シードン23

クモ、コウモリ、ネズミ……我が家の居候たち。こっちがお邪魔か? うるさい! いま本読んでるんだから静かに!

Here Comes the Sun!

2016-10-04 00:26:19 | 文化
 大学時代、飯田眞(精神医学・うつ病論)が「私が調子良いと患者も良くなって、患者が悪くなると、私も調子悪いんですよね」と呟くように語っていたのが思い出された。
 先日ここで紹介した木村敏(精神医学)と西村ユミ(看護学)との対談を読んでいてである。

 そこで木村は、しきりに「中動態」というギリシア語の「態」を援用して、西村の研究課題である患者と治療・看護者との関係を捉え直そうとしていた。ギリシア語の場合「能動態/中動態 」の区別から、「受動態」が生まれてきたということのようだが、医者や看護師が必ずしも「主体(主語)」として「能動」的に患者に対しているというよりも、自然にある状態に「なる」ような、状況の関数として治療の場に参与しているという視点を喚起しようとしてその語を持ち出してきたようにと思えた。

 英語を「する」言語、日本語を「なる」言語と対比して示したのは池上嘉彦(言語学)だったが、金谷武洋(言語学)は日本語を「『ある』言語」と呼んでいる。金谷によれば、文型で対比してみると、英語表現が「S−V−O」型を典型・標準とするのに対して、日本語は「(C)−V」なのである。日本語では「S」も「O」も必須ではない。主語を普遍的と考える生成文法など「普遍文法説」への正面きっての批判なのだが、なかなかの説得力である。金谷に言わせると「中動相(中動態)は印欧語における無主語文」なのである。
 つまり、木村の持ち出してきた「中動態」は、何も西欧の哲学や言語に詳しい木村のみの思いつきではなく、日本やアジアの言語話者なら誰もがよく知っている、無主語的な世界把握のことのようなのだ。
 
 言語の数からいうなら、英語のような「する」言語は少数派で、むしろ日本語のような「ある(なる)」言語の方が多数派だと言われている。それにそもそも英語も、古くは主語を必須としない言語で、ノルマンディー公に支配されてフランス語を強要されていた300年間(「ノルマン・コンクエスト」1066-1364)に、フランス語の影響を受けて大きな変化を遂げて、現在のような形になったというから、日本の鎌倉・室町時代以降という新しさだ。
 主語を必要としない「なる(ある)」言語的世界は地球上で普遍的な広がりを持っていたことになろう。
 
 そういえば、現代英語にも「中間態」と呼ばれる「態」があって、次のような文でよく知られている。

 This book sells well.(この本はよく売れてる)

 「神」の視点から、世の中を捉えるのが現代英語の特徴とされるが、それとは矛盾する、出来事中心の表現である。

 これと関連するが、日本語話者が英語を学び始めると、次のような表現に面食らうのが常だ。

 「ここはどこ?」→ Where am I ?

 “Where is here ?” とはならず、”Where am I ?” と "I" がしゃしゃり出てくるのは、"I" 中心というよりも、「私」も「彼」もすべての人間を眺め下ろす「神」の視点が世界把握の基本になっているからなのだ。
 ところが、そうではない世界把握の方が、実は普遍的だったということになると、日本でも英語を使わせたいと思っている「英語帝国主義」の手先どもは真っ青になることだろう。

 次によく知られた例だが、川端康成の名作『雪国』は、サイデンステッカー(E.G.Seidensticker)の英語訳で世界に知られたわけだが、その冒頭の英文は次のようになっていた。

 The train came out of the long tunnel into the snow country.
 (「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」)

 だが実は、これは誤訳に等しかろう。
 「誤訳」が厳しすぎるなら、英語話者に媚びた表現と言い直してもいい。
 川端の文には主語は欠けており、それはこの表現がどういう視点(世界把握)を基盤にしているかと密接な関わりがある。ーーだがもし、原文の視点を尊重し、次のように英訳してしまっていとしたら、川端が果たしてノーベル賞をもらえたかどうか、怪しいのかもしれない。

 Through the long border tunnel, there came the snow field.

 ここには、中動態とつながる表現が用いられている。現代英語でも文法家たちが説明に苦労する「出現文」と呼ばれる ”there came the snow field.” がそれである。よく出される例では ”Here comes the sun”(お天道さまだ!;ビートルズ・ナンバーにもある!)ーー古英語の名残と言われているようだが、「神」の視点に汚染されていない表現がここにはある。英語も古くは「する言語」ではなかったということだ。

 やや脱線気味になってしまったが、私たちも英語的(=現代英語的)な発想に感染して、日本語には普遍性がないかのような錯覚に陥っている傾きがあるが、実は、英語の主語中心主義、「する言語化」の方が特殊で、新参者に過ぎないのである。

 そして近年、医療の世界などで、出来事中心・状況中心の現場把握が見直されてきているのは、西欧の最新の流行でもあるのだが、それは同時に、日本(東洋)的な視点の再評価、いわば「第二のジャポニズム」とも呼ぶべき潮流なのであって、飯田眞がかつて語ったように、昔から私たち日本人が馴染んできた(だが、西欧では取り上げられることのなかった)視点なのである。
 その日本的な主語無用の視点にこそ、混迷の西洋式医学・看護を救うヒント(光明=sun!)があることに最近ようやく気付いたということなのだと思う。

コメントを投稿