■ 2020年02月21日 那須野が原日本遺産ガイド養成講座フィールドワーク1日目
2/21-2/22の2日間に渡って実施された「那須野が原日本遺産ガイド養成講座フィールドワーク」に参加してきました。1日目は、那須野が原を開拓した明治貴族と那須野が原扇状地に水を供給した那須疎水ゆかりの地を訪ねました。
見学したところは下記の5ヶ所です。
- 那須疎水取水設備
- 旧青木家別邸
- 旧那須疎水伏越(サイフォン)出口
- 矢板武記念館
- 平田東助の墓
1、那須疎水取水設備
那須疎水は、内務省直轄の国営事業によって開かれたもので、安積疎水(あさかそすい:福島県)・琵琶湖疎水(滋賀県・京都府)と並び、日本三大疎水の一つに数えられています。最初の取水口は、明治18年(1885年)に那珂川の絶壁にトンネルを掘って造られました(第1次取水口)。この取水口には水量の調節や、土砂の流入を防ぐための開閉施設がなく、大水等によって取水口がたびたび使用できなくなったため、明治38年(1905年)に約200m上流に取水口を変更し(第2次取水口)、使用されなくなった第1次取水口は予備の水門として石積が行われました。
その後、川の流れが変わり取水口は大正4年(1915年)に再び元の位置に戻されました(第3次取水口)。昭和3年(1928年)には水量調節施設の設置、上部へのアーチ型の石積み等の増設が行われ現在見られる石組みの水門となりました。
2、旧青木家別邸
青木地区の開墾は明治時代の殖産興業政策に基づき、那須野が原の一帯に開かれた大農場の一つで、明治14年の創設。旧青木那須別邸は設計はドイツの建築を我が国に紹介した松ケ崎萬長。
3、旧那須疎水伏越(サイフォン)出口
明治時代に作られた那須疎水本幹の伏越(サイフォン)部分を復元したものです。使用石材は百村石で、大雨の際に蛇尾川の川底が削られて出てきた当時のものを使用しています。五角形の石積みは四方留と呼ばれ、そこを張石とし両側に石垣を築き、天井を合掌石で留めています。石の隙間には防水のために那須山で採掘された硫黄を埋めたそうです。(説明板より抜粋)
▼ 旧那須疎水伏越(サイフォン)出口
▼ 現在の那須疎水伏越(サイフォン)出口
4、矢板武記念館
矢板武(1849年-1922年)は、幕末から明治にかけて栃木県矢板市に基礎を築いた郷土の偉人です。その業績は、政治・経済・教育と多方面に渡りました。特に印南丈作(1831年‐1888年)と共に那須野が原開拓は、武の一番の業績として挙げられます。
矢板のまちづくりに尽力した武の家には、志を共にする人々が集まり日夜議論を行いました。この様子を知った勝海舟(1823年-1889年)は、まちのために「塵まみれになって働いている人たちが聚まる亭」という意味で「塵聚亭」と名付けました。(パンフレットより抜粋)
5、平田東助の墓
品川弥二郎から譲渡された傘松農場を経営し、信用組合(産業組合、現在の農協など)の礎を築いた平田東助(伯爵:内大臣)の墓碑です。