日本語教室の新年会?でも実際は送別会となりそうや日本語きょうしつ学習者によるお食事会への招待で掲載したが、インドネシアからの学習者がその研修期間を終え、次々と帰国しており、私にとって思い出深いインドネシアの学習者の一人が遂に2010年19日(金)で最後のにほんごの授業を迎えた為、私も会社を早々に退社して、帰宅途中ににほんご教室に寄った。
当初は、講師陣が最後の授業の日にお別れ会としてパーティを計画したらしいが、本人の希望で、最後の授業を受けながらのお別れとしたいとの事で、普通通りの授業となった。
当日の学習者の光景:金曜の夕方なのに、何とも熱心に、学習者が来ていた。 ※わざと写真は縮小してあります。 | ||
授業の最後の方で、お別れの挨拶を・・・。 皆で寄せ書きを書いて贈った。 |
しかし、最後の方になると、名残を惜しむ講師や学習者が取り巻き、終了時間20:00を過ぎても中々、皆帰らず、結局市民総合センターが終了する21:00過ぎがお開きとなった。おば様(失礼ながら・・・)が多い講師からは、殆ど泣きそうな雰囲気の中、彼はインドネシアに帰国してからの住所と電話番号とメールアドレスを記載した名刺を、用意して持ってきて配っていたが、さて帰国後も連絡が取れるのかどうかは分からない。
奥様や私は、昨年のパーティ(昨年度は忙しくて、本ブログに掲載していない)と、カラオケ(日本語教室の新年会?でも実際は送別会となりそう参照)や食事会(日本語きょうしつ学習者によるお食事会への招待参照)とこの日の写真をCD-ROMに焼いて渡す約束をして、教室を後にした。彼が日本を去るのは3月の3日で、本来は来週と言うか2月末までは日本にいるが、市民総合センターが月末の金曜は休みの為、19日(金)が最後の授業となったが、まだCD-ROMに編集して焼くのには時間がある為、何とかなるだろうと、気安く彼と約束したが・・・。
以前も何回かこの彼の事は掲載した。私にとって、いろんな意味で彼との出会いとこの別れは、非常に奇妙な関係となったようだ(かれにとっては一人の講師だったのかもしれないが・・・)。
くしくも、彼が日本に来て、最初に先輩のインドネシア人に(このインドネシア人ともにほんご教室を通して深く長い付き合いとなったが・・・)連れられて、当市のにほんご教室に来た時の最初の講師が私となったからだ。
当時、私はSADの病気が悪化して、長期休職となり、自宅療養を開始したばかりの頃だった。毎日が休みの中で、当市のにほんご講師不足から、私に誘いがあり、昔にほんご講師をやっていた事から、気楽に引き受けた時だった。昔と講師陣がかなり変わっており、にほんご講師のレベルがチョッと落ちているとは感じながら、余計な事は言わず、すぐに講師を始めたが、その後約一年間をにほんご講師としてボランティアを続ける事になった。
結果は、久しぶりににほんごを教える難しさと実感した事と、SADの最大の課題で有った文字を書こうとすると手が震えると言う症状を、この教室で克服できたのは私にとっては大きかった。学習者には申し訳ないが、大変ありがたく、感謝している。そして、彼らが当市のにほんご教室に加わってから、ドンドンインドネシアの学習者が増え、いろんなイベントでの一台グループとなったのは、何回も掲載したとおりだ。特に年末の国際交流ワクワクパーティでは、フィリピンの学習者との演奏合戦はここ数年の定番となっていたが、今年からはこれがなくなった。何とも言えない寂しさを感じるが、これも仕方が無いし、何回も別れを経験してきており、時代と共に当市にほんご教室で色々な国の人が移り変わって行くのだろう。
さて、一昨年会社に復帰し、昨年4月に今の会社に出向、そしてその一年後、薬無しで人前で文字を書いても手の震えが全く発生しなかったで、焼酎つまりビール以外のアルコールを完全にやめた事で、SADの病気はほぼ完全に完治の状態となっているが、上記で述べた様に、このSADの病気で休職をしていなければ、彼らインドネシアの学習者と会う事も無かっただろう。あっと言う間の3年間だったが、彼らの明るさと、熱心さと純真さに励まされて、且つイベントも多く盛り上げてくれた彼らに本当に感謝したい。インドネシアに帰った後また会える事は、限りなく可能性が薄いが、インドネシアのインフラが整備され、電子メールが使える様になっているを期待したい。
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