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還暦リタイアジジイの悠々自適な日々

八幡神社・釈迦堂と殉死の墓・延命地蔵

■ 2023年10月05日 八幡神社・釈迦堂と殉死の墓・延命地蔵

田母沢御用邸を見た後に、有料駐車場横にある八幡神社、釈迦堂と殉死ノ墓、延命地蔵を見て回りました。この横を通り抜けるたびに厳かな雰囲気の神社感がありきになっていた所なのですが、やっと訪れることができました。


■ 八幡神社・・・天平神護2年(766)、日光を開いた勝道上人がここに草庵を結んでいたとき、天から丸石が飛んできて「八幡大自在である。国家守護のために来た」という夢を見たので「飛石八幡」として祀ったと伝えられる。寛永年間(1624~1643)、徳川家光が幕府の修繕社とした(説明板より抜粋)。

▼ 丸石

▼ 六角型灯籠・・・銘文には「奉寄進 東照三所大権現 松平阿波守藤原朝臣至鎮 元和三丁巳四月十七日」とあり、東照大権現に奉納された灯籠。灯籠が単体で八幡宮の境内に存在する理由として、東照宮境内に同人が奉納した一対の灯籠が建っていることから、単体の灯籠がここに移されたものと推定(説明板より抜粋)。


■ 釈迦堂と殉死の墓

▼ 釈迦堂表門・・・素木造りの簡素な表門。屋根は切妻鉄板葺きだが、以前は釈迦堂ととも柿葺きであったと推察される。釈迦堂の棟札によると、この表門は、貞亨元年(1684)の大火で焼失後、釈迦堂とともに貞亨4年(1687)に復興、その後、正徳元年に造替したものと思われる(説明板より抜粋)。

▼ 釈迦堂・・・もと「妙道院」の本堂で、以前は境内に数多くの建造物があった。元来、妙道院は天海大僧正が寛永5年(1628)に仏岩谷に創建し山内の菩提寺としていたものを寛永17年(1640)、現在地に移建したもの。妙道院自体は明治の神仏分離の際に途絶えた(説明板より抜粋)。

▼ 釈迦堂説明板

▼ 殉死ノ墓および譜代家臣の墓24基・・・最前列左の5基は「殉死の墓」と呼ばれる徳川三代将軍家光公(1604-1651)の側近のもの。殉死によって一度に有能な家臣を失うことは、後継者や幕府にとって多くの痛手となることから、幕府は寛文3年(1663)四代将軍家綱(1641-1680)の時代に殉死を禁止した。殉死の墓5基を除く19基は、初代将軍家康公、二代将軍秀忠公に仕えた重心の墓碑。当初、東照宮「奥之院」の傍らにあったが寛永13年(1636)、家康公21回忌の際に仏岩谷にあった慈眼大師「天海」大僧正創建の妙道院に移され、さらにその4年後、妙道院とともに現在地に移された(説明板より抜粋)。

▼ 殉死の墓説明板


■ 延命地蔵堂・・・湯ノ湖畔に日光開山「勝道上人」が自ら刻んだという石造の延命地蔵尊があった。室町時代、板橋将監という領主が、湯本に狩猟に出かけた折り、地蔵を嘲り地蔵と犬をつないで湖水に投げ込んだ。はじめは犬が地蔵を湖心に引いていたが、やがて地蔵は犬を引き岸に向かった。その時激しい雷雨が起こり、犬は悶え死んでしまった。将監や家来は口から血を吐いて倒れてしまったので、僧が駆けつけて地蔵を拝んだところ一同は助かり、地蔵を崇拝するようになった。それで犬牽地蔵尊(いぬひきじぞうそん)と呼ばれるようになった。中宮祠湯本地区は、かつて女人禁制であったため、江戸時代に上人ゆかりの現在地に移された(説明板より抜粋)。


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