このほどギリシアの美術館で発見された写楽の肉筆画が写楽の謎を解く鍵に
なるのではないかと、NHK BSプレミアムが番組「知られざる在外秘宝」で紹介
している。
二人の役者絵(肉筆画)は間違いなく東洲斎写楽の肉筆であることが判った。
筆致が版画に描かれた歌舞伎役者の大首絵の特徴と同じであることを番組が
伝えている。美術研究家もこれを保証している。
番組は、東洲斎写楽がだれであるかの謎に迫ろうと、10か月の短い期間に
集中して売り出された浮世絵を整理して、四つの時期に分類した。
第一期 寛政6年5月~ すべて黒雲母摺り大首絵(大判)
第二期 寛政6年7月~8月 細絵30枚、全身絵が特徴
第三期 寛政6年11月~閏11月 顔見世狂言絵、間板大首絵、追善絵
第四期 寛政7年1月~2月 春狂言と相撲絵
地本問屋蔦屋重三郎の店先で、東洲斎写楽はだれも描いたことのない個性的な
大判の大首絵を売り出した。だが思うほど売れなかった。歌舞伎役者の半身を
真に迫る演技として描いても、江戸の市民は喜ばなかった。大首絵は売れ残った。
写楽の大首絵を、いま私たちはインターネットのサイトで容易に鑑賞できる。
ほんとうに素晴らしい構図の首絵である。絵画としていかに優れた作品であっても
ひいきの役者が美しく描かれていないのでは、役者絵としてはファンから
見放されてしまう。
あのモジリアーニの人物画が彼の生前さっぱり人気がなかったのを思い出した。
青い目のご婦人をキツネ目に描き、まなこに×印を入れた肖像画をだれが喜んで
求めよう。画商はこのような作品を扱うことことを喜ばなかった。
モジリアーニが町の中でひっそりと死んだのを知り、急ぎ彼の家に赴いて
優れた絵を買いあさる画商の姿を映した映画のラストシーンが忘れられない。
およそ100年後に外国美術商に評価され絶賛された写楽の浮世絵は、蔦屋の事情を
知る者にとって困惑する事態であったろう。身代の半分を幕府から召し上げられた
台所事情もあり、蔦屋は写楽に大首絵を続けさせるわけにもいかなかったらしい。
そこで、写楽に大判の半分サイズ細判に役者全身像を描かせたが、他の有名な
浮世絵師の売り上げにかなわなかったらしい。
寛政5年10月の江戸大火で市村座、中村座を失った歌舞伎座の面々は
寛政6年5月に都座と桐座を立ち上げているので、歌舞伎役者絵は人気を
得なければならなかた。でも写楽の浮世絵は売れなかった。
田沼意次が罷免されたあと、老中松平定信が奢侈禁止政策をうち出したので
芸伎の世界は緊張を強いられていた。寛政2年10月から地本問屋が輪番制で
自己検閲をしていた。浮世絵の版元の烙印の上部に付いている丸印がそれである。
写楽は寛永7年2月まで浮世絵作成に取り組んだが、突然筆を折った。
そのあたりの事情を蔦屋重三郎、栄松斎長喜(浮世絵師)、曲亭馬琴
十返舎一九は語ってくれない。
NHKの番組は謎だらけの東洲斎写楽を、阿波候のお抱え能役者シテ役の
斉藤十郎兵衛になぞらえているが、浮世絵研究者は当時藩士が浮世絵師との
二足のわらじを履くことはことは許されないと反論している。
しからば、浮世絵師を廃業したあと能役者になったと考えられないだろうか。
少なくとも、同時代に活躍した浮世絵師に比定することはやめたい。
東洲斎写楽は写楽として、謎を解明してほしいと思う。