不意に百合恵が垣外の灯りの届かない闇に振り返った。
「百合恵さん……?」
「しっ!」百合恵は自分の唇に右に人差し指を当てて声を出さないようにと指示した。「……よりによって、こんな時に……」
百合恵は闇を見つめながら険しい表情になった。さとみもつられてそちらを見る。闇の中を動くものがあった。
「……楓……」
さとみは驚いた顔でつぶやく。
楓は袖手のまま、にやにやと小馬鹿にした笑みを浮かべ、街灯の灯りの下に進んで来た。さとみは霊体を抜け出させ、百合恵の横に並んだ。
「おやおやおやおや」楓はからかうような口調で言う。「何だい、お嬢ちゃん? お出迎えでもしてくれるのかい?」
「そんなわけないじゃない!」さとみはぷっと頬を膨らませる。「話は聞いたわ! あなた、さゆりの腰巾着になったみたいじゃない!」
「腰巾着、ねぇ……」楓は口に手をやってくすくすと笑う。元々が美人だから、こういう細かい仕草が良く似合う。「それを言うなら、側近ってヤツだよ」
「楓……」百合恵が言う。「せっかく、良い所まで行ってたのにさ、どうしてまた……」
「たしかにね、恨み辛みだとか、権勢欲だとかは薄らいで行ったさ」楓は答える。「でもね、薄らいだだけで、消えちゃあいなかったのさ」
「さゆりが引き金だったのかい?」
「そうだねぇ……」楓はさとみを見る。「繁華街の主様をお嬢ちゃんが丸くしちまったんだったよねぇ。それからは、わたしも色んな事が面倒になってさ。百合恵とも親しくなれて、気持ちも少しは切り替わったさ」
「だったら、そのままでいれば良いのに……」さとみが言う。「そうしたら、みんなとも仲間になれたのに……」
「ははは、相変わらず面白い事を言うよね、お嬢ちゃんは」楓は笑う。それからふと真顔になった。「でもさ、言ったろう? 薄らいだだけで、消えちゃいなかったんだ。わたしの大好きな邪悪な気が蠢き出してさ。そりゃ、懐かしい臭いだったねぇ。思わず繁華街の主様や四天王だった連中を思い出しちまったよ」
「うわぁ……」
さとみも思い出したのか、思い切りイヤな顔をした。
「そのわたしの大好物が、あの学校とか言う建物に集まり始めているじゃないか。こりゃあ行かなきゃなるまいさ」
「最低……」
「ふん!」楓はさとみの言葉に鼻を鳴らす。「最初の頃はさ、あの何だか良く分からない影野郎だったんだよねぇ…… あいつは恨み辛みだけが残ったヤツだから、姿が無いのさ。それで、それを託す相手を探していたらしいや」
「それが、さゆりって事か……」百合恵がうんざりした顔をする。「さゆりって、どんなヤツなの?」
「若い娘だよ。……お嬢ちゃんと同じくらいじゃないのかい?」
「そんな娘が、どうして?」
「ははは、絵に描いたような悲惨な人生だったのさ」楓は楽しそうだ。人の不幸が大好きなのだろう。「生まれてすぐに母親が死んで、しかも父親はどこの誰だかわからないと来た。ちょいと仏心のあった貧乏夫婦に引き取られて育ったものの、三つくらいの時に二人とも流行病であっけなく死んじまった。それで人買いに連れ去られて、幼いうちからご奉仕生活を強いられていたようだ。さゆりは幼い頃から器量が良くって、客には事欠かなかったんだとさ」
「……かわいそう……」さとみがつぶやく。「辛かったのね……」
「おやおやおやおや、お嬢ちゃんは優しいねぇ」楓は小馬鹿にする。「でもね、さゆりはね、次第に世に対し、人に対し、全てに対して恨み辛みを膨らませて行ったんだ。なまっちょろい同情じゃ太刀打ちできないよ」
楓は言いながら笑む。その笑みは不気味でありながらも美しい。
「ずっとそんな暮らしをしていたさゆりがさ、十五くらいでどっかの旗本の三男坊に見染められて買い取られたんだけどね、そいつが変な野郎でさ、毎晩さゆりを痛めつけるんだ。それで悦んでたんだってさ」
「うへぇ……」さとみが変な声を上げて顔をしかめる。「昔にもそんな人がいたんだ……」
「さとみちゃん」百合恵が言う。「そんな人って時代に関係なく世界中にいるわよ」
さとみはますます顔をしかめる。楓はそんなさとみの顔を指差してくすくす笑う。
「さゆりはずっと我慢してたんだけどね、ある時、我慢しきれなくなって逆らったんだ。焼け火箸をからだに押し付けられそうになったって言ってたねぇ…… そんな事されそうになったら、わたしだって暴れるよ。で、さゆりはその火箸を野郎に投げつけて逃げた。野郎は火傷した。で、あの糞女ってなって、さゆりはとっ捕まって、牢屋送り。あっと言う間に死罪が決まって、討ち首さ」楓は自分の首の後ろを軽く叩いて見せた。「その時、思ったってさ。絶対化けて出てやる! この恨み辛みを晴らしてやる! 邪魔するヤツは許さない! ってさ」
「そうなのかい……」百合恵がつぶやく。「まあ、お気の毒はお気の毒だけどねぇ……」
「あの影野郎からの恨み辛みも背負っているからねぇ。今のさゆりはどこを切っても恨み辛みしか出て来ないよ」
「さとみちゃんが影の邪魔をした事も、さゆりは背負ったってわけか。こりゃ、根が深いや……」百合恵はため息をつく。「すっかりさとみちゃんは敵になっちゃたわねぇ……」
「でも、何とか助けてあげたいです……」さとみは悲しそうな顔で言う。「わたしに出来るかどうか分かりませんけど……」
「偉いっ!」
不意に別方向の闇から声がした。珠子と静と富が姿を現わした。
「さすが、わたしの孫だ!」冨が言う。「な~に言ってんだい、わたしのひ孫だよ!」静が言う。「お前たち、そもそもわたしがいなきゃ、さとみちゃんはいなかったんだよ!」珠子が言う。三人は言い合いになった。
「おばあちゃんたち……」さとみは呆れた顔で言う。「何をしているのよう!」
「あ、そうだよねぇ」冨が咳払いをする。静も珠子もばつの悪そうな顔をして黙った。「……とにかく、さとちゃん、立派だよ。わたしたちは嬉しいよ」
静も珠子も大きくうなずく。
「何だい何だい、婆あども、勝手に湧いてきやがって!」楓が文句を言う。「お前たちが束になったって、さゆりには敵わないんだよ!」
「そうさ、わたしたちだけじゃ敵わないさ」静が言う。「でもね、さとみがいるんだ。この娘ならやってくれるよ!」
「そんな……」さとみは慌てる。「静おばあちゃん、それは分かんないわよう……」
「ははは」楓は嘲笑う。「お嬢ちゃんが戸惑ってるようじゃ、無理だよ。無理無理!」
「そうかい……」珠子が笑む。「じゃあ、わたしたちでお前を消してやろうかね? それくらいなら出来そうだ」
楓は真顔になると、後ろの闇へと下がって行き、姿を消した。楓の気配がすっかりなくなった。
つづく
「百合恵さん……?」
「しっ!」百合恵は自分の唇に右に人差し指を当てて声を出さないようにと指示した。「……よりによって、こんな時に……」
百合恵は闇を見つめながら険しい表情になった。さとみもつられてそちらを見る。闇の中を動くものがあった。
「……楓……」
さとみは驚いた顔でつぶやく。
楓は袖手のまま、にやにやと小馬鹿にした笑みを浮かべ、街灯の灯りの下に進んで来た。さとみは霊体を抜け出させ、百合恵の横に並んだ。
「おやおやおやおや」楓はからかうような口調で言う。「何だい、お嬢ちゃん? お出迎えでもしてくれるのかい?」
「そんなわけないじゃない!」さとみはぷっと頬を膨らませる。「話は聞いたわ! あなた、さゆりの腰巾着になったみたいじゃない!」
「腰巾着、ねぇ……」楓は口に手をやってくすくすと笑う。元々が美人だから、こういう細かい仕草が良く似合う。「それを言うなら、側近ってヤツだよ」
「楓……」百合恵が言う。「せっかく、良い所まで行ってたのにさ、どうしてまた……」
「たしかにね、恨み辛みだとか、権勢欲だとかは薄らいで行ったさ」楓は答える。「でもね、薄らいだだけで、消えちゃあいなかったのさ」
「さゆりが引き金だったのかい?」
「そうだねぇ……」楓はさとみを見る。「繁華街の主様をお嬢ちゃんが丸くしちまったんだったよねぇ。それからは、わたしも色んな事が面倒になってさ。百合恵とも親しくなれて、気持ちも少しは切り替わったさ」
「だったら、そのままでいれば良いのに……」さとみが言う。「そうしたら、みんなとも仲間になれたのに……」
「ははは、相変わらず面白い事を言うよね、お嬢ちゃんは」楓は笑う。それからふと真顔になった。「でもさ、言ったろう? 薄らいだだけで、消えちゃいなかったんだ。わたしの大好きな邪悪な気が蠢き出してさ。そりゃ、懐かしい臭いだったねぇ。思わず繁華街の主様や四天王だった連中を思い出しちまったよ」
「うわぁ……」
さとみも思い出したのか、思い切りイヤな顔をした。
「そのわたしの大好物が、あの学校とか言う建物に集まり始めているじゃないか。こりゃあ行かなきゃなるまいさ」
「最低……」
「ふん!」楓はさとみの言葉に鼻を鳴らす。「最初の頃はさ、あの何だか良く分からない影野郎だったんだよねぇ…… あいつは恨み辛みだけが残ったヤツだから、姿が無いのさ。それで、それを託す相手を探していたらしいや」
「それが、さゆりって事か……」百合恵がうんざりした顔をする。「さゆりって、どんなヤツなの?」
「若い娘だよ。……お嬢ちゃんと同じくらいじゃないのかい?」
「そんな娘が、どうして?」
「ははは、絵に描いたような悲惨な人生だったのさ」楓は楽しそうだ。人の不幸が大好きなのだろう。「生まれてすぐに母親が死んで、しかも父親はどこの誰だかわからないと来た。ちょいと仏心のあった貧乏夫婦に引き取られて育ったものの、三つくらいの時に二人とも流行病であっけなく死んじまった。それで人買いに連れ去られて、幼いうちからご奉仕生活を強いられていたようだ。さゆりは幼い頃から器量が良くって、客には事欠かなかったんだとさ」
「……かわいそう……」さとみがつぶやく。「辛かったのね……」
「おやおやおやおや、お嬢ちゃんは優しいねぇ」楓は小馬鹿にする。「でもね、さゆりはね、次第に世に対し、人に対し、全てに対して恨み辛みを膨らませて行ったんだ。なまっちょろい同情じゃ太刀打ちできないよ」
楓は言いながら笑む。その笑みは不気味でありながらも美しい。
「ずっとそんな暮らしをしていたさゆりがさ、十五くらいでどっかの旗本の三男坊に見染められて買い取られたんだけどね、そいつが変な野郎でさ、毎晩さゆりを痛めつけるんだ。それで悦んでたんだってさ」
「うへぇ……」さとみが変な声を上げて顔をしかめる。「昔にもそんな人がいたんだ……」
「さとみちゃん」百合恵が言う。「そんな人って時代に関係なく世界中にいるわよ」
さとみはますます顔をしかめる。楓はそんなさとみの顔を指差してくすくす笑う。
「さゆりはずっと我慢してたんだけどね、ある時、我慢しきれなくなって逆らったんだ。焼け火箸をからだに押し付けられそうになったって言ってたねぇ…… そんな事されそうになったら、わたしだって暴れるよ。で、さゆりはその火箸を野郎に投げつけて逃げた。野郎は火傷した。で、あの糞女ってなって、さゆりはとっ捕まって、牢屋送り。あっと言う間に死罪が決まって、討ち首さ」楓は自分の首の後ろを軽く叩いて見せた。「その時、思ったってさ。絶対化けて出てやる! この恨み辛みを晴らしてやる! 邪魔するヤツは許さない! ってさ」
「そうなのかい……」百合恵がつぶやく。「まあ、お気の毒はお気の毒だけどねぇ……」
「あの影野郎からの恨み辛みも背負っているからねぇ。今のさゆりはどこを切っても恨み辛みしか出て来ないよ」
「さとみちゃんが影の邪魔をした事も、さゆりは背負ったってわけか。こりゃ、根が深いや……」百合恵はため息をつく。「すっかりさとみちゃんは敵になっちゃたわねぇ……」
「でも、何とか助けてあげたいです……」さとみは悲しそうな顔で言う。「わたしに出来るかどうか分かりませんけど……」
「偉いっ!」
不意に別方向の闇から声がした。珠子と静と富が姿を現わした。
「さすが、わたしの孫だ!」冨が言う。「な~に言ってんだい、わたしのひ孫だよ!」静が言う。「お前たち、そもそもわたしがいなきゃ、さとみちゃんはいなかったんだよ!」珠子が言う。三人は言い合いになった。
「おばあちゃんたち……」さとみは呆れた顔で言う。「何をしているのよう!」
「あ、そうだよねぇ」冨が咳払いをする。静も珠子もばつの悪そうな顔をして黙った。「……とにかく、さとちゃん、立派だよ。わたしたちは嬉しいよ」
静も珠子も大きくうなずく。
「何だい何だい、婆あども、勝手に湧いてきやがって!」楓が文句を言う。「お前たちが束になったって、さゆりには敵わないんだよ!」
「そうさ、わたしたちだけじゃ敵わないさ」静が言う。「でもね、さとみがいるんだ。この娘ならやってくれるよ!」
「そんな……」さとみは慌てる。「静おばあちゃん、それは分かんないわよう……」
「ははは」楓は嘲笑う。「お嬢ちゃんが戸惑ってるようじゃ、無理だよ。無理無理!」
「そうかい……」珠子が笑む。「じゃあ、わたしたちでお前を消してやろうかね? それくらいなら出来そうだ」
楓は真顔になると、後ろの闇へと下がって行き、姿を消した。楓の気配がすっかりなくなった。
つづく
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