しんごの部屋2

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『私は山に向かって目を上げる』~山への憧れ~

2013年12月26日 | 日記

25日に、NHKで「アイガー北壁登頂」の短いドキュメンタリーを再放映していました。

パソコンに向かいながらでしたので、映像は見ていなかったのですが、”いまいみちこ

さん”という言葉に、はっとしてテレビに目を向けました。登山家の、今井通子さん、田

部井淳子さんの登頂成功のニュースは、同年代の方たちですので私の記憶に強い印

象で残っています。”アイガー北壁を女性の加わった6人のパーティーが直登ルートで

登頂成功!”当時のこのような見出しに感動したものです。

アルプスの三大北壁の一つアイガー北壁登山の困難さは、知っていましたから、成功

のニュースに拍手喝采しました。おそらく、多くの人々が同じ思いだったのでしょう。そ

して、40年後その時のドキュクメンタリーがあり、さらに数年経って再放送されている

ことでも、感動の余韻を日本の多くの人々が共有しているということでしょう。

 

その後、田部井淳子さん女性初のチョモランマ登頂、それに続く七大陸最高峰登頂な

ど、登山家や冒険家の活躍に自然と関心が向かいました。Facebookを始めて間

がないのですが、山登の好きな方が多くお友達になって下さっています。

10年まえネットを始めた頃、とても親しくさせていただいて、いまも友達でいて下さる方

も、富士山を始め山好きなかたでした。

《石橋をたたいて渡る》タイプの慎重な性格の私が、どうして山の好きな方と波長が合

うのだろうかと、折に触れて考えるうちに、幾つかのそれらしい理由がわかって来まし

た。「人の好き嫌いに理由などない。」といわれる方もあります。以前は私もそのような

考えでした。しかし、今では、好きになるには理由があると思い至っています。

 

好きになるのに理由があるなら、好きになれないのにも理由があるわけです。そこで、

私は、《好きになれない、たとえば敵対関係にあったような人を、どうすれば好きになり

愛することが出来るようになれるか。》というのが課題となっています。この課題は私の

登りたい山の一座でもあります。

《あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい》

《あなたの敵を愛し迫害するもののために祈りなさい。自分を愛する人を愛したからといって何の報いがうけられるでしょう。》

このように聖書は私の目指す山をこのように指し示しています。平和を本当に願うな

ら、好きな人を愛するだけではいけないと、多くの心ある人は思っています。それととも

に、敵を愛することは簡単に克服できる課題ではないと思っておられるのでないでしょ

うか。

私には、このような、まだ頂を極めていない、いく座もの高い山があります。その山の

頂を見上げ、無謀にも、その山のすべてを登頂したいと、今も挑んでいるように思いま

す。

 

アイガー北壁に挑むのに必要な、体力、気力、仲間、資金、そういったものは私には

ありません。けれども、私が挑んでいる山の頂上を目指す一途な想いは、命をかけて

登頂を目指した、今井さんを含む6人とそれを支えていた人々と共通の想いだと思い

ます。

マッキンリー世界初の冬期単独登頂を果たした後、消息不明となった植村直己さんの

幾つかの文章読んで、私が感動たのは、やはり目標に向かう植村さんの厳しい姿

であったように思います。この目標に対する一途な姿勢のある山を愛する人々と、私

の心が通う、第一の理由と思っています。

「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」聖書の<きよい>という言

葉は、おさない子供のように純粋な心と、一途に高い目標に向かう高い志を意味する

と知った時、この言葉がとても好きになりました。

 

アイガー北壁の日本直登ルートと今も世界で覚えられるには、挑んだ人々の生死に直

面する困難があり、怪我をした隊員もいた、とドキュメンタリーで語っていましたが、成

功の達成感は困難に挑んだ人々こそが、最も大きく味わえる報いでしょう。

おこぼれに与って、私も、いまだにこんなに喜べるのですから、頂に立った人たちの喜

びはいかばかりだったかと思わされます。 

 

山を愛する人が好きな二番目の理由も、最近になって思い至りました。それは、山の

中で無邪気にすごしていた、私の幼少年期の原体験と言えるものに関係があるようで

す。

三番目の理由は、自分に出来ないことへの憧れだったように思います。高校時代、山

部の友人から入部を誘われた時、自分の運動能力や、家庭の事情から断ったのです

が、入りたい本心を抑えてのことでした。ですから、悔いが残っていて、山に登る人へ

の憧れがあったようにように思います。

 

 なぜ山に登るのか。「そこに、山があるからだ。」とは、チョモランマ(エベレスト)をテン

ジン・ノルゲイとともに初登頂したエドモンド・ヒラリーの言葉として知られています。

命をかけて、なぜ高い山に登るのか。登山家の方は様々な答えを持っておられるかも

しれませんが、私は、自分の登る山について答えを持っています。「そこに神がもっと

上へ、頂上へ向かえ、と招いておられる山があるから。そして私は頂きに立ちたいと憧

れているからです。」とのヒラリーに共感する想いがわたしにもあるようです。

 

私が山好きの人が好きですから、山好きの人は私が好きだ、そのような理屈は通らな

ことは承知していますが、「逆もまた真なり」であればどんなにうれしいことでしょう。

私が山を愛する人だけが好きだと誤解なさらないでください。

このコラムでは山を主題にさせていただきました。

【※タイトルの「わたしは山に向かって目を上げる。」は聖書の詩篇121篇1節のことばです。

  太宰治が「人間失格」の表題に引用しています。】


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