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新世界より感想。人間とは何か?元人間のバケネズミは人間か?「想像力こそが、すべてを変える。」かな?

 2013年冬の「まおゆう魔王勇者」、2012年秋から2013年冬の「ジョジョの奇妙な冒険」「新世界より」「PSYCHO‐PASS サイコパス」は、人間とは何かを考えさせられ、なかなか見応えがありました。

 人間とは何かについて、4つ続けて載せる3つ目です。

 (4月21日に載せたときの歌詞に間違いがあったので修正しました。失礼しました。)

→「まおゆう魔王勇者」の感想へのリンク

→「ジョジョの奇妙な冒険」の感想へのリンク


◎「新世界より」

○ 原作小説は未読ですが、約1400ページ(講談社文庫)。字は大きめなので、1ページ1分、24時間もあれば読めそうです(私は、24時間耐久読書は出来ませんが。。。)。

 人間とは何か、人間の自分勝手さ、仲間の大切さ、仲間以外には残酷な人間の本性などを描き、全体として力の入った良いアニメで楽しめました。


 (左から、スクィーラ(野狐丸)、26歳のときの朝比奈覚と渡辺早季、奇狼丸。)


○ さて、前半くらいはゆっくりと話が進む感じで、少しかったるかったです。

 ただ、それは私に余裕がないということでしょう。

 謎めいた静かなBGMとともにジワジワと来る感じ、それが今後への不安を誘う感じ、そして、早季の運命への悲哀を表現しているというエンディング主題歌「割れたリンゴ」がそれらを増幅する感じ。

 12歳時と14歳時の話、特に12歳時の話は、最終話へ収斂するものとして、こういうもの自体を味わいながら見ないといけないのでしょう。


○ エンディング主題歌「割れたリンゴ(歌・渡辺早季(cv種田梨沙)、詞・稲葉エミ、曲・尾崎力)がいい!
 アニメに良く合った歌詞とメロディ、良くできた主題歌です。

 →HMVので少し視聴できます。


 渡辺早季(cv種田梨沙(26歳まで)、遠藤綾(36歳))の歌が、17話から秋月真理亜(cv花澤香菜)の「雪に咲く花」に変わったのは残念でしたが、種田さんより花澤さんの方が人気ですし、CDの売り上げを考えれば仕方ないのでしょう。

 →goo音楽の歌詞へのリンク




 冒頭から最後まで繰り返される、切なく、思春期の不安定さを少しばかり感じさせるギターのメロディ


 「泣きそうな 青リンゴ」(1番冒頭の1節)である12歳(1~7話)、14歳(8~16話)の少女の早季。

 大人が呪力が暴走しそうな危険な子供を処分して町の安全を保つなど、一定の型にはめる教育や社会などのシステムを少しずつ知るに連れ、そんな運命に対して、
 「運命に 従順に 熟すのを 待つもんか」(1番)、
 「誰かの花壇に 行儀よく咲くもんか」(2番)と頑張るけれど、

 更に、「嵐に あらがう しゃぼん玉」(1番)として運命にあらがおうとするけれど、

 そして、「いつの日か空掴め」(2番)と希望するけれど、

 しかし、自分が次の指導者として相応しいと告げられているけれども全体を変える力はまだない、所詮、「わたしは しゃぼん玉」(1番)と分かっている早季。

 だからせめて、「弾ける瞬間 虹、放て」(1番と3番の最後)と、後世に託す「虹」=「希望」を持ちたい早季。


 (この歌は早季の少女期について歌ったのが主なのでしょうから26歳以降の話である17話からは使われなかったのでしょうけれど、早季が本当に運命にあらがったのは、大人になって、バケネズミが元「人間」であることを知り、清濁併せ持つようになり、必要に応じてルール違反もするようになった26歳以降ということを考えると、アニメ全体に当てはまる歌です。)



 その「希望」は、スクィーラ(人間が付けた名は「野狐丸」)(cv浪川大輔)が叶えることが出来なかったけれど跡を継いで「人間」を倒す者が出てくることをわずかに希望」するスクィーラの「希望」と、

 早季が叶えることが出来なかった「人間」とバケネズミが仲良く暮らすという希望」だけれどもいずれ叶うことを「希望」する早季の「希望」を後世に託すという2人の「希望」を意味することとなり、

 更に、その「希望」が叶うかどうかも分からないからこそ抱く「希望」を意味することとなり(※)、「希望」がわずかしかないからこそ抱かずにはいられない「希望」を意味することとなり、

 それに気付いているスクィーラと早季のやるせない思いが悲しく響きます。

 (※「希望」がなくなると「絶望」となるが、最終話で負けて捕まったスクィーラは裁判前に会いに来た早季と覚に、「メシアという絶対的な切り札を得ながら、単純なトリックにひっかかり、全てを失ってしまった。歴史を変えられるはずだった。これほどの好機は恐らく、もう二度と訪れない。」と、「絶望」に近いものの「訪れない」と断定せずに「恐らく」と言っていることから、それは「絶望」ではないということ。最終話で早季も、手記で後世に託していることから「絶望」はしていない。)


 最終話の途中まではこの「割れたリンゴ」は、上記の、悲しい希望という解釈が相応しいです。

 しかし、アニメの終わり方としては、明るい希望となっています。
 その点は下に。


○ 17歳までは人権がなく、思春期までの子供は呪力が暴走して「人間」が悪鬼や業魔になると他の「人間」を攻撃したりするので大人は実は子供に恐れも抱いているから、危険な子供は処分され、他の子供はその危険な子供の記憶を消されるなんていうのは、自らの呪力の力によって呪力のない「人間」やバケネズミを奴隷や奴隷並に扱って、気に入らなければ平気で殺してきた「人間」が、子供の呪力に怯えるというのは、まるで喜劇です。

 現実社会でも、子供の純粋性や無邪気さに必然的に備わるマイナス面として残酷さがあります。イジメているつもりはなくイジメをして自殺に追い込む子供とか、小動物とかを楽しいからとして笑顔で平気で殺す子供とか、いずれも単に楽しんでいるだけで何ら悪気がない場合があります。
 子供って、実はそんなものです。


○ 「人間」による裁判でのスクィーラの熱く激しい弁明。人間宣言とも言えます。

 「私の名は、スクィーラだ!
 (ここの、「人間」からもらった「野狐丸」という名前を拒否するプライド、いいですね。最近まで人種差別の国だった南アフリカで、黒人を奴隷扱いしていた白人に黄色人種の日本人が「名誉白人」と呼ばれていたこととは正反対ですが。それを受け入れるというのは清濁併せ持つということでもあり、頭から否定するつもりはありませんが。)

 「私達は獣でも奴隷でもない!
 「私達は人間だ!
 「好きなだけ笑うがいい!。悪が永遠に栄えることはない!。私は死んでも、いつの日か必ず跡を継ぐ者が現れるだろう!。そのときこそ、お前達の圧政が、終わりを告げるときだー!

 (本来、「人間」が悪いのであって反乱するバケネズミに正義があるのですけれど、バケネズミが元「人間」であることはごく一部の者しかしらない極秘事項ですから、「人間」はバケネズミを動物という「人間」より下等なものとしか思っていないので。)

 ただ殺すだけでは物足りないとして、半永久的に苦しみ続ける無間地獄の刑に処せられたスクィーラですが、「人間」もあくどいものです。
 (こういうあくどさは、相手が「人間」ではないからというだけではなく、相手が「人間」であっても「人間」は行うものです(いくらか躊躇はするかも知れませんが。)。)

 でも、早季だけには復讐するだけでいいのかと自問する良心がありました。


 その後に、覚が秘密で調べた結論としてバケネズミが元は「人間」であったことを知って愕然とする早季ですが、スクィーラが、裁判での弁明の機会のときや、裁判前に会いに行った早季と覚に、それを明確に言わなかったのは謎です。話の都合上、もっと後で早季や視聴者に知らせた方が衝撃的で面白いということなのでしょうけれど。


○ 覚と結婚して36歳になった早季は妊娠し、手記を完成させ、1000年後という相当な後世の者から見て希望が実現されていることを希望しました。

 早季「ねえ、私達、本当に変われると思う?」
 覚「変われるさ。変わらなきゃ。」
 早季「この子が大きくなる頃には、もっといい社会になってるといいわね。」
 覚「大丈夫。絶対そうなるよ。」
 早季の心の言葉「恐怖の対象から、希望へ。」(子供が「恐怖の対象」から「希望」になるようにという意味でしょう。)


 次のシーンで、手記をこう結んでいます。
 「わたしたちは、はたして変わることができたのだろうか。
 今から千年後に、あなたが、これを読んでいるとしたら、その答えを知っていることだろう。
 願わくば、その答えが、イエスでありますように。



・ ドヴォルザークの「新世界より」の第2楽章の優しい曲をBGMにして、
 子供の頃の仲間達の早季への優しい言葉の回想を映しつつ、
 早季が妊娠していること、
 早季と覚の会話の微笑ましい雰囲気、

 そして、ラストシーンの学校の廊下の張り紙に、子供達が楽しそうに騒ぐ声をBGMにして、「想像力こそが、すべてを変える。」と書いてあり、それが眩しい太陽の光に消されて「完」に変わるところからして、制作者としては「希望」が叶うことを暗示しているのでしょう。


 なお、「想像力こそが、すべてを変える。」という張り紙は、最終話以前の話でもあったのであれば、これまでもこれに基づいて教育してきたのにこういう結果になったのですから、これからの学校も社会も変わらないと言っていることになります。

 一方、このシーン以前では学校に無かったのであれば、これは早季が張るように仕向けに相違ありません。そして、このシーン以前には無かったと思われます(私が見逃していなければ。)。 


 だとすると、製作者は希望が叶うことを暗示していると考えることが妥当です。


 しかし、呪力のない「人間」を自らを守るために呪力のある「人間」がバケネズミに変えて、奴隷のように扱って気に入らなければ平気で殺してきた呪力のある「人間」ですが、その罪深さに気づいたのは早季だけではないかと思います(覚は言葉だけでは気付いているとも判断できますが、印象としては、本当に気付いているのかは良く分かりません。)。

 そして、「想像力こそが、すべてを変える。」と早季が言うのであれば、「想像力」を持たせないような教育と社会的仕組みを変えないといけないわけで、その上で、「想像力」のない「人間」に「想像力」を持たせるような教育をしないといけないのですが、早季がそこまでしているのかどうか。。。
 (ここは、「サイコパス」のテーマとも重なります。)


・ 早季の手記からは、叶うとしても数百年後、1000年後という長い道のりを認識しているわけですから、早季は希望が叶うかどうか分からないと認識していると考える方がより妥当だと思うのですが。

 (なお、早季の「希望」がバケネズミとの対等な関係に基づく共存も意味しているかどうかは確実ではなく、子供のことを「恐怖の対象から、希望へ。」と早季が思ったように、「人間」の中だけでのことである可能性も排除できません。両方である可能性が一番高いですし、そう考えるのが妥当ですが。)


 いろいろなもので「希望」の成就を暗示している制作者ですが、「希望」が叶うだろうと「希望」を持つには遠すぎる未来だと思うのですが。
 しかも、「希望」を叶えるために早季が張り紙以上のどんなことをしているのか、良く分かりませんし。

 「希望は持てるけれども、どうなるのか分からない、若しくは、ゼロではないがあまり期待は出来ない、というのが妥当なところだと思うのですが(それは、現実社会でも同じことです。)。


 スクィーラは、圧制者である「人間」からの自由と解放という「希望」を叶えるために死ぬ気で戦い、負けました。
 早季は、メシアを殺そうとした覚が巻き添えになると一人ぼっちになるから嫌だとして覚を助けるためにメシアも助けました(最終話)。この方法を探しにワザワザ東京まで来たのに、しかも、この後に別の方法でメシアを倒せなかったら早季も町の人々も全員が殺されていたであろうのにです。多々、甘さがあります。


 「希望とは、絶望する勇気も潔さもなく、実行し実現する断固たる勇気も覚悟もやる気もない人間が持つ、アイデンティティを保つための方便である。」
 と誰が言ったか言わなかったかは知りませんが、スクィーラにはこれは当てはまりませんが、早季には当てはまる気がしてならないところです。


○ 「人間」とバケネズミの割れたリンゴは、元通りの丸いリンゴには戻らないのでしょうね。

 それでも、新しいリンゴの形つまり、「人間」とバケネズミの新しい関係を見出せるかどうかは分からないけれど、それを見出さないといけないのでしょうけれど。。。。。





○ あとはオマケの感想です。人間とは何かなど、思い付いたことをツラツラと。

 「新世界より」と言うとドヴォルザークの名曲の交響曲第9番のことでもあり、「新世界」とは、当時、ヨーロッパから見た場合に新しく発見された北アメリカ大陸のことです(なお、白人らがアメリカ大陸を知る前にインディアンが住んでいたので、人間にとっては既に知られた既知の大陸でしかない。)。

 第2楽章はとても有名なゆったりと落ち着いた曲で、「遠き山に日は落ちて」(詞・堀内敬三)、「家路」(詞・野上彰)などの歌にも編曲されています。

 序盤の、夕方の一定の時間になると子供に帰宅を促すために音楽が流れるシーン、ジワジワと来た後にフッと「家路」が使われていて、この曲は夕方に良く似合います。


 この曲は、本来であればホッと一息つくところなのですが、1話冒頭(1000年前のシーン)で呪力が暴走した少年が繰り広げる殺戮シーンでBGMに使われていたことから、この曲は不安を静かにあおる曲となりました(最終話のラストを除く。)。


 この曲は、本来、ザワザワした曲ではないのですが、アニメ内では、何やら落ち着かず、ザワつく感じ。

 この、ジワジワかつ不安を誘う感じ、大袈裟に言うと、精神病経験者が真面目に見たら再発するんじゃないか、という雰囲気。


○ キャラの顔が、赤みがかなり少ないことや表情が硬いこともあって、ちょっと違和感。

 厚化粧な感じと言うのでしょうか、仮面を付けている感じと言うのでしょうか、今一つ生気や活気に欠けると言うのでしょうか、上手く表現できませんが、そんな感じ。


 シリアスで命の危機に直面しているシーンが多い話ですから表情が硬いのは当然なので、そのせいなのでしょうし、呪力が暴走しないよう常に監視・管理されている状態の社会であること(ほとんどの子供はそれに気付いていないはずですが。)を表しているのでしょうし、早季らの置かれた状況や心情を表現したものなのでしょうから、このアニメに相応しいと評価すべきなのでしょうけれど。


 あと、キャラの目が少女漫画のように大きく、シリアスな話なのに少し違和感。
 星がキラキラしているわけではないので、あまり気にすべきではないのでしょうけれど。


○ 奇狼丸(これは「人間」が付けた名で本名ではない。)(cv平田広明)のコロニーが、スクィーラらによって簡単にほぼ全滅したのは、18話で呪力によるものとしか考えられないという話は出ていました。


 町から出ざるを得なくなって逃げた秋月真理亜と伊東守(cv工藤晴香(12歳)、高城元気(14歳))の赤ん坊がスクィーラに育てられメシアと呼ばれ

 「人間」はメシアを「人間」と認識するのでメシアを殺すと愧死機構が働いて死ぬから、メシアを殺せないとか。

 最終話で、メシアに勝つために人間に変装させたバケネズミの奇狼丸を犠牲にした、バケネズミが元は「人間」だとはまだ知らない早季


 メシアはバケネズミだと思い込んで育ったので、一方、実は「人間」だから呪力と愧死機構(きしきこう)を持っているため、バケネズミの奇狼丸を殺すと愧死機構が働いて死ぬとか。

 愧死機構が「人間」に対してではなくてバケネズミに対して機能する理由は良く分かりませんでしたが。


○ さて、しかし、「人間」の許可無く戦争をすると「人間」がコロニーごと滅ぼすとか、「人間」もあくどいものです。

 江戸時代の日本には士農工商のほかに(えた)と()(この2つは差別用語なので、通常は使わない方が良いです。)という身分があって、エタはケガレの多い仕事をする人やケガレが多い人のことで、は人間ではないものとみなされ、貧乏な農民などに対し、もっと苦労している「もの」がいるから我慢しろと言うために幕府が利用したわけです。

 (完全な余談ですが、エタとは「川の向こう」に住んでいたことが多いことから、「川向こう」は差別用語として使われなくなりました。「ルパン三世」の1stテレビシリーズでも「川向こう」という台詞があり、テレビで再放送する際には音が消されています。)


・ また、「人間」と同等の知能があるバケネズミ(全員が人間の言葉を話せるわけではない。)に労働させたりして利用し、反抗すると呪力で滅ぼす「人間」というのも、どうなのかなとは思いますが。


・ しかも、最終話で明かされましたが、1話冒頭の呪力の暴走による1000年前の殺戮を踏まえて、

 「人間」の遺伝子に「愧死機構」(きしきこう)を組み込んで「人間」を殺すと呪力を持った自分も死ぬようにして「人間」を殺すことができないようにしたところ、

 呪力を持たない「人間」はいくらでも呪力を持っている「人間」を殺せることになるから、

 それを恐れて呪力を持つ「人間」が呪力を持たない「人間」をいつでも殺せるように呪力によって「人間」から遠ざけてネズミに近づけてバケネズミの姿にしたわけで、

 少なくとも元は「人間」だったという点で、余計にどうなのかなとは思いますが。



 宇宙人が地球の「人間」と同じ姿をしているとは限らないわけですけれど、このアニメの世界では、違う姿の宇宙人がやってきたら「人間」とはみなさず、言うことを聞かなければ自由に殺せると考えるということなのでしょうね。


○ そこで、「人間」とは何か?

 バケネズミが「人間」かどうかは、遺伝子的にどちらに近いのかで考えると、愧死機構を持つ呪力を持った「人間」がバケネズミを殺せることから、ネズミに近いのでしょう。若しくは、「人間」とネズミの中間の中のネズミに近い方なのでしょう。



・ しかし、元は「人間」であり、「人間」と同等の知性を持つことから、豚や鳥のようにホイホイとバケネズミを殺して良いのかとなると、どうなのでしょう。


 それをOKと認めることは、エタやをホイホイ殺しても殺人にも罪にもならないからOKだと言っているようなものです。

 あるいは、特に奴隷制があった頃のアメリカの白人にとっては黒人は蔑むべき卑しい存在であったわけで(黄色人種も差別されていましたし、今でもいくらか差別意識が残っている。)、黒人が大統領になった今でもアメリカでは人種差別が残っており、人種差別からくる殺人や不公平も起きていますが、白人にとっての黒人というのは「人間」以下であったわけであり、かつては白人が黒人を殺しても軽い罪なのに黒人が白人を殺したら重い罪になるアメリカだったわけですから(現在のアメリカでも、白人にはやや軽い判決、黒人にやや重い判決になる傾向があると言われている。)、それを認めるようなものです。


・ さて、そのとき、クジラやイルカ、犬や猿やゴリラのように、知能がそれなりに高いけれど「人間」ではないものをどう考えるのか?

 仮に、それらが「人間」と同等の知能を持つようになったら、更にその上で「人間」の言葉を話せるようになったら、どう考えるのか?


 地球上の「人間」と遺伝的に離れているということであれば、「人間」と同等の知性や言葉を有する宇宙人であっても、地球上の「人間」から見れば「人間」ではなくなります。


・ ここにおいて、「人間」と動物などとを区別するものは、

 1.知性の高さ、言葉があるという基準が一つ。(なお、互いに言葉の意味が分かるか否かは関係ない。言葉が通じないと「人間」同士ではないとなると、私にとっては日本語のいわゆる標準語を理解する人以外は全て「人間」ではなくなる。)

 2.そもそも遺伝的に「人間」であるかどうか、「人間」と遺伝的にどの程度近いかという基準が一つ。

 3.「ジョジョの奇妙な冒険」の感想でも書きましたが、「人間らしい感情」「人間の心」があることという基準が一つ(「人間らしい」とは何かについては、別の難しい問題なので触れない。)。


 例えば、姿形が地球上の「人間」と同じであろう全く異なろうと、宇宙人は、1と3に該当しても2には該当しないことが十分に想定されます。
 この場合、「人間」とは別の何者かとして、「人間」と同等に扱うことが現実的です。
 こうなると、遺伝的にネズミに近くなったバケネズミは地球上では「人間」ではないことになりますが、宇宙人と同レベルでは「人間」と同等と扱うことになります。


 例えば、クジラや犬や猿がどんなに知性を身につけて1に該当するようになったとしても、2には該当しません。
 この場合も、宇宙人と同様に考えることが出来るので、「人間」とは別の何者かとして、「人間」と同等に扱うことが現実的です。
 こうなると、バケネズミは「人間」ではないけれど「人間」と同等と扱うことになります。


 例えば、知的障害者などの一部は、2に該当しても、1や3には該当しない場合もあるでしょう。
 この場合、遺伝的に「人間」だから「人間」であるという以外に「人間」と考える理由は見当たりません。
 いずれにせよ、バケネズミは遺伝的にはネズミに近くなっているので「人間」ではないとも言えますし、元は「人間」であったことから「人間」であるとも言えます。


 例えば、大量殺人を平気で行う「人間」は、1と2には該当しても、3には該当しないことが想定されます。
 「ジョジョの奇妙な冒険」における「人間」とは何かについては「人間らしい感情」「人間の心」が重視されているように思われ、このような「人間」はジョジョの基準では「人間」に該当しないと思われます。
 それはそれでありですし、そう割り切れれば世の中は楽なのですが、法律的に言えば、やっぱり「人間」として扱わざるを得ないわけです。
 いずれにせよ、バケネズミは人間と同等の「感情」や「心」を備えていることから「人間」と扱うことになります。


 他の基準が思い付かない中、結局、バケネズミを「人間」と分類するかどうかについては、元は「人間」だったということに重点を置けば「人間」と分類することになりますし、遺伝的にはネズミに近くなったことに重点を置けば「人間」ではないと分類することになります。


 通常は、遺伝的な近さでもって判断すべきなのでしょうから、バケネズミは「人間」ではないと判断すべきなのでしょう。
 その場合でも、「人間」と同等の知性を備えているなど「人間」とほとんど変わらないことから、「人間」と同様に扱うべきなのでしょう。


 (こうなると、クジラやイルカを捕って食べることに反対している人達にも少し説得力が出てきます。但し、クジラはイルカは「人間」の知能には到底及ばないので、まだまだ「人間」と同等の扱いは出来ませんが。)


○ 最終話で、バケネズミが元は「人間」だったという事実を知ったあと、「人間を殺したのよ。何人も、何人も。」と愕然として言う早季に対し覚は、ネズミに近くなったから『いや。彼らはやっぱり「人間」じゃないんだ。同胞として見れるか。』と言いましたが、早季は今一つ納得していない表情でした。

 だから、多数の「人間」を殺した罪で死ぬ以上の苦しみを永遠に受ける無間地獄の罰を「人間」に受けたスクィーラを死なせてあげるとき、優しい言葉をかけ、早季はスクィーラを「人間」かもと思っていたはずです。


 最終話で手記を終えるときにも早季は、バケネズミが「人間」かどうかの判断に迷っていましたが、「人間」が対等な関係としてバケネズミと付き合えることに、いくらかの「希望」を持ったわけです

 ただですね、このアニメでも、「とある科学の超電磁砲」でも、現実社会の国家でも、強い力を持った「人間」というのは傲慢で自分勝手で性格が悪くなりがちなんですよね。。。。。
 そんな「人間」が弱者と対等な関係でやっていけるのかどうか、、、、、「希望」は捨てていませんけれど、、、、、やっていけるようになる方法論が思い付きません。。。。。


 「人間」とは何かについては2つ前の「まおゆう魔王勇者」、1つ前の「ジョジョの奇妙な冒険」、次の「サイコパス」の感想でも少し書きましたが、なかなか難しい問題です。


○ いろいろと書きたいことはありますがキリがないですし、長くなりましたし、この辺で。
 最後に、言葉通りの素直な意味で、

 「想像力こそが、すべてを変える。」


【shin】

コメント一覧

shin
http://yaplog.jp/shin99shin/
>とある高校生さん
コメントはいつのものにでも歓迎です。
考えさせられるアニメで、でも飽きずに見ました。
原作は、、、分厚いので諦めました(笑)。
とある高校生
こんばんは。2年前の記事みたいですけど、読んでみてコメントせずにはいられなくなりました。「新世界より」は周りの友人で読んだ人がいないけど、とても奥が深い小説で、他の人がどんな感想を持っているのか気になっていました。「人間らしさとは何か」「想像力こそが、全てを変える。」というテーマにも興味が惹かれました。これを機にもう一度読み返そうかなと思います。
長文失礼しました
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