国語の満点をすべらせたせいか、数学は八十二点。英語は九十二点。理科は八十六点。そして社会が思ったより悪く、六十五点だった。これは多分、高梨先生のノータリンがいつも授業中にノータリンの頭を触らせようとしたり、水虫の足をくっつけようとしたりするから、勉強に集中ができなかったのだ。
俺はこの点数を噛み締めながら、同じように毎日勉強へ励む。おばさんのユーちゃんも一緒に横について、勉強を教えてくれる。今度の期末は、もっといい点数を取らないと駄目だ。
夜中の一時まで勉強をして、朝の六時には起床。サッカー部は日曜日も練習がほとんどある為、睡眠時間がどうしても不足してしまう。
たまにはゲームセンターに行って、好きなゲームをやりたいなあと思う事もある。でも、中学の勉強はさすがに遊んでいては成績上位を狙えない。
何でもっと楽な部活を選ばなかったのだろうと後悔した。別に俺はサッカーをそこまで好きじゃないのだ。元はといえば、田坂幸代が隣の女子バスケット部にいるから、格好をつける為に入部しただけである。あの女も板橋と付き合ってんのなら、もっと早く俺の前でイチャイチャすれば良かったんだ。やるせないなあ。
そんな事を思いながら日々を過ごしていると、たまたまサッカー部自体休む日があった。俺はデコリンチョや山岡猛を誘い、連繋寺の『ピープルランド』や『スリーナイン』にゲームをしに行く。
運悪く見回りの先生に見つかった俺らは担任にチクられ、次の日当たり前のように平手打ちを食らった。
さらにサッカー部でもそれが部長に知られてしまい、一年生全員が集合させられる。
「昨日神威がゲームセンターで遊んでいるのが見つかった。おまえら十週一抜けだ」
この部長が言う『十週一抜け』とは何か? 校内のグランドを十週して、一番初めを走っていた者だけは抜ける事ができる。次に十一週目に一位の人間が抜けという感じで、一人一人抜けていくのだ。俺たち一年生は二十三名いたので、単純にビリだと三十三週もグランドを走るハメになる。
特別足が速いほうではないが、少なくても俺の責任でみんなも走らされるのだ。自分が先に抜ける訳にもいかない。
他の部員たちの白い目が背中に突き刺さる。
待てよ……。
部長は俺の名前しか言わなかったけど、同じ部員の山岡やデコリンチョだって一緒に見つかったんだぞ? 理不尽さを訴えようと思ったが、俺が悪いのに他の連中まで巻き添えにしたところで何も変わらない。なら、すべての責任を俺一人で背負おう。
「ふざけんなよな……」
ボソッと誰かが後ろで言った。
確かに本当にふざけるなだ。俺は何も文句など言えない。
「おら、一年。十週一抜け、よーい……」
部長が手を叩くと同時に、俺らは一斉に走り出す。トップ集団と一緒に走る訳にもいかず、俺はゆっくり目のペースで走った。俺を抜く時、「馬鹿、死ね」や「おまえ、もうサッカー部辞めろよ」などと、文句を小声で言う連中もいた。
部活が終わっても帰り道、あまりに嫌味を言われたので、次の日俺はサッカー部を初めてズル休みした。
こうなると悪循環というもので、翌日部長から「昨日神威がズル休みした。はい、十週一抜け、よーい……」とまた連帯責任で走らされる。
どんどん肩身の狭くなる俺。
居づらさを感じながらも頑張って毎日を過ごした。もうちょっとで期末テスト週間が始まる。そうすれば部活は休みになるから、苦しくても我慢しよう。そう必死に自分へ言い聞かせた。
待望のテスト週間がやってきた。
サッカー部の同級生たちから迫害を受けていた俺は、砂漠の中でオアシスを見つけたような気分だった。
これで思う存分ゲームも勉強もできる。ただ先生に見つかる訳にはいかないので、山岡猛と相談し、隣町の『上福岡市』まで自転車で遊びに行ってゲームをした。東武東上線で川越市駅から、『川越』、『新河岸』、『上福岡』と三つの駅を通過するような距離である。そんな思いをしながらも、俺たちはゲームがしたかったのだ。
何故俺を鈴本先生にチクり、裏切り行為を働いた奴と一緒に行動したのかと言うと、山岡猛とデコリンチョも、サッカー部の連中からどちらかといえば白い目で見られていたからである。はぐれ者同士、つるむしか方法がなかったのだ。
そんなさ中、突然悲劇がやってきた。
弟の龍也が連繋寺にあるブランコで、額を五針も縫う大怪我をしたのだ。
事の始まりは、テスト週間で暇だった二つ年上の従兄弟の分太が、家に遊びに来た事だった。同じクラスの水洗寺愛子の兄でもある。
「龍一、連繋寺に遊び行こうぜ」
ちょうど家で勉強をしていた俺に、ブンちゃんは遊びへ誘いに来た。中間テストの成績が思うような結果じゃなかった為、この日俺は勉強に燃えていた。
「悪いけどさ、ブンちゃん。俺、期末に懸けているんだよ。だから無理」
「何だよ、付き合い悪いなあ」
いくらブンちゃんがふてくされても、無理なものは無理だ。
「ブンちゃん、俺が一緒に行く」
その会話を聞いて弟の龍也が入ってきた。勉強の邪魔されるのも嫌なので、俺はブンちゃんに「龍也連れて行ってくれば?」と勧める。
「あとで来ても仲間に入れないからな」
中学三年生にもなって子供みたいな事を言いながら、ブンちゃんは龍也を連れて外へ出掛けた。
普通なら一人乗りのブランコだけど、連繋寺のブランコ二人が向き合うようにして座るタイプだった。始めは普通に漕いでいたが、その内飽きたのか二人共立った状態で漕ぐようになる。勢いをつければつけるほど、ブランコのスリルは上がる。
その時あまりにブランコが上まで行き小学五年生の龍也はバランスを崩し、手を離してしまったらしい。ブランコから落ち、地面の上で尻餅をついていると、加速したブランコが龍也の額に直撃し、救急車まで出動する騒ぎになったようだ。
一歩間違えたら、死んでもおかしくないような事故だった。
もし、俺があの場にいたら、防げたんじゃないだろうか?
額に包帯を巻いた龍也を見て、勉強に熱中していた自分を悔やむ。いや、今は龍也が無事だった事を喜ぼう。
数日後、連繋寺の二人乗りのブランコで、誰かが首を吊ったという噂を聞いた。薄気味悪かったので、しばらく近づかないようにしていたが、ある日を境に連繋寺のブランコは撤去され、桜の木が植えられていた。
ブランコの写真など撮っていなかった為、今ではもう松本清張原作の映画『鬼畜』の映像の中でしか、連繋寺のブランコを見る事はできない……。
期末テストも無事終わり、弟の龍也の誕生日がやってきた。
家のクリーニングは職人さんたちも数名いたが、おばさんのユーちゃんたちも働かなければいけないほど、仕事が追いつかないようだ。
前日、額の傷の抜糸も済んだ龍也は俺に対し、「ねえ、兄ちゃん。明日は僕の誕生日だから、お誕生会をやってよ」とせがんできた。
もうクラブ活動も始まってしまった為、それはできないと伝えると悲しそうな顔をした。
この間、怪我をしたばかりの龍也。見ていて辛い。少し考えてから俺は、「分かった、やっぱりやろう」と言うと、その日サッカー部をまたサボった。
おじいちゃんにねだって小遣いをもらい、ケーキやジュースを買いに行く。近所に住む龍也の同級生を集め、即席の誕生日会を開く。
ローソクを「ふー」と吹き消した龍也は嬉しそうにはにかみながら、頭をかいた。友達がみんなで歌を唄いながら拍手をする。
それを見ていると、無理して誕生日会をやって良かったなと思う。
「兄ちゃん、ケーキを食べないの?」
「うん、俺は大丈夫。おまえ、誕生日なんだから、俺の分も食べな」
「ほんと!」
「嘘ついたってしょうがないだろう」
ケーキをほお張る姿を見て、数年前を思い出していた。
まだ俺が小学生の頃、三村の家へ強引に連れていった親父。ケーキを食べる時、あの人の化粧品臭い匂いが入り、吐きそうになった事がある。それ以来ケーキは嫌いになり、クリスマスの給食でケーキが出ても、いつも誰かにあげていた。中学生になってから、あの三村を見ていないが、親父はまだ関係が続いているのだろうか?
額にまだ包帯を巻く龍也を見て、本当に生きていて良かったなあと実感する。
実際に現場を見た訳でないが、頭から大量を血を流しながら龍也は意識を失っていたようだ。ブランコが九十度の角度まで上がり、それが弟の額を直撃した。一体、どれだけの衝撃だったのだろうか? 想像しただけで未だ鳥肌が立ち、全身身震いをする。
「ねえ、兄ちゃん。みんなもいるし、久しぶりに野球をやろうよ」
「どこで? ジェスコはもうマンションの工事入ったから無理だよ?」
家から三軒横には『ジェスコ』という大きなパチンコ屋が昔あった。その家も俺らと同じ男三兄弟で、長男は龍也の同級生だった。ジャッキーチェンに似た彼を当時よく苛めた。彼を倒せば強くなれると勘違いしていた俺は、酷い仕打ちをよくしたものだ。
「熊野神社で庭球野球なら、大丈夫だよ。スペース的にも充分あるしさ」
この当時、子供たちがゴムのボールとプラスチックのバットで野球をする事を『庭球野球』と呼んでいた。俺よりも年上の先輩たちは『手打ち野球』と呼んだそうだが、多分そっちはプラスチックのバットを使わない本当に手でボールを打つ野球なんだろう。
「よし、じゃあ熊野神社へ行こうか」
俺は二歳年が離れた連中を連れ、近所の熊野神社で庭球野球をした。みんな喜んでプレイするのを見て、今日は部活をサボって良かったと思う。
誕生日なんて一年に一回しかないのだ。普通なら母親がいれば当たり前のようにやってくれるもの。しかし、家では母親がいない。だから龍也だって当然寂しさはあるだろう。先日大怪我をしたばかりだし、せめて兄として祝ってやりたい。
その時運悪く、サッカー部の練習を終え、帰宅中のパン屋の中田太郎ちゃんが熊野神社を通り掛かった。学校の帰り道、みんなそれぞれ好きな道で家まで帰る。普段ならここを通る人間などいないのに、何故今日に限って…。自然と俺は太郎ちゃんに見つからないように隠れようとしてしまう。
「あ、神威。おまえ、何をやってんだよ? クラブ休んでさ……」
見つかっちゃったか。さて、何て言い訳するか……。
「いや、今日龍也の誕生日でね」
「そんなのとサッカーと何の関係があるの?」
その言い方が気に入らなかった。両親が普通にいて、当たり前の生活をしている奴なんかに俺の気持ちなど分かるか。
「別におまえには関係ないだろ?」
「ふーん…、そういう言い方するだ。分かったよ……」
太郎ちゃんはそれだけ言うと背中を見せ、熊野神社をあとにした。
昨日の気まずい雰囲気のまま終わった龍也の誕生日会。
次の日、サッカー部の朝連に行くと、案の定冷たい視線が待っていた。太郎ちゃんはやっぱり昨日の事をみんなに話してしまったのか。まあ俺が練習をサボったのは事実だ。それに対し文句を言われても、変に言い訳などするのはやめよう。
しかし予想と反し誰一人、俺と口を聞こうとする部員はいなかった。無視か。それならそれでいいや。
授業を受け、時間が刻々と過ぎる。放課後になってまた顔を合わせなきゃいけないサッカー部の連中の対応を考えると、とても気が重かった。
サッカーの練習をしている時も、どこかみんなよそよそしい。喋りながらボールを蹴るスポーツじゃないし、どうでもいいか。
「ちゃーい…、どっ」
「おう」
「どっ」
「おう」
「どっ」
「おー」
「ちゃーい…、どっ」
「おー」
変な掛け声と共に、バレー部が校内を走り回っている。先頭を走って集団を率いているのは、小学三、四年生の時同じクラスだった深沢史博だった。中学に入ってからも身長は伸び続け、いつもクラスで一番後ろの列に並んでいる。いつもあの変な掛け声を聞くと、昔からの伝統なのかもしれなが、つい笑ってしまう。
でも、それを言ったら我がサッカー部もかなり変だ。部長が走りながら「おいっせよ」と言うと、みんなで「おい」。「かえっせよ」で、「おい」。そんなどうでもいいような掛け声を掛けながら走り回るのだ。まるで格好よくないし、意味が分からない。女子バスケット部の近くを通る時なんて、恥ずかしくてしょうがなかった。
「おい、神威。練習中、何がそんなおかしいんだよ?」
部長が睨みつけてくる。
「い、いえ…、バレー部の掛け声を聞くと、ついおかしくなっちゃって」
「おまえ、たるんでいるな。俺がいいって言うまで走ってろ」
「はい……」
一人でバレー部のあとを走らされる俺。非常にみじめな気持ちだった。何でこんなクラブに入っちゃったんだろうな……。
部活を終わり、後片付けをする。先輩たちは先に帰っていく。残り一年生だけになった時だった。
「おい、神威よ」
「ん?」
「ん? じゃねえよ」
キーパーのポジションをしている松平が怒鳴ってくる。
「何だよ?」
「今日はたまたま先輩たち、十週一抜けしなかったけどよ。おまえにそれだけ呆れている証拠だぜ?」
「あ、そう」
「何だ、テメー。その口の利き方は?」
胸倉をつかまれる。ぶっ飛ばそうかなと思ったが、確かに一年生全体に俺が迷惑を掛けた事には変わりない。ただ、素直に謝ろうという気持ちもなかった。
松平が文句を言ったのをきっかけに、何人かの部員が俺を囲む。初めて練習試合に臨んだあと、嫌味を言ってきた隣のクラスの沖田もいる。パン屋の太郎ちゃんまでいた。こいつら、よほど日頃からストレスが溜まっているんだな……。
いつもなら絡んでくるはずのデコリンチョや山岡猛は、逆に心配そうな表情でこっちを見ていた。
「昨日、ガキ集めて何をしてたんだよ? 言えよ」
「何だっていいだろ」
「良くねえよ。こっちは先輩たちからおまえのせいで、文句ばかり言われるんだ。ガキ集めて、お山の大将気取りか?」
「そんなんじゃねえよ……」
こんな大人数じゃ敵わないまでも、全員思い切りぶっ飛ばしてやるか。
ちょうど隣の女子バスケット部の子たちが帰り始め、俺たちの前を通り過ぎる。不穏な空気を感じていたのか、不断なら「キャッキャッ」しながら帰る女生徒も妙に静かだ。一瞬、田坂幸代と目が合う。
「言えよ、何をしていたんだよ?」
「うるせぇよ、おまえらには関係ねえ」
彼女の前で情けない姿を見られたくなかったのか、俺は怒鳴りつけていた。それで女子バスケの子たちはこちらを向いたが、みんなよそよそしく校門へ向かった。
「おまえ、女の前だからって何を粋がってんだよ?」
女子がいなくなったのを確認すると、松平がまた胸倉をつかんでくる。もう早くこの気持ち悪い空間から開放されたかった。
「誕生日会だよ、弟の」
「おまえ、ふざけんなよ!」
絶対にこいつらじゃ、俺の気持ちなんて分からねえ。俺は乱暴に手を振り払い、拳を前に突き出して口を開く。
「ふざけてねえよっ! うちは、は、母…、母親が……」
そこまで言うと、何故か涙が流れてくる。
「オメーの母ちゃんが何だよ?」
「い、い……」
うまく声が出ない……。
ふざけんな。こんなところで泣くんじゃねえよ。早く続きを言えって。母親がいないから、俺が代わりに誕生日会を開いてやったってよ。周りから認められなくてもいい。俺は間違っていない。だからき然としろ。
思えば思うほど、涙がとまならくなった。俺はその場にしゃがみ込み、嗚咽を漏らしながら泣きじゃくった。
「もういいよ、こんな泣き虫。放って帰ろうぜ」
誰かの声が聞こえ、辺りがシーンとなる。
どのぐらいの時間が過ぎたのだろう。ゆっくり膝につけていた顔を上げる。
「大丈夫、神ヤン……」
すぐそばでいつも犬猿の仲なはずのデコリンチョ…、いや、桶川俊彦と山岡猛の二人が立っていた。鈴本先生にチクった時は本当に許せなかったけど、こんな風にされたら俺は、こいつらを嫌いになれないじゃないか……。
俺はまた顔を伏せ、静かに泣いた。
自分の意見すら大勢の前になると言えやしない。情けない俺。
もっと俺に力があったらな……。
大人数で掛かってこられても、それを跳ね返せる力が……。
多分本当に本気を出せば、一対一なら負けない自信はあった。でも、そんなもの大人数で掛かられたら、何の意味もない。そんなのは無力と一緒だ。
相手の数が多いなら、その辺の武器を拾えば……。
いや、それって強さでも何でもないか。ジャッキーチェンなんて、武器など使わないじゃん。漫画で好きなキン肉マンだって、連載が始まったばかりの『北斗の拳』の『ケンシロウ』だってそうだ。
もし喧嘩をするなら、男は素手だ。それができないなら、土下座でも何でもして謝っていたほうがいい。
理不尽な状況にいい加減うんざりしている俺。
本当ならもっと楽しく学生生活を送りたい。
何でこんな風になってしまうんだろうな……。
最初に女目当てで、サッカー部へ入部したからか? 確かにそれは一理あるな。漫画の主人公は硬派が多く、それを見て格好いいと思っているのに、俺は考えと行動が実際に違う。だから駄目なんだろう。
クラブじゃこうだけど、勉強で見返してやればいいか。すべてパーフェクトにできる人間なんていないのだから。
もうじき通知表が出て、成績というものが初めて分かる。一から五までの五段階評価。間違いなく分かっているのは、国語、英語、理科の三教科はクラスで一番だった。中間と期末テストの両方を照らし合わせても同じ。それだけ勉強をしてきたという自負だけはあったので、当然の結果だと思った。
クラブではほぼ誰とも話さず、授業は真面目に受け、そんな日々を過ごす。
とうとう通知表を渡される日が来る。
国語『四×』…。あの時のちゃたろーの怒り方で、『五』はもらえないだろうと思っていた。でも何だ、この『×』って? あとでちゃたろーのところへ質問に行くか。
数学『四』。英語『五』。これらは予想通り。
理科『四○』…。これも何だよ? この『○』って? カマキリに聞きに行かなきゃならない。
社会『三』。高梨敢とは、きっと相性が合わないのだろう。
あとの美術や体育、技術家庭、音楽などはすべて『四』だった。これではクラスで一位なんて言えないか……。
結局担任の鈴本先生だけじゃないかよ、『五』をくれたのは。
まあテストの点でトップを取るだけじゃ、『五』をもらえないという事だけは分かった。何度も通知表についた数字を見ていると、隣の席の『川田美奈子』という小学から一緒の可愛くなく太めの女生徒が、「神威って頭良かったんだね」と勝手に覗き込んでくる。
「おい、人のを無断で見るんじゃねえよ」
「あら、いいじゃない。私なんてもっと酷いんだしさ」
「そういう事を言ってんじゃねえよ。許可も何もなく覗き込むなって言ってんだ」
「ケチだな~、神威って。そんなんじゃ女の子にモテないよ? だから『ガム』って言われるんだよ」
「うるせえよ、このブスが」
「え…、何でそんな事を言われなくちゃいけないの? このガムガム」
「黙れ、ドブスが」
「ひ、酷い…、うぇ~……」
吐き捨てるように言うと、川田美奈子はテーブルに突っ伏して汚い声で泣き出した。心の醜い女は顔もブスだし、泣き方も醜い。まるで悪い事をしたなんて思わなかった。
その様子を見ていた鈴本先生に呼ばれ、みんなの前で殴られる。一学期の最後の最後で、俺は本当にみじめだ。
ホームルームが終わると、俺は職員室へ行き、理科の担当のカマキリを捕まえる。通知表の『四○』の『○』の意味を聞きたかったのだ。
「先生、何で俺は『五』じゃないんですか?」
中間ではカエルの問題を抜かしたから八十六点。期末では九十八点。二つともクラスでは最高得点だった。
「俺の『五』は学年で三つしかやらない事にしているからだ」
「俺はその中に入っていないって事でしょうか? クラスじゃ一位ですよ」
「四組の市原は中間九十三。期末九十二。だから『五』をやったよ。こいつよりも、もっと成績のいい奴はあと二人いる。そいつらにも『五』をやった。文句あるのか?」
「ありますよ。その市原って奴、合計で俺と一点しか変わらないじゃないですか」
「しょうがないだろ。三つしか『五』をやらないって決めているんだから」
「でも……」
「だからお、まえだけ特別に『○』をつけてやったんだ」
そんなの全然嬉しくない。これ以上頑固なカマキリに何を言っても意味がないか。諦めた俺は職員室をあとにした。
サッカー部へ行くと、みんな成績の事を話していて好き勝手な事を言っている。
「今日は家に帰りたくねえよ」
「俺なんて、『二』と『三』だけだぜ?」
「まだいいよ。僕なんて英語『一』をつけられたんだよ」
この低能な連中共が……。
小馬鹿にしたような笑いを浮かべると、キーパーの松平が俺を見て近づいてくる。
「何がおかしいんだよ」
「別に……」
「ふん、なあみんな。俺、思うんだけどさ、神威って絶対馬鹿だと思うんだよ」
松平は大きな声でみんなにわざと聞こえるように言った。隣のクラスの沖田は馬鹿にしたような笑い方をして、俺を見ていた。
同じクラスのサッカー部である桶川デコリンチョと、山岡猛は逆に「馬鹿だな、こいつら」というような含み笑いをしている。俺のテストの点数を知らない連中は、のん気なものだ。
カバンから通知表を出し、そんな自慢できるような成績ではないが、サッカー部の部員たちに見えるよう広げて見せた。
「悪いねえ、馬鹿で」
「……」
その行為がよほど悔しかったのか、彼らは憎しみを込めた目で俺を見ていた。
家に帰ると、ほぼ『四』の通知表を見せる。ずっと夜中まで勉強を付き合ってくれたおばさんのユーちゃんは「何だよ、もうちょっといい成績取れると思ったんだけどなあ」と残念そうに言った。テストでは、総合得点だとクラス一位だった事は確かである。多分俺の人を食ったような態度を嫌う先生が多かったという事か。
こんな数字で人の優劣を決めるなんて、陳腐だなと感じる。しかも俺は数字にプラスで、○や×をつけられているのだ。先生個人の感情をそのまま投影させたのが分かる。
「龍一は、夏休みも遊んでばかりいないで、勉強キッチリやるんだよ」
「分かってるって、ユーちゃん」
「ちゃんと毎日五時間勉強したら、私がまた日曜日はレストランに連れて行ってやるから」
「ほんと?」
「私は今まで嘘なんてつかないだろ。嫌な言い方だな」
「はは、ごめんごめん」
にこやかに会話をしていると、親父が居間に入ってきた。俺は通知表を手に取り、成績を見せようとする。
「父さん、通知表もらってきたよ、ほら」
「おまえは俺より先に、この女に成績を見せる訳か」
「はあ?」
何が言いたいのかさっぱり分からない。
「そういう奴なんだな?」
「何が?」
いきなり親父は俺を殴り、そのあとユーちゃんに向かって蹴りを入れた。
「いたたた…、お兄さん、いきなり何をするのよ!」
「うるせーっ! 兄貴に逆らうんじゃねえっ!」
そう言いながら親父はまた殴りだした。俺はすぐとめに入る。
「何をやってんだよ? やめろよ」
「何だ、キサマ! 親に向かってその言葉遣いは」
今度は標的が俺に変わる。顔を殴られないよう必死にガードをした。女のユーちゃんが理不尽に殴られるぐらいなら、まだこっちに攻撃が来たほうがマシだ。
騒ぎを聞きつけ、おじいちゃんや従業員たちが入ってくる。みんなで親父を引き離し、俺とユーちゃんは救われた。おばあちゃんが怖い顔をしながら、親父に説教をしている。
「うるせーぞ、ババーがっ!」
そう言うと親父は乱暴にドアを開け、家を出て行った。
何故通知表を先にユーちゃんへ見せたぐらいで、あのように怒るのかまるで分からない。自分へ一番始めに見せない事が気に障ったのだろうか? しかし勉強の事も、日曜日の夜になり俺ら三兄弟をレストランに連れて行ってくれるのも、全部ユーちゃんだ。
親父はいつも「情けない面をしやがって」や「もっと勉強しろ」と言うだけで、あとは殴る事しかしない。
何となく母親のいた頃を思い出す。自分の思い通りにいかないと、すぐヒステリックになり傍若無人に暴れ、周りがとめに来る。大勢の前だと思うようにならないから、家を飛び出す。親父と母親は、その辺がそっくりだ。
親父と母親……。
普通なら親父に対してお袋、父親に対して母親なのに、俺は変に使い分けている。まあ俺の中の問題だ。別にこれでいいよな。
夜、勉強をしていると、親父から電話があり、隣の『よしむ』へ来いと言われる。普通の定食屋として経営していた『よしむ』だが、ちょっと前から朝方までやるお酒も出す、とんかつと小料理の店に変わっていた。
殴られたばかりなので気が重かったが、着替えて隣の『よしむ』へ向かう。
中では親父のお囃子仲間たちと一緒に酒を飲んでいるようで、酔っているせいかかなり上機嫌だった。
「こいつは英語が『五』だぞ。どうだ、おまえら」
大声で俺の成績をみんなに話す親父。よほど昼間ユーちゃんを殴った事をみんなに言ってやろうと思ったが、場がしらけるのでやめておく。
「よし、今日は俺の奢りだ。おまえら、飲め」
陽気に酔いながら、みんなに酒を振舞う親父。そんな金があるなら、一度でいいから俺ら三兄弟を遊園地にでも、近くのレストランにでも連れて行ってくれればいいのに……。
近所の人たちは「広龍さん、格好いい」と褒めちぎっていた。
「龍一君。君も、将来結婚して子供を持つだろうけど、ああいうお父さんになりな。見習っておきなさい」と、そんな馬鹿な台詞を酒臭い息を吐きながら言うオヤジもいたぐらいである。
夜中まで『よしむ』に居させられ、この日俺は勉強をほとんどできなかった。
夏休みが始まった。サッカー部は週に五、六回練習があり、たまに他校との練習試合が組まれる。練習をサボった事のある俺が、練習試合に出される事はなくなった。
とりあえず連帯責任を取らされるのが嫌で、仕方なく行った。家では勉強もちゃんとしながら、隙を見て『ピープルランド』や『スリーナイン』などのゲームセンターへ遊びに行く。真面目な飯田君はいくら誘ってもゲームを好きじゃないようなので、同じクラブのデコリンチョや山岡猛、そして幼稚園時代の同級生の鈴本勉らとよく行った。
一度川越駅から真っ直ぐ数キロの渡って一本道の『サンロード』と呼ばれる商店街を歩いていると、田坂幸代とその彼氏である板橋の姿を見掛けた。別に何も悪い事をしていないのに、俺は咄嗟に近くのゲームセンターに入って身を隠し、せっかく入ったのだからゲームをして行こうとプレイしているところを二年生の担任でもあり、バスケット部の顧問をしていた『段吉』というあだ名の先生に見つかる。
「先生…、見逃してくれませんかね……」
「んー、駄目だなあ~」
真っ赤でブツブツの鼻をした段吉は意地悪そうに笑い、サッカー部の顧問である『酔っ払い』というあだ名の宇野先生に言いつけたようだ。おかげで俺はまた部長に呼び出され、一年生は全員招集させられる。
「昨日神威がまたゲームセンターで見つかった。おまえら、二十週一抜け、よーい……」
そんな感じでまた校庭をグルグルと走らされた。
「何だよ、おまえのせいで二十週以上走るようじゃねえかよ」
みんなからまた責められ、どんどん自分の居場所を悪くしていった。
八月の中旬になると、ユーちゃんは俺に一人旅として九州へ行く計画を立ててくれる。夜行寝台列車に乗って、九州の宮崎まで一人で向かう。考えただけでワクワクする。サッカー部の顧問には事情を話し、長期間休みをもらえる了承を得ていた。
予約した電車の切符を取りにユーちゃんとデパートまで行くと、妙なざわめきを胸の中で感じる。たくさんの人混みに溢れ返るデパートの中。ゆっくり振り返ると、小学校二年生の時家を出て行った母親の姿が目に映る。
「私はね、こういう風にされたんだよ。分かるかい? こんな風に…。こんな風に両肩を強くつかまれたんだよ!」
俺の肩に両手の爪を食い込ませた母親。
「ママ、痛い……」
どんなに俺が泣き叫んで、さらに爪を食い込ませてきた。
「私はね、こんな風にされたんだよ。分かるかい?」
「ママ、痛い…。痛いよー!」
両肩から血が出ているのにやめてくれなかった。おじいちゃんは泣き抱えながら、俺を助けてくれたのを思い出す。
「チキショー、チキショー、チキショー!」
母親は玄関のドアを何度も開けて叩きつけ、ドアの横の頑丈な曇りガラスにヒビが入っても、同じように叫びながら叩きつけていた。
それだけじゃない……。
可愛がっていた猫のペットのみゃうが、お客さんの品物に小便をしてしまったという理由で、ダンボールへ強引に詰め込み、川へ投げ捨てられた事もある。どんなに俺が泣き叫んでもやめてくれなかった。途中でダンボールからみゃうの手が突き出した。中で必死に箱を何度も引っ掻いていたみゃう。みゃうの爪は、俺の指先を容赦なく引っ掻いた。あの光景はまだ鮮明に心の中へ焼きついている。
家の近くのデパート『ニチイ』でもそうだ。俺は今一緒にいるおばさんのユーちゃんとバッタリ会い、微笑んだだけで、家に帰ると「あんた、何をあんな奴に愛想を振りまいているんだ」と頭を叩かれ、自由に笑う事さえ制限された。
「これを持ってろ」
そう言いながら、おもちゃの電話の受話器を耳に当てさせた母親。電話機の本体を持ってゆっくり一歩ずつ後ろへ下がり、俺にぶつけた。
目の前が真っ暗になり、火花が散った俺は、思わずその場にうずくまってしまう。
「ハハハ…、馬鹿だねー。あんた、何やってんの?」
そんな俺に対して母親は、「動くなよ。きょうつけして目をつぶってろ!」と、目を閉じて立っている俺に、おもちゃのブロックを一つずつ顔にぶつけてきた。逃げたかったが、あとが怖くて逃げ出せなかった俺。異変に気付いたおじいちゃんが来てくれた時、初めてその場から逃げようとした。その瞬間後ろから背中を押され、倒れながら俺は、割れたブロックの破片を左目の上辺りに突き刺してしまったのだ。
おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に食事をしただけで、ガラスのテーブルに顔を叩きつけられた事もある。
日々、殺されるかと本当に思い、常に母親の顔色を気にしながらビクビクして過ごした。中学一年生になった俺の目の上には、未だ消えない傷が残っている……。
デパートで偶然見つけた母親は、俺に気付かないでいる。
いつまでビクビクしているんだ。もう今の俺は、小学の低学年じゃない。体だって精神だって鍛えられたはずだ。そう自分に言い聞かせる。
「おい、龍一。おまえ、中学生になって何を私にしがみついてベタベタしているんだよ?」
ユーちゃんが俺の頭を押してくる。
昔よりは強くなったはず……。
そう思っているのに何故、俺はユーちゃんに自然としがみついていたのだろう……。
存在を知られたくなかったから? 違う。
まだ俺は怖かったのだ。当時の様々な恐怖が蘇り、怯える事しかできないでいた。
「大きくなってみっともないぞ。ほら、離れな」
それでも俺は、おばさんであるユーちゃんの体にしがみついていた。
ようやくやってきた九州一人旅。宮崎まで着けば、ユーちゃんの同級生である友達が迎えに来てくれるらしい。その友達はずっと地元川越に住んでいたが、結婚してからはご主人の実家である九州の宮崎で暮らしている。
「私がほしいものを我慢して、コツコツ貯めたお金なんだ。龍一、これでちゃんと計算しておみやげまで買うんだぞ。分かった?」
そう言ってユーちゃんは、俺に八千円の小遣いをくれた。
「ありがとう、ユーちゃん」
数日分の着替えを持ち、大きなリュックに詰め込む。電車の中では一人だし、暇を持て余しちゃうなあ。漫画本のキン肉マンを入れようと思ったが、これじゃすぐ読み終わっておしまいだ。逆に荷物になってしまう。俺は山中恒の本『カンナぶし』と『ゆうれいをつくる男/てんぐのいる村』を入れる。
「あ、そうだ!」
俺は先日小遣いを貯めて買った『アドベンチャーゲームブック』の『火吹き山の魔法使い』という本も入れた。
このアドベンチャーゲームブックとは、画期的なアイデアで作られた小説のようなゲームだ。基本的には小説を読むような感じで文章を読んでいくと、途中で主人公が取る選択肢が出てくる。
例えば、『険しい山道を歩いていると、目の前には二股に分かれていく。さて、あなたはどちらへ進むか』といったように書かれ、『もし、樹木の生い茂る道を選ぶなら(五十六へ)。百メートル先に見える洞窟がある道を選ぶなら(七十七へ)進め』と、こんな具合である。各文章には始めに数字が振られており、自分の選んだ選択の数字をパラパラとめくる。すると選んだ展開のストーリーが待っているといった仕組みだ。
まだ全国的に広がったファミリーコンピュータでは、『マリオブラザース』や『ドンキーコング』、『ベースボール』といったシンプルで背景が一枚絵の上でキャラクターが動くアクションやスポーツゲームぐらいしかなかった。
今でこそ時代は進化し、ロールプレイングゲーム、主人公が戦って経験値を得てレベルアップし徐々に強くなっていくゲームなんて、まるでない頃だ。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』なんて概念のものはまったくなかった。
こういった種類の本を教えてくれたのは、従兄弟の和ちゃんだった。西武新宿線本川越の次にある南大塚駅。駅に着く手前を電車で通れば分かるが、『クリーニングかむいくん』とデカい文字で書かれた看板が見えるはずだ。和ちゃんは、同じ中学へ通う従兄弟、水洗寺分太ちゃんと同じ年だから二つ上。五つ下に弟の尚がいる。
小学二年生の冬、母親が出て行ってからは、常に俺の兄貴分的な存在だ。駅が一つ分離れているから、小学も中学も一緒にはならないけど、南大塚へ泊まりに行ったり、和ちゃんのおじさんは茨城県の旅館へ連れて行ってくれた事もある。
従兄弟同士集まり、子供同士で『所沢駅』まで行き、駅ビルのレストランで小学生だけで食事をしに行った事もある。食い意地の張った俺は二つ料理を注文してしまい、帰りの電車賃まで使ってしまった。それをブンちゃんが責めた時、和ちゃんはみんなの金を一度集め、ギリギリ電車賃の間に合う途中の『新狭山駅』まで行き、そこから一駅分だけ歩いて帰ろうとアイデアを出した。長い道のりを歩いたが、あの日の思い出は、今でも鮮明に覚えている。
まだ母親が家にいた頃、南大塚へ泊まりに来た俺を不機嫌そうに迎えに来た事があった。その日は近くで花火大会があると聞いて楽しみにしていた俺は、さすがに迎えに来た母親を拒んだ。その瞬間、母親の表情は般若のようになり、俺は従うしか術がなかった。帰り道を一緒に歩きながら腕を強くつねられ、駅まで行く。電車が発車すると俺はもう花火大会が始まったかなと、つねられて痛む腕を押さえながら窓から景色を眺めたものだ。
「早くしなって。準備は終わったの?」
おばさんのユーちゃんが声を掛けてくる。いけない、思い出に浸っている場合じゃないか。早く準備を終えないと。
「あとちょっと」
思えばユーちゃんが、俺ら三兄弟にとっちゃ母親のようなもんだ。でも、『母さん』なんてとてもじゃないが恥ずかしくて呼べやしない……。
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