子どものころから地図を見るのが好きだった。地図を眺めていると、想像が膨らんで夢の世界を歩くことができた。幸せだった。
夏休みの自由研究で地図を作ったこともあった。
生駒山を望む大阪郊外の田舎町に移り住んで間もなくのころだったと思う。南は見渡す限りの田んぼで、島のように藁葺き屋根の農家もあった。北側は町の中心方向で、住宅地だったが、家はまだまばらで平屋も多かった。そんな中ポツリポツリ転勤族のためのコンクリート製の社宅が建ち始めていた。そのうちの一棟の2階の角が我が家だった。小学校まで歩いて5分ほど。校門の前には、平屋瓦葺きの駄菓子屋兼文房具屋があって、おばあさんが店番をしていた。
家にあった大きい四角い紙箱の蓋側を使った。その内側を地面に見立て、道を描き、川を塗り、割り箸を切って作った建物を糊付けしていった。普通の家の上には瓦の色を塗った紙を折って屋根型にして貼り付けた。——今でいう「ジオラマ」である。
それを作るために自転車で周囲を走り回って「調査」を重ねた。建物の位置や形・大きさ、屋根の色などをである。我が家のあった社宅を中心に、小学校の校舎の割り箸は右上の方に貼り付けて赤い紙屋根を付けた。
普通の地図とは違って、その自作地図では南が上になっていた。どこにも文字は書いてないので、どっちが上でも構わないのだが、私の中では、地図の上の小学校は右上だったから、その向きが「正位置」だった。それは我が家の南向きの窓からいつも外を眺めていたからだろうと思う。小学校は南西の向きだったので、自作地図でも右上の角。
画面表示マップの走りはカーナビだった。
我が家に導入されたのは2002年。買い替えた車(中古ミニバン)に付いていた。
車を運転しながら地図を繰るのは至難の技だったが、それが一挙に解消。感激だった。
その後「グーグルマップ」に初めて触れたときにもビックリした。その詳しさ、自由度にである。
日本地図ではグーグルは「ゼンリン住宅地図」を買い取って使ったという話だから、ベースにあったのは国産アナログ地図。——だが、そんな詳細地図はほとんど見たことがなかったから、そこまで詳しくタダで見せてくることに感激した。
ウェブマップはポイントをまず指定することから始まる。そのポイントから押し広げていくように世界は広がっていく。アナログ地図はまず開くところから始まる。広げたところでおもむろにポイントを探し始める。何が違うか? 別の世界観が生まれそうではないか。
面的な広がりのどこかにポイントがあると捉えるのがアナログ地図の世界観、常に「全体」が前提にある。探すポイントはその全体布置の中のある部分に存在する。
それに対して注目ポイントの集積のように世界を捉えるのがウェブマップの世界、面はポイントを起点にしてその周辺に広がっていく。
樹の中に花を探すのがアナログ地図、花の背後の樹を少しずつ覗くのがウェブマップ。
アナログでは樹の中の見覚えのある小枝や花を手掛かりに目的の花を絞りこんでいく。分節化され構造化された面がまずあって、その分節化された構造の中で狙いの花の位置を見定めていく。
ところがウェブマップでは、世界の構造はしばらくは不明だ。ポイントを中心とした構造がマップを押し拡げるに従って徐々に見えてくる。広げ方が不十分だと、構造を捉え損なうかもしれない。川の中州か盆地の中かの区別もつかないことがある。
アナログ地図を見比べて、そこに潜んでいる思想の違いを解読するような技*2 は、ウェブマップとの付き合いの中から生まれるのかどうか?
松岡慧祐は従来の紙の地図を「見わたす地図」、グーグルマップを「導く地図」と呼んでいた*1 が、これは利用の仕方の違いを示したものだろう。
ある地図会社の調査によれば、紙地図もパソコンのウェブマップもカーナビ地図も高齢者ほど利用率が高く、逆に若い人ほど利用率が高いのは、スマホのウェブマップだという。*3
見開きB3サイズの分厚い地図帖を愛用している私のような「地図オタク」に言わせるなら、スマホの画面は狭すぎる。地図を眺めその場所を実際に移動する経験を積み重ねるほど空間認知が鍛えられると考えられるから、スマホ世代以降の若者は、空間認知が痩せて歪んでいることが推定されよう。(現に我が家のその世代は、パナマ運河の場所をつい最近まで知らなかった。)
自分中心の狭い範囲の案内だけを期待するなら、地図に夢を見ることもないし、地図を見る楽しみもわかるまい。グーグルマップに馴染んでしまえば「周辺のジオラマを作ろう」など思いもよらないのではないか。
私が最近買った手首を痛めそうなほど重く大きな地図帖を、我が家のスマホ世代は「ムダ」「ジャマ」としか認識していない。曰く「ググれば済む」——果たしてそうだろうか?
夏休みの自由研究で地図を作ったこともあった。
生駒山を望む大阪郊外の田舎町に移り住んで間もなくのころだったと思う。南は見渡す限りの田んぼで、島のように藁葺き屋根の農家もあった。北側は町の中心方向で、住宅地だったが、家はまだまばらで平屋も多かった。そんな中ポツリポツリ転勤族のためのコンクリート製の社宅が建ち始めていた。そのうちの一棟の2階の角が我が家だった。小学校まで歩いて5分ほど。校門の前には、平屋瓦葺きの駄菓子屋兼文房具屋があって、おばあさんが店番をしていた。
家にあった大きい四角い紙箱の蓋側を使った。その内側を地面に見立て、道を描き、川を塗り、割り箸を切って作った建物を糊付けしていった。普通の家の上には瓦の色を塗った紙を折って屋根型にして貼り付けた。——今でいう「ジオラマ」である。
それを作るために自転車で周囲を走り回って「調査」を重ねた。建物の位置や形・大きさ、屋根の色などをである。我が家のあった社宅を中心に、小学校の校舎の割り箸は右上の方に貼り付けて赤い紙屋根を付けた。
普通の地図とは違って、その自作地図では南が上になっていた。どこにも文字は書いてないので、どっちが上でも構わないのだが、私の中では、地図の上の小学校は右上だったから、その向きが「正位置」だった。それは我が家の南向きの窓からいつも外を眺めていたからだろうと思う。小学校は南西の向きだったので、自作地図でも右上の角。
画面表示マップの走りはカーナビだった。
我が家に導入されたのは2002年。買い替えた車(中古ミニバン)に付いていた。
車を運転しながら地図を繰るのは至難の技だったが、それが一挙に解消。感激だった。
その後「グーグルマップ」に初めて触れたときにもビックリした。その詳しさ、自由度にである。
日本地図ではグーグルは「ゼンリン住宅地図」を買い取って使ったという話だから、ベースにあったのは国産アナログ地図。——だが、そんな詳細地図はほとんど見たことがなかったから、そこまで詳しくタダで見せてくることに感激した。
ウェブマップはポイントをまず指定することから始まる。そのポイントから押し広げていくように世界は広がっていく。アナログ地図はまず開くところから始まる。広げたところでおもむろにポイントを探し始める。何が違うか? 別の世界観が生まれそうではないか。
面的な広がりのどこかにポイントがあると捉えるのがアナログ地図の世界観、常に「全体」が前提にある。探すポイントはその全体布置の中のある部分に存在する。
それに対して注目ポイントの集積のように世界を捉えるのがウェブマップの世界、面はポイントを起点にしてその周辺に広がっていく。
樹の中に花を探すのがアナログ地図、花の背後の樹を少しずつ覗くのがウェブマップ。
アナログでは樹の中の見覚えのある小枝や花を手掛かりに目的の花を絞りこんでいく。分節化され構造化された面がまずあって、その分節化された構造の中で狙いの花の位置を見定めていく。
ところがウェブマップでは、世界の構造はしばらくは不明だ。ポイントを中心とした構造がマップを押し拡げるに従って徐々に見えてくる。広げ方が不十分だと、構造を捉え損なうかもしれない。川の中州か盆地の中かの区別もつかないことがある。
アナログ地図を見比べて、そこに潜んでいる思想の違いを解読するような技*2 は、ウェブマップとの付き合いの中から生まれるのかどうか?
松岡慧祐は従来の紙の地図を「見わたす地図」、グーグルマップを「導く地図」と呼んでいた*1 が、これは利用の仕方の違いを示したものだろう。
ある地図会社の調査によれば、紙地図もパソコンのウェブマップもカーナビ地図も高齢者ほど利用率が高く、逆に若い人ほど利用率が高いのは、スマホのウェブマップだという。*3
見開きB3サイズの分厚い地図帖を愛用している私のような「地図オタク」に言わせるなら、スマホの画面は狭すぎる。地図を眺めその場所を実際に移動する経験を積み重ねるほど空間認知が鍛えられると考えられるから、スマホ世代以降の若者は、空間認知が痩せて歪んでいることが推定されよう。(現に我が家のその世代は、パナマ運河の場所をつい最近まで知らなかった。)
自分中心の狭い範囲の案内だけを期待するなら、地図に夢を見ることもないし、地図を見る楽しみもわかるまい。グーグルマップに馴染んでしまえば「周辺のジオラマを作ろう」など思いもよらないのではないか。
私が最近買った手首を痛めそうなほど重く大きな地図帖を、我が家のスマホ世代は「ムダ」「ジャマ」としか認識していない。曰く「ググれば済む」——果たしてそうだろうか?