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2025/02/28 fry
俺と同じ年で、向こうは新日本プロレスで関わる事はまったく無かったけど、2025年2月の最後で西村修が亡くなった
俺が生まれてから十日後に彼が生まれ、交わる事も無いまま53年が過ぎた
正直彼のファイトスタイルはまるで理解できなかったし、考え方も嫌いだった
俺が岩上整体開業時、患者の一人から聞いた話で……
飲みの席で新日本プロレスの西村と同じ席で飲み、関節技をしてきたけど、全然利かなかったと答えると「プロレスにはこういう裏技もありましてね」とヘッドロックして目に指を入れられそうになったと当時を振り返り、怒りながら俺にその話をしてきた事があった
素人相手にそんな馬鹿な真似をするような奴だったのか、あいつは?
そんな思いも手伝い、西村修を好きになる要素がなかったのだ
2004年には『いかレスラー』という意味不明なコメディ映画に出演し、本当に彼が何をしたいのかをまったく理解できないままだった
無我というものにこだわり、新日本プロレス退団後も師匠の藤波辰爾と合流し、無我ワールド・プロレスリングをしていたが、何かしらの事が原因で無我を退団
2007年10月19日、征矢を連れて無我を退団。無我ワールド側へは何も伝えず「言わば無我からの亡命」と発表し、無我ワールド側も西村=無我という概念を打ち崩せなかったと発表した
無我無我と言っているくせに、有我じゃねえかよ……
西村を見る度、そんな事を思っていた
俺も市議の話は来たけど、断ったぞ?
何が区議だよ
受かったのは凄いけど、結局無我でも何でもないじゃん
本当に彼の概念が理解できなかった
2025年
出場を予定していた1月31日の『ジャイアント馬場没25年追善~太陽ケア引退試合~木原文人リングアナデビュー35周年記念大会』など2試合を欠場。この時、ずっと確執のあった藤波辰爾が代理で出場
病床の西村は、藤波の心意気に感動し反省したのが救いだった
最後に藤波と会って話してほしかったけどなあ……
嫌いだと思いながら、彼の存在は何だかんだ気にはなっていたんだと思う
西村修さん、ゆっくり休んで下さい
お疲れさまでした
岩上智一郎より
プロレスラー西村修さん、53歳で死去 近く退院予定も体調急変…昨年春から食道がんステージ4で闘病
食道がん(扁平上皮がん)ステージ4を公表していたプロレスラーで東京・文京区議会議員の西村修さんが2月28日午前、都内の病院で亡くなった。
53歳だった。
西村さんは昨年4月、食道がんステージ4と診断。
抗がん剤治療を受けながら入退院を繰り返していた。
10月には脳に転移した4センチ大のがんを取り除くため、7時間半に及ぶ開頭手術を受けた。
一方で、12月にはリング復帰を果たし、プロレスラーとして懸命のファイトを披露。
「最後の最後まで悔いなく生きる」と、闘病への決意を見せていた。
1月も2大会に出場予定だったが、中旬から体調を崩し、両大会を欠場。
1月30日に入院し、治療を続けていた。
2月16日には、病床から自身のSNSを更新し、「生きてるのか死んでるか、わからないくらい苦しかったこの一週間。しっかり生きています プロレスで鍛えた体力がまだまだ冴え渡る。あとは、これ以上落ちれないから、上がるだけ」「人間は、諦めたらおわり。あと数日にて議会復帰します」とつづっていた。
西村さんは退院を強く望み、近く退院する予定だった。
その矢先に体調が急変し、帰らぬ人となった。
□西村修(にしむら・おさむ)1971年9月23日、東京都文京区出身。錦城学園高から新日本プロレス学校を経て90年に新日プロ入門。91年4月にデビュー。93年のヤングライオン杯で準優勝し、海外修行に旅立つ。98年にがん(後腹膜腫瘍)を告知され、長期欠場に入る。1年半後に復帰。フロリダに居住し、日本と米国を行き来する生活を続ける。2006年、新日プロを退団し、無我ワールド・プロレスリングに合流。11年、文京区議会議員選挙に初当選。四期目。186センチ、105キロ。
自分は95年10月に第1回の遠征から帰ってきまして、無我にとことんこだわってきました。ズバリ、自分にとって無我とは・・・人生です。ひとつ大きなことをいわせてもらいますと、いまの日本の社会、腐ってます。お金だとか、物欲だとか、永久的に満足のいかないものをみんなが追求しすぎて、本当のしあわせ、愛、心、感動というものが、ちょっとどっかへいってるような気がしてなりません。ボクは、このことを無我を通して、日本のプロレス界だけじゃなくファン、またはファンを通して日本の社会に対して主張、または挑戦をしたいです。この感動というのは、ここで体験した者でなければわかりません。今後ともみなさん、我われといっしょに、この感動を一生懸命分かちあって、体験していただきたいと思います。 (1998年3月3日、無我のEBiS303大会。全試合終了後のリング上での挨拶。週刊プロレスNo.844号より)
(2003年11月11日発売の東スポより)
- 一方、藤波社長のライバルである、WJの長州選手は生涯現役宣言を出したが?
- 西村「表が大きい人は裏も大きい。権力にものを言わせるものは、必ず権力でものを言わされる時がある。シーソーゲームのようなものです。あの人には個人的な恨みもありますけど感謝もある。あの人の強烈なパワーがあったからこそ、アメリカの大ファストフードにおける1%のオーガニック文化論の反論があった。私と長州力の関係はそんなもんですよ。無我をつくったのは長州力の力があったからです。
- 現在、苦境に立たされている長州選手へのメッセージなのか?
- 西村「小学校の卒業アルバムで「新日本に入って長州力を倒す」と書いたんです。98年に引退されてこれはもう実現不可能かなと思ってたんですよ。新日を辞めた時に勝ったと思った時もあった。私が倒したわけではないけど、向こうからしっぽを巻いて逃げていきましたから。ただ、無我はあの男がつくったようなもの。それをもう一度見せつけたいと思います。」
- 長州選手と戦うのか?
- 西村「今だからこそ戦ってみたい。90年代のあの大共産帝国主義は本当に・・・。キレイごとは言わない。結局は恨みを晴らさないといけない。」