者》関係を超えた、様々な機微を宿した看護実践に結実していく。その中で彼女ら看護師自身も自分の生き方を振り返り、新たな生き方を手探りしていく。そういう看護に関わるリアルで微妙な、お互いの人生そのものをたどる波形が、この本では素描され分析されていく。
 劣悪な労働環境で格闘している日本の看護師たちだが、実は病院は彼女らの共感能力によって支えられているのではないか。《医師ー患者》関係が《主体/対象》というゲルマン系的な関係に集約されてしまうのに対し、《看護師ー患者》の方はもっと平場に近い付き合いで、共感が重要な役割を果たす場を構成していて、病院では、その二つの関係が相補的に機能して、近代医療と日本的空間とを巧妙につないでいるのではないか。
 
 覚園寺の僧侶の案内によると「薬師仏が医師、日光・月光菩薩が看護師」なのだそうだが、真ん中で薬壷を抱く薬師如来は確かに医者のイメージに近く、一方、太陽の如く光を照らして苦しみの闇を消す日光菩薩、月の光のようなやさしい慈しみの心で煩悩を消す月光菩薩の方は、看護師を彷彿とさせると言えよう。
 
 薬師如来の左右の菩薩のように、医師の脇に、闇を照らす慈しみの光を放つ看護師がいなければ、病院は殺伐とした居心地の悪い空間になってしまうことだろう。
 日本で西欧近代医療の代名詞ともいうべき病院がこれほどまでに普及したのには、看護師の、日本的な共感の力による下支えが大きく作用していたと思う。

 『摘便とお花見』において村上は、看護師のサポートによって、患者がケアを受けるという受動的な状態から、自らの希望を実現する行為主体として、お花見(梅見)で家族へのおみやげを買って帰り、いわば「贈与する側」へと自らを反転させるという分析をしていた。しかも、それと並行して、看護師自身の変化ーー障害者であった妹の捉え方を反転させるという変化を抽出していた。
 「共感」と言えば、感情レベルのことと聞こえてしまうかもしれない。ここに捉えられた《看護師ー患者》関係は、《主体/対象》を超えた、この生き難い人生を、一緒にキャッチボールしながら共に生きようとする関係だと捉えることもできよう。日本の病院の菩薩は、単に一方的に光を投げかける存在ではなく、反照される光によって自身も揺らぎ輝く存在であることを、この村上のレポートは示してる。