岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

05 業務命令「世界で一番怖いホラー映画」を作れ

2023年02月28日 23時49分04秒 | 業務命令「世界で一番怖いホラー映画」を作れ

 

~五章 因果~

 

 いつもと同じ日常を送っていたつもりだった。池袋駅に到着する少し前に、何のアナウンスもなく自然と停車する電車。時間にして三十秒ほど経った頃、徐々に動き出し池袋の駅に到着する。

 同じ時間帯に同じ車両、乗る場所も毎日一緒。何ら変化などない。だが、ちょっとした違和感を覚えた。

 駅に到着してから開くドアがいつもと逆方向。そして降りる位置も微妙にズレている。何で今日は違うのだろう? この時はその程度にしか考えなかった。

 乗り換えて地元の川越市駅まで三十分ほど。流れる景色をぼんやりと眺めながら、今日の会議での不思議な出来言を思い出していた。

 社長が亡くなった事実を伝えると同時に、煙のように消えてしまった鈴木。今の会社に勤めてまだ数ヶ月。それなのに起こった不可解な現象。今朝の会議で俺が見たものは、霊だったと言うのだろうか…。同僚の鈴木に対しては、深い付き合いなどないものの、ちょっとした親近感はあったのだ。

 この目で見たものが、まだ未だ信じられない。俺だけでなく他の同僚である酒巻や外山、そして女性陣の澤井と川崎まで全員が、鈴木と話し接していたのだから。

 様々な職業や体験をしてきたつもりでも、同僚が亡くなったというケースは初めて。そしてその場にいないはずの人間と言葉を交わしたのも同様である。

 作家として本性ではこの有り得ない現実は歓迎したいところだ。しかし、仲が今後良くなるであるあろう一人の人間を…、知人を失ったショックは深い悲しみが全身を覆う。

 以前あの先生が指摘した俺の左腕についたという生霊。妬みという思念かららしいが、今回のケースはどうやって説明できる? 推測に過ぎないが仕事熱心な鈴木の熱意が、魂だけでもとあの場へ向かわせたというのか……。

 本来ホラー好きの俺にとって、今の会社の展開は願ってもないものだった。今まで見るだけのものだった俺が、自分で作品作りに関われる。小説を執筆するよりもワクワクし、家に帰ってからもどうしたら怖いものを作れるのかと必死に考えていた。

「あなたのそういったものを好む傾向は、あまり感心できないわね。何故ならそういったものを引き寄せてしまうから」

 あの時言われた先生の言葉を思い出す。頭では分かっていても、これは仕事なのだからと割り切り、そしてその先の展開をどこか楽しみにしている自分がいた。それがこんな展開になるなんて……。

 これ以上今の仕事に関わってはいけないのだろうか? しかし事故でとはいえ、欠員が一人出てしまっている。それでも続行する場合、また別の何かが巻き起こるのか?

 近い内また時間を作り、先生のところへ行ってみよう。何か新しい発見があるかもしれない。

 そんな事をぼんやり考えている内に、電車は川越市駅へ到着する。

 ここでもまた違和感があった。停車する位置が今度はかなりズレていたから。何かあったのか? 首を一瞬傾げながら階段を上り、改札へ向かう。

 狭い通路を歩いていると、先ほどからどうもすれ違う人々が、やたらと自分の顔を見ているような気がした。あまりにも見られているような感覚。何か顔についているのかと思い、駅のトイレへ寄る。

 鏡で自分の顔を眺めるも、特に変化はない。いつもと同じだ。

 気のせいだろう。駅を出て、階段を降りる。

「……」

 何だこいつら? すれ違う通行人のほとんどが、俺の顔をジッと凝視している。中には驚いたような表情をして一瞬その場で立ち止まる者もいるぐらいだ。

 俺と目が合うと視線を逸らし、何もなかったように歩いていく。妙な感覚を覚えながらも、特に気にしないようにして家の方向へ足を進める。

 奇妙な感覚を頭の片隅に感じながら歩いていると、すれ違う通行人のほとんどが俺の顔を珍しいものでも見たかのように眺めていく。一体こいつら何なんだ? 右の拳をギュッと握り締めながら、感情を顔に出さぬよう向かう。

 家に辿り着き、玄関で靴を脱いでいると、見知らぬ女性従業員の姿が見えた。また誰か新しい人でも入れたのか? その女性は俺を見ると、不思議そうな顔をしながら軽く会釈して作業場へ消えていった。俺がこの家の人間だと思ったのだろう。家業を継がないので、ほとんど家には寝に帰るようなものだ。

 靴を脱ぎ、階段を上がる。二階にある自分の部屋のドアを開けた瞬間、思わず声を上げてしまった。何故なら俺の部屋に知らない人間がいて、愛用のパソコンを勝手に使っていたからである。

「誰だ、キサマ?」

 素性の知らぬ男は、俺のほうを見て驚いたような表情をしているが、やがて目に力を入れて怒鳴り出す。

「おまえこそ、誰だよ? 勝手に人の家に上がり込みやがってよ」

「はあ?」

 何という開き直り方をするんだ、コイツ……。

「おい、いつまで人の部屋のドアを勝手に開けてんだよ?」

「おまえさ…、自分で今、何を言っているのか分かっているのか?」

「それはこっちの台詞だ」

 いつまでコイツはシラを切るつもりだ。

「完全な不法侵入…。殴られても文句ねえよな?」

 さすがにこうまでトボけられると怒りが溜まってきた。右の拳をゆっくり突き出して、そのまま握り締める。ボキボキと鳴る靭帯の音。相手を脅す場合、この方法はかなり有効だった。

「な、何だよ…、ご、強盗か……」

「おい…、あまりふざけるなよな。早く部屋から出て行けよ。それと人のパソコンを勝手に使うな。早くキーボードから手を離せ」

「さっきから何を言ってんだよ。ここは俺の部屋だし、このパソコンだって俺のだ。だいたいおまえは誰なんだ?」

 不法侵入者に名前を聞かれるなんて滅多にないケースだろう。思わずニヤけてしまう。

「俺は神威龍一。この神威家の長男だ。おまえこそ誰だ?」

「俺が神威龍一だっ! 泥棒のくせに、人の名前を名乗りやがって」

「……」

 こんな奴と話すだけ時間の無駄だ。俺は座っている偽者の後ろ襟をつかみ、強引に立たせた。そのまま襟を持った手を捻り、相手の服を使って頚動脈を締める。

「グボッ……」

 声も出せないぐらい苦しそうな偽者。廊下へ連れ出すと、壁に叩きつけた。そして肘を首の下に入れ、壁に押し付けた状態で身動きをさせなくする。

「悪いが、そんな気が長い性格じゃないんだ。あまり舐めた真似すると壊すぞ」

 ドスの利いた声を出しながら、偽者を睨みつけた。

「親父ーっ! 誰かーっ! 助けてくれっ! 強盗だ」

 偽者は助けを求めようと大きな声で怒鳴り出した。こんな状況に置いてもまだ見苦しい真似をするか。髪の毛を鷲づかみ、そのまま顔面を壁に叩きつける。

「おい、コラ…。警察に突き出す前に、バラバラにしてやろうか?」

 鼻血を出しながら暴れ出す偽者。面倒なので首に腕を回し、締め落とす。意識を遮断された偽者は、廊下にそのまま倒れた。

 とりあえず下に降りて、警察を呼ぼう。一階へ行くと、祖父が居間で座って新聞を読んでいたので、声を掛けた。

「おじいちゃん…、こんな時間に泥棒がいたよ。今、締め落として意識を失っているけど、警察を呼んでもいいよね?」

「……」

 ポカーンと口を開けたまま、俺の凝視する祖父。俺の台詞が冗談だと思っているのだろう。

「あれ、どうかしたの、おじいちゃん」

「誰だ、おまえは……」

「へ?」

「どこの誰だ、おまえは……」

「何を言ってんだよ? 龍一だよ、おじいちゃん」

「馬鹿を言うなっ! おまえは龍一じゃない」

「……」

 電車に乗って帰ってから、どうも何かがおかしい。まるで異世界に紛れ込んでしまったかのように感じる。

「おい、誰だキサマ!」

 作業場から親父が出てきた。俺を見るなり、不審そうな目で怒鳴っている。

「警察を呼べ、広龍。頭のおかしい奴がいるんだ」

 何でそうなるんだよ…。俺はとっさに玄関へ向かい、靴を履いて家を飛び出した。

 

「次は目白…。目白に到着です」

 アナウンスの声が聞こえ、目を開ける。俺は辺りの様子を確認した。今、電車の中にいるのか。周りの景色を見ると、ちょうど目白駅に到着するところだった。ひょっとして、さっきのは夢だったのか……。

 大きく息を吐き出す。池袋で降りなきゃいけないのに、うっかり寝過ごしてしまったようだ。

 目白駅で一旦降りて、逆方向の電車を待つ。

 先ほど見た夢で、酷く頭が混乱していた。どこからどこまでが夢だったんだ? 誰も俺の存在を知らないという夢…。家族のあの表情を思い出すと、思わず身震いした。当たり前のようにある環境が突然なくなってしまうって、あんな感じなんだろうな。鈴木が事故で亡くなった件も、夢だったらいいのに……。

 そんな事を考えている内に電車がやってくる。俺はそれに乗ると、池袋まで向かった。

 仕事帰り酒巻に声を掛けられ、一緒に酒を飲んだ。奴は俺のこれまでの過去を色々知りたがり、根掘り葉掘り聞いてくる始末。同期の鈴木が亡くなった事に対し、ショックは受けたようだが深い悲しみはあまりなさそうだった。

 そしてあの先生のところへ一度行ってみたいと、しつこく何度も繰り返していたが、おそらく酒巻が先生の元へ行ける事はないだろう。まず、今日さしで初めて飲んだがあまりうまい酒じゃなかった為、今後プライベートで酒巻と共に行動する事はしないという事。それに先生はああ見えて、かなりのエネルギーを使っているのが分かる。生半可な興味本位だけで連れて行くなんて失礼な真似、さすがに俺にはできない。

「ここに縁がない人は、いくら来たがっても来られませんから」

 よく先生はそう言う。過去、俺が先生の元へ連れて行ったのは全部で四人。最も信頼の置ける二人の先輩。そして幼馴染だった奴。最後に歌舞伎町時代、俺の右腕だった男。ある程度深い関係でないと、先生のところへ一緒にとなかなかならない。

 酒巻も、何かしらの縁があれば勝手に辿り着くだろうし、縁がないならどんなに願っても無理という事だ。

 池袋駅に到着。うん、今度はいつも通りの場所に電車が停まった。このまま真っ直ぐ帰るのもいいが、さっきの夢の展開と同じようでは嫌だしな。たまにはブラブラしてみるか。

 早速北口を出て、繁華街をブラブラしてみる。ここの雰囲気はミニ歌舞伎町のようで、接しているだけで何となく落ち着く。風俗って気分でもないし、軽く一杯どこかで飲んでいくとするか。

 ジンギスカンの店がここ最近で増えたようで、北海道にいた頃を思い出す。たまには入ってみよう。『ジンギスカン 楽太郎』という店に入る。

 中はこぢんまりとした感じで、右手にボックス席、左手には一人でも座れるようにカウンター席がある。俺はカウンター席に腰掛けメニューを眺めた。

「いらっしゃいませ、お飲み物は何にしましょうか?」

「ウイスキーはありますか?」

「いえ、申し訳ありませんが、うちには置いてないんですよ、お客さん」

「じゃあレモンサワーもらえます?」

「かしこまりました」

 再びメニューに目を通す。目についたのが、十勝牧場直産極上牛とろ飯だった。北海道だと本当に食べ物が新鮮でおいしかった。これも食べてみようかな。

「はい、お待たせしました。レモンサワーです。あ、お客さん、うちは初めてですよね?」

「はい、そうですね」

「まずですね、最初にジンギスカンのファーストセットが出ます。追加で他の食べたいものも注文して下さい」

「分かりました」

 調理人の手際が良く、もうジンギスカンのセットをしてくれる。食べ方を教わり、新鮮ラム肉なので、生でも大丈夫らしい。一口食べてみると、柔らかいラムが口の中でとろけるようなうまさだった。ここまでおいしいジンギスカンの店もそうはないだろう。

「本当においしい肉を使っているんですね。とても絶品です」

「ありがとうございます。うちのオーナーが、仕入れにはとてもこだわってまして」

「また機会あったら寄らせてもらいます」

 軽く飲んで帰るつもりが、あまりのうまさに追加で肉を注文した。舌鼓を打ちながらラム肉をほお張っていると、従業員がまたラム肉とソーセージを目の前に出してくる。

「こちらサービスです。このソーセージもラム肉なんですよ。良かったら食べてみて下さい」

「すみません…。気を使わせてしまって。良かったら一杯どうです? 飲んで下さい。仕事中で飲んでも大丈夫ならですが」

 心意気には心意気で返す。こういう気心のある店は、非常に好きだった。お互い初対面なのにあっという間に打ち解け、北海道時代の話などで花を咲かせる。

「お客さん、さっきご馳走になっちゃったから、牛とろ飯、これも食べてみて下さい。これ、本当に絶品なんですよ」

「そんな、申し訳ないですよ…。ちゃんと料金払いますから」

「いえいえ、お客さんのように阿吽の呼吸が分かる人って、大好きなんですよ。オーナーもこういうサービス自体、自分に任せてもらってますので全然問題ないですから。一度これを食べてみてほしいなあと思って」

 先ほどのジンギスカン同様、この牛とろ飯も抜群だった。

 至れり尽くせりとはこの事だ。たまたまフラッと寄ってみた店だが、こんないい場所だなんて思いも寄らなかった。池袋でなく家の近くにあったら、夜食のほとんどをここで過ごしそうなぐらい。ぜひ、時間を作ってまた来よう。

 俺は店員にもう一杯酒を振舞うと、明日も仕事なのでそろそろ切り上げる事にした。

 今度は無事地元へ到着し、家に戻っても拒絶反応は当たり前だがなかった。

 

 部屋で仕事のホラー映画の事を考えた。

 電車の中で見た夢。同じような日常を過ごしいたつもりが、微妙なズレを感じる時…。何故か通りすがりの通行人にジロジロ見られ、帰ったら自分が知らない人間になっている。

 これにあと何か条件を加えたら、立派な都市伝説になりそうだ。題名は『いつもと違う日常』とかで。

 これまで奇妙な出来事や体験は何度かあった。

 自衛隊時代、朝霞駐屯地での使わずの部屋。第二次ベビーブームである俺ら世代が入隊した時部屋が足らず、二年前に首吊り自殺をしてから封印された部屋を衛内班として使用していた事実。十人いた俺ら班員すべてが、不可解な現象を体験した。北海道に転属した時そんな奇妙な事は何も起きなかった。

 それと三十歳になる前に付き合ったブランド好きの女とホテルに泊まった時の出来事。深夜、ベッドの片隅に白いモヤのようなものが蠢いているのを気付き、思わずつかみ掛かってしまう。結果腕枕をしていた彼女の首を巻き込むような形で絞めてしまい、寝ていた彼女は咳き込んで起きたぐらいだ。

 思い浮かべると自身が体験した不思議な現象は、これらと『ブランコで首を吊った男』にまつわる書かされたというものぐらい。

 会議で見て接したあの鈴木が霊だというのなら、今回ハッキリとこの目で確認した事になる。他の同僚も同様に……。

 普通に話を進めていたはずの鈴木は、気付けばどこにもいなくなっていた現実。あれを科学で説明しろとなったら、どの科学者が弁論できる? おそらく誰一人納得するようなものを言える奴などいないはず。

 オカルトが苦手そうな澤井は、今にも倒れるんじゃないかっていうような状況だった。今回の一件でホラー映画製作の話はどうなるのだろう。俺には何も分からない。

 でも、こういった事実をうまく映像に活かせたら、きっと鳥肌が立つような作品が作れそうな気がした。亡くなった鈴木には不謹慎であるが……。

 もしも、俺がこれを元に小説にしてみたらどうか? いや…、さすがにそれは人道的に反するのではないか。もしも映画製作の話が立ち消えになった場合、その時にまたどうするか考えればいい。

 作家としての自分と、同僚の突然死を悲しむ俺。どっちが本当の俺なのだろう……。

 とりあえず俺は今書き掛けの『出会い系の白馬に乗った王子様』という作品を起動し、画面を開く。これは馬鹿な夫婦を主役にしたドロドロの人間関係を描くつもりだ。俺のジャンルにしては珍しい恋愛小説。ある程度物語の本筋は頭の中に入っていて、時には笑い、時には驚きというような感じで人間の心情を表したい。

 原稿用紙にしてまだ二枚もいっていないのに、ふとキーボードを叩く指が止まる。先の展開は見えている。だからそれを文字として書けばいいだけ。それなのにいまいち気が乗らない。

 精神的に疲れた時や怒った時、俺は作品が書けなかった。頭の中で思い浮かぶ映像をひたすら文字に変換する作業。プロットも何も作らず、ただ真っ白の部分に文字を刻んでいく。それが俺の小説の書き方のスタイルであるが、頭が整理されているからこそできる芸当なのだろう。画面から目を離すと壁にもたれ掛かり、タバコに火をつけた。

 部屋の片隅に立て掛けたままの電子ピアノに視線が向く。ピアノを弾かなくなって五年近くのときが流れた。すっかり埃を被っている。俺はタバコのヤニで黄ばんでしまったキーボードの白い部分を丁重に拭いた。

 まだ覚えているかな…。そしてちゃんと弾けるかな。

 電源を入れて、俺はドビュッシーのベルガマス組曲三番『月の光』を弾きはじめた。静かな出だしで始まるこの曲は、ゆったりとそして鍵盤を押さえる手を目で追い確認しながらの作業となる。

 ヤマの部分まで弾くと、演奏が止まる。あとはどうやって弾いたっけな……。

 ピアノは時間次第でいくらでも冷酷になるものだ。ピアニストは毎日弾いていないと駄目だと聞いた事があるが、俺は三十歳になってから始め、しかも五年間まるで弾いていないのだ。そんな状態で『月の光』を弾こうと思うほうがどうかしている。

 一人の女に出会い、格好をつけたかっただけの理由で始めたピアノ。発表会に出場のあと、俺は小説をいきなり書き出した。すべてはその子に自分は何でもできるんだ振り向いてほしかったから。しかし時間を掛けて捧げた崇高な想いは彼女に伝わらず、俺はピアノを捨てた。

 マルチと知り合いからは言われるが、その時その時に集中して一つの事をしているだけで、俺は器用でも何でもない。

 格闘技の世界を目指した頃は日々体の鍛錬しか目が行かず、ピアノを始めた時はどうしたら弾けるのかと、ひたすら毎日の反復練習で暗記するほかなかった。鍛え抜いた肉体をピアノの練習で捨て、今度は小説の執筆によってピアノのスキルがなくなったわけだ。

 突如書き始めた小説。その処女作がこうして賞を獲り全国出版となったが、約二年半経つ今になっても、出版社から印税は振り込まれていない。出版契約書を交わしているのにも関わらず、未だ俺の銀行口座番号すら聞いてこない愚直ぶり。おそらく印税を払う意思など毛頭もないのだろう。まあ契約書では十年間の契約を結んでいる。今こうして働かないと収入手段がないから仕方ないが、いずれ出版社とは形をつけてやろう。

 整体を開業した時に訪れた賞の受賞。俺は校正作業に追われるようになり、駅前で借りていた物件の家賃を払うのが困難になるほどだった。そして総合格闘技団体からのオファー。作品の宣伝になるならと約八年ぶりに出場を決意したが、整体の経営まではさすがに時間が回らなかった。だから閉めてまで校正作業に専念したのだ。それを未だ印税すら払わないなんて、あきらかに問題じゃないのか。

 本を出す前の校正段階の時点で、出版社との歯車は狂っていた。

「私は世界で一番『新宿クレッシェンド』を読んでいます。だから世界で一番この作品を理解しているつもりです。私は神威さんの為にでなく、これを読む読者の為に動きます」

 そう偉そうに言った俺の担当編集者の女。まるで魂を感じなかった。本の表紙や帯一つとっても、まるでセンスも欠片さえなかった。

 あいつにはいくらぐらい印税が入るのか、一度確認した事がある。その時あの女は「さあ…、そんな入らないんじゃないんですか」と簡単に言った。これで俺は編集者に対する不信感が一気に強まったのだ。

 そしてその担当編集は一年前、すでにあの会社を辞めている。責任感も何もなく、俺の処女作を台無しにして逃げるように消えた。

 あれから数年経つ…。だがあの出版社に対する怒りを思い出すと、未だ全身に憎悪が募る。ふざけやがって……。

 その時、部屋の電球が切れた。

 今年になってこれで三度目……。

 前回の時は春先だったが、一週間ほどで二度も新品の電球が切れた。俺は怒り心頭になり、メラメラと根底にあるものを表に出そうした時になったものだったのだ。

 先生から、俺は怒ってはいけないと言われていたのを思い出す。

 自分では何も感じない力。しかし人によってはそういった妙な力を感じるという人間もごく僅かだがいた。

 本来怒りのパワーというのはもの凄いものがある。怒りがあるから戦争まで発展するのだ。破壊衝動というものを別の何かに方向転換できたら、もっと素晴らしい何かが生まれるはずだと思うのだが……。

 予備の電球を買い置きしておいて良かった。あまり過去は振り返らないようにしないとな。怒りの感情がすぐ湧き出てしまう。

「物は様々な形で教えてくれる……」

 以前先生に言われた言葉。今回こうして怒ってしまいそうになるのを電球が切れる事で教えてくれたのかもしれないな。もっと気をつけないと。

 前回はブログにハマっている時に、突然インターネットの接続状況がおかしくなり、エラーばかりになった。あの時深夜なのに先生から一通のメールが届き、『今、おかしな状況になっていませんか? 物は様々な形で教えてくれます。あなたが今本当にすべき事は他にもっとあるはずじゃありませんか?』と書いてあった。

 この内容には心底驚いた。あの人の目には何が見えているのか? 先生はパソコンなど使った事もないので、せいぜい携帯電話を使ってのメールぐらい。それなのに何故俺のパソコンの調子がおかしくなった事まで分かるのだろう……。

 本当に不思議な先生だった。酒巻が出演交渉で絶対に口説き落としてみせるなんて豪語していたが、あの人はそういった脚光や金銭ではまず釣られる事などない。

 初めて先生のところへ行った際、俺は新宿でそこそこの権力は持っていたから、この人を歌舞伎町へ呼んで、うまい具合に一儲けできるんじゃないかと思った。人通りのいい物件を探し、よく当たる霊媒師として売り出したらどうかと持ちかけてみた。

 しかし先生は静かに口を開く。

「私は表に出ては行けないのです。それにこの場所にいるから、この力があります」

「でも先生…、新宿ならもっと金を持った奴が仰山といるし、莫大な金を稼げますよ?」

「ですから、そういった金銭をいくら提示されたところで、私はここから動くつもりはまったくありません」

「だって先生…、二時間もこうやって人の相談や話を聞いて、たったの三千円しか取らないなんて、生活大丈夫なんですか?」

「そんなに贅沢しなければ問題ありません。私は現状に対し、特に不満は何もありません。それに多くを望んでもいません」

 初めて会った時、こうも無欲な人間なんて本当にいたんだと感じた。それ以来俺は尊敬の念を示し、先生と呼ぶようになったのだ。

 神に選ばれた人間は試練の連続で、どんな状況においてもそれにめげず、必死に切り抜けていかなくてはいけないと常々言われてきた。以前俺は神に選ばれたと言われた事を思い出す。確かに嫌な事の連続だ。小説の印税にしたってこんな風になっているなんて、俺を応援してくれる読者は思いもしないだろう。それだけじゃない。家の事情も何もかも、実はうんざりしている自分がいる。これを試練だと言うのなら、そんなものはいらない。神が本当にいるというのなら、こんな試練を与えたというのなら、俺は神ですら憎しみを抱くだろう。

 自分の人生、いつも死というものと隣り合わせ。そんな感じがした。

 四十手前になって貯蓄なし。独身だし、現在は特定の彼女もいない。そしてキチンと長く努めている定職もない。きっと世間一般から見れば、どうしょうもない奴と思われているのだろうな。

 手に職といえば、カクテルだって作れるし、料理も得意だ。それにパソコンのスキルだってそこそこある。一応あんな賞とはいえ、受賞し書店に本が発売されたという事は、俺も小説家という事になるだろう。それを認めたくない輩も数名いるらしく、俺のブログなどに中傷コメントを書き込んでくる馬鹿もいる。名前や姿も現さずに自分の言いたい事を抜かす奴っていうのは、自己の現状に不満を持ち、憂さをどこかで晴らしたいのだろう。卑怯かつ臆病なクズにしか見えない。目の前で堂々と言ってきたら、問答無用でぶん殴ってやりたいぐらいだ。

 仕事探しもこの年になると、なかなか難しい現実を知った。

 本を出した事など、どの会社も見向きすらしない。唯一今の会社の社長が興味津々に色々質問し、現状に至る。

 そんな事情もあって俺は今の会社の社長には感謝を覚えていた。

 作品を世に一度は残せたし、いつ死んでもいい。あまり幸福とは言えない現状に対し、常にそう思う自分がいた。先の未来などいくら渇望したところで、大したものなどないような感じがする。

 しかしそれでも飯は食うし、寝る事もしっかりしている俺。結局のところ、自分で自害でもしない限り、生き抜いていかなければならないって事だ。

 明日も仕事。遅刻しないよう今日はもう寝よう。

 目を閉じてから数分。廊下のほうから「ボー」という鈍い音が突然聞こえてきた。慌てて目を開け、息を殺す。一体何の音だ?

「……」

 しばらくボーという音は鳴り響いている。まいったな。不思議な現象がこうも立て続けに起こるなんて、この先に何かあるのかよ。

 音を出している訳だから、泥棒って事ではないよな。だけどもしかして泥棒が目の前にあるトレーニング室を物色して、この音を鳴らしたとしたら……。

 俺はドアを開け、廊下に飛び出た。すると散らかって足の踏み場もないトレーニング室の奥にある電子ピアノの上で、ペットの猫のマロが鍵盤の上に体を乗せている。低音のドの部分が凹んでいるので、あのボーという音の正体はこれだったのか。

「何だ、マロかよ……。ビックリさせやがって……」

 ホッとしたと同時に出る吐息。おそらくピアノの上で寝る際、電源のスイッチを押してしまったのだろう。俺はマロを優しく抱かかえ、部屋に連れて帰った。

 

 

~六章 製作~

 

 唐突に起きた同僚の鈴木君の死。まさか鈴木君の思念と会話をしていたなんて、あの時は思いもしなかった。ショックが強過ぎたのか知世は気絶寸前までなってしまう。

 一人であの大塚のマンションには帰れないだろうから、今日このあと会う約束になっていたバーのマスターの香田さんとは、後日にしたほうがいいかもしれない。これ以上のショックキングな出来事は知世の為にも避けたい。あとで香田さんに連絡しておかなくちゃ。

 この日の仕事はほとんどみんな身に入っていなかった。当たり前か。同僚の突然死に対し、淡々と業務をこなせるほど人間はそうタフにできていない。

 一つ思うのが、鈴木君が何故あの状態なのにみんなの前に姿を現したのかという事。彼自身今回の映画作りにおいて一番情熱を持っていたから、それで何とかみんなの気持ちをそっちに向かわせようと思った彼の最後の心残りなのかもしれないな……。

 そう感じると、とても悲しさが全身を包む。最後に残ったのが仕事の事だなんて、他に気になる事はなかったの。大切な人の前にとか、普通ならそういう風な行動に出るもんじゃないかしら。

 残った従業員たちで映画作りに励むとしても、彼の思念が間違いなく残っているから、途中途中で不可解な現象が起きたり、また作品自体に何かしらの影響を及ぼす可能性があったりするかもしれない。知世には生き地獄な日々になりそうだな。家に帰れば白い女性に出くわし、会社では苦手なホラー製作に取り掛からなきゃいけないんだから。

 香田さんの話を聞き、まず白い女性が何故知世についてきたのか、その原因を突き止めない限り、しばらく彼女をうちに泊める事になる。でもそうすると私のプライベートがまったくないも同然。

 私は暗く塞ぎ込む知世の席へ向かう。

「ねえ、知世。今日の香田さんとの約束なんだけどさ、一緒に行っても大丈夫?」

「……」

 黙ったままの彼女。これから何かが起こるのではないかと不安でしょうがないのだろう。

「あんたの気持ちは分かるよ。でもさ、別にずっと私のところに泊まっていてもいいけど、あんたはそれで本当にいいの? ずっとこのままで」

「先輩の言いたい事はとても分かります…。でも…、今日鈴木さんがあんな風になってしまい、さすがにショッキングな事だらけで…。だから今日ぐらい大人しくしていたいです」

「そうだよね。ほんと色々な事があり過ぎたよね。じゃあ香田さんとの約束は、後日に落ち着いてからにしようか?」

「そうしてもらえると、とても助かります」

「それとも私一人だけで、会いに行って話を聞いてこようか?」

「え……」

 途端に不安そうな顔立ちになる知世。一人でいるのが溜まらなく怖いのだろう。

「分かったから…、そんな顔しないで。今日は断る事にするよ」

 本当なすぐ彼の話を聞いて、白い女性に関するヒントを得たいところなんだけどな。時間ギリギリじゃ相手に失礼なので、私は時間を見計らって香田に連絡をしてみた。

「はい、香田ですが……」

 休みだったせいか、彼はすぐ電話に出る。

「あ、昨夜お店にお邪魔しました、川崎と申します」

「ああ、昨日いらしたお客様ですね。今日七時にという事ですが、何かありましたか?」

「それが始めに一緒にいた子もと思ったんですが、会社の諸事情で今日は会うの難しくなりました。それでせっかくお時間を取っていただいた香田さんに対して申し訳ないなあと思いまして」

「いえ、会社の事情じゃしょうがないですよ。お互い雇われの身ですからね」

「それでここだけの話なんですが、実は今日…、同僚が事故で亡くなってしまったんです。それで今後の対応などまだ何も決まっていない状況なので、会う日程をキチンとできない状態なんですね。ですからまたお時間作れる時に連絡をするという形でも、よろしいでしょうか?」

「私のほうなら全然問題ありませんよ。事故でだなんて災難でしたね。お悔やみ申し上げます」

「ありがとうございます」

 電話を切ると、今日香田と会うのは中止になった事を知世へ伝えた。香田さんのような物分りのいい男性って話しているだけで癒される。やっぱり将来を共にする男性を射止めるには、理解力のある人が一番いいのかもしれないな。

 

 今日から私の部屋に泊まる事になった知世。

 実は気になっている事があった。あのバーから知世についてきてしまった白い女性。ここへ知世が来たところで、姿を現さなくなるって事はないだろう。何故なら知世の住むマンションにいる訳ではないからだ。

 すっかり憔悴し切った知世。私は賑やかな居酒屋で飲もうと誘い、元気のない彼女を強引に連れ出した。

 お酒を飲ませて早く彼女を寝かせるのが目的だった。それに賑やかな場所なら、少しは気も紛れるはず。

 隣の席で大学生たちが飲み会をして盛り上がっていた。普段なら疎ましく思うだけだけど、今日に限ってはそのやかましさがある意味感謝している。一気飲みをして盛り上がる場。あんな事させて急性アルコール中毒になったらどうするんだろう? それにアルコールの飲み過ぎで死亡する事だってあるのだ。

「ほら、せっかく注文したんだから、少しぐらい食べなさい、知世」

「はい…、そうですね」

 チューハイを少しずつ飲むぐらいの彼女。食欲がないのは分かる。だけどこんな時こそ食べさせないと、人間は参ってしまう。

 説得の甲斐あってようやく知世はつまみを口に運び出す。

 香田とは近い内時間を作って話を聞きたかったが、この現状では動きようがない。この状態で知世を一人きりにする訳にはいかなかった。

 私の部屋に戻り、他愛ない世間話をしている内に知世は寝てしまう。

 神経を集中させて辺りの気配を探る。

「……」

 部屋の外にではあるが、間違いなく昨夜感じた気配があった。

 完全にこの子に、ついてきてしまっているのね……。

 香田の話を聞けたところで、果たして私などでどうにかできるレベルなのか? 妙な力があるのは自覚している。でも、私は特別な人間でも霊能者でも何でもないのだから。

 横でグッスリ寝息を立てながら眠る知世を見た。

 ううん…、弱気になっても何も解決などしない。どうにかしなきゃいけないんだ。

 冷蔵庫からビールを取り出してフタを開ける。最近の私って飲んでばかりだな。アルコール依存症までは行かなくても、それに近いものはあるかもしれない。

 それにしても、ホラー映画製作の話と共に奇妙な出来事が立て続けに起こり過ぎているような感じがした。うちの社長…、鈴木君の件などで考えを改めてくれたらいいけど、あの人の性格じゃそれはありえないだろう。

 できればそういった関係のものに、自分から近づかないようにはしていたつもり。でも、業務命令としてなら避ける訳にもいかない。それが仕事なんだから……。

 これからさらにもっと恐ろしい事が起きそうな気がして、身震いをした。

 

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