夕暮れの刻。
うっそうとした草が腰の高さまで伸びている野っ原に、四十を超えた位の坊様が一人立っていた。
諸国を行脚しているだろう事は分かるのだが、その出で立ちは、かなり突出したものだった。
まずはその風貌だ。見上げるほどの巨躯で、厳つく浅黒い顔には茫々たる髭を蓄えている。
かぶっている網代笠も、陽に照らされっぱなしだったのか、からからに乾いていて色褪せ、所々に割れ目が入っている。
所々綻んでいる墨染めの衣もかなり汚れている。吹く風が袂をばさばさと音を立て、引き千切らんばかりに震わせている。
右手には黒光りした年季の入った錫杖を持ち、ずんと地に突き立てている。天辺に付いている錆の浮いた鐶は、幾つか取れて無くなってしまっているようだ。そして、同じように年季の入った黒光りしている木製の大粒の珠の付いた数珠を首にかけている。それも幾つも珠が無くなっている。
次第に陽が暮れ、夜闇へと変わる。吹く風が穏やかになったものの、生温かいものに変わった。
坊様は笠に左手を当てて持ち上げ、空を見上げた。月も星も出ていない。坊様は手を離すと、再びじっと立ち尽くした。
どこからか、低い唸り声が流れてきた。それは風に乗り、辺りに響いた。正体は坊様の唱える念仏だった。聞いた事の無い念仏だったが、その声は夜闇に溶け込んで行く。
不意に音がした。草を踏み分ける音だった。坊様は気に留めず、半眼のままで念仏を唱え続ける。草を踏み分ける音はそこここへと広がった。音はゆっくりとだが、坊様に近づいている。周りを囲まれたようだった。
しばらくすると、その音に混じって、苦しそうな、恨めしそうな喉を絞ったような唸り声が聞こえ始めた。それもそこここと散らばって聞こえてくる。
坊様は念仏を続けている。坊様の周りに気配が集まって来る。衣の裾が揺れた。網代笠が揺れた。錫杖が引き抜かれようとしている。首の数珠が振れる。何者かが触っている。
突然、それらの気配が失せた。草を踏み分ける音も、唸る声も、触ってくる感触も、すべてが一瞬で失せたのだ。
坊様は念仏を唱えるのを止めた。半眼だった目をしっかりと開け、周囲を見回す。坊様は長く息を吐いた。
「……やれやれ、今宵も駄目であったか……」
坊様は野太い声で呟くと、踵を返した。
つづく
うっそうとした草が腰の高さまで伸びている野っ原に、四十を超えた位の坊様が一人立っていた。
諸国を行脚しているだろう事は分かるのだが、その出で立ちは、かなり突出したものだった。
まずはその風貌だ。見上げるほどの巨躯で、厳つく浅黒い顔には茫々たる髭を蓄えている。
かぶっている網代笠も、陽に照らされっぱなしだったのか、からからに乾いていて色褪せ、所々に割れ目が入っている。
所々綻んでいる墨染めの衣もかなり汚れている。吹く風が袂をばさばさと音を立て、引き千切らんばかりに震わせている。
右手には黒光りした年季の入った錫杖を持ち、ずんと地に突き立てている。天辺に付いている錆の浮いた鐶は、幾つか取れて無くなってしまっているようだ。そして、同じように年季の入った黒光りしている木製の大粒の珠の付いた数珠を首にかけている。それも幾つも珠が無くなっている。
次第に陽が暮れ、夜闇へと変わる。吹く風が穏やかになったものの、生温かいものに変わった。
坊様は笠に左手を当てて持ち上げ、空を見上げた。月も星も出ていない。坊様は手を離すと、再びじっと立ち尽くした。
どこからか、低い唸り声が流れてきた。それは風に乗り、辺りに響いた。正体は坊様の唱える念仏だった。聞いた事の無い念仏だったが、その声は夜闇に溶け込んで行く。
不意に音がした。草を踏み分ける音だった。坊様は気に留めず、半眼のままで念仏を唱え続ける。草を踏み分ける音はそこここへと広がった。音はゆっくりとだが、坊様に近づいている。周りを囲まれたようだった。
しばらくすると、その音に混じって、苦しそうな、恨めしそうな喉を絞ったような唸り声が聞こえ始めた。それもそこここと散らばって聞こえてくる。
坊様は念仏を続けている。坊様の周りに気配が集まって来る。衣の裾が揺れた。網代笠が揺れた。錫杖が引き抜かれようとしている。首の数珠が振れる。何者かが触っている。
突然、それらの気配が失せた。草を踏み分ける音も、唸る声も、触ってくる感触も、すべてが一瞬で失せたのだ。
坊様は念仏を唱えるのを止めた。半眼だった目をしっかりと開け、周囲を見回す。坊様は長く息を吐いた。
「……やれやれ、今宵も駄目であったか……」
坊様は野太い声で呟くと、踵を返した。
つづく
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