「……おてるさん、その黒田と言う男の額に傷はないか?」
みつは言うと、自分の額の真ん中に、真っ直ぐ立てた右の人差し指を当てて見せた。
泣き出しそうだったおてるは真顔になって、みつの様子をじっと見つめた。
「そう、黒田って人のおでこには縦に傷があったよ。結構古そうで……」おてるは言う。「……おみつさん、本当に神通力があるんじゃない?」
「そうではない」みつは額の手を下ろす。「やはりそうなのか……」
みつは深いため息をついた。
五年ほど前の事になる……
三衛門は剣術に少しでも興味関心がある者を、武家も町人も農民も分け隔てなく通わせ、皆門弟として扱った。門弟同士も分け隔てなく仲良く付き合うようになって行った。三衛門の人徳のなせる業なのか、みつを目当てに通っている仲間意識からなのかは分からないが。
そんな折、ふらりとやって来たのが、その時からすでに浪人だった黒田伝兵衛だった。
門弟の一人が慌てた様子で奥の座敷の三衛門の所に来た。
「黒田伝兵衛と申す者が、先生に、是非とも一太刀ご教授願いたいと、来ていますが……」
「そうか。まあ、上がってもらいなさい」
三衛門は気軽に応じ、道場に上げた。
三衛門が支度をして道場に向かうと、中央に佇む黒田伝兵衛がいた。陰気な雰囲気で、全身から滲み出る殺気には凄まじいものがあった。門弟たちは怖気づいて道場の隅に固まっている。
「待たせてすまんかったのう」三衛門が言って笑む。しかし、黒田は笑わない。むしろ殺気を強める。「これこれ、そんなに殺気を撒き散らすでない。ここは稽古の場だ。命の遣り取りをする場ではないぞ」
「……オレは遊びで来たのではない」黒田は押し殺したような声で答える。「それに、オレが所望するのは、お前ではない」
黒田の不遜な物言いに門弟たちはいきり立つが、圧倒的な迫力に呑まれて、身動きが出来ずにいる。
「ほう、わしが所望ではないとな?」三衛門は言うと門弟たちを見る。「では、あの者の中に所望する者がいると申すのか?」
三衛門の言葉に門弟たちはすくみ上がった。この中の誰が相手をしても手も足も出ないだろう事は火を見るより明らかだったからだ。
「……」黒田は無言で門弟たちを見る。しかし、すぐに顔を三衛門へと戻す。「あの中には居らん」
門弟たちのほうっと言う安堵の息が大きい。三衛門は苦笑する。
「……では、誰を所望かな?」三衛門は言ってから、はっと気がつく。「まさか、みつ、か?」
「そうだ」黒田はうなずく。「江戸へ着いてから、やたらと『女侍』の話を耳にし、そいつがここの娘と知った」
みつをそいつ呼ばわりされ、門弟たちが黒田を睨む。しかし、逆に睨み返され、すっと視線を床に落としてしまう。
「お主の話は分かった」三衛門は言う。「だがの、みつがうんと言わねば立会いは出来んぞ」
「そうなれば、名ばかりの腰抜けと言って回るだけの事だ」黒田は小馬鹿にしたように鼻で笑う。「まあ、実際もそうであろうがな。江戸の馬鹿どもは面白がって言っているだけだろう」
「ははは、そうであろうな」三衛門はうなずく。門弟たちは驚いた顔で三衛門を見る。「ならば、もう良かろう。みつは名ばかりの腰抜けと言って回るが良かろう」
「先生!」こらえきれずに一人の門弟が立ち上がった。「先生がみつ様の実力を知らぬ筈がありますまい! この者が如何様な手練れであっても、みつ様が負けるわけがございますまい!」
この言葉を機に、門弟たちは一斉に立ち上がり、「そうだ、そうだ」と口々に言い出した。三衛門が制するが、一向に止まない。
「……どうやら、立ち合いは避けられない様だな」黒田は言う。「そいつを、『女侍』を出してもらおうか」
「……やれやれ、面倒な事をしたくはなかったのだが……」三衛門はため息をつく。「断っておくが、どうなっても知らぬぞ……」
「ふん、所詮はお稽古の剣だろう? オレは幾度も実践をくぐり抜けてきた剣だ」
「斬り合い、殺し合いか……」
「そうだ。オレが本当の剣を教えてやる」
「……だそうだ、みつ」
三衛門は道場の外に向かって呼ばわった。
道場の戸板がすっと開かれ、袴姿のみつが入って来た。門弟たちは場所柄も弁えずみつの姿にほうっと熱いため息を漏らす。
「話は聞いておったな?」三衛門がみつに言う。みつは黒田を見据えたまま無言でうなずく。「お前の剣は、お稽古の剣だそうだ」
「それは聞き捨てなりませんね」みつは静かに言う。それから、改めて黒田を値踏みするように見る。「……あなたの剣は確かに実践の剣だ。だが、今までの相手はあなたよりも弱い者だったのではないか? ここへ来たのも、わたしが女故に優位に立てると思ったからであろう? 名ばかりの腰抜けは、あなたのほうだ」
「なんだとぉ!」黒田は抜刀した。「抜け! 殺し合いの剣を見舞ってくれるわ!」
殺気立つ黒田を見ながら、みつは壁に掛けてある木刀をつかんだ。
「これで充分」みつは言うと、軽く木刀を振った。風切音が鋭い。「道場を血で汚すわけにはいかない。あなたも木刀を使う事だ」
「やかましい!」
黒田は叫ぶと、三間ほどの間を跳躍し、上段からみつを斬り伏せた。が、そこにみつはいなかった。黒田の振り下ろした切っ先は道場の床を打った。
「天誅!」
黒田の頭上で凛とした声がした。思わず見上げる黒田を、高々と跳躍したみつの振り下ろした木刀が討ち据えた。木刀は黒田の額を討った。
「うっ……」
黒田は後方へと跳び退くと低くうめき、己が額を左手で押さえる。右手に持つ太刀は切っ先をみつに向けている。押さえている左手の指の間と手首を伝って、血が滴っている。
「あなたの負けだ」みつは静かに佇んで言う。「これが真剣だったら、あなたは命を落としていた。女と見て侮ったのが敗因。上には上がいると知る事ですね」
みつは言うと、門弟の一人に顔を向ける。
「手当をしなければならない。晒と傷口用の塗り薬を持って来てくれぬか?」
言われた門弟は駈け出そうとする。
「待てい!」額を押さえたまま黒田が言う。「これ以上の恥辱はいらん!」
「恥辱?」みつは不思議そうな顔をする。「傷の手当てが何故に恥辱か? 立ち合いが終わればもう良いではないか?」
「うるさい!」
黒田は言うと、ふらつく足取りで道場から出て行った。
「……あの時の黒田伝兵衛なのか……」
みつはつぶやく。川面を流れる風が不意に止んだ。
つづく
みつは言うと、自分の額の真ん中に、真っ直ぐ立てた右の人差し指を当てて見せた。
泣き出しそうだったおてるは真顔になって、みつの様子をじっと見つめた。
「そう、黒田って人のおでこには縦に傷があったよ。結構古そうで……」おてるは言う。「……おみつさん、本当に神通力があるんじゃない?」
「そうではない」みつは額の手を下ろす。「やはりそうなのか……」
みつは深いため息をついた。
五年ほど前の事になる……
三衛門は剣術に少しでも興味関心がある者を、武家も町人も農民も分け隔てなく通わせ、皆門弟として扱った。門弟同士も分け隔てなく仲良く付き合うようになって行った。三衛門の人徳のなせる業なのか、みつを目当てに通っている仲間意識からなのかは分からないが。
そんな折、ふらりとやって来たのが、その時からすでに浪人だった黒田伝兵衛だった。
門弟の一人が慌てた様子で奥の座敷の三衛門の所に来た。
「黒田伝兵衛と申す者が、先生に、是非とも一太刀ご教授願いたいと、来ていますが……」
「そうか。まあ、上がってもらいなさい」
三衛門は気軽に応じ、道場に上げた。
三衛門が支度をして道場に向かうと、中央に佇む黒田伝兵衛がいた。陰気な雰囲気で、全身から滲み出る殺気には凄まじいものがあった。門弟たちは怖気づいて道場の隅に固まっている。
「待たせてすまんかったのう」三衛門が言って笑む。しかし、黒田は笑わない。むしろ殺気を強める。「これこれ、そんなに殺気を撒き散らすでない。ここは稽古の場だ。命の遣り取りをする場ではないぞ」
「……オレは遊びで来たのではない」黒田は押し殺したような声で答える。「それに、オレが所望するのは、お前ではない」
黒田の不遜な物言いに門弟たちはいきり立つが、圧倒的な迫力に呑まれて、身動きが出来ずにいる。
「ほう、わしが所望ではないとな?」三衛門は言うと門弟たちを見る。「では、あの者の中に所望する者がいると申すのか?」
三衛門の言葉に門弟たちはすくみ上がった。この中の誰が相手をしても手も足も出ないだろう事は火を見るより明らかだったからだ。
「……」黒田は無言で門弟たちを見る。しかし、すぐに顔を三衛門へと戻す。「あの中には居らん」
門弟たちのほうっと言う安堵の息が大きい。三衛門は苦笑する。
「……では、誰を所望かな?」三衛門は言ってから、はっと気がつく。「まさか、みつ、か?」
「そうだ」黒田はうなずく。「江戸へ着いてから、やたらと『女侍』の話を耳にし、そいつがここの娘と知った」
みつをそいつ呼ばわりされ、門弟たちが黒田を睨む。しかし、逆に睨み返され、すっと視線を床に落としてしまう。
「お主の話は分かった」三衛門は言う。「だがの、みつがうんと言わねば立会いは出来んぞ」
「そうなれば、名ばかりの腰抜けと言って回るだけの事だ」黒田は小馬鹿にしたように鼻で笑う。「まあ、実際もそうであろうがな。江戸の馬鹿どもは面白がって言っているだけだろう」
「ははは、そうであろうな」三衛門はうなずく。門弟たちは驚いた顔で三衛門を見る。「ならば、もう良かろう。みつは名ばかりの腰抜けと言って回るが良かろう」
「先生!」こらえきれずに一人の門弟が立ち上がった。「先生がみつ様の実力を知らぬ筈がありますまい! この者が如何様な手練れであっても、みつ様が負けるわけがございますまい!」
この言葉を機に、門弟たちは一斉に立ち上がり、「そうだ、そうだ」と口々に言い出した。三衛門が制するが、一向に止まない。
「……どうやら、立ち合いは避けられない様だな」黒田は言う。「そいつを、『女侍』を出してもらおうか」
「……やれやれ、面倒な事をしたくはなかったのだが……」三衛門はため息をつく。「断っておくが、どうなっても知らぬぞ……」
「ふん、所詮はお稽古の剣だろう? オレは幾度も実践をくぐり抜けてきた剣だ」
「斬り合い、殺し合いか……」
「そうだ。オレが本当の剣を教えてやる」
「……だそうだ、みつ」
三衛門は道場の外に向かって呼ばわった。
道場の戸板がすっと開かれ、袴姿のみつが入って来た。門弟たちは場所柄も弁えずみつの姿にほうっと熱いため息を漏らす。
「話は聞いておったな?」三衛門がみつに言う。みつは黒田を見据えたまま無言でうなずく。「お前の剣は、お稽古の剣だそうだ」
「それは聞き捨てなりませんね」みつは静かに言う。それから、改めて黒田を値踏みするように見る。「……あなたの剣は確かに実践の剣だ。だが、今までの相手はあなたよりも弱い者だったのではないか? ここへ来たのも、わたしが女故に優位に立てると思ったからであろう? 名ばかりの腰抜けは、あなたのほうだ」
「なんだとぉ!」黒田は抜刀した。「抜け! 殺し合いの剣を見舞ってくれるわ!」
殺気立つ黒田を見ながら、みつは壁に掛けてある木刀をつかんだ。
「これで充分」みつは言うと、軽く木刀を振った。風切音が鋭い。「道場を血で汚すわけにはいかない。あなたも木刀を使う事だ」
「やかましい!」
黒田は叫ぶと、三間ほどの間を跳躍し、上段からみつを斬り伏せた。が、そこにみつはいなかった。黒田の振り下ろした切っ先は道場の床を打った。
「天誅!」
黒田の頭上で凛とした声がした。思わず見上げる黒田を、高々と跳躍したみつの振り下ろした木刀が討ち据えた。木刀は黒田の額を討った。
「うっ……」
黒田は後方へと跳び退くと低くうめき、己が額を左手で押さえる。右手に持つ太刀は切っ先をみつに向けている。押さえている左手の指の間と手首を伝って、血が滴っている。
「あなたの負けだ」みつは静かに佇んで言う。「これが真剣だったら、あなたは命を落としていた。女と見て侮ったのが敗因。上には上がいると知る事ですね」
みつは言うと、門弟の一人に顔を向ける。
「手当をしなければならない。晒と傷口用の塗り薬を持って来てくれぬか?」
言われた門弟は駈け出そうとする。
「待てい!」額を押さえたまま黒田が言う。「これ以上の恥辱はいらん!」
「恥辱?」みつは不思議そうな顔をする。「傷の手当てが何故に恥辱か? 立ち合いが終わればもう良いではないか?」
「うるさい!」
黒田は言うと、ふらつく足取りで道場から出て行った。
「……あの時の黒田伝兵衛なのか……」
みつはつぶやく。川面を流れる風が不意に止んだ。
つづく
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