樫尾直樹氏(社会学)が、「宮崎アニメは危険か?」という問を突きつけていた。
2010年、慶応大学での「宗教社会学」の講義の時間のことである。(※)
ーー『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』などですね。川筋の一本一本、葉っぱの一枚一枚に精霊が宿っているという考えが背景にある作品です。いいですよね、心が和みますよね。でも、実際にどうなのか? 私の見解は、前回お話しした通り、『危険だと見ることができる』というものです。では、皆さんがどう考えるのか。自由に議論してください。……
学生たちはグループに分かれて議論し、次いで発表の時間に入る。
「危険ではない」と結論づけた発表が続く。根拠としては「閉塞感に苛さいなまれる現代人が失いつつある暖かさを与えてくれるという、プラスの面がある」「教訓を与えるメッセージの方が強い」など。
だが「危険だ」という異論も男子学生から出された。
「サブリミナル効果に近いものがある」という。女子学生から反論が出る。「何が危険か分からない」「霊感商法のようなものがはびこる土壌を作りはしないか」「カルトは、アニミズムとは違う」……
「危険」というグループの発表もあった。
「近代的な考え方では、人間と自然が対等であるという考え方がされています。しかし宮崎アニメで描かれているのは、古代的自然。自然が人間を圧倒的な力で凌駕する。そういう力を持った、自然を司る神が多い」「人間ではない絶対的な存在に畏敬の念を感じすぎることによって、カルトなど、危険な宗教に入ってしまう可能性がある」……
次の時間(翌週?)には樫尾先生が、前回の議論の総括を行なっている。
——私の結論を言わせてもらうと、やはり「危険だ」ということになります。宮崎アニメは文化的に無防備な子供に霊的存在の実在性を刷り込む学習効果をもたらします。そして、カルトや霊感商法はがはびこる土壌を醸成することは否定できません。……皆さんの結論が悪いというわけではありません。ただ、なぜ自分たちがそういう結論の出し方をしたのか、その背景にある自分が持つ価値観とは何か。そういったことを自己認識していくことに、今回のディスカッションをつなげてもらいたいんです。
私も以前、宮崎アニメ批判は試みたことがあるので、馴染みのあるテーマだ。
宮崎駿の代表作『となりのトトロ』は1988年作品、ちょうど宮崎勤つとむの連続幼女殺害事件の頃である。これは偶然ではないのではないか、という切り口から私は考えたのだった。
明治維新以来、私たちは立派な「主体」にならねばならないという西欧近代からの要請に応えようとしてきた。「立身出世」「近代的自我」「自立した個人」といった理念がそれを表現してきた。だが、それら西欧モデルは、本家・西洋文明の行き詰まりによって色あせてきたのであった。
妖怪・怪獣は、人知を越えた存在であり人に対立する存在であることによってその機能を果たす。いわば「外部」である。「外部」を恐れる気持ちを体験し、その恐れを克服する過程をたどることによって私たちは自分自身を確かめてきたと考えることができる。
そういう機能をもってきたはずの怪獣・妖怪が、一方では、人間に近しい存在として描かれるようになってきた。(「オバQ」「ドラえもん」「トトロ」……) もちろん想像の世界のことだから、どんな怪獣が出て来ようとそれこそ自由なのだが、平和の中でどんな物語が展開するかが問題である。(「外部」の内部化)
妖怪が人間の味方として登場してくるという設定には、その妖怪のもつ「超能力」を人間が利用するというストーリーが随伴する。超能力によって危機を逃れ、ささやかな願いが叶うという「物語」がそこに出現する。
そういう「超能力によって日常的な問題が解決される」というストーリーに、私は「人知の衰弱」を感じてしまったのだった。(宮沢賢治ならこうは描きはしなかった!)
極めてリスキーなはずの未知のものとの出会いが、牧歌的に描かれてしまうことが実は問題なのではないか?
社会が「進歩」して安全かつ退屈なシステムを作ってきたこと(自動販売機化)に伴って、一人一人の個人がリスクを負ってコミュニケーションを図るチャンスはどんどん失われ、未知の領域に踏み出す際の手掛かりとなる〈伝説〉も衰退し、今や「直観的なマウス操作」によって、つまりは脳の延長に「取引」(付き合い)がくっ付いてくるようになってしまった。(ネットショッピング) 最後に残った自力で上るべき階梯は、恋愛及び結婚(異性との付き合い)であろう。それは私たちの〈本能〉をどう解発するかという重要な問題と裏腹の関係なので、非常にやっかいである。(「子育て」もだが)
〈異界〉との出会いを心の隅に留めながらも日常に戻ってきて、現実に立ち向かう勇気のようなものを、宮崎アニメはスポイルしてしまうのではないか。異界の中に没入する夢の中に予定調和的に達成されてしまう〈平和〉によって、私たちを自閉的で臆病な空間に閉じ込めてしまう危険があるのではないか。〈宮崎勤〉事件(「駿はやお」ではない!)は、時代がそういう自閉に落ち込もうとしているときに必然のように起こった事件ではなかったか?
宮崎アニメのジェンダー問題(反・男性性)に、多くの人が目をつぶってしまっていることが本質を見損なう原因のひとつと私には思える。樫尾氏の提起した問題の討論の中で、男子学生が「危険」と主張し、女子学生が「そんなことはない」と反論する図は、宮崎アニメの〈女性〉性、そしてそれの男子への侵襲性を示唆してはいないか?
※『マイケル・サンデルが誘う「日本の白熱教室」へようこそ』(SAPIO編集部編 小学館 2011)
2010年、慶応大学での「宗教社会学」の講義の時間のことである。(※)
ーー『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』などですね。川筋の一本一本、葉っぱの一枚一枚に精霊が宿っているという考えが背景にある作品です。いいですよね、心が和みますよね。でも、実際にどうなのか? 私の見解は、前回お話しした通り、『危険だと見ることができる』というものです。では、皆さんがどう考えるのか。自由に議論してください。……
学生たちはグループに分かれて議論し、次いで発表の時間に入る。
「危険ではない」と結論づけた発表が続く。根拠としては「閉塞感に苛さいなまれる現代人が失いつつある暖かさを与えてくれるという、プラスの面がある」「教訓を与えるメッセージの方が強い」など。
だが「危険だ」という異論も男子学生から出された。
「サブリミナル効果に近いものがある」という。女子学生から反論が出る。「何が危険か分からない」「霊感商法のようなものがはびこる土壌を作りはしないか」「カルトは、アニミズムとは違う」……
「危険」というグループの発表もあった。
「近代的な考え方では、人間と自然が対等であるという考え方がされています。しかし宮崎アニメで描かれているのは、古代的自然。自然が人間を圧倒的な力で凌駕する。そういう力を持った、自然を司る神が多い」「人間ではない絶対的な存在に畏敬の念を感じすぎることによって、カルトなど、危険な宗教に入ってしまう可能性がある」……
次の時間(翌週?)には樫尾先生が、前回の議論の総括を行なっている。
——私の結論を言わせてもらうと、やはり「危険だ」ということになります。宮崎アニメは文化的に無防備な子供に霊的存在の実在性を刷り込む学習効果をもたらします。そして、カルトや霊感商法はがはびこる土壌を醸成することは否定できません。……皆さんの結論が悪いというわけではありません。ただ、なぜ自分たちがそういう結論の出し方をしたのか、その背景にある自分が持つ価値観とは何か。そういったことを自己認識していくことに、今回のディスカッションをつなげてもらいたいんです。
私も以前、宮崎アニメ批判は試みたことがあるので、馴染みのあるテーマだ。
宮崎駿の代表作『となりのトトロ』は1988年作品、ちょうど宮崎勤つとむの連続幼女殺害事件の頃である。これは偶然ではないのではないか、という切り口から私は考えたのだった。
明治維新以来、私たちは立派な「主体」にならねばならないという西欧近代からの要請に応えようとしてきた。「立身出世」「近代的自我」「自立した個人」といった理念がそれを表現してきた。だが、それら西欧モデルは、本家・西洋文明の行き詰まりによって色あせてきたのであった。
妖怪・怪獣は、人知を越えた存在であり人に対立する存在であることによってその機能を果たす。いわば「外部」である。「外部」を恐れる気持ちを体験し、その恐れを克服する過程をたどることによって私たちは自分自身を確かめてきたと考えることができる。
そういう機能をもってきたはずの怪獣・妖怪が、一方では、人間に近しい存在として描かれるようになってきた。(「オバQ」「ドラえもん」「トトロ」……) もちろん想像の世界のことだから、どんな怪獣が出て来ようとそれこそ自由なのだが、平和の中でどんな物語が展開するかが問題である。(「外部」の内部化)
妖怪が人間の味方として登場してくるという設定には、その妖怪のもつ「超能力」を人間が利用するというストーリーが随伴する。超能力によって危機を逃れ、ささやかな願いが叶うという「物語」がそこに出現する。
そういう「超能力によって日常的な問題が解決される」というストーリーに、私は「人知の衰弱」を感じてしまったのだった。(宮沢賢治ならこうは描きはしなかった!)
極めてリスキーなはずの未知のものとの出会いが、牧歌的に描かれてしまうことが実は問題なのではないか?
社会が「進歩」して安全かつ退屈なシステムを作ってきたこと(自動販売機化)に伴って、一人一人の個人がリスクを負ってコミュニケーションを図るチャンスはどんどん失われ、未知の領域に踏み出す際の手掛かりとなる〈伝説〉も衰退し、今や「直観的なマウス操作」によって、つまりは脳の延長に「取引」(付き合い)がくっ付いてくるようになってしまった。(ネットショッピング) 最後に残った自力で上るべき階梯は、恋愛及び結婚(異性との付き合い)であろう。それは私たちの〈本能〉をどう解発するかという重要な問題と裏腹の関係なので、非常にやっかいである。(「子育て」もだが)
〈異界〉との出会いを心の隅に留めながらも日常に戻ってきて、現実に立ち向かう勇気のようなものを、宮崎アニメはスポイルしてしまうのではないか。異界の中に没入する夢の中に予定調和的に達成されてしまう〈平和〉によって、私たちを自閉的で臆病な空間に閉じ込めてしまう危険があるのではないか。〈宮崎勤〉事件(「駿はやお」ではない!)は、時代がそういう自閉に落ち込もうとしているときに必然のように起こった事件ではなかったか?
宮崎アニメのジェンダー問題(反・男性性)に、多くの人が目をつぶってしまっていることが本質を見損なう原因のひとつと私には思える。樫尾氏の提起した問題の討論の中で、男子学生が「危険」と主張し、女子学生が「そんなことはない」と反論する図は、宮崎アニメの〈女性〉性、そしてそれの男子への侵襲性を示唆してはいないか?
※『マイケル・サンデルが誘う「日本の白熱教室」へようこそ』(SAPIO編集部編 小学館 2011)
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