~四章 忌憚~
忌憚とは忌みはばかる事。嫌い嫌がる事。または遠慮する事。多く、否定の語を伴って用いられる。
辞書で『忌憚(きたん)』という意味を調べてみると、こんな風に説明がかかれていた。いまいち理解しづらいような内容だがワシの場合、どうも前者のほうの意味が当てはまるな。つまり忌み嫌われた男と受け取ってもいいだろう。
気付けば四十四年間も生きてきた。世間一般で言うところ、立派な中年オヤジだ。異性からは誰からも相手にされず、ただ黙々と貯蓄する事だけを生き甲斐にここまで来たつもりだった。
寡黙に真面目に遅刻もせず淡々と会社へ出勤してきたが、若い頃はそれを積み重ねる事で自然と結婚相手にも恵まれ、幸せな家庭を築けると思い込んでいた。
それが一体何だ? 年下のクソガキからは陰で『能面』なんぞ、ふざけたあだ名をつけくさり、年上であるワシを誰一人尊敬の念の眼差しで見る奴などいない。
社長も社長だ。何が『世界で一番怖いホラー映画』を作れだ。制作費にいくら出せるって。どうせ金も掛けず、従業員のアイデアだけでいいものを作れぐらいにしか思っていないはず。あんな身勝手だから同期入社や同世代の人間たちは、どんどん辞めていってしまったのだろう。
世の中金を持っていない奴はクズだ。幼い頃極貧だった家庭。汚らしい作業着を着て毎日現場へ向かう父親を見て、絶対にこうはなりたくないと思った。雨が降ると仕事は中止。現場が暇だからという理由で、仕事を都合よく休まされた親父。脳裏に思い浮かぶのは、畳の上で横になりながらボーっとテレビを眺めている姿だけだった。気に食わない事があると、まだ子供で無力だったワシを問答無用で叩き、憂さを晴らしているような馬鹿。そして我が子が暴力を振るわれているというのに、止めにも入らない薄情な母親。
おかげで心の根底にまで憎悪というものが、すっかりと沁み込んでいる。
他人の前ではなるべく感情を出さず、面倒事には関わらない方向で生きてはいるが、根底にある破壊衝動は常にマグマのようにグツグツと煮だっていた。
もし…、この国に法律なんて邪魔なものがなければ…、人を殺しても罪に問われないというのなら、今すぐにでもワシは外へ出て、問答無用で誰彼構わず破壊したい。
五年前、自らの手で父親の命を奪ったように……。
ワシが働き出すようになった頃を見計らったかのように、父親は病気で入院した。稼いだ金は治療費として大幅に削られ、満足に遊びすらできない生活。この世に運というものがあるのなら、少しぐらい人間らしい生活を送れるような運が欲しい。そんなつたない願いすら、神は聞き入れてくれなかった。
十数年ほど惨めで質素な日常を送る。その間に母親は無責任にも、病弱の父親の看病を放棄して、どこかへ蒸発してしまった。
せめて父と子の親子関係が少しでも築けていたなら、こっちも精神的にこうまで圧迫されたものはない。だが、幼少時代から振り返っても、何のいい思い出がある?
仕事を終えると毎日のように父親の病院に寄り、看病をするハメに。それも善意でというよりも、介護の人まで雇える余裕がなかったからだ。それなのに、雀の涙ほどしかない大事な金をたかろうとしてくるハゲタカのような同僚たち。
こんな自分に理解者など、同性ですらいなかった……。
どこへ吐き出せる訳もない憎悪を体内で蓄積し、気付けば四十歳間近になっていたワシ。
頭がおかしくなりそうな日々を過ごし、父親の看病をしている時に一瞬の光明が見えた気がした。点滴で繋がっている生命線。それを不慮の事故として止めてしまえば、無駄に生き長らえる憎き父親の命を絶つ事ができると……。
復讐を遂げる意味でも、無駄な治療費を使う必要もなくなる事でも、ワシは即実行へと移れた。罪悪感など微塵もない。この手で点滴のつまみを少し回せばいいだけだったから。最悪の事態を想定し、ワシは実行日に軍手を用意しておいた。万が一指紋などが検出されたら、あとあと厄介になるだけだから。
点滴を止め、数分経ってから苦しみだす父親の姿をニヤリと笑みを浮かべながら眺め、それから看護婦を呼んだ。この時だけ、演技するのが大変だったが、一度きりの演技でいいのだ。そう思うと必死の形相を作り上げ、甲高い声を張り上げればよかった。
この後の人生は光明が差したかのように見えた。微々たるほどであるが、父親の亡くなった保険が入り、稼いだ金もすべて自分自身の為に使える。こうして貯金という趣味が自然と出来上がったワシは、同僚に誘われても今までの損を取り戻そうと、逆にうまい具合にたかるようになった。
今の会社にいるクソガキなんて、ワシの事をどうでもいい人間と思っているはず。だからいくら嫌われようと別段問題などない。
そういえばこの間強姦した女。あそこの締まりは最高だったな。月に一度、性欲が溜まるとワシは宛てもなく遠くまで出掛け、深夜ひと気のいない場所を見つけると、通り掛かった通行人の女を強引に犯すようになった。DNA鑑定なんてされて、あとで足がついても面倒なので、さすがに中出しだけはしないように心掛けている。
殺人と強姦…。この二つは自らの精神を安定させるのに、とても重要なウエイトをワシの中で占めていた。強姦をするようになって、もう二十回ほど。風俗で女を買うよりも興奮し、また無駄な金を使う必要もない。
こんな人間と一緒に働いているなんて、誰も会社のボケナス共は知らないだろう。
「クックック……」
不意に出る笑い声。
あの澤井知世のような若い女を強引に抱けたら、どれだけ気持ちがいいだろうか。上品に済ましたあの顔をいつか苦痛と快楽の入り混じった表情に変えさせてみたいという願望があった。まあ、素性を知られている人間にはそう思うだけに努め、欲望は見知らぬ人間で済ませる。これがこの世の中で最もいい生き方じゃないか。
特定の女などいらない……。
子孫などありえない……。
友もいらない……。
ワシの人生に干渉するような厄介な関係など、何一つ必要ない。
ジキルとハイド…。会社の自分と欲望の権化となったワシ。まるで二人の人間がこの体の中に同居しているかのような錯覚さえある。
自分の人生の終焉は果たしてどうなるのだろう? 想像もつかない。よく輪廻転生だとか、魂の生まれ変わりを唱える馬鹿がいるが、頭のおかしい証拠だ。今のこの人生は、命が尽きればそれで終わりである。だからこそ好きなように生きたい。
もし、自らの所業が世間にバレたらどうなるのか? どうって事はない。その時が来たら、自分自身の手で命を放棄すればいいだけなのだから。
もちろんそうなる事など望んでいない。だから普段はもの静かで、目立たないようにひっそりと存在感を現さないのが利口だ。
前回の名も知らぬ女を強姦してから、そろそろ一ヶ月ほど時間が経つ。ワシは引き出しから変装用のグッズを取り出してみる。銀縁のメガネ、付け髭、そして茶色の水性スプレー。一度シャンプーで髪を洗うだけで、すぐに元の色に戻ってしまう優れもののスプレーは重宝している。服は実行する前日に新しく買い揃え、目的を果たした時点でそれは捨てるようにしていた。
明日の会議でまたあのどうでもいいホラー映画の事が前進したら、残業も増え忙しくなるだろう。その前にも次の休みの日には決行しておきたいところだ。
展開を想像しただけで、ワシの股間はギンギンにたぎっている。早速ズボンを乱暴に脱ぎ捨て、下半身丸出しになった。自分の右手で行うマスターベーションも、有り余る経験のおかげで満足に射精させる事ができる。
強姦のあと、殺せたらどうだろうか……。
ふと頭の片隅に湧き上がる衝動。父親の命を奪った時の快楽と、犯した時の快楽は別物だが、殺しのほうが断然と興奮度はあった。
以前に殺したと言っても、たかが点滴のつまみをという間接的なものに過ぎない。
経験の数で言えば強姦のほうが遥かに上である。犯した女たちが、その後どうなったかなど考えた事もない。もしかしたらワシの子供がいるかもしれない事実。そして失意のあまり命を投げ出した女がいてもおかしくない。だが、それにどう罪悪感を覚える? 名前も素性も知らぬ女たちなのだ。事故に遭い、不意に命を落とす人生よりは、まだマシじゃないのか。
それならいっその事、ワシがこの手で人の命を奪えたら、どんなに征服感を得る事ができるのだろう。
まあ、あまり欲を掻き過ぎるとそこに待っているのは自滅だけ。そう欲を張ってもしょうがないな。
冷蔵庫に冷やしてあるコーヒー酒のビンを取り出して、グラスに氷を入れる。焼酎のデカいボトルと、コーヒー豆を一つの大きなビンに入れて、冷蔵庫に寝かせておけば出来上がる手軽でうまい飲み物。ワシは氷を入れたロックで飲むのを好んだ。
つまみにコンビーフの缶詰を開けボールに入れると、チーズも投入し、マヨネーズと塩コショウで味付けしながらよく混ぜ合わせる。これを食パンに塗って食べると、なかなかいいつまみになった。
これでもし、妻という存在がいたら、ワシの人生はかなり激変したものになるのだろう。
まず一人で料理をする必要もない。他の名も知らぬ女を犯す必要もなくなる。代償として、これまで必死に溜め込んだ貯蓄は共同のものとなってしまう……。
それでも一度ぐらい結婚という体験をしてみたかった。あの澤井知世のような綺麗な女では、派手に買い物もするだろうし、苦労する生活になりそうだ。逆に川崎道子のような地味な女のほうが、生活する分にはちょうどいいのかもしれない。
どうも酒が入ると、つい身近な女でシュミレーションしてしまう癖がある。妄想はやがて欲に変わり、それは自らの首を絞める行為になってしまう。
欲望というものは、一度その蜜の味を知ってしまうとなかなか抜け出せないもの。タバコや酒を知ってしまい、やめられなくなるような中毒性。それに近い。
女を初めて犯した時に知ってしまったあの快楽。叫ぼうとする口を片手で押さえ込み、空いた手でナイフを目前に突き出す。「暴れたら刺すぞ」とこのひと言を切り出すタイミングさえ間違わなければ、ほとんどの女は大人しくなるものだ。襲われた男の一物を挿入され、身体的にどうしても感じてしまう女の性。懸命に声を出さないよう堪えているものの、それでもほとばしる喘ぎ声。初めてそれを聞いた途端、全身に何とも言えない興奮が取り囲んだものである。
「ふむ……」
さすがに殺すのはバレてしまう恐れがある為、首を両手で絞めながら犯し、殺されるという危機感を与えるようにしてみてはどうだろうか? あそこの締まり具合もより一段とすごくなるような予感がする。
時刻はもう、夜中の二時を回っていた。草木も眠る丑三つ時ってやつか。人間はどうも幽霊という非科学的なものを信じ、忌み嫌う傾向にある為、昔からこの言葉が使われてきたのだろう。必然的に女を犯すのはこの時間帯が多い。人通りも少なくなり、ほとんどの人間が寝静まる頃合いだからである。本当に霊というものが存在するなら、俺はもっととっくに悪事などバレ、今頃こんな呑気に酒など飲んでいられないはず。
さて、そろそろ今日は寝るか。明日も仕事だ。
いい子ぶりっ子である鈴木の奴…、あまり張り切って仕事を率先しようとするなよな。みんなの前じゃ、いい人ぶっている癖に、陰でワシの事を『能面』なんぞとあだ名をつけやがった。いつか寝首を掻いて殺してやりたい気持ちはある。あくまでもいずれだが……。
根底にある憎悪と湧き上がる欲望を抑え込みながら、ワシは寡黙で目立たないキャラクターを演じる昼間の自分へとシフトチェンジをする。
「では、引き続き昨日の会議を始めたいと思います。誰かこれといったアイデアはありますか?」
昨日同様に鈴木が先陣を切って会議が始まる。ワシの隣では、酒巻が面白くなさそうな表情で頬杖をついてそれを眺めていた。
地味女の川崎道子が手を上げ立ち上がる。そこそこ大きな胸がプルルンと揺れた。今度給料入ったら、飲みにでも誘い、酔い潰してその乳を貪ってやるか。
「先日の神威さんのお話ですが、とても興味深く面白い展開になると思うんですね。もちろんあの話を額面通りそのまま映像化するには難しいと思います。だからまずはその方向性を決めてから、作品作りに取り掛かったほうがいいと私は思うんですね」
「方向性とは例えばどのようなものでしょうか、川崎さん」
「おそらく制作費などの面を考慮すると、そんなにお金を掛けずにやるようだと思います。だからまず出場するキャストはどうするのか。つまり俳優さんを雇うのか、もしくは私たち従業員がノンフィクション作品のような形で内容重視して行くのか。そういった事ですね」
おいおい、ワシらが作品に登場する? 冗談じゃないぜ。おまえのような女が目立とうとしたところで、視聴者からは何だこの女って見られるのが関の山だ。
「あの~、一ついいですか」
酒巻が会話に割って入る。
「何でしょう、酒巻君」
「神威さんの言っていた例の先生…。俺、昨日あの話を聞きながら思ったんです。その人を作品に登場させたら、すっごく面白くなる作品になると思うんですよね。その辺はどうなんでしょうか、神威さん」
神妙な顔つきで神威が口を開く。
「申し訳ないですが、まず無理でしょうね。あの先生は表舞台に出てくるのを極端に嫌いますから。それに高額のギャラを提示したところで、動く事はありませんし」
「打診する前からそんな事言ってたら、どうするんです。一度その先生のところへみんなで会いに行きましょうよ。俺が必ず口説き落としてみせますから」
「う~ん、申し訳ありませんが、それには賛成し兼ねます。先生はそういった事を嫌うし、私が今回のホラーに関わるという事を知ったら、きっと反対するでしょうし」
「一度会うだけ会いに行きましょうよ、神威さん」
「はいはい、ちょっと話が脱線しているからその辺で、酒巻君。今はまず、その先生を出演させるとか以前の問題なんで、あとにしましょう」
熱くなると妙に突っ走りがちな馬鹿な男、酒巻。鈴木が間に入って馬鹿を止めた。
「チッ…、分かったよ……」
この馬鹿酒巻は人付き合い良さそうなふりをしながら、金銭面ではとてもセコい奴だ。自分から誘ってきたから会計を任せたのに、あとになって「あの人は年下にたかる」と言い触らすようなクソ野郎である。こいつも地獄へ落ちればいいんだ。
「…で、川崎さん。先ほどの方向性なんですが、あなたはどういった形を考えていますか?」
ひと呼吸置いてから川崎は再び話を始めた。
「まずはノンフィクション系のものにするか、もしくは完全な作り物としての作品にするのかを決めたほうがいいかと」
「みなさんはどう思います?」
川崎の横に座る澤井知世が、何故かえらく暗い思いつめた表情で下をうつむいている。大方彼氏と昨晩喧嘩でもして、気分が悪いのだろう。弱った女ってのは落としやすいからな。チャンスがあるならうまいところ潜り込んでやろうじゃないか。
「外山さん…、外山さん? 聞こえてますか?」
「ん、ああ…、何だい?」
澤井をボーっとしながら見ていたせいか、自分の名前を呼ばれてもすぐに気がつかなかったようだ。
「外山さん、あなたから意見を聞かせてもらえませんか」
「そうだね…。ノンフィクションものだと、私のようにはなっから霊の存在を信じない人間もいるだろうし、却ってやらせ臭さが出ると思うんだ。だからノンフィクションチックだけど、あくまでも作り物といった感じならどうかな」
「なるほど…。外山さん、ご意見をありがとうございました」
「ねえ、澤井さんはどう思います?」
昨夜マスターべションしてから一度も洗っていない手で、澤井知世の肩に軽く手を触れる。今はこの程度で済ませてやるが、いずれこの手でおまえの喘ぎ声を聞かせてもらおう。
「は、はい…、私も肝試し的なものを作るぐらいなら、最初からストーリーを通してのほうがいいです」
「すみません、よろしいでしょうか?」
今度は神威が手を上げ、会話に入ってきた。こいつだけはまだ付き合いが浅いせいか、いまいち性格がつかめない。
「どうぞ、神威さん」
「社長は世界で一番怖い作品を作れと言いましたが、一番肝心な問題は、どのテーマが多くの人間の恐怖心を掻き立てる事ができるのかだと思うんですね」
「例えば?」
「ノンフィクションでも作りものでもいいから、何が人間にとって一番怖がる事なのかを私なら優先します。視聴者が映像を見ながら、つい自分に置き換えて見てしまうようなもの。例えば身近によくある日常に潜む恐怖…。それが多くの人間にとって、最も怖い事なんじゃないかと思うんです」
「だからさっき神威さんの話した先生を出しましょうって言ったんですよ」
馬鹿の酒巻が、再び熱を帯びた声を荒げる。
「酒巻君…、ちょっとその話題からは離れようよ。今、神威さんの意見を聞いているんだからさ」
同期入社の酒巻と鈴木。何かにつけて常に衝突しているイメージがある。どうも馬鹿の酒巻が、いつもいい子ぶりっ子の鈴木を勝手にライバル視しているように思えるが、ワシぐらいの年代から見れば、二人ともまだまだ経験不足のケツの青いガキに過ぎない。
「神威さん…、それって都市伝説なんて正にそうですよね」
川崎が口を挟んできた。
「確かにそうですね。日常に潜む身近なもので巻き起こる異常現象。噂を聞いた人間は、不安と恐怖を覚え、それを知り合いに伝える。聞いた知り合いも、同じような思いでまた別の誰かに…。やがて噂は噂を呼び、全国区になっていく。川崎さんのおっしゃる通りだと思いますよ。そういった意味で言うと、昨日私が執筆した作品『ブランコで首を吊った男』の件は、都市伝説とはまた違うジャンルのものだと思うんですね」
「では、テーマを都市伝説に絞ると?」
「いえ、都市伝説になるような怖い作品を自分たちの手で作るんですよ。今まで『口裂け女』とか『トイレの花子さん』などは、都市伝説を耳にした人間が映像化として作ってきました。私もホラーは嫌いでないから見た事はあるんですね。でも、内容を元から知っているせいか、怖さという部分ではいまいちでした。だからこそ、自分たちで色々提案し合い、どうしたら噂が広まるような都市伝説を思いつき、それを映像化できるかに尽きると思います」
また面倒臭そうな事を抜かしたもんだ。こういうハッスル野郎が多くなると、こっちまである程度強制的に仕事するようになるから迷惑なんだけどな。
「では、みなさん…。都市伝説と言っても今では星の数ほどあると思います。これまで聞いた中で強烈な印象を覚えた…、または本当に怖かったっていう話を一人ずつ聞かせてもらえませんか。最初に酒巻君からどうぞ」
また鈴木の奴、つまらない事を始めやがって。ワシに何を話せって言うんだ。
「俺は『ベッドの下にいる男』の話かな、衝撃を受けたのは」
「どんな内容です?」
「聞いた噂話によってエンディングは様々なんだけど、AさんとBさんという女性がいて、ある日Aさんが、Bさんの家に遊びに行って飲んで騒いでいた。終電近くの時間だったのでAさんが帰ろうとするが、途中で携帯電話を忘れたって事に気付き戻る。夜中だしBさんに声を掛けても返事がなくどうしようかと思ったけど、幸い鍵は掛かっていない。大方酒のせいでグッスリ寝ているんだろうと明かりを点けず手探りで携帯電話を探し、その日はそのまま帰ったそうな。翌日になって昨夜の非礼を詫びようとBさんの家まで行ったら、すごい野次馬の数が群がっていて、そばにパトカーも停まっていた。状況を聞くと、Bさんは殺されていたそうだ。AさんはBさんの友人だと警官に告げると、不可解な事があるからと中へ通される。すると壁に赤い字で『明かりを点けなくて良かったな』と書かされていた…。そんな内容ですね」
「実は最初から一緒に飲んでいる時点で、ベッドの下に殺人犯が潜んでいたって話ですね。私も聞いた事ありますが、別のパターンもあるんですか?」
確かに霊とかそういった類でなく、人間というのが一番怖いだろう。幽霊じゃ、人間に傷を負わせたり殺したりはできない。人間なら殺す事も犯す事も、何でもしようと思えばできるのだから。
「あとは終電で帰らずそのまま泊まろうとしたが、ベッドの下に知らない人がいるのに気付いたAさんがBさんを強引に『コンビニへ買い物に行こう』と誘って二人とも助かるケースも聞いた事ありますね」
「ふむ、バットエンドと、ハッピーエンドの二つですか。それでは続いて沢井さん、お願いします」
さっきから元気のない澤井はうな垂れたように立ち上がり、覇気のない声で呟くように話を始めた。怖い話が単に嫌いなのか。それとも昨夜ワシが予想したように彼氏と喧嘩したのが響いたのか。
「私は…、そうですね…。都市伝説とかじゃないかもしれないけど、小学校の時に宛名不明で来た『不幸の手紙』…。あれをもらった時が本当にショックでした。このハガキを五人に送らないと、あなたに不幸が訪れるって。でも、もし私が五人の友達に出したらそれがまた五人ずつ…。それを考えたら出す訳にいかなくて……。しばらくどんな不幸が訪れるのだろうって毎日のようにビクビクしていた記憶があります」
確か今の時代ではハガキというよりも、携帯のメールを使ったチェーンメールで似たような内容で出回っている。恐怖心を煽るにはメールでも同じで、ハガキを使わないという事で金額が掛からないというお手軽さゆえだろう。まあワシの幼少期なんて携帯電話のような洒落たものなどなかったから、もっぱらハガキだったが。
「そうですか…。不幸の手紙の存在を知らない日本人はいないぐらい、ポピュラーなものですからね。誰もが一度は通過するような儀式みたいなものになっているんでしょう。私はすぐ知人に送ってしまったタイプですが…。さて、それでは同じ女性陣の川崎さん、よろしくお願いします」
乳を揺らしながら立つ川崎。騎乗位で上に乗せてセックスをしたら、さぞかしいい眺めになりそうだな。
「人によって呼び方は違うらしいですけど、私は『メリーさん』が怖かったです。とある少女の家で引越しが決まり、メリーさんという人形を古くなったという理由で置いていく事にしました。そして引越しを終えたある日の事…。電話が掛かってきました。出たのは留守番をしていた少女。『私はメリー。よくも捨ててくれたわね。覚えてらっしゃい』という内容だったけど、彼女はただの悪戯だろうと、さほど気に留めませんでした。すると翌日また電話が…。『もしもし、今近くの駅前にいるの。迎えに来てちょうだい』と言われ、そのまた次の日、『もしもし、今あなたの家の前よ。もうすぐ着くわ』と掛かってくる。恐ろしくなった彼女は、電話を切ってしまう。その夜、けたたましい音で電話が鳴ったけど、怖がった少女は出る事もできない。じきに留守番電話に切り替わり、『どうして迎えに来てくれないの? でも、大丈夫…。だって私……、今、あなたの後ろにいるんだもの』という話なんですが、小さい頃聞いた話だったからとても怖かったなあ」
「これも有名ですよね。私も幼少期誰かから聞かされて、その日電話が鳴ると怖くて出られませんでした。さて、お次は外山さん、いいでしょうか?」
とうとうワシの番が来た。もともと霊などオカルト的なものは信じない性格なので、ぶっちゃけどうでもいい会議だ。しかし変に抵抗すると、みんなに白い目で見られ、普段目立たないようにしていた素行の意味がなくなってしまう。過去に聞いた話の一つでもすればいいか。
「ダルマという漢字はみなさん、どう書くか知っているかな? 達人の達に磨くで『達磨』と書きます。しかし芸達者の『達者』と書いて、『ダルマ』と読む人もいた。これは今は亡き、うちの祖母から聞いた話。とある女性が中国の奥地を旅行していると、『達者』と書かれた看板の店があった。薄暗い店内へ入ると、奥のほうに数体の人形が並んでいたそうな。彼女はよく見ようと近づくと、驚きのあまり体が硬直してしまう。何故なら手足のない人形だと思っていたのに、目や口が動いていたから…。そもそも『達者』というのは中国で千九百八十年頃まで実際に行われた処刑方法の一つらしく、あの西太后にも『達者』は出てくるぐらいだから、もはや都市伝説なんかじゃないのかもしれないね」
「へえ、怖い話っすね。でも西太后って何者なんですか?」
思わず出る溜め息。馬鹿の酒巻はそんな事すら知らないのか。
「彼女に関するものは映画やドラマ、そして小説にもなっているほどだよ。君も少しは自分でそういったものを見て、知識を導入したらどうかな」
「外山さん…。それってずいぶんと俺を小馬鹿にした言い草みたいすね」
ワシの挑発めいた言い方が気に食わなかったのか、酒巻は怒った表情で立ち上がった。小馬鹿などでなく、ただの馬鹿だとは思っている。だが、ここで揉めるのは得策ではない。
「別にそういう訳ではないよ。少し落ち着きなさい。今は会議で仕事中じゃないか」
年上の威厳を保ちつつ、この馬鹿を勇める。約二十歳も年齢が離れた相手に対し、礼儀作法も知らない鼻タレ小僧が。
馬鹿のせいで荒れた会議だが鈴木が仕切りだし、最後に神威の番が来る。
「これは私が小学の高学年の頃の話です。夏に林間学校へ行った時の事でした。同じ部屋にいた同級生が怖い話をしようと言い出し、それぞれが得意気に怖い話を披露します。隣の部屋の人間も参加していたので、人数にして二十名ほど。その中で『バーニサル』という話をした同級生がいました」
「バーニサル? 聞いた事もないですね……」
「ええ、自分もその時聞いた限りなので、おそらく全国的には広まっていないんでしょうね。内容は今思うと陳腐なものでした。林間学校で消灯時間が過ぎ、みんなが寝静まった頃、部屋のドアをノックする音が聞こえる。そこで返事をしたり、ドアを開けてはいけないらしいんです」
「ほう、それは何でです?」
「バーニサルというおばさんの妖怪が立っていて、いくら部屋から追い出しても気付くと中にいるらしく、みんな諦めて寝ると、翌朝一人の生徒がはらわたをエグられて死んでいたという話です」
「あの…、神威さん……。一体それのどこら辺が今までで一番怖かった話になるんですか? それなら昨日話した小説の話のほうが、よほど怖かったですよ」
鈴木が不信そうな顔で尋ねる。
「ただそのあとなんですが、夜中にドアをノックする音が聞こえるんですね。もうほとんどの同級生は寝静まっていたから、時間にして夜の十二時は過ぎていたと思います。私と横で寝ていた同級生の二人だけが、そのノックの音に気がつき起きました」
「へえ、それでどうなったんです?」
「さすがにバーニサルの話を聞いたあとだったし、深夜のせいで気味悪かったですよ。でも、私がドアを開けてしまったんですね」
「そしたら本当におばさんが?」
ゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえる。澤井知世だった。
「それが廊下には誰一人いなかったんです…。自分らの部屋は一番端だったので、駆け足で逃げたとしてもちょっと考えられないんですよね」
「ええ……」
「翌朝になり、部屋のみんなに深夜の出来事を伝えました。だけどみんな、夢を見ていたんじゃないのかって信用してくれなくて。もう一人見た友達も必死に話していましたけど、誰もそれを信用しようとする者はいませんでしたね」
「それは薄気味悪いですね。ありがとうございました、神威さん。ではみなさん…、これまで色々な話を聞かせてもらいましたが、誰のが一番怖かったですか?」
まずは馬鹿の酒巻が言い出した『ベッドの下にいる男』。
川崎の『メリーさん』。
澤井の『不幸の手紙』。
ワシの『達者』。
最後に神威の『バーニサル』。
鈴木の言葉は愚問だと思った。みんな、それぞれが一番怖かった記憶を蘇らせ話しているのだ。全員自分の話が一番怖いに決まっている。
「怖さというか、驚きという点では神威さんのですね。初めて聞いたものだったので」と、川崎が先陣を切った。この女は回りに合わせようと、自分の立場を押し殺せる性格なのか。三十手前にしてはなかなか要領がいいのかもしれないな。
「私もです」と、澤井。こいつは自分の意思と言うよりも回りに合わせるだけ。
「俺はやっぱ『ベッドの下にいる男』かな」と酒巻は自分の意思を押し通す。
「外山さん、あなたは誰のが怖かったですか?」
様子見をしていたワシに、鈴木が聞いてきた。その前にこっちから一つ質問をしようじゃないか。いつまでも司会者気取りでは困る。
「鈴木君…、君の話をまだ聞いていないが」
この場で話を振っておきながら、何を言っていないのは鈴木だけなのだ。
その時、会議室のドアが勢いよく開く。自然とみんなの視線はドアの方向へと向いた。何やら社長が焦った表情をしながら入ってくる。またくだらない事でも言い出しに来たのか?
「おい、大変だっ!」
入るなりそのひと言を発すると、肩で息をしだす。ここまで大した距離でもないが、全力で走ってきたようだ。
「どうしたんです、社長?」
酒巻が近くまで行き、声を掛ける。社長は息を整えてから、全員を見渡すように言った。
「す、鈴木君が……。か、彼がたった今…、亡くなったそうだ……」
「はあ?」
社長の意味不明の言葉に、その場にいた全員が同じ声を上げる。鈴木が亡くなった? じゃあ今まで一緒に話していた鈴木は一体何なのだ。
「社長…、大丈夫ですか? 少し落ち着いて下さいよ。鈴木君が亡くなったって、どこから聞いたんですか」
おどけたように酒巻が言うと、真剣な眼差しで睨んでいるかのように見つめていた。
「今朝から姿が見えず連絡もないから、珍しく寝坊でもしたのかと思っていたが、先ほど病院から連絡があり、事故で運ばれ、今さっき息を引き取ったそうらしい……」
朝から酔っ払っているのか? 神経を疑ってしまう。
「社長…、今は会議の真っ最中なんですよ? 冗談はほどほどにして下さいよ。鈴木君なら、今もそこで……」
そこまで言い掛けた酒巻の動きがピタリと止まる。
「……」
あれだけ元気よく会議を仕切っていたはずの鈴木の姿が、会議室のどこにも見当たらなかったのだから……。
思わず自分の目を疑ってしまう。何度も目をこすり、辺りを見回した。ワシだけでなく、その場にいた全員が同じような行動をしている。
社長の話が本当だとしたら、さっきまで一緒に話していた鈴木は一体……。
不可解過ぎるこの現状をどう捉えればいいのか、いまいち把握できないでいた。
「もう、嫌~っ!」
泣き叫ぶ澤井知世の悲鳴が聞こえ、現実に戻る。そばで川崎が澤井を抱き寄せ慰めているが、みんな対応に困っていた。
「残念ながら本当の話なんだ…。彼が持っていた書類にうちの会社の企画書があり、それでここへ病院が電話をしたらしい……」
声を震わせながら話す社長。
大きな音が聞こえ振り向く、酒巻がテーブルを強く何度も叩いていた。
「社長…、嘘っすよね? 嘘って言って下さいよーっ!」
澤井を抱かかえたまま、川崎が社長の目の前まで行く。
「失礼ですが、さっきまで鈴木さんとはここで、今まで一緒に会議をしていたんです」
川崎の発言にギョッとなり、社長は首をキョロキョロさせた。
「何? そんな馬鹿なはずが……」
驚きを隠せない者。
泣き叫ぶ者。
錯乱する者。
冷静に状況を見極めようとする者。
そして、それらを観察するワシ。
まるで狐につままれたかのように姿を消した鈴木。ワシだけでない。あいつの姿を見ているのは、ここにいる社長を除き全員なのだ。
いくら幽霊を信じないと思っていても、目の前にこうした現状を見せ付けられては信じないわけにいかない。
しばらくその場に全員立ち尽くし、どうしていいのか分からず、時間だけが徐々に過ぎていった。