しんごの部屋2

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≪言葉に渇いていた私≫

2014年01月23日 | 日記

大阪に来て友だちとなじめないわたしは、本が友のようなものでした。

よく本を読んで泣いた記憶があります。読んだ本をすべて覚えているわけではありませんが、

学校の図書館にあったものを、片端から読んでいたように思います。

伝記ものでは、リンカーン、ワシントン、ジンギスカン、親鸞、日蓮、ヘレンケラーなどが記憶にあります。

童話もだいすきでした。特にアンデルセン童話が好きでした。

 

中学時代には、どん底、罪と罰、戦争と平和などのロシア文学、バルザック、モーパッサン

などの作品をよんでいました。中国文学では、司馬遷の史記が大好きでした。そこに繰り広げ

られる人間もようを読みながら、人生の意味について考えていました。

三国志演義、西遊記などもよみましたが、この頃から本を多読出来るようになってきました。

日本文学では、万葉集、土佐日記、古事記、谷崎の源氏物語、枕草子、陽炎日記など。

そして、近代日本文学の全集に収められているものは、大体読んだようにおもいます。

しかし最近になって、読みかけて結局読まなかった本も多くある事に気付いていす。

ネットの友が太宰治の小説を紹介してくださいました。この本をもし、中学、高校生時代に読ん

でいたら、わたしのその後の精神形成にどのような影響を与えていたかを考えると、人との出

会いとともに、本との出会いの年代、順序によって、人は大きく変るのではないかと思います。

目に見えない神の意思を無視する訳にはいかないと、このようなことからも思います。

 

高校生時代に、ゲーテのファウスト、若きヴェルテルの悩み、ダンテの神曲などを読みました。

これなどは、聖書を読む前でしたから、内容としてどれだけ理解していたかわかったものでは

ありません。それにもかかわらず、それなりに感動しているのですから、本というのは不思議な

力がありますね。わからないままに、よくもあのような大作を読めたものだと、いまさらながらお

かしくなります。

人との会話が少なかっただけに、ことばに飢えていたのでしょうか。しかし、22歳で、聖書に出

会ってからは、読書欲はあまりなくなりました。推理小説、や司馬遼太郎などの時代小説は読

みますが、読まなくても、以前のように、心が渇くというようなことはありません。孤、独に強いと

思っている私も、本当は、このように本を通して多くの人と交わらなければ、生きてゆけない者

だったのでしょう。

また、私は、自然や聖書を通して神と語り合えなければ、本当の孤独は癒されない存在なの

だと感じています。多くの人と楽しく語っても、小説やテレビなどによって一時的に楽しめても、

すぐに満たされない心になり、言い知れない寂しさがやってきます。私が変わっているのかと

思っていましたが、どうやら、そうでもないようです。

神と語り合うことから来る、満ち足りた平安な思いは、不思議なことに長く私の心にとどまるよう

です。かすかな記憶ですが、幼い頃、母の背中に負われていたような気持ちに似ています。

三歳でも歩けなかった私でしたから、このような感覚が身についているのかも知れません。



 

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