陳寿は明解に記していた。混乱は学者識者の驕り、無検証が原因。
邪馬台国は邪(じゃ。しゃ。や)まいつ国、壹與は(いつよ)が正当。
日本人のルーツ
20代の半ば、仕事で三重県尾鷲市の幼稚園を訪問、園長先生に面会、名刺を差し出した。名刺をじっと見つめた初老の女園長先生は、「宮城県でしょう、出身は」。「そうです、どうして分かりましたか」おどろき問い返すと、「私の亡くなった主人も同じよ」と言いつつ、同姓の名刺を取り出した。三重県尾鷲市と宮城県、陸では遠隔の地であるが、古くから漁船の交流があり、隣町のようなものと、話に花が咲き、懐かしげに語っておられた。数十年前のことであるが、今でもこの事が鮮やかに思い出される。点から点への移動、陸はジンギスハーンの馬、海は船。地中海の船、バイキングの船、大航海時代の帆船、卑近な例ではドラクエの船の入手、文明の加速は全て船が起点である。島国日本、船の発明、船を語らずして古代は語れない。
7万年~1万年前の氷河時代最後の氷期に、大陸からナウマン象を追い氷河を渡り、後期旧石器人、古モンゴロイドが渡来し海や山の民として定着。後に船が発明され、山の民から別れ、あま(海)の民として日本海海洋文化圏を築く。一方船を発明した南方の新モンゴロイドも、陸伝い島伝いに北上し渡来、揚子江河畔の船を発明した新モンゴロイドも渡来し、在来の古モンゴロイド(山の民、海の民)と融合した。モンゴロイド海洋文明圏を築いたあま(海)人、そして水稲文明圏を築いたあま(天)人。かれらが日本人の先祖と言える。耽羅(済州島)や半島南の祖先でもある。
古くから黒曜石日本を中心とした海洋文化圏として中国揚子江、朝鮮半島南(百済、新羅、任那、高句麗)、耽羅(たんら、済州島)、南西諸島、五島列島、対馬、壱岐、九州(南方文化)、島根(出雲)、隠岐、能登、佐渡、新潟(越)、瀬戸内海、黒潮ルートの尾鷲が存在し、文化を共有する地中海文明と同様の海洋人がいた。
黒曜石の伝播が、海洋文化圏の隆盛を促進し、あま(海)の道が、米の伝播を促進した。古代日本、あま(海)の民は日本海を制し自由に航海、大陸や半島沿岸に黒曜石文明を伝播、居住した。九州の黒曜石が沖縄本島(佐賀県の腰岳産)や、朝鮮半島南部の釜山広域市影島区(ヨンドグ)にある東三洞(トンサンドン)貝塚(佐賀県の腰岳産、大分県姫島産)で、隠岐と脇本(秋田県)産の黒曜石が、ロシアの沿海州で、確認されている。黒曜石研究の動向
日本海呼称は、海洋文化圏を築いたあま(海)の民日本の、由緒ある名称である。由緒なき東海などではない。
文明の伝播は地中海文明や、大航海が示すように、海路がはるかに速い。北方民族が陸路最南端の地に辿り着き、文明を開いたので無いことは、南下途中の継続文明皆無や、同時期発祥の共通文明で証明済み。古代の朝鮮半島南部人は、中国と日本の海洋民族が祖先であることは明白である。
完成した北部九州の団体作業水稲耕作技術は、海洋人を経て朝鮮半島南、耽羅(たんら)(済州島)に同時に伝播し、百済、新羅、伽耶諸国、耽羅(済州島は火山島なので畑作中心だが、海洋人の寄港地として栄えた)国が生まれた。朝鮮北方には皆無の半島南に限定された日本と同様の文化は、日本と百済、新羅、任那、高句麗が同一文化圏を物語り、日本の支配下にあったことを証明している。百済人、新羅人、任那人、高句麗人は、現代の東北人、名古屋人、大阪人のような地域呼称で、朝鮮人ではなく皆日本人。したがって桓武天皇の母百済人は、百済出身の日本人で、北方民族と日本人が混血した、現代の朝鮮人ではない。
稲の伝播が語る歴史
日本、旧石器時代、約3万5千年前からで、終りは約1万3千年前。
1万6千5百年前から約2700年前、日本、縄文時代。縄文式土器。稲の陸稲栽培開始の時代
稲の陸稲栽培・焼畑稲作。水田を使わない稲作。
稲の水耕栽培・田に水を張り(水田)、その水の中に苗を植えて育てる。種から収穫まで、陸ですべて終えるよりも、水耕の方が品質が高く収穫量が多いため、定期的な雨量のある日本では、ほとんどの場合、水田を使っている。
イネの品種には、ジャポニカ「日本型・温帯ジャポニカ(水稲)と熱帯ジャポニカ(陸稲)」・ジャバニカ(ジャワ型)とインディカ(インド型)がある。
稲の陸稲栽培 熱帯ジャポニカは、インディカの分布と重なり、更に広い範囲に分布し、陸稲と密接に結びついている。
稲の水稲栽培 温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に分布している。弥生時代以降の水稲は温帯ジャポニカである。
・・・揚子江沿いに在った「長江文明」を発見したのは国際日本文化研究センター教授の安田喜憲氏らでした(1996年)。この中国南方長江文明は、畑作中心の中国北方黄河文明に対し、稲作中心で、ジャポニカ種が栽培されていた。
安田喜憲教授によれば、『今のところ、稲作の起源は、少なくとも8,600年前までは、確実に遡れる。もし、土器にある圧痕が稲作の証拠とすれば、少なくとも11,000年位前までは確実に遡れます。玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡や仙人洞遺跡では14,000年前まで遡れる可能性が指摘されているという段階まできている』。「長江文明の探求」 監修・稲盛著者・梅原・安田 新思索社刊 2004,8,30発行)
1万2000年前 中国陸稲栽培 長江中流域にある江西省や湖南省で1万年以上前に遡る稲籾が続々と発見。焼畑による陸稲栽培と考えられている。
7000年前 中国水稲栽培 長江下流の浙江省寧波の河姆渡(かぼと)村から約7000年前の水田耕作遺物が発見されており、稲の水田耕作は長江下流に起源。
稲の陸稲栽培の伝来 日本へは、まず、江南から熱帯ジャポニカが南西諸島を通って伝播南九州へ(黒潮ルート)。
稲の水稲栽培の伝来 長江下流域から直接北九州に伝来(対馬暖流ルート)。江南から西南諸島を経て南九州へ(黒潮ルート)。温帯ジャポニカによる水稲農耕の始まりも近年の稲DNAに基づく研究では、南方経由の可能性が高いとされる。佐藤洋一郎「DNAが語る稲作文明」
捏造ルート 遼東半島から朝鮮半島南部を経て北九州に伝来(朝鮮ルート)。かつてはこの捏造された朝鮮ルートが有力視されていたが、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島での確認された炭化米、紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れない点、極東アジアにおける温帯ジャポニカ種/熱帯ジャポニカ種の遺伝分析において、一部遺伝子が朝鮮半島を含む中国東北部から確認されない点などの複数の証拠から、対馬暖流ルートや黒潮ルートによる日本への伝来が、2000年近く早かったという学説が有力視され、朝鮮ルート否定。
・・・中国、朝鮮半島、日本列島の水稲在来品種250種のSSR多型を調べてみると、8つの変形版が見つかった。これらには小文字のaからhまでの字があてられる。aからhまでの変形版がどこに位置するかを調べると下記のようになる。
SSRの多型からみた温帯ジャポニカ(水稲)の渡来。
日本の品種 abの2種類
中国の品種 abcdefghの8種類全品種あり (aが少ない)
朝鮮の品種 acdefgh の7種類 (aが60%)
唐古鍵遺跡(奈良)と池上曽根遺跡(大阪)の炭化米からもこのb遺伝子が発見されたことも注目に値する。いずれも弥生時代中期(宇約2100~2200年前) の遺跡であり、SSR遺伝子はいくら時を経ても全く変化しないので、これらの炭化米は、2000年前からここに埋まっていた事がわかる。 すなわち、2000年前明らかに中国大陸からb遺伝子を含む水稲が渡来してきたことが実証できるのである。 見えてきた稲の道1
(注・上記では。単純に「中国大陸からb遺伝子を含む水稲が渡来」としているが、中国渡来説では、朝鮮にb遺伝子欠落の説明がつかない)
仮説をたててみよう。温帯ジャポニカ(水稲)の伝播。
1・4、200年前に訪れた寒冷化によって、中国北部の稲作牧畜民(漢民族、c品種の稲所持)が南下し、稲作漁労民(a品種の稲所持)である長江文明を、攻め滅ぼした。中国の長江文明は崩壊したが、稲作漁労民(a品種の稲所持)はさらに南下して定住、aを栽培。
2・最古の品種aは、対馬暖流ルートで紀元前7世紀(2600年前)日本伝来。日本aを国内や朝鮮南に伝え、国が誕生する。
3・日本、新たな品種bを得てabとなる。
4・中国は更にdefghの新たな品種を得る。acdefgh。
5・朝鮮中国の属国となり、cdefghを得、紀元前日本から伝来のaを加えacdefghとなる。
6・日本、品種bを中国に伝える。
7・中国、日本から伝来したbを加え、abcdefghとなる。
陸稲熱帯ジャポニカや、南方長江下流原産水稲温帯ジャポニカ(緯度は日本の屋久島)が、中国北方の遼東半島や朝鮮北部(緯度は青森)に北上し、南下して伝播(北九州)は誰が考えても不可能。長江下流から北九州は、船のほうがはるかに近く、対馬暖流に乗れば、寝てても北九州に到着する、地図を見ればすぐわかる素人の常識問題だ。捏造は迂回するが、文明は迂回せず。
日本の稲の起源
「プラント・オパール」とは、植物の葉の細胞に含まれている珪酸体というガラス質の小さな結晶(40~60μm)のことで、葉っぱに触れて手や足を切ることがあるのはこのためだ。このプラント・オパールは、葉が腐っても土の中でずっと残ることが知られており、これを分析することにより、稲作の起源を調べる試みが続けられている。
この手法を開発したのは宮崎大学名誉教授の萩原宏志氏で、現在までに確認できた稲作の痕跡は全国9カ所の遺跡にあり、約6,000年前から見られる。(ただし現時点では、プラント・オパールの発見だけでは、それが野生種か栽培種かを区別できないことから、稲作の確実な証拠とはされていない)
6,000前、陸稲(熱帯ジャポニカ)栽培。縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6,000前の地層から稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例めだが、今回は化石が多量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。縄文時代前期にまで遡れる。高橋護・元ノートルダム清心女子大教授ら研究グループは、プラント・オパールが大量だったことや他の食物も有ったことを「縄文前期の本格的農耕生活」を裏付ける根拠とし、水田が無いことについては「大半が焼畑農業だったのでは無いか」と推測する。読売新聞,2005,2,19
2,600年前(紀元前600年)、水稲(温帯ジャポニカ)栽培。わが国の稲作の歴史は、福岡市板付遺跡より更に古い、佐賀県唐津市の菜畑遺跡(2,600年前)で確認された水田遺構が最古(水稲栽培)と見られる。熱帯ジャポニカも水田で栽培された。
縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県の上ノ原遺跡などから検出されており、籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールに至っては、後期後半の西日本各地の遺跡から30例発見されている(外山秀一さん、皇學館大学)。縄文時代の前期以降、西日本の各地で稲作が行われていたことを示す証拠である。このため、後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。
石器の産地の考察から、縄文時代にも海洋を越える交易があったことも分かってきている。また、死者を埋葬した跡があることから、縄文の人々には初期の宗教観があったことも確認されている。
紀元前8百年~3百年(炭素14年代測定法により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前9世紀まで遡る可能性が出てきた)日本、弥生時代。弥生式土器。稲の水稲栽培開始の時代。
紀元前9世紀に、大陸や南西諸島から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、北部九州地域に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。弥生時代早期に完成した北部九州の団体作業水稲耕作技術は、弥生時代前期中葉には東北へと伝播し、青森県南津軽郡田舎館(いなかだて)村垂柳(たれやなぎ)遺跡などからも見つかっている。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及した。また海洋人を経て朝鮮半島南、耽羅(たんら)(済州島)に同様に伝播し、百済、新羅、伽耶諸国、耽羅(済州島)国を生んだ。
これまでの自給自足狩猟採取移動の生活を、稲の水稲栽培、これがすべてを一変させた。水田作り、水路作りは集団が協力しないと出来ない。田起こし、代掻き、田植え等々季節が過ぎないうちに済ませないと駄目な作業ばかりなので、集団が協力して作業に当たった。結果集団で住むようになり、大量生産、仕事の分業化が始まり、物づくりの技術が一気に進んだ。中国から農耕具の青銅器や鉄器も輸入し使用した。さらなる開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされ、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生した。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれ、この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれた。稲の水稲栽培が国を造ったといえる。
水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。
このようにして、狩猟採取定着の、あま(海)海洋文明集合体から、農耕定着の、あま(天)水稲文明集合体に権力が移動した。あま(海)の衰退ではない。あま(天)のほうが大きく勃興し、はるかに巨大化したため、権力は禅譲されただけである。あま(海)は以後も隆盛を成し、島国日本の礎となった。水稲栽培は天候が命、集合体の命の要、あま(天)を神とし、太陽を最高神として崇めた。日海子、日水子(卑弥呼、日巫女)、天照大神となり、現代に至る。
佐賀県の腰岳、大分県姫島、島根県隠岐、秋田県脇本、瀬戸内海や黒潮ルートのあま(海)の子孫は、競合しながら同様に進化し、一つとなった。
黒曜石が語る邪馬壹国と卑弥呼
前述のように島根県隠岐産の黒曜石がロシアの沿海州で発見され、島根県出雲神話は、あま(海)の民、古代海洋国家を物語っている。
一方、九州佐賀県伊万里腰岳産の黒曜石も、沖縄本島や朝鮮南部で発見され、大分県国崎半島東端の姫島産も朝鮮南部で発見され、古代朝鮮南部は、日本同様のあま(海)の民海洋文明圏で、3世紀末の魏志倭人伝にも、倭人の北岸狗邪韓国と明記され、中国も公認の、黒曜石海洋文明圏の継続を物語っている。
黒曜石、稲、青銅器鉄も、あま(海)の民が最初に入手し隆盛、伝播した。隆盛した国家(稲を最初に入手)魏志倭人伝中の邪馬壹国は、九州佐賀県伊万里腰岳黒曜石や、大分県国崎半島東端の姫島黒曜石を生業とした海洋文明国家あま(海)の民、子孫を物語って余りある。魏志倭人伝中「其山有丹」と記載された丹(丹砂、辰砂)は、いずれにも産地有り。青銅器、鉄の伝来で黒曜石はすたれたが、あま(海)の道で得た稲と、あま(海)の道の交易(丹や稲の伝播と、青銅器鉄の入手伝播)で隆盛を築いた。祭神も、あま(海)とあま(天)になり、卑弥呼(日水子、日巫女)があま(天)に使えるようになった。当然、あま(海)の道の交易で、太陽神信仰や諸々のものも、同時に各地に伝播され、また、入手もした。
真実史観で検証魏志倭人伝邪馬台国と卑弥呼
あま(海)の民の世界は、板子一枚下はまさに地獄、方角距離の間違いは死である。正確だから生きて海洋文化圏を築けた。これまでの実技無き仮想現実界の歴史家は、この現実界の道理を簡単に無視、魏志倭人伝記載の距離方角を間違いとし、勝手に書き換え解釈、日本を混乱の坩堝にした。歴史には流れがあり、理由もなく突然邪馬壹國や卑弥呼が生まれる訳など無い。戦後の迎合識者と同じである。現代文明などワット以後の化石燃料文明、たかだか250年である。鳥も渡り鮭も回帰する。古代人には現代人が失った鋭敏な、確かな五感があった、矮小判断すべきではない。
前述のように、あま(海)の民により山の民に水稲がもたらされ、あま(海)の民と山の民とが融合し定着、大集団となり、国が生まれ、やがて国家が連合した。卑弥呼の時代は正にその時代といえよう。
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)
中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)の東夷伝倭人の条をいう。「三国志」全65巻は280年~289年に完成している。正式名称「三国志魏書東夷伝倭人条」。全文で2008文字。「三国志」はその後、歴代王朝が木版本を刊行し現存は6種類。12世紀中葉に作られた南宋の紹興本が有名。日本で最も入手しやすい魏志倭人伝資料は、石原道博編「新訂 中国正史日本伝1」。百納本(張元済が20世紀に刊行)の「倭人伝」写真版が掲載されている。
陳寿について
魏志倭人伝は魏の後継の晋、著作朗という官職にあった西晋の陳寿(蜀の国で誕生233~297年)が著者。3世紀末(280~-290年)に書かれた。著者陳寿の死後、正史となる。陳寿は蜀の皇帝に仕えた後、浪人となり魏が晋に滅ぼされた後で晋に仕えた人。魏には恩顧はない。つまり魏に都合のよい話ばかりを魏書に書く必然性は低い。 三国志の編纂に取り掛かったのは西暦280年とみられる。同じ歴史家の夏侯湛(かこうたん)は陳寿の三国志を読んで、その内容に感銘、自著である魏書を自ら焼き捨てたと言わている。陳寿の三国志は、文章が簡潔で感情に左右されることなく冷静、公平に書かれている。
?「魏志倭人伝」
?「魏志倭人伝」と『後漢書倭伝』
范曄が著した『後漢書』東夷伝は『魏志倭人伝』より後に書かれている。しかしその内容は「魏志倭人伝」にない「桓霊間倭國大亂」などの記事がある。范曄の『後漢書倭伝』は、「魏志倭人伝」の原史料を見ているのではないか。
?「邪馬壹国」と「邪馬臺国」と「祁馬臺国」
現存の『三国志魏志倭人伝』の版本は、「邪馬壹國」、「邪馬一國」。
5世紀に書かれた「後漢書倭伝」では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書倭伝』では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』には魏志(魏志倭人伝)のいう「邪馬臺」。原文は「邪馬壹国」
?『魏志倭人伝』の「景初2年」と「景初3年」
『魏志倭人伝』は景初2(238)年。
『梁書』や『太平御覧』引用の『魏志』では、景初3年(239年)が遣使の年。
景初2年8月23日(238年)公孫淵が司馬懿に殺された(『三国志』魏志公孫淵伝)。魏が帯方郡を治めたのは、それ以後と言うのが理由。原文は景初2(238)年
?があるがありのままに読む
魏志倭人伝邪馬壹国までの道程をありのままに読む
国名、方角、距離、国の特徴だけを抜書き。全文は後述。原文はスペースなし。国名は表音記載なので、限定せず、事典の字音を記載。
?「對馬國」と「對海國」
「對海國」(中国側呼称)は宋紹熙本。「對馬國」(日本側呼称)は宋紹興本。一大國(中国側呼称)。壱岐(日本側呼称)。
倭(ワ・吾。我。和。イ・)人居住地
倭人在 帯方東南 大海之中 依山島爲國邑
倭人の住んでいるところは帯方の東南、大海の中。山や島に依りそって、国や村を為している。
倭国北岸狗(ク、コウ)邪(ジャ、シャ、ヤ)韓(カン、ガン)國
従郡 至 倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到 其北岸狗邪韓國 七千餘里
郡より倭に至るには、海岸に循(沿)って、水上を行き、乍(たちまち)南、乍(たちまち)東と階段式に韓國を次々と通過、倭の北岸、狗邪韓國に到った。郡より七千餘里の道程である。
對(タイ、ツイ)海(カイ)國・「對(タイ、ツイ)馬(マ、バ、メ)國」
始度一海 千餘里 至 對海國(對馬國)所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
一海を度り始めて、千餘里で對海國(對馬國)に至る。居住地は絶島で、島の方(⇔距離)は四百餘里可(ばか)り。土地は、山險しく深林多く、道路は、禽(鳥)や鹿の徑(こみち)の如し。千餘戸有るが、良田無く、海物を食し自活、船に乗りて南(九州)北(韓半島)に行き、米を入手している。注・方角記載がないのは、「乗船南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。
一(イチ、イツ)大(ダイ、タイ、タ、ダ)國・壱岐 2につづく