じいちゃんのつぶやき

生涯学習のつもりでブログを始めました

九州新幹線で関西、山陽道を歴史旅行

2011-12-10 11:59:34 | 日記
今年3月初旬、新大阪~新鹿児島中央 に九州新幹線が開通した。10月中旬で
紅葉には少々早かったが、新幹線を利用して有馬温泉、広島、宮島、岩国に
歴史一人旅に出た.
有馬温泉は古くからの湯治場で有名だが、阪神淡路大震災の傷跡が随所にみられた。
秀吉が造らせた湯殿跡が地震の後に現れたので、泉源と湯殿跡の見学者が
増えたそうだ.
秀吉像
ねね橋
帰りは広島に下車。雨の中を原爆ドームと記念館見学。旧山陽本線の広島はいつも
真夜中通過で、どうしてもご縁がなかった町だった。ずーっと気に
なっていたが、ようやく戦後から66年目の正式訪問である。記念館とドームは
雨のせいもあって重たい雰囲気だった。これで私の戦後は終わった。

ドームから北側に歩行、広島城にはいった。城壁と堀は立派に残っていたが、
原爆で大手門と天守閣は消失していた。爆心地からかなり離れた場所にも
かかわらず歴史に残る古城が一瞬のうちに原爆の熱射閃で消滅していた。

太田川三角州に鯉城をこしらえた毛利輝元ら毛利一門の財力は大したものだった。
関ヶ原合戦後にずるずると後退し広島城を失った文禄・慶長時代の大老輝元の
覇気のなさはだらしがない。
徳川家康の術中にはまり、毛利の本拠地備中を失わせた吉川広家の罪はおおきい。
このような堅固な城をもっているのなら、立花宗茂のいうとおり、
交戦の姿勢を見せながら、関ヶ原合戦の戦後処理をすべきである。徳川軍と
本格的合戦は一戦もしていないのだから。

老臣安国寺恵瓊を殺してしまう広家は反石田三成・宇喜多秀家にかたまる思慮の
足りない荒武者である。鯉城は皮肉なことに、広家の仲間福島正則に与えられた。
だが、あまりにも堅固な城なので、豊臣秀頼への肩入れを心配した家康から、
正則の城は取り上げられた。「猛虎を野に放って置くのはやめた」である。
毛利藩の最東端岩国を守ることになった吉川藩の姿をみるために、私は岩国に
走ることにした。
広島から旧山陽本線に乗り、宮島を観光しながら初めて岩国に行った。
このブログ次号に岩国の歴史旅を掲載する。
 ドームと太田川
太田川と広島城
立花宗茂について、ブログ「島六の書棚」に抄録を掲載しています。
下記URLにリンクしてください。
        http://www1.bbiq.jp/shima6/

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