思い付きブログ

サイコパス感想。「人間」の脳の集合体であるシビュラシステムに支配されることに疑問を感じる「人間」と感じない「人間」

 2013年冬の「まおゆう魔王勇者」、2012年秋から2013年冬の「ジョジョの奇妙な冒険」「新世界より」「PSYCHO‐PASS サイコパス」は、人間とは何かを考えさせられ、なかなか見応えがありました。

 人間とは何かについて、4つ続けて載せるつもりが1つ別のを挟んで載せる4つ目です。

 (3月22日が最終(22)話で、1ヶ月以上も経ってしまいましたが。。。)


→まおゆう魔王勇者感想。国際政治経済を分かりやすくアニメ化だが、メイド姉の人間宣言も良かった

→ジョジョの奇妙な冒険感想。人間讃歌とは何か?人間とは何か?分かったような分からないような

→新世界より感想。人間とは何か?元人間のバケネズミは人間か?「想像力こそが、すべてを変える。」かな?


◎「PSYCHO-PASS サイコパス」

 シリアスですが、なかなか格好良く、なかなか楽しかったです。
 常守朱(cv花澤香菜)が、メインヒロインなのに特に可愛くもない普通の外見というのは構いませんが、リアリティを出すためでしょうか。

 2013年のACEでは、サイコパスのコーナーに女子が多くいましたが、話の内容は女子向けではない気がしますけれど、キャラ萌えなのでしょうか。
 確かに、狡噛や槙島を始め男が格好良かったアニメで、その格好良さは私も気に入りましたし、久しぶりに男が格好良いアニメだと思いましたけれど、内容のファンだといいのですけれど。。。


◎ 14話前半は、ここまで描くのか、と驚きでした。

 目の前で女性が殴り殺されているのに、それを止めようともせず笑顔で写真や動画を撮る人、通り過ぎる人、それが犯罪を見て見ぬふりをしているのならまだ救いはあるのですが、何が起きているのかが認識できていないからとのこと。殺されようとしている女性すら、自分が犯罪被害者になっていることも殺されようとしていることも含めて、何が起きているのかを認識できていない表情でした。

 犯人は、自分の犯罪係数を遮断して周りの正常な犯罪係数の人の犯罪係数を映すサイマティックスキャン妨害ヘルメットをかぶっているとか。槙島聖護(まきしましょうご)(cv櫻井孝宏)のたくらみ。


 これは、あらゆる場面に浸透したシビュラシステムによって殺人も小さな犯罪も未然に防がれてきたため、一般国民は、犯罪を目にすることが無くなった、自分が犯罪に巻き込まれることもなくなった、よって、犯罪を想定する必要がなくなったということであり、犯罪に注意する必要がなくなったということであり。

 その結果、一般国民は、犯罪というものが理解できなくなったということであり、犯罪が目の前で起きても犯罪と認識できず、危険を危険と認識できなくなったということであり。


 ある程度の危険を経験しないと(実体験でないとしても、少なくとも、知識としての経験が必要。)、実際に起きた危険に対処できないどころか危険を危険と認識できなくなるとか、あるいは、中程度の危険を経験しないと大きな危険に対処できないとか、大きな危険を大きな危険と認識できずに小さな危険と誤認してしまうとか、現実でも良くある話です。


 現実に当てはめて細かく見ると引っかかるところはありますが、そこは気にすべきではなく。
 シビュラシステムがそこまで浸透し、物理的に監視されていることは知っていても、心の隅々まで管理されていることに一般国民が気付かない位に管理されている恐ろしさが表現されているわけです。


○ そこで、幸せとは何か?

 このようなものがそろっていれば幸せだというような絶対的な基準はありません。
 例えば、車と持ち家と配偶者と子供がいて家族仲がよく、衣食住に困らず、また、将来もそれより悪くなることをほとんど考える必要がない状態であることが幸せなのだと定義したとして、それでも幸せとは感じない人は実際はいくらでも出てくるわけです。

 そこで、幸せとは本人が幸せだと思っていることだとすると、シビュラシステムに支配された状態の一般国民は幸せなわけです。ユートピアなわけです。

 外から見てそれは幸せではないと言ったとしても、本人達はキョトンとすることでしょう。

 但し、そんな人も、より幸せな状態を知ると、自分があまり幸せではないことや、実は不幸であることに気付いたりします。


 つまり、幸せとは、客観的にある程度の状態にあることを前提として、他人との比較も含めた主観的な要素の方が大きいということです。


・ 飢えで多数の人が毎年亡くなっていると言われる北朝鮮でも、外国はもっとひどいと政府が宣伝していて人々がそれを信じていれば、北朝鮮の人々は幸せだと思っているかも知れません。徐々に外国の情報が入るようになってきており、最近は、北朝鮮政府の宣伝は北朝鮮の国民にもあまり信じられていないのではと思いますが。

・ また、世界一幸福な国として2011年に王と王妃が来日したブータン王国が話題になりましたが、彼等とて、車や洗濯機やエアコンやオシャレな服や宝石や芸能や、物質的に豊かな他国の便利さをもっと知ったら・使ったら、果たして自分達が世界一幸せだと思うのかどうか。

 そもそも、ネットが発達した現代ですから既に外国の事情は知っているのではとも思いますが、本当に幸せだと思っているのかどうか。
 この程度、という諦めがあるのかないのか、そこはブータンの一般国民に直接聞いてみないと分かりません(尤も、どこかで諦めないと永遠に幸福にはなれませんが。)。


・ いずれにせよ、物質的に豊かで安全な日本の国民の幸福感があまり高くはないことは、皮肉ですが。


◎ 14話で驚きましたが、ある意味、15話も驚きました。

 ネット上では14話の撲殺シーンが流れていて、それを見た者が殺人であり犯罪であると認識するようになり、サイコパスが低くても悪人かも知れないからヘルメットをかぶっている者を殴り殺す一般国民が多数出るようなパニックになって(翌日くらいと思われる。)、槙島の狙い通りの展開。
 公安局刑事1課もまんまと陽動に乗せられてしまいました。


 ただ、14話では何が起こったかを認識できない一般国民を描いたのに、15話では認識できる一般国民を描いていて、認識が変わるには早すぎるのでは、と思ったところ。

 それだけ、ネット上の映像の広がりが早かったこと、ネットの威力が凄いこと、ヘルメットをかぶった者が多数出て犯罪を繰り返したこと、
そして何よりも、
善良に見える人間であっても人間が本質的に有している不安や暴力性を呼び覚ましたということなのでしょう(性善説に立つ人は、人間は本質的には悪を有していない、と言い張るかもしれませんが、それが事実なら現実世界での犯罪や不正義はもっと減っているはずです。)。



○ 刑事1課をおびき出したスキに、公安局が属する厚生省の地下にあるとにらんだシビュラシステムの正体を暴こうとした槙島らですが、16話で仲間が到達したものの、仲間とそれを追いかけた執行官の縢秀星(cv石田彰)は禾生(かせい)公安局長(cv榊原良子)に殺されました。

 公安局長が怪しいことは、14話や15話からして、読めた視聴者が多かったでしょうけれど。


○ 17話で、シビュラシステムの脳が入ったサイボーグである公安局長が槙島に対してシビュラシステムの秘密を明かしました。


 247人の人間の脳から交代で200人程の脳の機能を高速化・高度化した上でコンピューター代わりにしていたとのこと(20話で、全員が免罪体質者と明かされる。)。
 「深遠な人間の本質を示す犯罪係数の特定には、もっと高度な思考力と判断力が要求される。」からスーパーコンピュータではなく人間の脳なのだとのこと。


 槙島はシビュラシステムの一員になるよう求められますが、シビュラシステムは公平なスパコンだとされているので国民は信頼してきたところ、そもそもそれを拒否する槙島は、人生を愛しているから最後までプレイヤーでありたいと言って、人間の脳であってもシビュラシステムを否定し、公安局長を殺しました(サイボーグだし、脳は入れ替えが効くから、別の脳で何度でも生き返りますが。)。


 自分の意思と責任で、自分のために自分の人生を生きたいんですね。槙島は。
 それは自由を大事にしているということ。



◎ 20話で、シビュラシステムが朱を「正当性よりも必要性に重きを置くあなたの価値基準を、我々は高く評価している」と判断し、つまり、シビュラシステムの功罪についての清濁併せ持つことが出来る者と判断してシビュラシステムの秘密を明かしました(清濁併せ持つことの必要性は、「新世界より」でも指導者に必須のこととして示されました。)。

 シビュラシステムにとっては、20話前半で朱に言ったように、
「必要なのは、完璧にして無謬のシステムそのもの。それを、誰がどのように運営するかは、問題ではありません。真に完成されたシステムであれば、運用者の意思は問われません。我々シビュラの意思そのものがシステムであり、倫理を超越した普遍的価値基準なのです。ここにいる各々が、かつては人格に多くの問題を抱えていたのは事実です。だが、全員の精神が統合され調和することによって、普遍的価値基準を獲得するに至っています。むしろ、構成因子となる個体の嗜好性は偏った特異な者ほど、我々の認識に新たな着想と価値観をもたらし、思考をより柔軟で多角的なものへと発展させます。」
から、槙島は必要だと。


 朱に教えることによって朱のモチベーションを上げて槙島を捕まえ、狡噛に槙島を殺させないためなのだとか。


○ 朱は清濁併せ持つには至っていませんが矛盾する双方の一方を否定できない矛盾を抱えてもだえている感じ、シビュラシステムは清濁を併せ持つ感じ、どれが正義なのかなんて、なかなか答えが出ないところです。


 槙島を殺そうとする狡噛はこのアニメの世界では違法ですが、槙島は犯罪者ですから法律で裁けない槙島を裁きたいだけですから、実は正しいと言っても間違いではありません。

 法的に殺人になるから狡噛を止めようとする朱も正しいですし、シビュラシステムを直ぐに無くしたら混乱するから、当面はそれを守ろうとする朱も正しいです。
 後者について、直ぐに破壊しようとする槙島は間違っているわけですが(※)、シビュラシステムを永遠に使うことが正しいのかどうかは、正義の相対性の問題であり、価値観もからむ問題です。最終話では、朱はシビュラシスエムに反対していますし。

 (※この機会を逃したら半永久的にシビュラシステムを破壊する機会は訪れないと考えられる状態であれば、大混乱に陥ったとしても今すぐにシビュラシステムを破壊した方が、長期的には良いことであり正しいことであるとも言えるので、本来は、このアニメの情報だけでは槙島が間違っているとは断定しにくいところです。
 しかし、このアニメの雰囲気からして、槙島は間違っていると断定してよいのでしょう。

 なお、「新世界より」で元人間であるバケネズミのリーダーのスクィーラが、どれだけ多数の仲間の犠牲を払ってでも圧制者である人間を殺してバケネズミの人間からの開放を果たそうとしたことも、この機会を逃せば二度と機会は訪れないかもしれないと判断したからであり、それは正しい判断でした。結局、ささいな、しかし致命的なミスで失敗しましたが。)


○ シビュラシステムは免罪体質者を見逃してしまうように、確実にミスをするわけですが、それは世の中には知らされません。
 その場合、管理されていて自由が無いけれど(アニメでは、職業選択の自由もほとんどない。)犯罪がほとんどない安全な社会か、自由だけれども犯罪がそこそこ起きる現実の日本のような社会か。

 どちらが良いかは各人の価値観によりますけれど、私は後者がいいです。


◎ さて、シビュラシステムとつながった特殊拳銃のドミネーター(cv日高のり子)が犯罪係数を判定し、一定以下だと撃つことが出来ず、一定以上だと撃つことを推奨してくるとか。

 20話前半でのシビュラシステムが朱に「必要なのは、完璧にして無謬のシステムそのもの。」云々のくだりからすると、組み込まれている脳を制約する何かをシビュラシステムの制作者は設けた可能性も念頭におく必要があります。


 11話で、ドミネーターの判定がどこまで妥当なのかについて、朱の目の前で朱の親友を殺した槙島がずっと一定以下の正常値の判定で朱が撃つことが出来なかった話がありました(この、槙島のような免罪体質者は200万人に1人とされている。)。

 このとき、槙島は実弾の銃を朱に渡したのに、ドミネーターが反応しないからとして朱は撃つ事ができなかったのですが、このアニメの世界での法ではドミネーターが反応しないということは犯罪者ではないということになるから、迷い、嘆きながらも、(この時点では、つまるところは怖かっただけとも言えますが、)実弾の銃を撃てなかった朱は法的に正しいということになりますが。


 これは、最終(22)話で、悪法でも法だから守らなければならないと言う朱、悪法は守らなくても良いという狡噛の、ソクラテスが「クリトーン」で示したように古代ギリシャ時代から議論になっている問題です。


 それからしても、犯罪の恐れはほとんどないのに犯罪係数が高く出て社会から排除された人や殺された人も居るはずで、誰がどうやってこのドミネーターを設定しているのやら。
 スパコンであろうと人間の脳であろうと、現状のシビュラシステムに必然的に生じる限界であり欠陥だというだけですけれど。


 更に、どういう数値を測るのか、どういう数値を示せばどういう状態だと判断するのかについては(※)、意識的にせよ無意識的にせよ銃を作った人間、シビュラシステムをつくった人間の意思も入っているはずで、その基準がそもそも公平・公正とは限りませんし、人間が作った以上は適宜修正をしないと公平・公正さをより高い次元では保てなくなります。

 (※アナログレコードと違って、音楽CDが一定の幅の音しか録音されていないように、ドミネーターが人間が出す情報の全てを拾う設定になっているかは不明。そもそも、レコードが技術的に全てを録音出来ているわけではないように、ドミネーターが技術的に全てを拾えるのかも不明。また、ドミネーターが故障することもあるでしょう。)

 それは現実世界の裁判であっても同じですから、それが素早く簡単に判定できる分、良い世界なのかも知れませんが。


 ある程度は機械に任せるとしても、機械に使われてはいけないし、機械が間違わないか・間違っていないかは常に人間が判断しなければいけない、というわけです。
 このアニメでは、シビュラシステム自身(100%人間の脳が判断しているのか、システム自体が脳の判断に制約をかけているのかは20話前半の話を聞いても不明確ですが。また、制約がかけられているのならその制約をシビュラシステム自身がどうにか出来るのかも不明確ですが。)が適宜修正していますが、まだ完璧ではないということ。


◎ 人間はシビュラシステムなしでやっていけるのか? 

○ 最終話後半。

 最終話でシビュラシステム自身が、いつまでも隠せるものではないから、いつかはバレるだろうから、いつかは実態を明かした上でシビュラシステムを受け入れてもらわなければならないと朱に言っています。

 それに対し朱は、怒りを抑えつつも抑えきれずに強い口調で、
「尊くあるべきはずの法を、何よりも貶めることは何だか分かってる?。それはね、守るに値しない法律を作り、運用することよ。人間を甘く見ないことね。私達はいつだって、より良い社会を目指してる。いつか誰かがこの部屋の電源を落としにやって来るわ。きっと新しい道を見つけてみせる。シビュラシステム、あなた達に未来なんて無いのよ。」
と。

 朱が去ってからシビュラシステムが「常守朱、抗いなさい。苦悩しなさい。我々に進化をもたらす糧として。」とせせら笑ったり。


 どちらかと言うと、救いがなさそうなシーン。


○ 最終話ラストカットの1つ前。

 読みかけの「失われた時を求めて」(1913年から27年刊。マルセル・プルーストの名作長編小説)の第1篇「スワン家の方へ」(1913年刊)が船らしき狡噛の部屋の机上にありました

 私は未読ですが、失われた時を求めての、そして円環になっている長い長い小説のようです。


 このシーンは狡噛だけの将来を示していると考えるのが一番妥当かもしれませんが、朱の将来もシビュラシステムの将来も示しているかも知れないことも仮定すると、次のような解釈かと。

・ 長い小説という意味では、読み通せるのかという問題があります。
 ただ、狡噛は難しい本の内容を引用しての会話をよくしていることから読書家に相違なく、そこは問題ないでしょう。
 朱だとしても、優秀な成績だったわけですから、ほぼ問題ないでしょう。

 そこから、狡噛あるいは朱は自らの信念を成し遂げることが示されていると考えることが出来ます

・ また、小説の最後には失われた時を見出すようですから、シビュラシステムのない元の日本、しかしそれは元の日本と同じではなくて(※)、シビュラシステムがなくても安定している新しい日本を創造することが示されていると考えることが出来ます

 (※一度手に入れた大事な「物」を失い、再度手に入れると、同じ「物」であるのにそれに対する思いは同じ「もの」ではなくなっているという感覚のように、実質的に違う「物」になっているということ。)

・ 一方、円環小説であるということからすると、結局はシビュラシステムの必要性からは逃れられない、新しい創造は何も成し遂げられないということが示されていると考えることが出来ます

 ただ、新米扱いはしていられない、執行官は同じ人間と思うなという趣旨のことは、1話で宜野座監視官が新米監視官の朱に言ったことですが、最終話後半では、朱監視官が18歳の新米監視官の霜月美佳(cv佐倉綾音)に言ったことと趣旨は同じです。
 これからすると、宜野座が犯罪係数が上がって監視官から執行官に下がったように、朱が執行官になって円環になるのかと言うと、朱は犯罪係数が低いこともあってその可能性は低いのでは。

 また、宜野座の執行官を毛嫌いしたトゲのある冷たい言い方から、朱は少し普通の言い方に変化しています。円環とは言え、少しですが変化しているということでしょう。

 これからすると、少しずつでも変わっていき、日本が変わることを示していると考えることも出来ます。



 小説を読んでいないので制作者が本当に言いたいことは分かりませんが、希望が持てるシーンだと思ったんですけれど、ラストカットを見ると、希望が消えていく・・・・・
 

○ 最終話ラストカット。

 「正義(システム)の連鎖は、終わらない―」
 「SIByl still continues…」


 とラストカットに出すとは、あまり救いがないエンディングです。


 それだけ、シビュラシステムなしの人間を信頼できるようになるには時間がかかるということであり、シビュラシステムが出来の良いものだということでもあり。

 シビュラシステムが何故出来が良いのかと言うと、肝心なところは、深く柔軟に思考できる複数の人間の脳が判断しているからでしょう(シビュラシステムの制作者が何らかの枠を設けている可能性はありますが。)。

 だから、シビュラシステムに対する朱の「人間を甘く見ないことね。」という言葉は矛盾になるわけですが、清濁併せ持ち、矛盾を抱えた朱、それは普通の人間があまり意識していないけれど実は抱えている矛盾、それを象徴しているということでしょう。


 「―」や「…」が、可能性はゼロではないことを示している、と思うことにしますが。



◎ しばらく余談です。

 現実の国会であっても、人間である多数の議員が集まって一応議論して決定していくわけですが、そこはシビュラシステムも同じです。国会議員は選挙で選ばれるけれども、シビュラシステムに組み込まれている脳はそうではない点が違うくらいのものです。

 しかし、犯罪者を含む特異な人間ばかりを集めたシビュラシステムの個々の脳の意見が上手く集約されていることが不思議です。
 会社であれば上下関係が明確なので、上司が決めたことは間違いであっても従わざるを得ませんが、それぞれが対等な関係であるシビュラシステムでは不思議です。


 例えば、現実の国会であっても、政党間はもとより、ある程度近い考えの人間が集まっているはずの同じ政党の議員であっても、考えや価値観の相違、利害の相違などによって意見がなかなかまとまらずに決められないなんてことは、日本だけのことではありません。

 派閥のボスがこうだと言ったからとして従う議員も多いですが、それとて従うことに何らかのメリット(政党に公認してもらえるから当選しやすくなる、お金がもらえるから活動資金集めの苦労が減る、選挙で派閥のボスや党の幹部に応援に来てもらえるから当選しやすくなる、各種情報を得やすいなど。)があるから従っているだけであって、それに見合わない大きな不満があれば、別の機会に噴出するか、決定に従わないか、派閥を出るか、となり、そんな議員は現実にもいるところです。


○  20話前半でシビュラシステムが朱に、「必要なのは、完璧にして無謬のシステムそのもの。それを、誰がどのように運営するかは、問題ではありません。真に完成されたシステムであれば、運用者の意思は問われません。我々シビュラの意思そのものがシステムであり、倫理を超越した普遍的価値基準なのです。ここにいる各々が、かつては人格に多くの問題を抱えていたのは事実です。だが、全員の精神が統合され調和することによって、普遍的価値基準を獲得するに至っています。むしろ、構成因子となる個体の嗜好性は偏った特異な者ほど、我々の認識に新たな着想と価値観をもたらし、思考をより柔軟で多角的なものへと発展させます。」だと。


 シビュラシステムの個々の脳は、同じ政党の議員よりも考えの違いが大きいはずです。更に、特異な人間の脳を集めていることから、政党と政党よりも考えの違いが大きいでしょう。

 そんな個々の脳の集まりで意見がまとまるのかが疑問ですが、20話によると、シビュラシステムはシステムとして「統合されれ調和する」のだと。


 現実世界であれば、特異な人間であればあるほど、まとまりにくくなります。
  (特異な人間同士の考えのぶつかり合いは、文化や芸術や科学であれば、意見がまとまる必要はないですし、刺激になるので、新しい考えが生まれてブレイクスルーが起きるためには重要なことです。しかし、シビュラシステムは意見をまとめないといけないので。)


 シビュラシステムでも人間の脳が最終判断をしているのであれば、そこは同じはずです。


 皆が免罪体質者であるなどで孤独感が強かった人間の脳の集りであってベースは共有されているから、シビュラシステムの個々の脳は最終的にはまとまるということであれば、それは特異な脳の集りがシビュラシステムの完璧性を高めるために必要という前提に疑問を生じさせます。
 つまり、様々なベースと考えの人間が集らないと、想定外の人間の考えを理解出来なくなるものですが、シビュラシステムにそれが出来るのかと。出来ないから、免罪体質者が出るのでしょうけれど。


 最後は多数決をするというルールにすれば結論を出すことは難しくはありません。
 しかし、心がないロボットではなく、脳には心があるので、それでは不満がたまるはずです。

 脳だけですから、その不満をどうやって解消するのかが謎です。

 局長の体がサイボーグであるように、サイボーグに脳を入れて普通の人間のように街に出て酒を飲んだり遊んだりということもできるでしょうししているようですが、そんなことを頻繁に認めたら、中には二度とシビュラシステムに戻りたくないと言う脳も出てくるでしょう。


 しかし、そうではないということなのでしょうか?。
 やはり、シビュラシステムを作った人間の何らかの意思が入った枠の中で脳が判断しているということなのでしょうか?。
 そうだとしたら、人間が作ったプログラムに基づいてスパコンが機械的に判断している部分があるわけで、シビュラシステムの人間である脳が判断している部分との割合によっては、シビュラシステムがどこまで人間なのかについてもっと考えないといけませんが、仮定すぎるので置いておきます。


○ シビュラシステムの運用理念は「成しうる者が為すべきを為す。これこそシビュラが人類にもたらした恩寵である。」というものであり、サイマティックスキャンによって計測した生体力場から人間の精神状態を科学的に分析して得られるデータをサイコパスとして数値化し、そこから導かれた深層心理から職業適性や欲求実現のための手段などを提供する包括的生涯福祉支援システムなのだとか。

 (ところで、「まおゆう魔王勇者」のメイド姉(cv戸松遥)の人間宣言でも人間は考え、意思を持つことをやめたら人間ではなくなるという趣旨のことを言っていましたが、ほとんどのことを他人に決められてしまい、自分で迷ったり選んだりする自由がない社会は私は嫌ですが、「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム著、1941年)はしたくない私としてはそれ以上に、私が他人に決められてしまう状況に不満を持たなくなってしまったとしたら、そんな自分自身はもっと嫌です。まあ、それはさておき。)


 17話で公安局長が槙島に言っているように、シビュラシステムを構成する脳は、他人の人生を決めている、世の中を支配しているという全能感がよいとのこと。
 社会にとって良いことをしているということに喜びを見出している脳もあるでしょうけれど、自分勝手な人間の脳の集まりですから、それはいても少数でしょう。

 機械ではできないという、人間の本質を示す犯罪係数の判定が主たる任務ですから、世の中のほとんどがそれで決まっているから、それで全能感を十分に味わえるということなのでしょうけれど。


 また、免罪体質者であったことを契機に、犯罪者であったり、他人とは異なる人間であったことから、槙島のように疎外感を持っていた者が多いという旨も公安局長は言っていました。


 正しい方向に世の中を動かし支配しているという感覚と事実にアイデンティティを見出した人間がシビュラシステムに組み込まれることに同意し、その脳はその感覚と事実にアイデンティティを見出して満足し続けているわけですが、本当に人間はそれで満足し続けることができるのかどうか。

 そこは、人間の欲求は限りないので、中長期的にみれば私は懐疑的ですけれど、これまでは上手く回ってきたようですが、それが不思議です(多分、あまりにズレてきた脳があれば排除=殺してきたのでしょうけれど。)。


 槙島はそこにアイデンティティを見出さなかった・見出せなかったからシビュラシステムに組み込まれることを嫌悪して断ったわけで。


 シビュラシステムに組み込まれることに同意した人間と違って、槙島は、シビュラシステムを嫌悪するだけの知性というかアイデンティティというか、そんなものは持っていたということでしょう。

 また、シビュラシステムに組み込まれれば孤独ではないけれど、最後までプレイヤーでいたいと公安局長に言う(17話)槙島にとっては生きている実感を得ることが出来ないと判断したのでしょう。狡噛と、捕まえられるものなら捕まえて見ろと言わんばかりのやりとりをしているときの槙島はかなり幸せそうに見えましたが、その時は生きている実感を味わっていたのでしょう。


◎ さて、シビュラシステムは人間か?

 人間とは、ほぼ脳のことであり、人間≒脳です。心は脳にあり、脳が死ねば人間の心は直ぐに、肉体もやがて死にます。
 シビュラシステムは、人間の脳をユニット化して思考力や機能を拡張したもので、人間の脳の集合体ですから人間と言うべきでしょう。


○ 人間だと公平ではないと一般国民は思っているので国民からの信頼が得にくく、スーパーコンピュータという機械が判断している方が信頼されるから一般国民にはシビュラシステムの正体はスパコンだと説明しているけれども、いずれはバレるだろうからいずれは正体を明かしたいが、今はシビュラシステムの正体は明かせないというのがシビュラシステムの判断です(最終話)。

 その判断自体は正しいのでしょうけれど、人間よりも機械を公平であるとして信頼する一般国民という人間は「自由からの逃走」という感じ。

 機械の方が公平なのは確かですが、それは融通が利かないということでもあり、個々の事情に応じた対応はしないということです。
 だから、何も悪いことをしていない犯罪被害者であっても恐怖により犯罪係数が規定値を超えればドミネーターが犯罪被害者を撃つように指示するわけです(1話では、被害者はしばらくして犯罪係数が下がってきたので、被害者を撃つべきでないと判断した朱が結果論としては正しかったわけですが。)。

 機械は間違わないから任せるという態度が、「自由からの逃走」という感じ。


○ シビュラシステムが他人を支配しているという全能感、この全能感というのはほとんどの人間の幼児期に見られるものであるように幼児的なものなのであり、とても人間的なものでもあります。

 シビュラシステムを肯定的に見ているほとんどの一般国民のように、自分では何とも出来ないから、何かにすがりたいし誰かに決めてもらいたい、その方が楽で良いというのも、とても人間的なものでもあります。

 ただ、(成熟した大人が現実世界にどれだけいるのかということはさておき、)いずれも成熟した大人ではありません。
 人間として半人前です。


 とは言え、理論上は、両者は人間として成熟した大人に成長する可能性はあります。


 一方、イルカやチンパンジーは動物の中では比較的知能が高いと言われていますが人間には到底及ばないわけで、人間の小学生にも到底及ばないでしょう。仮に幼児並みの知能を持っていたとしても、成長して人間の小学生や大人並みの知能になることはあり得ません(長期にわたる進化の結果としてならあり得るが、1個体の成長の中ではあり得ない。)。

 だから、人間ではないし人間並みに扱う必要もないわけです。


○ さて、人間の条件として「ジョジョの奇妙な冒険」が人間らしい心というのを上げていると思われますが、シビュラシステムに人間らしい心があるのか?

 シビュラシステムは、ある事実やデータを前にして、個人的な好みや感覚も踏まえて考えて判断するものであることから、感情や心はあります。

 していることは社会に役立つことであることもあって、人間らしい心はあると言って良いでしょう。


 一方、シビュラシステムに頼りきった多数の一般国民が人間なのかと言うと、「まおゆう魔王勇者」のメイド姉の人間宣言からすると、自分で考えることを放棄した人間は「虫」扱いで人間ではないことから、一般国民は人間ではないと言うことも出来ます。


 つまり、シビュラシステムは人間であり、シビュラシステムを嫌っている人間(ほとんどは犯罪者かその予備軍。)も自分の頭で考えていることから人間であり、シビュラシステムに頼っている善良な一般国民は人間ではないと言うことが出来るわけです。


 とは言え、一般国民も人間として扱わざるを得ないわけで。
 つまり、皆、人間だということになります。


 人間の定義はどの面から見るかによって異なる場合があり、いずれかが間違っているというわけではない場合があると言うことであり、「言葉とは、その時々の状況を踏まえて発せられるものであり、その時々の状況を踏まえて解釈されなければ誤解を招く。」ということです。


○ いずれにせよ、このアニメにおいては(現実世界においても、ですが。)、やはり、シビュラシステムも一般国民も人間なのです。

 しかし、シビュラシステムは、「何やら人間ではない何かではないのか?」という感覚はなんなのでしょうか?。


 外見が人間の形をしていないことが一つ。

 これは、同じ人間でも人種が違うと違和感を感じることに似ています。


 結果として間違いが少ないシステムであることが一つ。

 これは、優秀すぎる人間や、誰もが慌てふためく事態になっても冷静に物事を判断できる人間に人間味を感じないことに似ています。
 つまりそれは、シビュラシステムは、人間である自分と違う部分が多く、また、人間である自分より極めて優秀だ、という感覚です。



 まるで神を見ているかのよう。
 組み込まれた脳が全能感を感じるのも尤もです(17話)。


 神は人間ではありません。

 (なお、現実世界に神がいると仮定して、現実世界には争いが絶えないなどの問題が多いこと、神職にある人間が幸せとは限らないことや犯罪に巻き込まれることがあることから、人間ほどではないのでしょうけれど、神も多少は間違いを犯していることになります。それとも、神が関与しているからその程度で治まっているのだ、とか、神は何もしないから間違いは犯さないのだ、とでも言いますか?)


 そんな感覚が、シビュラシステムを人間と言うことに今一つためらいを感じる理由でしょう。



◎ いいアニメでした。

 下は2013年のACEにて。実物大かなあ。

 左から、
 16話で公安局長に殺された執行官の縢秀星(かがりしゅうせい)(cv石田彰)
 21話で息子の宜野座をかばって槙島に殺された執行官の征陸智己(まさおかともみ)(cv有本欽隆)
 監視官から最終話で犯罪係数が上がって執行官になった宜野座伸元(ぎのざのぶちか)(cv野島健児)
 槙島を殺して殺人犯になった元監視官で元執行官の狡噛慎也(こうがみしんや)(cv関智一)
 監視官の常守朱(つねもりあかね)(cv花澤香菜)
 医師で潜在犯の唐之杜志恩(からのもりしおん)(cv沢城みゆき)
 執行官の六合塚弥生(くにづかやよい)(cv伊藤静)
 そして、奥が槙島聖護(まきしましょうご)(cv櫻井孝宏)



 最終話で槙島は狡噛に殺されるとき、笑顔を浮かべて満足そうな感じがありました。
 前にいる7人は、こういう明るい笑顔で終われなかった話なわけですが、だからこそ、カラーで、こういう淡く描いた絵と笑顔が、やるせなくさせます。



【shin】


【2015年1月18日追記】

→「サイコパス2期、1期新編集版 感想。2期は残虐シーンが露骨だが、1期と劇場版をつなぐ良い物語」

→「サイコパス劇場版 感想。格闘シーン、朱と狡噛との付かず離れずに関係などが良い」


【shin】
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「  アニメ2012年感想等」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事