篠崎博見ミュージアム

篠崎博見作品ギャラリー、受賞歴、活動歴は「カテゴリー」から!

いろいろな事が無事終了!

2017-09-20 09:07:03 | アート・文化

二科展も終わって、絵巻も仕上がって、溜まっていたお仕事が一気に片付き、気持ち良く次の仕事が始められる。
なんか、新年度を迎える気分だな。
次のお仕事が何になるかは、おいおい発表するとして、そろそろゴールドを多用する作風を終わりにしようかと思う。
約10年くらい続けてきたけど、そろそろいいかな、という気分になってきた。
ある程度満足したというか、限界に近づいてきたというか、言葉にするのは難しいけど、タッチを変えるのに踏ん切りがついた感じ。
山ほどあった仕事が片付いたのも、心境の変化に影響したかも。

さて、そんな今日この頃、ある新聞記事が目に止まった。
それは、AIの作品に著作権を認めるかどうかという記事なのだが、そのことよりも、そこで取り上げていた技術が気になった。
それは、すでに亡くなった人の作風をAIに学習させて、その続きを創作させるというプロジェクトらしい。

技術者や科学者ではなく、創作側の立場で言わせていただくなら、なんて無意味で薄っぺらな発想だろう。
未完成の作品を残して亡くなってしまった作家がいても、それならそれが、その作家の作品の完結であるし、それでいいじゃない。
未完の作品があれば、その先を見たいと思うのがファンの心理かもしれないけど、それを「先が見たかったなぁ」で終わりにすることはできないのだろうか。

今「はやり」のAIに飛びつくところも、浅はかさを感じてしまう。
AIの技術が進歩すれば、ある作家の癖や表現方法、技法などを大量に学ばせることで「クローン」が作れると彼らは思っているらしい。
そもそも、創作とは、人がオギャーと生まれて徐々に成長して、その間に色々な人と出会ったりいろいろな経験を積んで、やがて表現者の道を志した人が表現者になって、何かが創作されるというものである。
だからこそ、作品をいくら大量に学習したところで、クローンなんかになるわけがない。
すでに出来上がっている作品をAIに学習させて続編を楽しもうなんて、くだらなさすぎるとは思わないのだろうか。

さらに言わせてもらうなら、AIとはいえ、平気な顔で人のクローンを作ろうとしている事に、これに関わっている人達の倫理観を疑う。
彼らは、そういった事に疑問を抱かないのだろうか。
むしろ、夢の詰まったプロジェクトであるかのような扱いだ。
生命体ではないクローンだから、ハードルが下がってしまっているのだろうか。
プロジェクトの発想や目的、すべてに想像力も思慮もない。

私にはもはや、作品だけではなく、作家そのものへの冒涜としか思えない。
しかも、このプロジェクトにはその作家の息子が関わっているというのだから呆れるばかりである。
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