薩摩反骨1・良い音とは何か-質感の追及

2022年10月08日 | 薩摩反骨(スピーカー維新)

反骨精神! 長い物に巻かれるな(そのうち踏まれちゃうゾ!)

 

◆ 良い音とは何か - 質感の追及

 

<質感の追及への転換>

 自動車を売ろうとした時に、例えばですが、「乗り心地」と「馬力」のどちらで訴求するかという場合は、馬力の大きさで訴求する事が多いと思います。馬力は数字で簡単に比較できますから、他社よりも1馬力でも大きければ優位性が主張出来るからです。けれども、乗り心地は数字にならない感覚的なものなので単純比較が出来ません。しかし、少なくとも高級車の場合は、これに相応しい品位は、馬力ではなく、乗り心地で判断するべきではないでしょうか。まさにこれこそが高級品のステータスだと思います。

 ところで、1980年代頃だったと思いますが、当時の日本車は性能が良くなり、故障もしないし、価格も安いとあって、欧米で評判になっていたと思います。ところがそこに、安全性や乗り心地、操作フィーリング等の「質感」の高い欧州車が登場して、高級外車のブームが起こりました。その後、日本のメーカーでもこの質感の改善に熱心に取り組む事となり、今日の日本車の完成度は世界に誇れるものになったと思います。

 上記のごとく、ある程度スペック(性能)が満たされると、「スペック競争」から「質感の追及への転換」が起こると言うことが出来ます。つまり、製品はその進化に伴い、文明から文化的な存在に切り替わるとも言えるのです。

 

<オーディオのスペック偏重>

 翻ってオーディオの場合はどうでしょうか。オーディオとは音楽を聴くための手段ですから、「音の質感の追及」こそが命である事は自明です。しかし私は、特に現代のスピーカーの質感は、先ほど引き合いに出した1980年代頃の日本車と同じレベルである、という印象を持っています。しかも時を追うほどに、ますますスペック偏重主義になって来ていて、もはや質感の追及と向き合うことから逃げるための口実の様にさえ感じられるのです。

 スペックの改善は、本来は必要に応じて行うもののはずです。例えば、エンジンの馬力は大きいほど良いという(必要性を無視した)価値観は、自家用車に航空機のジェットエンジンを積みこむ事態を引き起こします。米国には実際にその様なエンターテイメントがある様ですが、これは文字通りマニアック(偏執狂)(注1)であり、本来の目的を見失っている点で不健全だと思います。過ぎたるは猶及ばざるが如し、という事です。

 従って、私はオーディオにおいても、スペック偏重主義は卒業して「音の質感の追及」に軸足を移すべきであると思います。実は、現在のヴィンテージ・オーディオが生まれた半世紀以上前に、既にそうなっていたはずだと思うのですが、その後スペック主義に逆戻りしている印象です。(その理由は後述)自動車産業界は、操作感や乗り心地といった質感の官能評価に熱心に取り組みましたが、現代のオーディオにおいては何故その様にならないのでしょうか。 音楽を愉しむという事は(むしろ車よりも)高尚な文化なのですから、質感を重視する大人の文化へと改めて昇華させたいものです。

  但し誤解なきように付け加えます。スペックはどうでも良いと申し上げているのではありません。現行のスペック論に固執しても、これ以上の質感の改善は難しい、という事を申し上げたいのです。即ち、「音の質感」という観点から新しいメスを入れなければ、新たな技術的ブレークスルーは得られないという事です。

(注1) 英語圏では「私はオーディオ・マニアです」とは言わない方が良いと思います。maniacは異常者の意味合いになります。phileとかenthusiastの方がよろしいかと。

 

<音楽性の定義と共有>

 いわゆるオーディオマニアの方々には、「音の質感(=音楽性)とは何か」という議論を避ける方が多いかもしれません。恐らく「音楽性の評価」と言う奥深さ、とっつきにくさがその根底にあるのではないでしょうか。即ちこの評価には、結果的に音楽についての造詣が要求されるので、音楽よりも技術に関心のある層には苦手意識が生じるものと思われます。これが、オーディオの「質感の追及への転換」を妨げている本当の原因かもしれません。

 しかし音楽愛好家の層は、かなり的確に「音楽性」の良し悪しを判断できる印象を持っています。従って「音楽性」は、必ずしも抽象的で微妙で分かり難いものではないと思っています。そして、より広い層での音楽性の理解の共有のためには、「音楽性の定義」をより具体的なものにする必要があると思います。

 

 次回は、「音楽性の定義」について掘り下げてみたいと思います。

 

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