≪クリスマスに寄せて≫
いつの頃からそのようになったのか、覚えていませんが、謙虚な人に心をひかれる私です。豊かな知性や、感性の感じられる人であっても 高慢な人だと感じたとたんに、その人が心貧しい人と見えてしまうのです。自分自身に対しても同じで、自分の心の中の高慢な部分が顔を見せると、「私は心貧しい人だ。」と認めずにはおれなくなります。逆に、謙虚で、控えめな人に出会うと、豊かな人間性を宿している人と思えてしまいます。
最高に豊かな人間性を持ちながら 自らを誇ることなく 人々を黙々と命をかけて愛し続けられた 神の御子イエスキリストのへりくだった心の姿。それがわたしの憧れです。キリストの人格にまで向上したいと思っています。逆説のようですが、私にとっての向上は、低くされることです。
「私はわたしを好きになりたい。」と思いながら、高慢な心が顔を出す時、 自分につばきを吐き掛けたいと思うほどに わたし自身に幻滅します。そのような時、私の心に穏やかに響いてくるキリストの言葉があります。
「わたしは、心優しくへりくだっているから、わたしのくびきを負って、わたしから(わたしの柔和とへりくだりを)学びなさい。」との呼びかけのことばで慰められ、希望が湧いてきます。
クリスマス。神の御子が人として生まれ、馬小屋の飼い葉おけに寝かされていた、その幼な子のお姿に、救い主イエスキリストの心のありさまを見ることが出来るように思います。イエスキリストは人として成長しても、天の父なる神の前では、生涯幼な子のようであった方です。
天の父を愛し、父に愛されて生きる。このような、キリストの自分では何もしないで父に信頼する生き方は人々からは、弱い人のように見えました。それが、全世界の人に救いの希望を与える力強い生き方の秘訣であることに人々は気が付かなかったからです。
イエスキリストは天地を創造された力ある神と人を創造して愛しておられる神の存在を知っておられました。ですから自分に頼るよりも、神に頼る生き方のほうを選ばれたのですが、私はそのようなキリストそのような生き方を理解出来るのに時間がかかってしまいました。人が弱い存在であることを悟れなかったからだと思います。
みなさまを愛し幸いを願っておられる神は、馬小屋のまぶねに安らかに眠っておられる幼な子を見せたいのではないでしょうか。「ここにあなたの幸せがありますよ。やすらかにすべてを任せて眠る赤子のイエス様のように、自分を誇らないで、わたしに信頼をよせる人を、わたしは愛さずにはおれないから。」と皆さまの心に語りかけたいと思われているのでないでしょうか。
「わたしは心やさしくへりくだっているから、わたしの私のくびきを負ってわたしからまなびなさい。」と私の心に響くイエスキリストのことばを、この拙い一文を読んで下さる皆様への、わたしからのクリスマスプレゼントとさせていただきたいと思います。「わたしと一緒にゆきませんか。わたしはいつもあなたと一緒に父に信頼し父に愛される道を歩んでゆきたいです。」とのイエスさまの呼びかけのお気持ちも添えさせていただきます。
クリスマスおめでとうございます。
神さまの豊かな祝福がありますように。イエスさまの大きな愛に包まれて新しい年に向かわれますよう、お祈りさせていただきます。