母は、3.11の年にアルツハイマーで脳血管がもろくなり脳出血で意識不明の状態が続き、その年の夏に亡くなりました。言葉が出なくなってきて、春宮への最後の言葉は、「可哀想な人…」でした。春宮は、父母の前では、体の辛さを隠しているつもりでしたが、わかってしまっていたのでしょうか…娘とわかって言った言葉かは、不明です。何とも言えない最後の言葉です…。
地元での合同展をした後は、日本画の師の弟子、2~3人ですが、会をする時に、春宮は、半襟を展示させて貰いました。日本画の師の義父は、益子焼の人間国宝の島岡達三氏でした。師の所に稽古に伺うと、花や果物といった画材が、島岡達三氏や黒田泰三氏などの器に盛られているのです。完成した器、春宮は、とても絵にする事が出来ず、花や果実のみ描いていました。師の御祖父様が、古径さんや大観さんや靫彦さんと御仲間だったそうで、部屋に置かれている顔料や墨や落款用の朱肉も色合いが、今の物とは違い、何とも言えない良い色でした。師は、そのような物を惜しげもなく使って、春宮達の絵に手直しを加えて下さいました。
春宮は、元々、『花』が、まるでわからないので、毎回、何の花か伺って、メモしていました。それでも、覚えられず、本当に『花』が苦手でした。
好きなようにさせて下さる師でしたので、春宮は、銀座の昭和通り沿いにある宮脇賣扇庵(京都の扇子の老舗、東京店)で、扇子用の紙を求めて来て(1枚百円くらい)、顔彩で、好きな絵を描き、師にみていただいて、宮脇賣扇庵で扇子に仕立てて貰うような事をしていました。顔彩と墨までは、扇子紙に描いてよいそうですが、朱肉を使って落款を押すのは、扇子が仕立て上がってから…と、言われていました。宮脇賣扇庵の扇子が好きで使っていましたが、なかなか気に入った物がなくなってきたので、丁度、絵を習っているのですから、自分で扇子の絵を描きました。プロではありませんから下手ですが、季節の扇子が作れました。一番、上手に描けて、いい扇子になったのは、雪兎の絵でした。雪兎の扇子などありませんから、春宮の鼻は、ヒクヒクと自慢げに動いてしまいそうでした。
半襟の図柄と、扇子の絵を合わせた物も描いて、作りました。扇子は、見えないお洒落です😊
春宮は、決まり事のある中での自由が好きなようです。
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