社会不安障害:SAD、ボランティアとセカンドライフ

SADで会社を休職したが、一年で復帰し、無事定年を務めて、その後の生活とボランティアについて気ままに掲載中

高校への越境入学に付いて

2008-05-09 09:03:34 | 日記

前回、私事で名前と生年月日に付いて書いたが、また私の両親に関する話です。要は簡単に言うと越境入学(正確にはそうではないが)の話です

私の実家は、鹿児島の田舎にあり、実は家のすぐ下の川がちょうど隣町との境界になっていたが、町の境界はそうかもしれないが、私の家の属する町は、実家を除いてその周辺には一切家もなく勿論人もなく、一番近い集落でも、はるか離れた場所に存在していた。
このことから実際の生活上は、隣町の人達とイベントや自治会的な物は所属していたし、事実、住所(戸籍も)、隣町が正式な住所になっている
。マアーこれも、町の境がどこか等いい加減なものである。

さて、問題は、高校の学校区の話である。正式な住所は隣町であるが、それに従うならば、隣町の高校しか受験できない事になる。それで何か問題があるかと言うとレベルが余り高くなく大学への進学を懸念したらしい。。親父は子供達の内一人でも医者にしたかったらしく、鹿児島市内の公立の進学校鶴丸高校(旧制一中)に入れたかったらしい。こちら側の町には高校がなかった為、市内の高校の受験が可能だった。

それでどうしたかと言うと、今はこの世にいない実母の姉(おばさん)がこちら側の町に済んでおり、且つ町境の事も利用して、小学校から遠くはなれたこちら側の町に小学校から子供達を皆通うわせる事にしたらしい

最初は、バスが町まで朝早く運行しており、そのバスで通った経験がある。帰りは勿論、バス等無いので歩いて4キロぐらいを帰って来た記憶がある。小学生が歩くにはかなりの距離であるし、途中は山を越えるような殆ど家並みも無い所を一人で帰った。一人で帰る分には別に問題はなく、当時は今ほど、事件など起こる事もない自然な田舎であった。

困ったのは、非常事態(台風等)での集団下校の時であるこのときは上記で説明した、おばさんのエリア側の下校班に入る事になるが、いつも理由が分からず混乱し、最後は結局途中で分かれたりして、理由を説明して、私の家に近いルートの班に変えて貰ったりして、返っていた。小学生にこの辺の事情もわかろう筈もなく、戸惑いの小学時代だったと思う。

中学になると、すでにバスの運行がなくなり、自転車通学で通ったし、小学生と異なり、集団下校等もない為、ヤット不思議から解放されたと思う
※この自転車を買う為に親父と鹿児島市内に行き、買ったはよいが、帰りは、また例の如く一人で始めて、自転車で鹿児島市内から家に帰る事になった。確か夜中に帰り着いたと思うが・・・。
  かなり無鉄砲をやらせる親父だったと思う。

親父の長期計画が功を奏し、兄貴と私は親父の希望通り、無事鹿児島市内の鶴丸高校に通う事になったが、親父の息子達から医者を一人出したいと言う夢は、叶う事はなかった
※親父の子供からは、医大へ行きたい子供が出てこなかったが、兄貴の息子(甥っ子)が、医者になると言って、現在大学の医学部に通っているので、孫が親父の夢を実現してくれそうである

長男が成績的には一番可能性があったが、死体洗いのバイトで嫌になりあきらめたそうだ。私の場合は、1浪すれば医学部の可能性があり、事実高校2年まで志望は医学部であったが、2年終了の春休みに母親がなくなり、3年の初めの進路相談の時に、親父から現役で国公立のみしか大学はゆるさないと条件を付けられた為、結局あきらめざるを得なかった。

これで運命がどう変わったかは私もわからない。

自分の子供達の事を考えると、余り条件も付けず、長男は一浪も許し更に大学院まで行くのも許し、娘も私立大学へと親にとっては金が掛かるが、自由にさせた方である。
最も、息子も娘も高校まで、公立で且つ塾に行かず、家庭教師にも付かず、高校の通学は自転車で通い、息子は国立へ、娘も私立大ながら、家から通える所に行ってくれた事は、大変親孝行してくれたと思う。


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