試験二日前。もうちょっとでテストが始まる。小学校の時のように簡単な問題ばかりじゃないだろう。同じクラスの岡崎龍典ことちゃぶ台は、「勉強なんぞ俺はしねえって。ドラムを叩いていれば、すべてが忘れられるぜ」と思い切り現実逃避をしていた。
クラブがないから、学校が終わればすぐに帰宅して勉強。そんな日々を送っていたが、帰り道に山岡猛と鈴本勉が声を掛けてきた。
「神ヤン。蔵造りのほうに新しいゲームセンターができたんだよ。『スリーナイン』っていうゲーセン。ちょっと行ってみないか?」
「う~ん…、でもあと二日でテストだよ?」
「いいじゃん、ちょっとぐらいさ。部活だってないし」
「行こうぜ、神ヤン」
二人に言い寄られると、ちょっとぐらいならいいかなと思ってしまうから不思議だ。元々俺はゲームが大好きなので、断る理由なんてない。
本川越駅の目の前の通りを中央通りと呼ぶが、駅を出て左側に真っ直ぐ向かうと、川越の観光名所となっている蔵造りの町並みへ出る。この中央通りには自分の同級生の親が営む自営業の店が多い。仲町の信号の先から蔵造りの家がポツポツと見えるのだ。その信号の角には後輩の店である『マツザキスポーツ』がある。新しいゲームセンター『スリーナイン』はその横にあった。
中に入ると薄暗い空間の中、テーブルタイプのゲーム機がたくさん並んでいる。この頃新しいゲームを各社が開発したせいか、インベーダーのようなシンプルなゲームでなく、斬新なアイデアのゲームが様々に登場した。
ファミリーコンピュータという家庭用ゲーム機では再現できないクオリティーの高いゲーム。俺たちは興味深くゲーム機を眺めた。
「よう」
声を掛けられたので振り向くと、桶川俊彦ことデコリンチョと、因縁のある沼田正行の姿が見える。こいつらは元々勉強とは縁がないので、噂を聞きつけ、早速やってきたのだろう。デコリンチョのおでこは、薄暗い中でも鈍い光を放っている。
我が富士見中学では、校則でゲームセンターの出入りを禁止されていた。いつもなら同級生の川原の家『ピープルランド』で遊ぶが、先生たちの見回りが強化され、見つかると担任の鈴本先生に絶対殴られる。ここの新しいゲームセンターなら、まだ先生たちも知らない場所だ。
中学生は俺たち五人ぐらいで、あとは高校生ばかりだった。中にはリーゼントヘアーをした怖そうな兄ちゃんもいる。
俺はゲーム機に二本のレバーがついている『空手道』というゲームをやってみた。左レバーを上に倒し、右レバーを右方向へ同時に入れると、『飛び横蹴り』という技が出る。レバーの組み合わせ次第で様々な技が出るようになっているのだ。
こうしてゲームをしていると、時代の進化を感じる。
二日後には試験だというのに、遅くまで熱中してゲームに夢中返していた。
夜の八時過ぎに家へ戻ると、運悪く親父に玄関先でバッタリ出くわす。
「キサマ、今まで何をやっていたんだ」と問答無用で何度も殴られた。俺は泣きながら、夜中の二時まで勉強に取り組んだ。
とうとうテスト前日。泣くも笑うもこの一日ですべてが決まる。
昨日ゲームセンターで遊び過ぎたので、俺は授業が終わるとすぐに教室を出た。今日は一夜漬けの覚悟で勉強に取り組まねばならない。
廊下を早歩きで進むと、デコリンチョや山岡猛、正行が駆け足で追い駆けてくる。
「神ヤン、今日もスリーナイン行こうよ」
「いや、悪いけど今日は勉強する。明日テストだしね」
「付き合い悪いなあ。いい点取って、そんなに先生受けしたいのかよ?」
正行がつまらなそうに言う。
「今はテスト週間だろ? 先生の見回りだっていつもよりすごいし、昨日はたまたま見つからなかっただけなんだ。今日なんて前日だよ? 見つかる可能性は大きいって」
「何だよ、一人だけいい子ぶってよ」
デコリンチョが、からかうように口を開く。
これ以上話しても無駄だ。
「とにかく俺は行かない。今日行くと見つかるぞ? 忠告はしといたからな」
こいつら、勉強するって意思がまるでないんだなと感じる。「やーい、勉強虫のガム」と背後で叫ぶデコリンチョたちに呆れながら、俺は学校をあとにした。試験が終わったら、鈍い光を放つおでこを思い切り叩いてやろう……。
明日は、国語と英語と数学と理科の四教科がテスト。国語はいつも本を読んでいるせいか、特に勉強しなくても読解力に自信はある。英語や数学は基本を丸暗記して、これはこういうものなんだと判断するようだから、勉強をしなくちゃ。理科は、カエルについての問題ができない事を祈る。
俺のこの世で一番苦手なもの。それはカエルだ。
まだ俺が小学一年梅組の時だった。同じクラスの林谷という生徒が、すごいデカい緑色のカエルを学校に持ってきた。先生は理科の授業で使う大きめのビーカーを持ってきて、教壇の上に置き、中にカエルを入れるとサランラップを巻く。
「さあ、そちらの席から順番でカエルを見に来ましょう」
この時はまだ何も問題なかった。俺は特に苦手意識はない。しかし俺がビーカーを覗き込んだ時、カエルが飛び跳ね、顔面にへばりついたのだ。
俺は悲鳴を上げながらパニックを起こし、尻餅をついただけで何もできないでいる。誰かが顔にへばりついたカエルを叩き、無事開放された。
カエルを持ってきた張本人の林谷。彼はそのまま右手でカエルをつかむが、指先が体の中へグニャリとめり込み、手足をバタつかせていたのを見て、俺は床にゲロを吐いてしまう。
これ以来トラウマになったのだ。未だカエルの鳴き声を聞いただけで、全身に鳥肌が立ち固まったしまう。
それを知っていた数名の女子は、三年桜組の福山先生時代に川原へ行くと、小さいカエルを手に持ちながら、「ほら、神威。カエルだよ」と攻撃してきた。こいつら、学校に帰ったら絶対に殴ってやると心に固く誓いながら、俺は悲鳴を上げて逃げた。
このせいもあって、クラスの女子には乱暴を働くようになったのだ。
福山先生に怒られ、それからは反省したが、多分今でも同じ事をしてくる人間がいれば、俺は自分を守る為にいくらだって鬼畜になるだろう。
おっといけない。明日は中間テストじゃねえか。昔のどうでもいい思い出なんて振り返る暇があるなら、英単語の一つでも多く覚えなきゃ……。
中間テストが始まる。
ちゃんと毎日予習復習をしてきたせいか、問題が非常に簡単に思えた。国語の教師ちゃたろーはたくさんの小説を読むのが好きなせいか、漢字の問題よりも、読解力を求める問題が多い。おかげで苦労せずスラスラ答えが書ける。
数学はみっちり基礎を覚えたので、あとは応用だ。ケアレスミスをしないよう、注意を払って計算をする。でも、何故か数学って好きになれないんだよなあ……。
英語も数学と一緒。英単語をどれだけ覚え、日本語とはまるで違う単語の配列の仕組みを理解するよう努める。中学に入ってからの新しい教科だけあって、対策や勉強はある意味一番時間を掛けてきた。別に海外へ行きたいとかないから、これはあまり意味のない勉強になるのだろうな。
理科…。カマキリの奴、カエルの問題が出ているじゃねえかよ…。白黒の写真なんぞ載せやがって。俺はその部分を筆箱で隠した。そういえばこの筆箱のせいで、クラス委員の小森が愛子ちゃんに文句を言ったんだっけ。俺は二つ斜め前にある小森の後姿を見つめた。
「おい、神威!」
担任の鈴本先生が俺を睨みつけてくる。
「は、はい」
「前を向くな。ちゃんと答案用紙を見て書け」
「す、すみません……」
まいったな。カンニングでもしたと思ってんのか? 悪いけどカンニングする奴なんて、周りにいねえよと思った。
「やーい、ガム。怒られてやんの~」
デコリンチョが声を出してからかう。シーンとしたクラスに失笑が漏れる。
「桶川~、うるせんだー」
鈴本先生は立ち上がり、デコリンチョの頬を叩いた。テーブルにつっぶして泣き出す馬鹿。減らず口と言うが、本当にこいつは懲りない馬鹿だ。
でも、本当にクラスで一番の成績取らないと、あとでデコリンチョとかから何て言われるか分からないなあ……。
カエルの写真を見ないよう答えを書こうとするが、この部分の名称はという質問なので、絶対に見るようだ。まあ理科なんて別にいいか。ここを答えられないぐらいじゃ、せいぜい点数なんて五点マイナスぐらいだろう。いや、でもそれでクラスで一位になれるのか? どうしよう……。
「……」
ソーッと筆箱をズラす。いくら白黒とはいえ、やっぱりカエルの写真は気持ち悪い。限界だ。筆箱でカエルを隠した。
よくよく考えてみれば理科の授業でカエルの事をした時、俺は嫌だから何も聞いていなかったっけ。あんな問題なんて分かるはずないのだ。まあいいや。他の問題をすべて正解すれば大丈夫だろう。
静まり返った教室内。デコリンチョのすすり泣く声だけが聞こえていた。
すべてのテストが終わり、掃除をしてホームルームを待つ。
妙に今日の鈴本先生は機嫌が悪そうだ。教室に入り教壇に立つと、イライラしているように見えた。
明日のテストの事を簡単に話し、解散になる。
カバンを持って帰ろうとすると、「桶川、山岡、沼田」と先生は怒鳴りつけた。
「は、はい……」
「おまえら相談室へ来いっ!」
ドアを乱暴に閉め、先生は教室を出て行く。震えながら三人はあとへ続く。
相談室というのは、校舎の二階にある放送室の奥にある部屋を指す。鈴本先生の「相談室へ来い」というのは、生徒にとって恐怖の対象だった。何故なら必ず殴られるという事実を前もって予告されているからだろう。
過激な鈴本先生は放課後部活動をしていると、たまに「至急、相談室へ来いっ!」と放送室から全校生徒へ向かって呼び出す事もある。前にそれを聞いた時は、バレー部の先輩だったが、その人は顔を青くしながら校舎へ向かった。
デコリンチョ、正行、山岡猛はもう今にも泣き出しそうな顔をして、ドアを閉める。
昨日あれほど忠告したのに、あいつら本当に馬鹿だなあ……。
「神ヤン、昨日俺ら行かなくて良かったねえ」
幼稚園時代の同級生、鈴本勉が声を掛けてくる。
「ほんとそうだね。あいつらもさ、一昨日見つからなかったから、昨日は大丈夫なんて思ったんだろうけど、馬鹿だよ」
「まあね、どこのゲーセンへ行ったんだろうね」
「スリーナインじゃないの? ピープルランドは先生に目をつけられているしさ」
「そういえばあそこのスリーナインのおじさんさ、『キン肉マン』に出てくる『喧嘩マン』に似てない?」
喧嘩マンとはキン肉マンに出てくる完璧超人のボス『ネプチューンマン』がマスクをつける前の素顔である。あまりにも強過ぎて観客から歓声を浴びないイギリスの超人喧嘩マンは、ロンドンのテームズ川に身を投げたのだ。何故か川の底で彼を待っていた『ビック・ザ・武道』はネプチューンキングの仮面を持ち、完璧超人へと変身を遂げたのである。
スリーナインのおじさんは、その喧嘩マンにそっくりだった。本人も学生たちに受けるようにあんな髭を生やし、姿形を似せているのかもしれない。
教室のドアが勢いよく開く。
「ねえ、神威君。鈴本先生が神威君も呼んでこいって」
唯一の体操部部員である八幡敦が、息を切らしながら言ってくる。走ったせいかメガネが少し曇っていた。
「はあ、何で?」
「俺も分からないよ。でも神威君を呼んでこいって……」
ところでこいつ、何で俺の事を『神威君』なんて君付けで言ってんだ?
「何だろう? テストの件で何かあったのかな?」
俺は勉の顔を見ながら言う。
「さあ? 何でだろうね」
「まあ、ちょっと行ってくるよ」
のん気に階段を下りて、相談室へ向かう。今頃デコリンチョたちは、先生に殴られてベソをかいているだろう。ドアを元気よく開け、放送室へ入る。
「神威でーす」
陽気に声を出すと、奥の相談室から鈴本先生の顔が見え、手招きしている。
入ると三人共正座させられ、下をうつむいていた。泣き顔を俺に見られたくないのか。
「神威…、おまえもゲームセンター行ったんだってなあ」
「はあ?」
「昨日見つかったのは沼田や桶川、山岡たちだけだけど、おまえもいたそうじゃないか」
「先生…、俺、昨日家に帰って真面目に勉強していましたけど?」
「嘘つくなよ! 神ヤンだって、俺たちと一緒にゲームセンターに行ったじゃねえかよ」
「……」
こいつ、ひょっとして俺までチクりやがったのか?
「神威ー…、山岡はそう言っているが、どういう事だ?」
鈴本先生の目つきがさらに鋭くなる。とりあえず昨日は行っていない。誤魔化そう。嘘はついていないはずだ。
「先生、だから俺は昨日家にいましたって」
「俺たちとゲーセンで会ったじゃねえか!」
正行がデカい声を出す。こいつまで……。
「俺も神ヤンと会っただろ?」
デコリンチョまで……。
こいつら全員汚ねえ。自分たちがバレたからといって、俺まで謳ったのだ。
「何だ、神威。言っている事が違うじゃねえかぁー」
いきなり頬を叩かれ、俺はグッと歯を食いしばった。勉も一昨日は一緒だったけど、俺は絶対にチクったりしねえ。
「中間テストの結果を見て下さい。ちゃんと勉強はしていますから、点数に比例しているはずです」
精一杯の抵抗のつもりだった。
「口答えするんじゃねえ」
また一発平手打ちを食らい、俺たちは相談室から解放された。
テストが無事終わり、また部活動が始まる。
先日鈴本先生に密告した山岡、正行、デコリンチョの三人とは、自然と距離を置くようになっていた。自分たちのミスで見つかり怒られたくせに、友達を売る卑劣な行為。あの状況で何故、彼らは俺の名前を出さないといけないかったのだろう? 俺は忠告したはずだ。それを馬鹿にしてゲームセンターへ行ったのは、あいつらなのだ。
沼田正行やデコリンチョはまだ性格的に分かる。山岡猛までが俺を謳った事がショックだった。
「こいつら、三人掛かりで卑怯だよな」
一対三の劣勢な状況で、掛けてくれたあの言葉。あれで俺は山岡には感謝を感じていたのだ。卑怯と彼は口にした。なのに自分が言った台詞。あれは一体何だったのだろう。
逆の立場だったら、俺はまず言わない。言えない。被害を最小限に自分で食い止められるのなら、それでいいんじゃないか。奴らの行為は、裏切り以外何ものでもない。
授業を受けていても、クラブでサッカーをしていても、常に苛立ちを感じている自分がいる。
家に帰ると、一番下の弟の龍彦が見た事のないおもちゃで遊んでいた。俺や龍也のおさがりでなく、あきらかに新品なおもちゃだった。おばさんのユーちゃんの性格上、そういう無駄なものは買い与えない。おじいちゃんやおばあちゃんにしてもそうだ。
「たあ、おまえ、そのおもちゃどうした?」
「買ってもらった」
龍彦はそう言うと、おもちゃの汽車を手に取り、床を転がせていた。
「誰に買ってもらったんだ?」
「し、知らない人……」
「はあ? 知らない人? おまえさ、もう小学三年だろ? 何でそんな知らない人から、そんなおもちゃを買ってもらったんだ? 本当は違うだろ? ちゃんと言えよ」
「マ、ママ……」
全身に電撃が走り抜けるような衝撃を受けた。
「龍彦っ! 何であんな奴に?」
「学校の帰り道歩いていたら、声を掛けられた」
「……」
俺は小学四年生の頃を思い出していた。授業参観日、家の人間は誰も来なかった。人形屋の純治君のお母さんが、気遣って「一緒に帰ろう」と言ってくれたが、惨めに感じた俺は断って廊下へ出た。その時従兄弟の洋子親子がいて、母親が学校へ来ている事を告げられる。恐怖に駆られ逃げ出した俺。外へ出て母親から肩を捕まれ、振り切って必死に逃げた。そしてPTAの会長の運転するバイクに跳ねられたのだ。
何で龍彦は、平気な顔をしてそんなおもちゃで遊んでいる……。
気づけば足で乱暴に龍彦の遊ぶおもちゃを何度も踏み潰していた。
「おい、たあ! あんな奴に媚なんぞ売ってんじゃねえよっ!」
兄がいきなり怒り出したのがビックリしたのか、龍彦はわんわん泣きながら部屋を出て行った。
シーンと静まり返った部屋。目の前にはバラバラになったおもちゃの残骸だけが広がる。
あいつはどういうつもりだ? 俺だけじゃ飽き足らず、弟の龍彦まで何かしようとしているのか……。
「どうしたの、兄ちゃん?」
真ん中の弟である龍也がドア越しに部屋を覗いている。
「何でもない」
「ちょっとこっち来てよ」
「何だよ?」
気が立っていたので、苛立った口調だった。
「いいからさ」
龍也のあとをついて、三階の和室へ入る。ここは誰も使っていない部屋だが、俺が勉強をする時だけ使うようにしていた。母親が家を出て行く数年前までは、親父の弟である武おじさんがここへ住んでいた。
大きな百科事典を広げる龍也。
「ほら、ホッテントット」
指をさすので見てみると、お尻だけが異様に肥大した黒人の絵や写真が載っていた。あまりにも滑稽なので、苛立っていた俺もつい吹き出してしまう。姿形よりも『ホッテントット』というネーミングが妙におかしかったのである。
その時階段をガンガン駆け上がる足音が聞こえた。ヤバい。多分親父だ……。
「コラッ! 龍一。おまえ、龍彦を何泣かせてんだ」
問答無用で殴られる俺。両腕で必死に顔をガードした。
「この野郎が」
散々人を殴るだけ殴っておいて、親父は捨て台詞を吐いて階段を降りていく。
腕が痛かったが、両腕のガードで顔は殴られなかった。漫画のキン肉マンの主人公、キン肉スグル。彼の防御方法で有名な『肉のカーテン』は今、俺がやったような防御術だ。漫画はためにならないってみんな言うけど、役に立つ事もある。
「大丈夫、兄ちゃん……」
龍也が心配そうに声を掛けてくる。
「ああ、腹に攻撃されたら危なかったけどね」
自分で話した言葉を耳で聞き、いつだったか忘れたけどテレビドラマでつっぱった姉ちゃんの台詞を思い出した。
「顔はヤバいよ。ボディーにしな。ボディーに……」
冗談じゃない。腹まであの状態で殴られたら、痛いじゃないか。テレビはとんでもない悪影響だ。
親父のパンチをあれだけ凌げた腕。サッカー部に入り、毎日のように鍛えていたせいか、筋肉がついたのかな……。
キン肉マンも『肉のカーテン』なんて洒落た名前をつけたもんだ。
俺は徐々にだけど、身長が伸び始めていた。いや、昔から伸びてはいたが、最近自覚するぐらいだ。何故ならクラスでいつも真ん中よりもちょっと後ろぐらいだったのが、今ではだんだん背の高いほうへと並ぶようになっている。
「神威って身長伸びていないか?」と言ってくるクラスメイトもいるぐらいだった。
いっぱいご飯を食べて、いっぱいサッカーの練習をして、いっぱい勉強もする。睡眠時間が唯一足りないところだが、今の生活のリズムが体に合っているからだろうか? そういえば、小学校時代はデコリンチョのほうが背はデカかったけど、今じゃ俺のほうがデカい。この調子でもっと伸びればいいなあ。
おばさんのユーちゃんと、おばあちゃんの共同で作った夕飯を食べる時も、ご飯を三杯は必ずお代わりした。
「まったく龍一も食べるようになったから、最近はご飯を一升炊くようだよ」
おばあちゃんはそう言いながら笑っていた。いつもこの食卓に親父はいない。どこかまた出掛けているのだろう。
家の電話が鳴る。おじいちゃんが出ると、すぐに「ちょっと待っててね」と俺に受話器を渡してきた。
「誰?」
「八幡って子から」
「八幡?」
何でタラコ唇のあいつが、俺の家に電話なんてしてきたのだろう。まさか今頃体操部へ強引に入れた文句を言いに? あれから数ヶ月経つんだ。さすがにそれはないか。とりあえず電話に出てみる。
「おう、神威君?」
「何だよ、最近君付けで呼びやがって。前は神ヤンって言ってたじゃん」
「まあまあそんな事どうでもいいじゃん。それより今、近くに家族の人はいるの?」
八幡の言い方にキナ臭い何かを感じた。
「夕食中です。何か用?」
「できればおまえと静かに話をできるところへ行けない?」
「だから何の用だって」
「人が後ろに大勢いると、言いづらいんだよ」
「じゃあ明日、学校で話せばいいだろ?」
「大事な話なんだ」
「分かったよ」
俺は保留ボタンを押して、二階の親父の部屋まで行った。家は商売をしているので、全部で八台の電話機が設置されている。親父はしばらく帰ってこないだろうし、誰にも聞かれないなら、ここがベストの場所だ。
「待たせたな。で、何よ、用って?」
「悪いな。いやー、神威君って水洗寺さんと従兄弟なんでしょ? お兄さんの分太さんから聞いたんだけど……」
「ああ、そうだよ。親父と愛子ちゃんのお母さんが兄弟。ブンちゃんも当然同じ従兄弟」
「いいなあ」
「何が?」
「愛子ちゃんなんて気安く呼べてさ」
「はあ?」
とぼけたふりをしたが、すぐに電話の目的が分かった。こいつ、タラコのくせに愛子ちゃんに惚れたんだ。
「そこでさ、従兄弟の神威君にちょっと協力してもらいたい事があってさ」
「協力?」
「はにほにすはにほにいはにほにせはにほにんはにほにじはにほにあはにほにいはにほにこはにほにきはにほにれはにほにいはにほにだはにほによはにほに」
いきなり八幡は呪文のような言葉を唱えだした。
「おい、何だよ、それ? 気持ちわりーなー」
「そんな言い方するなよ。これはいわゆる暗号文なんだ」
「暗号文?」
「そう。今、近くにメモ用紙とかあるか?」
「ちょっと待って」
メモ用紙を近くに持ってきて、俺は書く用意をする。
「いいか? もう一度言うよ。ヒントは『はにほに』ね。これもちゃんと書いてよ?」
「面倒臭いなあ…。さっきの呪文みたいなやつを俺がいちいち紙に書くの?」
「そんな事言わないでお願いしますよ」
「分かったよ。ゆっくり言えよな」
「はにほにすはにほにいはにほにせはにほにんはにほにじはにほにあはにほにいはにほにこはにほにきはにほにれはにほにいはにほにだはにほによはにほに」
一字一句間違えないように八幡の言葉を紙に書いていく。
「はい、書けましたよ……」
冷めた口調で言う。
「ご苦労」
「何がご苦労だ。偉そうに」
「ごめんごめん、そんな怒らないでよ」
「…で、これは何? こんなのを俺に言って、どうする訳?」
「水洗寺さんにさ、それを伝えてほしいんだ。もちろんヒントも一緒にね」
「俺が解読すればいいのか?」
「わー、駄目駄目。そのまま伝えればいいから。頼むよ、神威君」
そう言って八幡は電話を切った。面倒臭い事を押し付けやがって……。
従兄弟の愛子ちゃんに電話を掛ける前に、俺は八幡敦が考えた薄気味悪い暗号文を解読してみる事にした。とてもじゃないが、愛子ちゃんに電話でこの気持ち悪い文章を言葉で話す気にはなれなかったのだ。
あのメガネタラコ、ヒントが『はにほに』とか言っていたけど多分それを消せばいいのだろう。
はにほにすだから、『す』。はにほにいだから、『い』。はにほにせだから、『せ』。はにほにんだから、『ん』。はにほにじだから、『じ』。はにほにあだから、『あ』。はにほにいだから、『い』。はにほにこだから、『こ』。はにほにきだから、『き』。はにほにれだから、『れ』。はにほにいだから、『い』。はにほにだだから、『だ』。はにほによはにほにだから、『よ』か……。
『す・い・せ・ん・じ・あ・い・こ・き・れ・い・だ・よ』
「何々…、水洗寺愛子、綺麗だよ……」
自分で声に出すと、溜まらず吹き出してしまった。あの馬鹿、何が綺麗だよだ……。
坊主頭で、ブツブツのニキビ面。タレ目で目が細く、しかもメガネでぶ厚いタラコ唇の八幡が、こんなキザな台詞を暗号文とはいえ考えるなんて、愛の力は素晴らしい。もう一度言ってみよう。
「水洗寺愛子、綺麗だよ…、ブッ!」
駄目だ。おかしくて腹を抱えて笑ってしまう。八幡の奴、あの面でこんな事を考えていたなんて、恐ろしい奴だ。鏡を見ながらこれを思いついたのだろうか。想像しただけで俺は親父のベッドを叩きながら笑い転げた。
俺はこんなものを愛子ちゃんに、笑わず真面目に電話で伝えなきゃいけないのか? そんなのは無理だ。一種の拷問だろう。
これは暗号文通りに言うのがベストだな。まともに解読した文章をそのままなんて、吹き出してしまう。
彼に伝えると約束した訳ではないが、やらないと明日、学校で蝿のように付きまとわれ、かなりうるさいはずだ。ここは一肌脱いでやるか……。
電話機の前で何回も深呼吸をした。心を静かに落ち着かせる。ゆっくり八幡が「水洗寺愛子、綺麗だよ」と鏡の前で何度も復唱する様子を思い浮かべた。
「ブッ!」
駄目だ…。どうしても笑ってしまう。
どうしよう。やめるか。だけどそうするとなあ……。
まあとにかく愛子ちゃんに電話をしてみよう。途中で吹き出しても、それはしょうがない。八幡が悪いのだ。
愛子ちゃんの家に電話を掛けると三回コール音が鳴り、おばさんが出た。
「こんばんは、龍一です」
「あら、どうしたの龍一?」
「学校の事で、愛子ちゃんに伝えたい事があって」
「愛子? ちょっと待っててね……」
俺はまた八幡の顔を思い出した。受話器から顔を離し、ゲラゲラ笑ってしまう。これ、ちょっとヤバいんじゃないか。
「もしもし……」
耳から離れた受話器から声が聞こえる。
「あ、ごめんごめん、愛子ちゃん」
俺は慌てて電話に出た。
「学校の事って何かあったの?」
「いや…、前に筆箱の件で、小森が愛子ちゃんに言ってきたでしょ?」
うん、いい出だしだ。まったく違う話題をする事で、笑いを制御する。
「ああ、あれからは特に何もないから大丈夫だよ。何回かしつこく従兄弟なんだよねって聞いてきたぐらいかな」
「ふーん、そう」
「小森さんの事で電話してきたの?」
「違う違う。ただ、ふと思ったから聞いただけ」
「そう」
「いや…、う~ん……」
「どうしたの?」
「同じクラスの八幡敦分かる?」
「ああ、お兄ちゃんと同じクラブの人でしょ?」
「そうそう」
「それがどうしたの?」
「いや…、あのね…。面倒かもしれないけど、愛子ちゃん、メモ用紙用意できない」
「はあ? 何で?」
「お願いだから」
絶対に暗号と解いた文章なんて、口じゃ言えない。
「ちょっと待ってて……」
愛子ちゃんが電話口から離れている間、俺はまたゆっくり深呼吸をした。
「ブッ!」
やめよう。深呼吸は体に良くない。まったく落ち着かず、逆に笑ってしまう。
「お待たせ~」
「……」
「今からさ、俺が暗号文を言うから、それを書いてくれる?」
「はあ?」
「頼むよ。俺、あいつからお願いされちゃってさ……」
「う~ん……」
「じゃあ、行くよ? ヒントは『はにほに』だってさ。では、行きます。はにほにすはにほにいはにほにせはにほにんはにほにじはにほ……」
「ちょっと待ってよ、龍ちゃん」
「え?」
「私、そんなの聞きたくない」
「え、でもさ……」
「何、その暗号って?」
普段おとなしい愛子ちゃんが、珍しく怒った口調になっている。
「い、いや……」
「八幡君は何がしたいの?」
「分かった…。じゃあ、俺がこれを書き写している時にね。自然と解読できたから、そのまま解読したものを素直に言うよ。それでいい?」
「……」
返事をしない愛子ちゃん。かなり怒っているんだろう。
「いい? 解読すると…、水洗寺愛子、きれ…、ブッ! ギャハハハハ……」
駄目だ。どうしても吹き出してしまう。俺は電話口から離れて大笑いしてしまった。
「あ、もしもし、愛子ちゃ~ん…、あれ? 何だ。切っちゃったのか……」
いくら恋愛に鈍そうな愛子ちゃんだって、あれじゃ気づくだろう。本当に嫌だったんだろうな、八幡からあんな暗号めいたものを言われるなんて……。
俺はしばらく受話器を握り締めたまま、『す・い・せ・ん・じ・あ・い・こ・き・れ・い・だ・よ』を思い出し、また吹き出した。
翌日学校へ行くと、五月蝿のように八幡は俺に付きまとってくる。
「ちゃんと伝えてくれたのかよ?」
「伝えたよ。何だ、その偉そうな言い方は」
「水洗寺さん、何て言ってた?」
「知らないよ。俺は伝えただけだし……」
怒って電話を切ったなんて、さすがに彼には言えない優しい俺。
「何だよ、使えない奴だな~」
「何だ、その言い方は?」
「伝えてくれとは言ったけどさ、もうちょっと気を利かせろよ」
「おい、八幡…。おまえさ、人の夕飯時にね? あんなくだらない電話をしてきてさ。少しは俺に申し訳ないと思わないの?」
「悪いと思っているから『神威君』って呼んでやってんじゃん。こんな使えないんじゃ、やっぱおまえは『ガム』だ」
「オメー、舐めてんのかよ」
気付くと俺は、八幡を殴っていた。自分の都合で一方的に話す馬鹿に、頭が来たのだ。
八幡は地面に尻餅をつき、メガネを取って目をこすっている。それからしばらくして大袈裟に泣いた。殴るのはよくない事ぐらい自覚している。それでも今回は特に悪い事をしたとは思えない。
クラス中の人間が、俺たちに注目しているのが分かる。八幡はそれが分かると泣くのをやめ、立ち上がった。
「使えない男、おまえはガムだ! ガム、ガム」
「おい、おまえさ、本当に怒るよ?」
「やーい、ガム、ガム、このガム公」
こいつ、本当にふざけた奴だな……。
愛子ちゃんの一件の事は、みんなの手前だからあえて言わないようにしていたが、言っちゃってもいいよな。いや、愛子ちゃんの名前を出すと、八幡はいいにしても、彼女自身が非常に迷惑だろう。昨日電話であれだけ不機嫌になっていたもんな……。
「おい、どうした? ガム、ガム」
みんなが見ているからって、何をこの馬鹿は図に乗ってんだ? ぶ厚いタラコ唇が開く度、無性にイライラする。
「おい、タラコ!」
「何だ、その言い方は?」
「タラコ唇だから、タラコって言っただけだ」
「ふざけんな、このガム公の分際で」
俺は自然と脚で、八幡を蹴っ飛ばしていた。
「おまえさ、ぶっ殺すぞ?」
倒れた八幡をさらに蹴ろうとする俺に、「それ以上駄目だって、神ヤンッ!」と飯田君がとめに入る。ドラムの得意なちゃぶ台も俺を押さえていた。
「落ち着けって、神威!」
「離せよ、ちゃぶ台」
「正樹が来たら、またぶん殴られるぞ?」
「チッ……」
確かにこのタラコのせいで、鈴本正樹先生に殴られるのはわりに合わない。
「神ヤン、落ち着いてっ!」
「分かったよ、飯田君……」
俺は八幡敦をひと睨みしてから、自分の席に戻る。
休み時間になり、気分を変える為廊下へ出る。
「……」
また惚れていた田坂幸代と板橋のカップルが、廊下でイチャイチャと楽しそうに話しているのを見掛けた。
教室に戻ると八幡が睨んでいたので、テーブルを蹴っ飛ばしてやる。また飯田君やちゃぶ台がとめに入る。
この日は一日中ずっと気分が悪かった。
各授業で中間テストが各個人に配られる。一人一人名前を呼ばれ、返事をしながら答案用紙を取りにいく。
国語のテストは九十七点。百点満点だと思ったが、消しゴムで消した問題があり、その時横の文字まで半分消してしまった形跡がある。これのせいで、取り損ねたのだろう。俺は国語の教師であるちゃたろーに文句を言いに行く。
「村田先生~」
「ん、何だ、神威?」
「これなんですけど~、ちょっとこれって消しゴムで半分ぐらい消えてますけど、バツになっているじゃないですか?」
「ん、どれ……」
ちゃたろーは答案用紙を手に取り、問題の部分をジッと眺めている。
「ね、先生。微かにだけど、ちゃんと正解が書いてあるでしょ?」
「駄目だよ、これじゃあ。おまえのケアレスミスだ」
「だって先生! これさえ丸なら、百点満点なんですよ?」
たった一問のせいで満点を逃しているのだ。できれば覆したい。
「駄目なもんは駄目だ。もう自分の席につけ」
「チッ…、ちゃたろーめ……」
俺の態度に、クラスは大笑いしていた。
「何だと、キサマ」
本人は婿養子に行き、『加藤』という旧姓を失った事にコンプレックスを抱いていたのだろう。小声で囁くように言っただけなのに、ちゃたろーと言う呼び方に鋭い反応を見せる。器の小さい野郎だ。きっと家じゃ、奥さんに頭が上がらないのだろう。
「何でもないっすよ」
ちゃたろーが不機嫌なのは分かっていたが、答案が覆る事はない。ふてくされたように席へ向かう。
「何だ、その口の利き方は?」
しつこいちゃたろー。この先生は担任の鈴本先生のように暴力的ではない。ただ、ちょっとした事で妙にこだわる癖がある。
「バツのままって事っすよね?」
「しょうがないだろう。おまえが悪い」
まるで譲る気配がない。
「ちゃたろーのバーカ」
「何だと、この野郎」
目を剥き出しながら怒るが、別に殴られてもよかった。
「別にちゃんと村田先生って言ったところで、点数は変わらないじゃないですか」
「そうか、おまえがそのつもりなら、先生にだって覚悟があるからな」
そう言うと、ちゃたろーは教壇へ戻っていく。怒りの矛を治め、静かに後姿を見せる対応は、不気味さを感じた。
ちょっと言い過ぎたかな……。
反省してみるが、もう遅い。すでに俺は何回も『ちゃたろー』と言ってしまったのである。一学期の成績表が怖い。
国語、数学、英語の三教科ぐらいはすべて『五』にしておきたいんだけどなあ……。