真実史観で子孫に遺す日本適者生存99年史

歴史には真実と捏造が有るのみ。東大やマスコミ等、虚業が造語の、自虐も保守も革新も右も左も無い!真実の歴史を子孫に遺そう。

十二月八日を記憶せよ!   真実史観

2011-12-13 16:27:14 | Weblog
十二月八日を記憶せよ!   真実史観

記憶せよ、十二月八日。
この日日本の歴史あらたまる。
「言葉と文字界」の主権、
この日日本の陸と海とに否定さる。
否定するものは彼等のジャパン、
眇たる草莽のともがらにして、
また神の国なる大和日本の子孫なり。
そを治しめたまふ明津御神なり。
大和日本の富を壟断するもの、
空人東大京大NHK朝日等「言葉と文字界」一族の力、われらの国の子孫に於て否定さる。
われらの否定は義による。
大和日本を大和日本にかへせといふのみ。
「言葉と文字界」の捏造搾取に大和日本ことごとく痩せたり
われらまさにその爪牙を摧かんとす。
われら自ら力を養ひてひとたび起つ。
老弱男女みな兵なり。
空人捏造消滅するに至るまでわれらは戦ふ。日本の歴史を両断する 、
十二月八日を記憶せよ!

1陳寿明解魏志倭人伝卑弥呼墓判明邪馬台国は邪マイツ国壹與はイツヨ

2009-03-13 18:40:15 | Weblog
陳寿は明解に記していた。混乱は学者識者の驕り、無検証が原因。
邪馬台国は邪(じゃ。しゃ。や)まいつ国、壹與は(いつよ)が正当。
日本人のルーツ
 20代の半ば、仕事で三重県尾鷲市の幼稚園を訪問、園長先生に面会、名刺を差し出した。名刺をじっと見つめた初老の女園長先生は、「宮城県でしょう、出身は」。「そうです、どうして分かりましたか」おどろき問い返すと、「私の亡くなった主人も同じよ」と言いつつ、同姓の名刺を取り出した。三重県尾鷲市と宮城県、陸では遠隔の地であるが、古くから漁船の交流があり、隣町のようなものと、話に花が咲き、懐かしげに語っておられた。数十年前のことであるが、今でもこの事が鮮やかに思い出される。点から点への移動、陸はジンギスハーンの馬、海は船。地中海の船、バイキングの船、大航海時代の帆船、卑近な例ではドラクエの船の入手、文明の加速は全て船が起点である。島国日本、船の発明、船を語らずして古代は語れない。
 7万年~1万年前の氷河時代最後の氷期に、大陸からナウマン象を追い氷河を渡り、後期旧石器人、古モンゴロイドが渡来し海や山の民として定着。後に船が発明され、山の民から別れ、あま(海)の民として日本海海洋文化圏を築く。一方船を発明した南方の新モンゴロイドも、陸伝い島伝いに北上し渡来、揚子江河畔の船を発明した新モンゴロイドも渡来し、在来の古モンゴロイド(山の民、海の民)と融合した。モンゴロイド海洋文明圏を築いたあま(海)人、そして水稲文明圏を築いたあま(天)人。かれらが日本人の先祖と言える。耽羅(済州島)や半島南の祖先でもある。

 古くから黒曜石日本を中心とした海洋文化圏として中国揚子江、朝鮮半島南(百済、新羅、任那、高句麗)、耽羅(たんら、済州島)、南西諸島、五島列島、対馬、壱岐、九州(南方文化)、島根(出雲)、隠岐、能登、佐渡、新潟(越)、瀬戸内海、黒潮ルートの尾鷲が存在し、文化を共有する地中海文明と同様の海洋人がいた。
 黒曜石の伝播が、海洋文化圏の隆盛を促進し、あま(海)の道が、米の伝播を促進した。古代日本、あま(海)の民は日本海を制し自由に航海、大陸や半島沿岸に黒曜石文明を伝播、居住した。九州の黒曜石が沖縄本島(佐賀県の腰岳産)や、朝鮮半島南部の釜山広域市影島区(ヨンドグ)にある東三洞(トンサンドン)貝塚(佐賀県の腰岳産、大分県姫島産)で、隠岐と脇本(秋田県)産の黒曜石が、ロシアの沿海州で、確認されている。黒曜石研究の動向
 日本海呼称は、海洋文化圏を築いたあま(海)の民日本の、由緒ある名称である。由緒なき東海などではない。
 文明の伝播は地中海文明や、大航海が示すように、海路がはるかに速い。北方民族が陸路最南端の地に辿り着き、文明を開いたので無いことは、南下途中の継続文明皆無や、同時期発祥の共通文明で証明済み。古代の朝鮮半島南部人は、中国と日本の海洋民族が祖先であることは明白である。
 完成した北部九州の団体作業水稲耕作技術は、海洋人を経て朝鮮半島南、耽羅(たんら)(済州島)に同時に伝播し、百済、新羅、伽耶諸国、耽羅(済州島は火山島なので畑作中心だが、海洋人の寄港地として栄えた)国が生まれた。朝鮮北方には皆無の半島南に限定された日本と同様の文化は、日本と百済、新羅、任那、高句麗が同一文化圏を物語り、日本の支配下にあったことを証明している。百済人、新羅人、任那人、高句麗人は、現代の東北人、名古屋人、大阪人のような地域呼称で、朝鮮人ではなく皆日本人。したがって桓武天皇の母百済人は、百済出身の日本人で、北方民族と日本人が混血した、現代の朝鮮人ではない。

稲の伝播が語る歴史
日本、旧石器時代、約3万5千年前からで、終りは約1万3千年前。
1万6千5百年前から約2700年前、日本、縄文時代。縄文式土器。稲の陸稲栽培開始の時代
 稲の陸稲栽培・焼畑稲作。水田を使わない稲作。
 稲の水耕栽培・田に水を張り(水田)、その水の中に苗を植えて育てる。種から収穫まで、陸ですべて終えるよりも、水耕の方が品質が高く収穫量が多いため、定期的な雨量のある日本では、ほとんどの場合、水田を使っている。
 イネの品種には、ジャポニカ「日本型・温帯ジャポニカ(水稲)と熱帯ジャポニカ(陸稲)」・ジャバニカ(ジャワ型)とインディカ(インド型)がある。
 稲の陸稲栽培 熱帯ジャポニカは、インディカの分布と重なり、更に広い範囲に分布し、陸稲と密接に結びついている。
 稲の水稲栽培 温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に分布している。弥生時代以降の水稲は温帯ジャポニカである。
 ・・・揚子江沿いに在った「長江文明」を発見したのは国際日本文化研究センター教授の安田喜憲氏らでした(1996年)。この中国南方長江文明は、畑作中心の中国北方黄河文明に対し、稲作中心で、ジャポニカ種が栽培されていた。

 安田喜憲教授によれば、『今のところ、稲作の起源は、少なくとも8,600年前までは、確実に遡れる。もし、土器にある圧痕が稲作の証拠とすれば、少なくとも11,000年位前までは確実に遡れます。玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡や仙人洞遺跡では14,000年前まで遡れる可能性が指摘されているという段階まできている』。「長江文明の探求」 監修・稲盛著者・梅原・安田 新思索社刊 2004,8,30発行)
 1万2000年前 中国陸稲栽培 長江中流域にある江西省や湖南省で1万年以上前に遡る稲籾が続々と発見。焼畑による陸稲栽培と考えられている。
 7000年前 中国水稲栽培 長江下流の浙江省寧波の河姆渡(かぼと)村から約7000年前の水田耕作遺物が発見されており、稲の水田耕作は長江下流に起源。
 稲の陸稲栽培の伝来 日本へは、まず、江南から熱帯ジャポニカが南西諸島を通って伝播南九州へ(黒潮ルート)。
 
 稲の水稲栽培の伝来 長江下流域から直接北九州に伝来(対馬暖流ルート)。江南から西南諸島を経て南九州へ(黒潮ルート)。温帯ジャポニカによる水稲農耕の始まりも近年の稲DNAに基づく研究では、南方経由の可能性が高いとされる。佐藤洋一郎「DNAが語る稲作文明」

捏造ルート 遼東半島から朝鮮半島南部を経て北九州に伝来(朝鮮ルート)。かつてはこの捏造された朝鮮ルートが有力視されていたが、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島での確認された炭化米、紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れない点、極東アジアにおける温帯ジャポニカ種/熱帯ジャポニカ種の遺伝分析において、一部遺伝子が朝鮮半島を含む中国東北部から確認されない点などの複数の証拠から、対馬暖流ルートや黒潮ルートによる日本への伝来が、2000年近く早かったという学説が有力視され、朝鮮ルート否定。

 ・・・中国、朝鮮半島、日本列島の水稲在来品種250種のSSR多型を調べてみると、8つの変形版が見つかった。これらには小文字のaからhまでの字があてられる。aからhまでの変形版がどこに位置するかを調べると下記のようになる。

SSRの多型からみた温帯ジャポニカ(水稲)の渡来。
日本の品種 abの2種類
中国の品種 abcdefghの8種類全品種あり (aが少ない)
朝鮮の品種 acdefgh の7種類 (aが60%)
 唐古鍵遺跡(奈良)と池上曽根遺跡(大阪)の炭化米からもこのb遺伝子が発見されたことも注目に値する。いずれも弥生時代中期(宇約2100~2200年前) の遺跡であり、SSR遺伝子はいくら時を経ても全く変化しないので、これらの炭化米は、2000年前からここに埋まっていた事がわかる。 すなわち、2000年前明らかに中国大陸からb遺伝子を含む水稲が渡来してきたことが実証できるのである。 見えてきた稲の道1
(注・上記では。単純に「中国大陸からb遺伝子を含む水稲が渡来」としているが、中国渡来説では、朝鮮にb遺伝子欠落の説明がつかない)
仮説をたててみよう。温帯ジャポニカ(水稲)の伝播。
1・4、200年前に訪れた寒冷化によって、中国北部の稲作牧畜民(漢民族、c品種の稲所持)が南下し、稲作漁労民(a品種の稲所持)である長江文明を、攻め滅ぼした。中国の長江文明は崩壊したが、稲作漁労民(a品種の稲所持)はさらに南下して定住、aを栽培。
2・最古の品種aは、対馬暖流ルートで紀元前7世紀(2600年前)日本伝来。日本aを国内や朝鮮南に伝え、国が誕生する。
3・日本、新たな品種bを得てabとなる。
4・中国は更にdefghの新たな品種を得る。acdefgh。
5・朝鮮中国の属国となり、cdefghを得、紀元前日本から伝来のaを加えacdefghとなる。
6・日本、品種bを中国に伝える。
7・中国、日本から伝来したbを加え、abcdefghとなる。

  陸稲熱帯ジャポニカや、南方長江下流原産水稲温帯ジャポニカ(緯度は日本の屋久島)が、中国北方の遼東半島や朝鮮北部(緯度は青森)に北上し、南下して伝播(北九州)は誰が考えても不可能。長江下流から北九州は、船のほうがはるかに近く、対馬暖流に乗れば、寝てても北九州に到着する、地図を見ればすぐわかる素人の常識問題だ。捏造は迂回するが、文明は迂回せず。
 
日本の稲の起源
 「プラント・オパール」とは、植物の葉の細胞に含まれている珪酸体というガラス質の小さな結晶(40~60μm)のことで、葉っぱに触れて手や足を切ることがあるのはこのためだ。このプラント・オパールは、葉が腐っても土の中でずっと残ることが知られており、これを分析することにより、稲作の起源を調べる試みが続けられている。

 この手法を開発したのは宮崎大学名誉教授の萩原宏志氏で、現在までに確認できた稲作の痕跡は全国9カ所の遺跡にあり、約6,000年前から見られる。(ただし現時点では、プラント・オパールの発見だけでは、それが野生種か栽培種かを区別できないことから、稲作の確実な証拠とはされていない)

 6,000前、陸稲(熱帯ジャポニカ)栽培。縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6,000前の地層から稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例めだが、今回は化石が多量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。縄文時代前期にまで遡れる。高橋護・元ノートルダム清心女子大教授ら研究グループは、プラント・オパールが大量だったことや他の食物も有ったことを「縄文前期の本格的農耕生活」を裏付ける根拠とし、水田が無いことについては「大半が焼畑農業だったのでは無いか」と推測する。読売新聞,2005,2,19

 2,600年前(紀元前600年)、水稲(温帯ジャポニカ)栽培。わが国の稲作の歴史は、福岡市板付遺跡より更に古い、佐賀県唐津市の菜畑遺跡(2,600年前)で確認された水田遺構が最古(水稲栽培)と見られる。熱帯ジャポニカも水田で栽培された。

 縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県の上ノ原遺跡などから検出されており、籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールに至っては、後期後半の西日本各地の遺跡から30例発見されている(外山秀一さん、皇學館大学)。縄文時代の前期以降、西日本の各地で稲作が行われていたことを示す証拠である。このため、後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。

 石器の産地の考察から、縄文時代にも海洋を越える交易があったことも分かってきている。また、死者を埋葬した跡があることから、縄文の人々には初期の宗教観があったことも確認されている。

紀元前8百年~3百年(炭素14年代測定法により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前9世紀まで遡る可能性が出てきた)日本、弥生時代。弥生式土器。稲の水稲栽培開始の時代。
 紀元前9世紀に、大陸や南西諸島から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、北部九州地域に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。弥生時代早期に完成した北部九州の団体作業水稲耕作技術は、弥生時代前期中葉には東北へと伝播し、青森県南津軽郡田舎館(いなかだて)村垂柳(たれやなぎ)遺跡などからも見つかっている。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及した。また海洋人を経て朝鮮半島南、耽羅(たんら)(済州島)に同様に伝播し、百済、新羅、伽耶諸国、耽羅(済州島)国を生んだ。
 これまでの自給自足狩猟採取移動の生活を、稲の水稲栽培、これがすべてを一変させた。水田作り、水路作りは集団が協力しないと出来ない。田起こし、代掻き、田植え等々季節が過ぎないうちに済ませないと駄目な作業ばかりなので、集団が協力して作業に当たった。結果集団で住むようになり、大量生産、仕事の分業化が始まり、物づくりの技術が一気に進んだ。中国から農耕具の青銅器や鉄器も輸入し使用した。さらなる開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされ、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生した。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれ、この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれた。稲の水稲栽培が国を造ったといえる。
 水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。

 このようにして、狩猟採取定着の、あま(海)海洋文明集合体から、農耕定着の、あま(天)水稲文明集合体に権力が移動した。あま(海)の衰退ではない。あま(天)のほうが大きく勃興し、はるかに巨大化したため、権力は禅譲されただけである。あま(海)は以後も隆盛を成し、島国日本の礎となった。水稲栽培は天候が命、集合体の命の要、あま(天)を神とし、太陽を最高神として崇めた。日海子、日水子(卑弥呼、日巫女)、天照大神となり、現代に至る。
佐賀県の腰岳、大分県姫島、島根県隠岐、秋田県脇本、瀬戸内海や黒潮ルートのあま(海)の子孫は、競合しながら同様に進化し、一つとなった。

黒曜石が語る邪馬壹国と卑弥呼
 前述のように島根県隠岐産の黒曜石がロシアの沿海州で発見され、島根県出雲神話は、あま(海)の民、古代海洋国家を物語っている。
一方、九州佐賀県伊万里腰岳産の黒曜石も、沖縄本島や朝鮮南部で発見され、大分県国崎半島東端の姫島産も朝鮮南部で発見され、古代朝鮮南部は、日本同様のあま(海)の民海洋文明圏で、3世紀末の魏志倭人伝にも、倭人の北岸狗邪韓国と明記され、中国も公認の、黒曜石海洋文明圏の継続を物語っている。
黒曜石、稲、青銅器鉄も、あま(海)の民が最初に入手し隆盛、伝播した。隆盛した国家(稲を最初に入手)魏志倭人伝中の邪馬壹国は、九州佐賀県伊万里腰岳黒曜石や、大分県国崎半島東端の姫島黒曜石を生業とした海洋文明国家あま(海)の民、子孫を物語って余りある。魏志倭人伝中「其山有丹」と記載された丹(丹砂、辰砂)は、いずれにも産地有り。青銅器、鉄の伝来で黒曜石はすたれたが、あま(海)の道で得た稲と、あま(海)の道の交易(丹や稲の伝播と、青銅器鉄の入手伝播)で隆盛を築いた。祭神も、あま(海)とあま(天)になり、卑弥呼(日水子、日巫女)があま(天)に使えるようになった。当然、あま(海)の道の交易で、太陽神信仰や諸々のものも、同時に各地に伝播され、また、入手もした。

真実史観で検証魏志倭人伝邪馬台国と卑弥呼
 あま(海)の民の世界は、板子一枚下はまさに地獄、方角距離の間違いは死である。正確だから生きて海洋文化圏を築けた。これまでの実技無き仮想現実界の歴史家は、この現実界の道理を簡単に無視、魏志倭人伝記載の距離方角を間違いとし、勝手に書き換え解釈、日本を混乱の坩堝にした。歴史には流れがあり、理由もなく突然邪馬壹國や卑弥呼が生まれる訳など無い。戦後の迎合識者と同じである。現代文明などワット以後の化石燃料文明、たかだか250年である。鳥も渡り鮭も回帰する。古代人には現代人が失った鋭敏な、確かな五感があった、矮小判断すべきではない。
 前述のように、あま(海)の民により山の民に水稲がもたらされ、あま(海)の民と山の民とが融合し定着、大集団となり、国が生まれ、やがて国家が連合した。卑弥呼の時代は正にその時代といえよう。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)
 中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)の東夷伝倭人の条をいう。「三国志」全65巻は280年~289年に完成している。正式名称「三国志魏書東夷伝倭人条」。全文で2008文字。「三国志」はその後、歴代王朝が木版本を刊行し現存は6種類。12世紀中葉に作られた南宋の紹興本が有名。日本で最も入手しやすい魏志倭人伝資料は、石原道博編「新訂 中国正史日本伝1」。百納本(張元済が20世紀に刊行)の「倭人伝」写真版が掲載されている。
陳寿について
 魏志倭人伝は魏の後継の晋、著作朗という官職にあった西晋の陳寿(蜀の国で誕生233~297年)が著者。3世紀末(280~-290年)に書かれた。著者陳寿の死後、正史となる。陳寿は蜀の皇帝に仕えた後、浪人となり魏が晋に滅ぼされた後で晋に仕えた人。魏には恩顧はない。つまり魏に都合のよい話ばかりを魏書に書く必然性は低い。 三国志の編纂に取り掛かったのは西暦280年とみられる。同じ歴史家の夏侯湛(かこうたん)は陳寿の三国志を読んで、その内容に感銘、自著である魏書を自ら焼き捨てたと言わている。陳寿の三国志は、文章が簡潔で感情に左右されることなく冷静、公平に書かれている。
?「魏志倭人伝」
?「魏志倭人伝」と『後漢書倭伝』
 范曄が著した『後漢書』東夷伝は『魏志倭人伝』より後に書かれている。しかしその内容は「魏志倭人伝」にない「桓霊間倭國大亂」などの記事がある。范曄の『後漢書倭伝』は、「魏志倭人伝」の原史料を見ているのではないか。
?「邪馬壹国」と「邪馬臺国」と「祁馬臺国」
 現存の『三国志魏志倭人伝』の版本は、「邪馬壹國」、「邪馬一國」。
 5世紀に書かれた「後漢書倭伝」では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書倭伝』では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』には魏志(魏志倭人伝)のいう「邪馬臺」。原文は「邪馬壹国」
?『魏志倭人伝』の「景初2年」と「景初3年」
 『魏志倭人伝』は景初2(238)年。
 『梁書』や『太平御覧』引用の『魏志』では、景初3年(239年)が遣使の年。
景初2年8月23日(238年)公孫淵が司馬懿に殺された(『三国志』魏志公孫淵伝)。魏が帯方郡を治めたのは、それ以後と言うのが理由。原文は景初2(238)年
?があるがありのままに読む
魏志倭人伝邪馬壹国までの道程をありのままに読む
国名、方角、距離、国の特徴だけを抜書き。全文は後述。原文はスペースなし。国名は表音記載なので、限定せず、事典の字音を記載。
?「對馬國」と「對海國」
「對海國」(中国側呼称)は宋紹熙本。「對馬國」(日本側呼称)は宋紹興本。一大國(中国側呼称)。壱岐(日本側呼称)。
倭(ワ・吾。我。和。イ・)人居住地
倭人在 帯方東南 大海之中 依山島爲國邑
 倭人の住んでいるところは帯方の東南、大海の中。山や島に依りそって、国や村を為している。
倭国北岸狗(ク、コウ)邪(ジャ、シャ、ヤ)韓(カン、ガン)國
従郡 至 倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到 其北岸狗邪韓國 七千餘里
 郡より倭に至るには、海岸に循(沿)って、水上を行き、乍(たちまち)南、乍(たちまち)東と階段式に韓國を次々と通過、倭の北岸、狗邪韓國に到った。郡より七千餘里の道程である。
對(タイ、ツイ)海(カイ)國・「對(タイ、ツイ)馬(マ、バ、メ)國」
始度一海 千餘里 至  對海國(對馬國)所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
 一海を度り始めて、千餘里で對海國(對馬國)に至る。居住地は絶島で、島の方(⇔距離)は四百餘里可(ばか)り。土地は、山險しく深林多く、道路は、禽(鳥)や鹿の徑(こみち)の如し。千餘戸有るが、良田無く、海物を食し自活、船に乗りて南(九州)北(韓半島)に行き、米を入手している。注・方角記載がないのは、「乗船南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。
一(イチ、イツ)大(ダイ、タイ、タ、ダ)國・壱岐 2につづく

2ああ終に女王の所に到着帯方郡から水行十日陸行一月は長かったなー!

2009-03-13 18:25:05 | Weblog
2ああ終に女王の所に到着帯方郡から水行十日陸行一月は長かったなー!
又南渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耗田猶不足食 亦南北市糴
 又南一海を渡る。千餘里、名を瀚海(かんかい)と曰い、一大國に至る。島の方(⇔距離)は三百里可(ばか)り。竹木叢林多く、三千許(ばか)り家有り。差(やや)田地有るも、収穫少なく食不足。ここも同様に、船に乗りて南(九州)北(韓半島)に行き、米を入手している。
末盧國
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之
 又一海を渡る千餘里。至末盧國に至る。有四千餘戸有り。濱(浜)、山、海に居る。草木茂盛し、道路なのに、前の人見えず。好んで魚や鰒(あわび)を捕らえ、水の深淺に関係なく、皆沈沒して之を取る。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。注・?末盧國だけが、官記載無し。
伊都國
東南陸行五百里 到 伊都國 有千餘戸 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐
 東南に陸行五百里、伊都國に到る。千餘戸有り。世(よよ)(代々)王有り。皆女王國に統屬。郡使往來の時、常に駐(とどま)る所。
奴國
東南至奴國百里 有二萬餘戸
不彌國
東行至不彌國百里 有千餘家
投馬國
南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
邪馬壹國
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸
狗奴國
其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王
其の南狗奴國有り。男子を王と爲す。其の官、狗古智卑狗有り、女王に屬さず。
郡至女王國
自郡至女王國 萬二千餘里
郡自り女王國に至る、一萬二千餘里。

2009年邪馬壹國へ真実史観の旅
出発地点帯方?
 帯方は、循海岸水行(海岸に循(沿)って、水上を行き)とあるように、帯方郡南海岸、現在の黄海南道南岸が自然だ。狗邪韓國も、(歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國) とあるように、東三洞(トンサンドン)貝塚もあり、現在の釜山界隈が自然ではないか。
魏志倭人伝の一里?
 魏志倭人伝中で現代と間違いなく一致する所が、一大国=壱岐である。しかも方可三百里(島の方⇔距離は、三百里ばかり)とある。壱岐長辺南北18kmを、三百里で割ると、一里は60mとなる。次に該当する南対馬長辺南北24kmを、四百里(倭人伝は四百餘里)で割ると、一里は60mとなった。次に該当する対馬南南端から(対馬海峡)壱岐北端50kmを、千里(倭人伝は千餘里)で割ると、一里は50mとなる。次に想定した釜山から(朝鮮海峡)、対馬北、北端(晴天の日は、釜山目視可能)55km、南、北端80kmを、千里(倭人伝は千餘里)で割ると、一里は55mと、80mとなる。黄海南道南岸から釜山迄直線距離450kmを、七千里(倭人伝は七千餘里)で割ると、一里は64.2mとなった。
 渡海千餘里(朝鮮海峡)の一里は50m。渡海千餘里(対馬海峡)の一里は80mと、誤差が大きい。まず目視可能最短の対馬北を目指し、次に目視確認しながら南下、南対馬に至るのが当時の航法で、港釜山から、対馬北の距離と考えれば、納得がいく。又、対馬南、港から、壱岐北端は60km(一里は60m)である。魏志倭人伝の一里は、餘里ではなく方可三百里と記載の60mを用いる。

末盧國?末(バツ・伐。マツ・松。末。待。俟。バチ・撥。鉢)盧(ロ・路。ル・留。縷。流)國
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之
 又一海を渡る千餘里。至末盧國に至る。有四千餘戸有り。濱(浜)、山、海に居る。草木茂盛し、道路なのに、前の人見えず。好んで魚や鰒(あわび)を捕らえ、水の深淺に関係なく、皆沈沒して之を取る。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。注・?末盧國だけ、官記載無し。
 これだけの航海をしている、疑いも無く倭人はあま(海)の民でもある。邪馬壹國はあま(海)の民からはずしては語れないのは明白である。對馬國、乗船南北(九州や韓半島)市糴、一大國、亦南北(九州や韓半島)市糴とある。海洋民あま(海)の民である、船で行ける所までは行って、陸行が自然。末盧國から「東南陸行五百里 到 伊都國」である。陸行は川沿いが自然だ。福岡、唐津、伊万里が候補地となる。福岡は当時も大平野で港、数万は想定できる。「有四千餘戸」ではいかにも物足りない。「南北市糴」の常用ルートからは、遠い。「有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛」とある。唐津は松浦川があり捨てがたい。あま(海)の民の黒曜石産地佐賀県腰岳、ふもとの伊万里も、記載条件を満たしている。渡一海千餘里である。末盧國は、佐賀県伊万里界隈か唐津界隈を、候補とする。
 6,000前、陸稲(熱帯ジャポニカ)栽培。縄文前期の本格的農耕生活。水田が無いことについては「大半が焼畑農業だったのでは無いか」と推測する。イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。
 2,600年前(紀元前600年)、水稲(温帯ジャポニカ)栽培。わが国の稲作の歴史は、福岡市板付遺跡より更に古い、佐賀県唐津市の菜畑遺跡(2,600年前)で確認された水田遺構が最古(水稲栽培)と見られる。熱帯ジャポニカも水田で栽培された。
 これまでの自給自足狩猟採取焼畑農業の生活を、米の水稲栽培、これがすべてを一変させた。水稲は水が不可欠、川沿いに移動し水田作り、水路作りに集団であたった。田起こし、代掻き、田植え等々季節が過ぎないうちに済ませないと駄目な作業ばかりなので、集団が協力は必須の要素。結果集団で住むようになり、大量生産、仕事の分業化が始まり、物づくりの技術が一気に進み国が生まれた。
 川沿いに国が生まれたのである。初めは高低管理し易い上流、進歩に従い下流へ。下流は平地が多いので開田し易いが、高低差がないので水管理が難しいのと、氾濫で壊滅し易い。両刃の剣ではあるが、大量の収穫を得られる。水田管理が進化し、下流を制した集団が大国を築いたであろうことは、うかがい知れる。水は上流から下流へ流れる、下流を制した集団は、当然上流も支配は必須なので支配した。いわば一つ一つの川が一つ一つの集団国家と言える。倭国大乱は、上下流支配で統一するまでの過渡期の水権利争い、であったろうことは想像に難くない。
 黒曜石を半島日本に伝播した海洋民あま(海)の民は、陸稲(熱帯ジャポニカ)入手も先駆け栽培伝播した。「里」は区画した「田」、「畑」が本来の意である。中里、二里、伊万里、有(あ里)田、佐里、伊万里界隈は多い。
 当然水稲(温帯ジャポニカ)栽培も先駆け伝播した。食料を安定確保した栽培の民の人口増加は、必然。不可欠の水、川の新天地を求め集団で移動、各河川に定住した。当然、近隣の松浦川流域にも定住した。そして、伊万里南東30キロ、唐津南東30キロは、佐賀県、数多の河川と伴う平野、水稲栽培絶好の新天地伊都(いつ)、そして不彌(二美)である。有明海に注ぐ河川上流伊都(いつ)は、どんなに輝いていたか、それは、国名伊都(いつ)国が証しだ。注・「厳・稜威」(いつ)は、食物などが威勢良く繁茂すること。広辞苑
 「南北市糴」の常用ルートなら、末盧國は、唐津界隈(松浦川河口)が濃厚である。しかし、伊都國への道は、米栽培伝播移動ルートでもある。その起点、伊万里界隈(黒曜石古代ルート起点)は捨てがたい。伊都國への道筋の難易度で、検証できるが、現時点の資料では、決定力不足。伊万里界隈、唐津界隈いずれかから、伊都國に到ったと、特定せず両論併記とする。

伊都國?伊都(いつ)國=(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。伊(イ・斎。委。威。井、堰。夷。囲)都(ト・所。門。外。図。途。渡。登。ツ・津。通。都(とりしまること)國。開拓当初はいつ(厳・稜威)の地だが、この水稲栽培下流隆盛の時代には、意味変化の可能性はある。
東南陸行五百里 到 伊都國 有千餘戸。 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐
東南に陸行五百里(30キロ)伊都國に到る。千餘戸有り。代々の王は、皆、女王国の統治下に属している。郡使の往来では、常にここにとどまる所である。
 到は曲がりくねって到着(到其北岸狗邪韓國、到伊都國)。至はほぼ直線で到着、および方向。
 「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」(女王国より以北は、特別に一大率を置き、諸国を検察している。諸国はこれを畏れ憚っている。伊都国が常に治めている。國中に於いてあり、中国の州の刺吏のようだ)と詳細が後述されている。川の管理、諸国検察、邪馬壹國玄関が、主な任務と推察される。
 常識に基づき検証しよう。「魏志倭人伝」は国王への、説明紹介文だ、旅程記載は概略から詳細へが常道。伊都國は邪馬壹國の玄関。まず玄関の近隣を述べ、そして邪馬壹國へ行き、邪馬壹國の近隣や状況を述べるのが自然。現代でも案内図記載の常道である。「魏志倭人伝」は国王が読者。玄関からさらに水行二十日、水行十日陸行一月などは、打ち首もので、そんな不敬な記載は、不可能。記述不備不敬の疑問も呈されず、正史『三国志』「魏志倭人伝」として残ったことは、歴代誰一人、邪道な解釈をしなかったことの、証明である。帯方郡から「水行二十日」は、頻繁に往来する当時の常用ルートの旅程で、誰が読んでも分かる、常識であったことを物語って余りある。玄関伊都國、南北接する投馬國は、邪馬壹國と同一とみなし、投馬國に従来の常識、常用ルート旅程、邪馬壹國に倭国周旋ルート旅程と、混乱を避け分割記載、明解にした。最後に帯方郡からの全距離(自郡至女王國 萬二千餘里)を記載し、まとめている。中国帯方郡からの「倭」への常用ルート旅程、周旋ルート旅程、全距離、皆おさまっている。注・有明海経由、帯方郡までの「水行二十日」の常用ルート、嘉瀬川河岸の港が、投馬國に在る可能性は大である。北九州海岸からのルートは、陸行し水行なので誰の目にも不便、「行不見前人」とある、すたれたのではないか。また、後の倭の五王の隆盛、末盧國の官名記載無しから推察すると、従来の北九州海岸からのルートは、倭の五王の先祖に支配され始めていることが窺える。結果、有明海を常用ルートとしていた。今回は中国帯方郡からの使者なので、倭の五王の先祖も不問に付したが、真相ではないか。
奴國?奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする)。野。沼。ド・笯。弩。土」國。表意『瓊國』
東南至奴國百里 有二萬餘戸。
伊都國から東南百里(6キロ)で奴國に至る。二萬餘戸有り。

不彌國?不彌國=二(ふ)美(み。び)國。不(フ・二。フウ・奉。附。府ブ・。フツ・。ホチ・)彌(ミ・美。水。曲。回。神。霊。ビ・美。弥。備。傍)國。不彌(二美)國は、二つ目の、再びの、美しい国の意味か。二番目の開拓地であろう、だから道路がある。
東行至不彌國百里 有千餘家。
伊都國から東の道百里(6キロ)で不彌國に至る。千餘家有り。
伊都國から不彌國は、行=道路がある。

投馬國?投(トウ・。倒。討。淘。闘。祷。稲。踏。纛。ズ・)馬(マ・魔。真。間。磨。摩。澗。バ・メ・)國
南至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸。
伊都國の南投馬國に到着。帯方郡からの常用旅程は、水行二十日。五萬餘戸ばかり。
「自女王國以北 其戸敷道里可得略載」と後述され、投馬國は「自女王國以北」なのは明白。帯方郡からの常用旅程以外の解釈、「水行二十日」は、不適。
 伊都國・郡使往來 常所駐(郡使の往来では、常にここにとどまる)と有り。また往来は、度々後述もされており、頻繁にあった。「其行來渡海詣中國 恆使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰」「渡海する中國詣のその行來には、常に一人、頭髪を櫛で梳(くしけず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを名づけて持衰(じさい)と為す」と航海の詳細が後述されているように、「對馬國・・・乗船南北市糴」、「一大國・・・亦南北市糴」と、島民が日常の交通に用いている今回の安全水行ルートとだけでなく、厳しいが速い、水行主体(後述の、皆臨津捜露)の常用ルートがあることを明解に語っている。
 ここで常用ルートの旅程を記載し、次の倭国周旋ルート旅程と対比、理解を明快にした。

邪馬壹國?邪(ジャ、シャ、ヤ)馬(マ、バ、メ)壹(イツ)國
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸。
投馬國南、邪馬壹國に到着。ああ終に女王の居る都に着いた、帯方郡から、水行十日陸行一月は長かったなー!七萬餘戸ばかり。
注・「之」は、・・・に至る。「所」は、場所、住所。「都」は、みやこ、ああ、感嘆を表す言葉。
 常用ルートなら水行二十日の旅程。「魏志倭人伝」に採録なので、韓国陸行倭国周旋特別ルート、水行十日陸行一月の、倭国周旋旅程記載となった。「之」、「所」、「都」、の無検証、読み違いが混乱の原因。初心に帰り辞書を繰れば判明すること、原点回帰がいかに大事か、物語って余りある。「都」と到着の感動を掛詞にしたのだ。東大と京大の邪馬台国論争は、原典無検証、検証回路皆無、空論の証明でもある。
 「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國」と後述され、倭國最南端は女王國を指示している。
七萬餘戸は、あま(海)(漁業)とあま(天)(農業)の民。
其餘旁國遠絶?
 自女王國以北 其戸敷道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳女王国より北は、その戸数、道里を簡略に記載しえた。そのほかの旁国は遠く険しく、詳細は得られない。
次有・ 斯馬 己百支 伊邪 都支 彌奴 好古都 不呼 姐奴 對蘇 蘇奴 呼邑 華奴蘇奴 鬼 爲吾 鬼奴 邪馬 躬臣 巴利 支惟 烏奴 (注・次有と国は、略記) 次有奴國(・・・つぎに奴國有り)。
此女王境界所盡
これが、女王の勢力の及ぶ範囲。

 女王国の位置から推察すれば、奴國は、女王国の北で接していることになり、伊都國から「東南至奴國」と合致。また、上記「其餘旁國遠絶」とあるが、南は「其南有狗奴國」、西も「其山有丹」と記載されている。「自女王國以北 特置一大率 儉察諸國」と後述され、最南端は女王國と語っている。上記「其餘旁國」は、女王国北(略載以外の北)、北東、東の河川流域各国となる。
注・1784年、博多の志賀島で発見された「漢委奴国王」金印にも、後述の「狗奴(玖瓊)國」にも、上記にも、「奴」は数多である。「奴」は「瓊」(光輝く玉、連ねて首飾りにする)。「瓊。ぬ」は、中国語「國」伝来以前の、「集団、族、国」を表す、日本原語の一つ、南方系原語の可能性が高い。「魏志倭人伝」は中国風に翻訳し、皆「國」を付しているが、当時の倭は、「瓊」から「國」への過渡期で、「國」呼称は未定着ではなかったのではないか。

狗奴國?狗(ク)奴(ヌ)國。クヌ國は玖(美しい黒色の石、九の大字)瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする)國が、正当。意訳すると、(九つの川の国々から成り立つ国)となる。
其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王
邪馬壹國の南狗奴國有り。男子を王と爲す。其の官、狗古智卑狗有り、女王に屬さず。

郡至女王國?
自郡至女王國 萬二千餘里
帯方郡南海岸自り女王國に至る、一萬二千餘里(720キロ)。
注・帯方郡南海岸、現在の黄海南道南岸。
注・佐賀県吉野ヶ里遺跡は長期間にわたって繁栄した集落であり、末期が邪馬台国の時代と重なる。

邪馬壹國などの表音と表意?方言考慮があるが、指針として試行。
○邪馬壹國表音に該当する読み
邪(ジャ・闍。邪。社。シャ・闍。邪。社。ヤ・輻)馬(マ・真。魔)壹(イツ・厳。稜。斎。稜威)(イン・)國。
意味・邪(よこしま。有害なこと)。闍(うてな。二階になった城門。城の外ぐるわの内側にあるまち)。社(神社。土地の守護神)。輻(多くのものが集まる)。真(真実)。魔(まもの)。
イツ・「厳・稜威」尊厳な威光。斎(い)み浄(きよ)められていること。食物などが威勢良く繁茂すること。広辞苑。イツ・稜(おごそか)。イツ・斎(ものいみ)。イツ・稜威(いつ。りょうい。いつえ。みいず。みいつ)きわだった神霊の威光のこと。天子の威光。
表意
邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、闍真(イツ・厳・稜・斎・稜威)國
邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、社真(イツ・厳・稜・斎・稜威)國
邪馬壹國(じゃまいつ。しゃまいつ)國は、邪魔(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
邪馬壹國(やまいつ)國は、輻真(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
邪馬壹國(やまいつ)國は、輻魔(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
?邪馬壹國(シャマイツ)國は、シャーマン(イツ・厳・稜・斎・稜威)國。
○卑彌呼 表音に該当する読み
卑(ヒ・日。霊)彌(ミ・水。海水。神。霊。ビ・)呼(コ・子。ク・)。
彌呼(ミコ・巫女。神子)。
表意
卑彌呼(ひみこ)は、(ヒ・日。霊)(ミ・水。海。神。霊)(コ・子)。
卑彌呼(ひみこ)は、(ヒ・日・霊)(ミコ・巫女・神子)。
○壹與 表音に該当する読み
壹(イツ・厳。稜。斎。稜威)與(ヨ・与。予。世)
表意
壹與(いつよ)は、(イツ・稜威・稜・斎・厳)(ヨ・与・予・世)。
○「漢委奴国王」金印。1784年、博多の志賀島で発見された。表音に該当する読み。
漢(カン)委(意味・まかせる)(イ・五。五十。斎。畏。夷。威。偉)奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする)。ド・」国王。
表意
漢(カン) 委(イ・五。五十。畏。夷。威。偉)奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする」国王。『漢・(五。五十)瓊(光輝く玉)国王』
漢(カン)委(イ・まかせる) 奴「ヌ・瓊(光輝く玉、連ねて首飾りにする」国王。『漢委・瓊(光輝く玉)国王』
丹(丹砂、辰砂)
 丹(丹砂、辰砂)は硫化水銀鉱。水銀と硫黄からなる。倭の水銀鉱は中央構造線沿い、九州西部鉱床群・佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市、九州鉱床群・大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附、に産出する。
 血の色でもある朱、これは、活力と蘇生、死との対決、死霊封じ、太古の人々は朱を呪術具としたのである。葬る遺体に施朱をする風習があった。再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。・・・施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった」。
 朱丹を身体に塗るというのは元来、中国の風習にもあった。丹沙は、殷代において、朱の顔料としてト骨、王戈、壁画に記されたもの、清め、防腐、邪よけとして遺体にふりかけられたものがあり、秦漢時代においては道家により、精神安定あるいは長生の薬として用いられていたとされる。
 中国の水銀鉱は、砂金に混じって辰砂が存在した漂砂鉱床で、山海経の丹粟に相当し、産出地が10ヶ所挙げられていた。先秦時代の水銀鉱は、湖北省荊州、陝西省南山、四川省水立口陵、甘粛省槐江山が代表とされ、史記、貨殖列伝によれば「巴・蜀で丹沙を産する」とあり、また、「丹沙を重さにして千斤を一年間に取引する人々は年に二十万銭の収益をうる」とされた。どうやら秦漢時代に戦費調達や道家の錬丹術ブームにより、大量に消費され、随の時代には日本から輸入される事態となっていた。3につづく

3淀姫与止日女は与と卑弥神社卑弥子墓は本庄神社壹与墓は与賀神社

2009-03-13 18:21:44 | Weblog
3淀姫与止日女は与と卑弥神社卑弥子墓は本庄神社壹与墓は与賀神社
 辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。祭神は丹生都比売神で、辰砂の産出を司る女神である。丹生都比売の祭祀には丹生氏があたった。中国で枯渇した水銀鉱を求めて呉、越あたりの技術集団が渡来し、丹生氏がとりこみ開発した。後に秦氏がこの役割を担う。丹生氏は水銀製錬・鍍金の技術を持っていなかった。この技術を持ち込んできたのは秦氏である。
 また、丹沙は船舶用塗料として海人族の必需品ともされている。丹には塩と同じく防腐作用がある。(地質ニュース351号)(丹生の民俗;丹生都比売伝承)(海人の藻塩;海人の國)。
特定してみよう、もちろん海岸線は今より上流である
狗奴國は、熊本長崎両県の、有明海に注ぐ河川流域の国で、有明海海洋民でもある。北限は熊本県境より北。
邪馬壹國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川下流域の国で、北は投馬國、奴國と接している。(其山有丹)山があり丹がある。有明海海洋民でもある。当時は平野が尽きたであろう熊本の山、福岡県境界隈が南限。
投馬國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国で、南は邪馬壹國、北は伊都國と接し、東は奴國と接しか?
奴國は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国で、南は邪馬壹國と接している。
伊都國と不彌國は、佐賀福岡両県の、有明海に注ぐ河川、平野部の上流域。
「其餘旁國」は、佐賀福岡両県の有明海に注ぐ河川、中から上流域の国。博多湾に注ぐ河川流域の国は、現資料では特定できない。
邪まいつ國とクヌ(玖瓊)國の争いは、有明海、水稲、海洋文化圏の、覇権争いと言えよう。
 末盧國は伊万里か唐津か?伊都國、不彌國、投馬國、奴國、邪馬壹國、卑弥呼の墓は何処か?地勢図等を参考に、机上で想定は出来るが、特定は現地踏査が決め手。現地の皆さんは挑戦してみてください。鍵は水稲栽培。かなりの確立で特定可能。
発見実証へ
 水稲栽培は水が命。国の起因水稲文明は、川と平野を無視しては語れない(文系実技無き記憶機械の学者は、皆これを無視し、狂奔した)。古代の河口は現代よりも上流、つまり現代の河口に発展した都市部よりは上流に、水稲文明は開かれた(吉野ヶ里遺跡)。古今、河口に氾濫は付きもの、初期水稲栽培は、水を高低管理し易い上流と考えるのが常識。水の高低管理が進化し下流に拡大したが河川氾濫で再び上流へ、上流下流行きつ、戻りつし、水稲文明を拡大した。つまり、河口の遺跡より、上流の遺跡が古い。陸稲(個人)から水稲(集団)へ、稲作は山から麓へ下りてきた。奴國二萬餘戸、投馬國五萬餘戸、邪馬壹國七萬餘戸は、食料確保の田畑や海があり、まかなえる食料を所有していることを意味する。食料確保が人工増加となり、人工増加が、さらなる食料をもとめる南下開拓に、拍車をかけた。前記戸数は、この事を物語っている。
遺跡は、都市化が進み開発されてはじめて発見される。未開発地の遺跡いまだに未発見は当然のなりゆき、遺跡多少で断定する従来の学問は間違い。都市化が進み開発され発見された、現代の河口部の遺跡は、氷山の一角、上流には、更に古い膨大な遺跡が眠っている。長崎自動車道は山、南の平野であったならと惜しまれる。
 国は忽然とは生まれない。起因過程を経て誕生する。論理回路欠落の仮想現実界は、この現実界の常識を無視し暴走、空論がはびこった。
 弱肉強食の戦国時代を隠蔽し、日清日露大東亜戦争起因過程を、論理的に検証せず、平和な時代を侵略し、破壊した極悪日本と、なんと64年間も条件反射で、オウムがえし。まさしく仮想現実界は論理回路欠落、人間性喪失の、虚実無検証で記憶する、単なる記憶装置である。火の無いところに煙は立たない。誰も戦争などしたくない。調べれば直ぐ分かることなのだ。そして、辞書を繰れば即座解明の、壹(いつ)と臺(たい)、女王之所都、これすらも調べなかった。まさに無検証そのもの、単なる記憶装置だ。
 仮想現実界の教授、作家、歴史学者は、間違いだ改竄だと称し著者陳寿を冒涜、言葉と文字のあいまいさ無責任をフル活用、傍若無人の愚行を未だに続けている。著者陳寿冒涜は、おのれの学問も、そんな類のものであることを自白していることに他ならない。
 「三国志魏書東夷伝倭人条」は、滅びた蜀の国の人陳寿が、後世に遺す正史として書いたものである。正史は末代まで遺る、間違いは、己のみにとどまらず、末代の己の子孫の汚名ともなる。正に諸刃の剣。自らの名誉と自らの子孫の名誉を懸け、乾坤一擲の思いで陳寿は書いた。私はそのようにしか思えない。肩書でもてあそぶ金儲けの輩と、乾坤一擲の陳寿。迫力、次元が異なる。(注・聞き書きの戸数や国名や国の数は、誇大捏造の可能性はある。陳寿の罪ではない)
 真実史観は東大と京大の原典無視の邪馬台国論争と、仮想現実界の先人愚弄をあらわにし、文系高学歴の正体、条件反射でオウム返し、単なる記憶装置と暴露した。正に、検証回路皆無を証明して余りある。日本の文系仮想現実界は、肩書が墓標の墓場である。原典を批判し無視の前に、原典の徹底検証が学問の初歩で常道。学徒なら丸暗記などせず、シュリーマンを鑑とすべき。真実史観はこれに基づいただけである。ネチズンの皆さんも常道に基づけば、間違いなく続々と新発見可能である。そして、東大と京大の学問は、初めに結論有りで、学問ではないことに皆気付くはずだ。
 学問は仮想現実界だけの、慰み物ではない。肩書(墓標)作成の道具ではない。実事求是で役立てるものだ。手弁当での、ネチズンの学究姿勢こそが、学問の原点である。文系心ある志学の徒は、原点回帰し、学問に帰れ。
邪馬壹國のその後真実史観の検証
 検証は、佐賀市大和町川上の、与止日女神社(河上神社)から始まった。河上神社は6世紀創建で、祭神は、與止日女命(よどひめのみこと)で旧県社。旧社号は河上神社で、與止日女神社と社号変更は最近のこと。地元では、「よどひめ」さんと呼称されており、肥前国一宮(古代末期から、中世初頭にかけて発生した社格)。一宮呼称は、千栗神社(祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后)と争った、とある。旧社号河上神社は、川神(かわかみ)神社で、與止日女(よどひめ)は、「與(壹與)と卑弥(卑弥呼)」「与と日水」で、はないかと推定し、よどひめ神社を、1:3万の地図と神社事典、神社名鑒で検証し、年表で変遷を追った。詳細は稿を改めるので、ここでは割愛する。
 
246~247年この頃卑弥呼死す。墓を作る。
247年(正始8年)卑弥呼宗女(卑弥呼と同じ血筋)壹與(いつよ)13歳を、王とする。
266年(泰始2年)『晋書』起居註に倭の女王の使者が朝貢したとの記述。この女王は壹與(いつよ)と考えられる。
壹與(いつよ)死す。墓を作る。
 以後起こった争乱と天変地異を鎮めるため、平和な時代を作った壹與と日水子を邪馬壹國の守り神とし、壹與と日水子の社を、信奉する子孫が重要な川沿いに祀り、與と日水(よとひみ)社とした。
與と日水(よとひみ)祭神神社
嘉瀬川流域
◎淀姫神社。佐賀市富士町上無津呂「上無津呂川河畔(嘉瀬川最上流)」。淀姫「與(壹與)と日水(卑弥呼)」神社は、本流、支流合流部に鎮座している。文久2年(1863)の棟札に1350年祭をとりおこなったと、記録にあるので、513年創建と考えられる。旧郷社
 上無津呂川は、雷山(953.3)が水源。上無津呂川は、支流五つが合流し神水川ともいう。上流の、本流と支流はあわせて六つ。「雷山」「上無津呂川」表意は、「来山」「神六つ路川」と推測できる。神水川は、嘉瀬川(古場川)と合流し嘉瀬川となる。嘉瀬川と今はなっているが、表意は川神川、ではなかったか。上流下流にかかわらず、ダム、発電所名は川上で、下流景勝地名は川上峡である。
◎淀姫神社。佐賀市富士町古湯(貝野川合流河口部河畔)。旧村社。資料無し。
◎河上神社(前出の與止日女神社)「よどひめ」さん。佐賀市大和町河上。欽明天皇25(564)年創立とある。最後の支流が合流し終えて、分流する直前の嘉瀬川河畔「景勝地河上峡」に鎮座している。
◎淀姫神社。佐賀市三日月町堀江(祇園川河畔で、嘉瀬川合流河口。嘉瀬川下流)資料無し。
◎淀姫神社。佐賀市川副町福富。旧村社。資料無し。
◎与賀(よか)神社(與止日女神奉斎)。佐賀市与賀町。
 「神社名鑒」欽明天皇25(564)年創建し、與止日女神大明神と称したとある。旧県社。
 「ふるさとの文化遺産・佐賀県・人文社」欽明天皇26(565)年に、佐嘉郡小津西郷の塚原大明神を遷して祀ったと伝えられるもので、初めは塚原大明神と称したが、朝廷より、與止日女大明神の神号を賜り、勅願所となったと伝えられる古社。祭神は豊玉姫命のほか、七柱の神を祀っている。
◎本庄神社(與止日女神奉斎)。佐賀市本庄町。本荘大明神とも称す。昭和38(1963)年、鎮座1400年祭がとりおこなわれた(563年創建)。佐嘉郡本荘妙見山淀姫大明神が、大塚妙見社において、示現したともいう。旧郷社。
 嘉瀬川は川上峡下流から放射状に分流し、佐賀平野を潤している。日と水が頼りの水稲栽培、「川神」呼称、河畔の祭神「よどひめ(與と卑弥)(與と日水)」さんは、得心できる。

その他の與止日女神奉斎神社
◎野波神社。佐賀県神崎郡三瀬村。旧村社。
◎淀姫神社。佐賀県武雄市朝日町。旧村社。
◎淀姫神社。佐賀県武雄市岩本町桃ノ川。
◎河上大明神(淀姫神社)。佐賀県伊万里市大川町大川野。河上大明神だったが、明治に淀姫神社に改号。「松浦記」に欽明天皇25(564)年創立とある。旧郷社。
◎豊姫神社。佐賀県伊万里市松浦町桃ノ川。旧村社
◎淀姫大明神。佐賀県伊万里市松浦町境川。
◎淀姫神社。佐賀県伊万里市黒川町黒塩。
◎淀姫神社。佐賀県西松浦郡有田町広瀬。
◎豊玉姫神社。佐賀県嬉野市下宿。旧郷社。
◎河上神社。佐賀県藤津郡平町。旧村社。
◎淀姫神社。長崎県松浦市示佐町。欽明天皇25(564)年鎮座式。旧郷。
◎淀姫神社。福岡県三池郡高田町江浦。旧村社。
◎伏見神社。福岡県筑紫郡那珂川町。旧村社。
◎平川淀姫神社。熊本県菊池大津町。旧村社。
 長崎県松浦市、佐賀県伊万里市、有田町、武雄市、嬉野市、小城市、佐賀市大和町、佐賀市、神崎市、福岡県三池郡高田町と地図に記載。邪馬壹国が現出した。まさに、邪馬壹国のルーツと勢力範囲が、征服と社号変更の嵐の中、残ったのだ。
◎与杼神社。京都市伏見区淀本町。旧郷社。
372年 369(泰和4)年百済王七支刀をつくり、372年に倭王「旨」に贈った。国王名一字の時代始まる。
391年広開土王(好太王)碑文。「倭、辛卯の年(391年)を以って来り、海を渡り百残、○○、新羅を破り、以って臣民と為す」
4世紀海神(わだつみ)神社対馬に鎮座とある。豊玉姫が祭神。国王名一字の王の先祖が創建したのだろう。対馬伊呂波は50音の異称。対馬の国人がこれによって梵音を伝えたという。
413年(義熙9年)の倭王讃の中国への朝貢開始。以後、珍・済・興・武まで12回の朝貢(倭の五王)。朝貢の目的は、征服した半島の勢力維持のため。
502年倭王武朝貢。
 與と日水(よとひみ)から淀姫、河上、河上大明神、与賀、本庄、野波への痕跡無き社号変更は、国王名一字の王に征服され成されたものだろう。旧号は、與と日水(よとひみ)を暗示して余りある。社号変更しているので、国王名一字の王は、佐賀県の腰岳産黒曜石の海洋民がルーツではなく、大分県姫島産黒曜石の海洋民がルーツか、隠岐と脇本(秋田県)産黒曜石の海洋民がルーツで、北部九州河川の水稲栽培地を背景に有した、湾岸海洋民主体の国の王であろう。「魏志倭人伝」對海國(對馬國)の北島記載無し、末盧國官記載無しの理由は、他国ではあるが(狗邪韓國を有しているので、全盛時は領土の可能性が高い)、当時は友好国であったと、合点がいく。以後の変遷から推察すると、「魏志倭人伝」記載の邪馬壹國は末期であった。シャングリラ(桃源郷)佐嘉で農耕民と化し、水稲一大王国を築いたが、同時に武力を失った。騒乱の地北部九州で、ひたすら武力をみがいていた海洋民主体の王に敗れたが、真相であろう。
528年磐井の乱。大和朝廷に磐井は切られた。九州王朝の黄昏。
 豊姫、豊玉姫、伏見、平川への社号変更、豊姫、豊玉姫などの祭神追加は、大和朝廷征服以後のことだろう。◎淀姫神社(佐賀市)513年創建。◎河上神社(564)年創立。◎与賀(よか)神社(564)年創建。◎本庄神社(563)年創建。◎河上大明神(564)年創立。◎淀姫神社(長崎県)(564)年鎮座式。宇佐神宮も欽明天皇32年(571)鎮座とある、社号変更と考えるのが自然。奥宮に三つの石体を有する宇佐神宮、祭神は比売神(ひめがみ)(地主神)と応神天皇、神功皇后である。
肥国(ひのくに)
712年「古事記」では、「肥(ひ)。佐賀、長崎、熊本」。「筑紫(つくし)。福岡から南西部まで」。「豊(とよ)。九州北東部」。「熊襲(くまそ)。九州南部。宮崎・鹿児島」の4国。
713年肥前国風土記は、肥君らの祖、健緒組が土ぐも(大和朝廷に従わない、土着の民の蔑称)を討ったとき、火が天から山に降って燃えたため、火の国としたと伝えている。元、肥の国。7世紀後半肥前肥後2国に分け、「延喜式」に11郡。国府は現在の大和町付近。
967年「延喜式」内の河上神社(與止日女神社)の比定社。肥前国一宮。
 あま(海)⇒あま(天)⇒ひ(日)⇒天照大神。あま(海)⇒あま(天)⇒ひ(日)⇒ひ(肥)⇒ひ(火)。と継承された。

壹與(いつよ)と卑弥呼(日水子)の墓
 佐賀県の弥生時代の墓は、甕棺や箱式石棺などを埋めた上に数個の支石を置き、その上に巨石を載せた特徴的な形式である。神崎郡脊振村や唐津の支石墓(ドルメン)は名高い。古墳は、佐賀平野一帯や、伊万里唐津湾沿岸で800余り発見されたが、ほとんどが破壊され、残っているのは少ない。「ふるさとの文化遺産・佐賀県・人文社」とある。「與と日水」を「與止日女」として奉斎した子孫なら、破壊されるような墓には決してしていないはずだ。まず、神社の起源をおってみよう。
百科事典マイペディア・広辞苑・古語辞典
石神
 神霊が降臨する石。磐座(いわくら)・磐境(いわさか)や、超自然力をもつという石の信仰は古く自然石を神体とする神社は多い。また陽物に類する石を(しゃくじん)、(さごし)などと呼び、安産性病の治癒、雨乞いなどを祈願する例も各地にみられる。依代(よりしろ)が人間である場合を尸童(よりまし)という。
尸童(よりまし)。
 神霊の依代(よりしろ)としての人間。依座とも。清浄な生活をする童男・童女の場合が多く、祭礼の場合などは着飾って行列の中心となる。また、人間を馬に乗せて尸童とすることもある。いずれも神に魅せられた姿とされる。古くは託宣が尸童の口から語られた。また、童児に限らず、成年男女が立てられたこともあった。
依代(よりしろ)
 神の依りつく物をいう。神霊が降臨して、その意志を伝えるためには憑依(ひょうい)体を必要とするとの信仰に基づく。山、岩石、樹木、御幣、動物、人間などがあてられる。神社では普通、依代を霊代(みたましろ)と呼び、神像、鏡、御幣、石などをあてる。
磐座(いわくら)・磐境(いわさか)
 神社の原始的斎場。自然の岩石、またそれに多少の人工を加えたもので、そこに神を招いてまつった。高天原のそれが天津磐境であり、その岩石が扁平で神座にふさわしいものを磐座という。一説には死者を葬った場所に置いた石が起源であるとされ、降臨石・陽向(ようご)石なども磐座の一種という。今もこの形の神社があり、本殿のないものを普通とする。「日本書紀」によれば、天孫の座を磐座とし、磐境は結界(けっかい)・神境の意となっている。
神籬(ひもろぎ)。
 そこに神霊を招き、祭祀の対象とするために設けられたもの。清浄な地にある常緑樹や清浄な地にサカキ(榊)を立てたものと推察される。
榊・賢木(さかき)
 境(さか)木の意か。ときわ木(常緑樹)の総称。特に神事に用いる木をいう。ツバキ科の常緑小高木。葉は厚い革質、深緑色で光沢がある。古来神木として枝葉は神に供した。ヒサカキも同様に用いる。古くはシキミなども含めてサカキといったらしい。(注・佐賀の神社にはクスノキ(クスノキ科の常緑高木)の巨木が実に数多だ。最初の榊は、ときわ木(常緑樹)の、クスノキではなかったか)
祠・叢祠(ほこら)
 ホクラ(神庫)の転。神をまつる小やしろ。
社(やしろ)。
 百科事典:天神地祇を鎮祭する殿舎。語源的には屋代であり、斎場をもって殿舎に代える意。
 古語辞典:神が来臨する所。古代では、地を清め臨時に小屋などを設けて、神を迎えたという。
 広辞苑:屋代(やしろ)の意。神籬(ひもろぎ)を神霊の来臨する屋の代わりとする意。神の降下する所。神をいわい祭った斎場。後世、神社。
神社
 磐座(いわくら)・磐境(いわさか)のような神聖な場所に、神籬(ひもろぎ)を設けて神をまつったものと考えられる。秋の豊年祈念と、秋の収穫感謝の祭りが中心であった。
古墳時代
 弥生時代についで、ほぼ三世紀末(卑弥呼、壹與の時代に該当)から七世紀に至る。ただし、土盛りした墓は弥生時代に始まり、古墳時代以降も存続。
神社建築
 神を祭るための建築で、本殿、拝殿、舞殿、祝詞舎(のりとや)、鳥居などからなる。磐座(いわくら)・磐境(いわさか)・神籬(ひもろぎ)を前身とし、おそくとも古墳時代(三世紀末)には存在したと考えられる。

卑彌呼の墓の大きさ
「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩」「この時卑彌呼は既に死去しており、立派な盛り土の墓を作る。径(直径)は百余歩「1里(60m)/300が一歩。0,2m×百余=20数m。漢字源」。径(直径)は20数mである。
卑彌呼と壹與(いつよ)の墓は?
 前記のように、与賀(よか)神社本庄神社は社号も淀姫と異なり、縁起も特異な二社である。場所も直線で1350メートルと非常に近い。資料不足ではあるが、あえて想像力を喚起し特定すれば、与賀(よか)神社は壹與(いつよ)の墓でやしろ(社)。元の呼称は與ミヤ、與社、與神社。本庄神社は日水子の墓でやしろ(社)。元の呼称は本ミヤ、本社、本神社または日水ミヤ、日水社、日水神社。分社され、與と日水社、與と日水神社となったが、政変で改号。度重なる改号を余儀無くされたが、隠れ「與と日水」として現代に至った。
現資料ではここまでが限界。仮説から真理へ。残るは、発見による実証のみである。更に詳しくはネチズンの力をお借りしたい。また下記に対訳してあるので、論理的に果敢に挑戦してほしい。
シュリーマン(ドイツの商人、後に考古学者。1822~1890)貧しい牧師の家に生まれ、大商人として財を成した後、トロイヤ、ミュケナイなどの遺跡を発見した。著書自伝「古代への情熱」は著名。
 ホメロスの叙事詩トロイヤの物語を、単なる創作物語として一笑に付し、当時の学者は誰一人顧みなかった。シュリーマンただ一人、少年時代に愛読したホメロスの世界を信じ、「イーリアス」「オデュッセイア」を疑わず、ダーダネルス海峡のほとりのトロイヤの遺跡を、1870年(48歳)に自費で発掘開始し、発見した。
 末盧國は伊万里か唐津か?伊都國、不彌國、投馬國、奴國、邪馬壹國、卑弥呼の墓は何処か?地勢図等を参考にすれば、川と地形が鍵なので、机上でかなりの想定は出来るが、特定は現地踏査が決め手。現地の皆さんの実証に期待。第一発見者シュリーマンに挑戦してください。鍵は水稲栽培、伊都國、不彌國。そうとうな確立で特定、発見可能。1800年に及ぶ日本文系学者の空論は、現実界の道理で破壊され、2009年真実史観で、陳寿の邪まいつ國は眼前に姿を現した。陳寿は明解、実証は目前だ。2009.1.23.4につづく

4陳寿魏志倭人伝原文と対訳卑弥呼墓は径20数m台与は壹与イツヨ

2009-03-13 18:08:06 | Weblog
4陳寿魏志倭人伝原文と対訳卑弥呼墓は径20数m台与は壹与イツヨ
伊都國不弥國卑弥呼の墓シュリーマンへの鍵
陳寿著「三国志魏書東夷伝倭人条」。通称、「魏志倭人伝」原文と対訳。原文にスペース付加。真実史観訳

倭人在帯方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
 倭人は帯方郡の東南、大海中に在り。山や島に寄り添って国や村を造っている。昔は百余国。漢の時代には朝見する者もいた。今は使節をつなぐ所30の国である。

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
 帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、たちまち南たちまち東と韓国を通り、倭の北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。

始度一海千餘里 至對海國(對馬國) 其大官曰卑狗 福曰卑奴母離 所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
 一海を渡り始めて、千余里で對海國(對馬國)に至る。そこの大官は卑狗という、副は卑奴母離という。ここは離れ島である。領域の距離は四百余里ほど。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の小道のようだ。千余戸あり、良田は無く、海産物を食べて自活し、船に乗り、南や北の倭国の市に出かけ、米や穀物を求めている。注・方角記載がないのは、「乗船南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。

又南渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耗田猶不足食 亦南北市糴
 また、南に一海を千余里渡る。名を瀚海という。一大國(壱岐)に至る。ここも官を卑狗という、副も卑奴母離という。領域の距離は三百里ほど。竹や木が群生している林が多い。三千ばかりの家がある。田畑らしきものはある。田を耕してもなお、食べるのには不足。ここもまた、南や北の倭国の市に出かけ、米や穀物を求めている。注・方角記載がないのは、「亦南北市糴」の常用ルートで、当時の人の常識が理由と考えられる。

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沈沒取之
 また、一海千余里を渡る。末盧国に至る。四千余戸あり。浜、山、海に暮らしている。草木が盛に茂っており、前を行く人の姿が見えない。上手に魚やアワビを捕り、水の深浅にかかわらず、皆が水中に潜って、これを採取する。注・?末盧國だけが、官記載無し。

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬 女王國 郡使往來 常所駐
 東南に陸行五百里。伊都国に到る。官は爾支という。副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸有り。代々の王は、皆、女王国の統治下に属している。郡使の往来では、常にここにとどまる。

東南至奴國百里 官曰兕(じ)馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸
 伊都国東南、百里で奴国に至る。官は兕馬觚という。副官は卑奴母離という。二万余戸有り。

東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
 伊都国東の道、百里で不彌国に至る。官を多模という。副官を卑奴母離という。千余家有り。

南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
 伊都国南、投馬國に到着。帯方郡からの常用旅程は、水行二十日。官を彌彌という。副を彌彌那利という。五万余戸ばかり。

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
 投馬國南、邪馬壹國に到着。ああついに、女王のいる都についた!帯方郡より水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。次は彌馬升という。次は彌馬獲支という。次は奴佳鞮という。七万余戸ばかり。

自女王國以北 其戸敷道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
 女王国より北は、その戸数、道里を簡略に記載しえた。そのほかの旁国は遠く険しく、詳細は得られない。

次有斯馬國 次有己百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國
次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國
次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 
次有り 斯馬 己百支 伊邪 都支 彌奴 好古都 不呼 姐奴 對蘇 蘇奴 呼邑 華奴蘇奴 鬼 爲吾 鬼奴 邪馬 躬臣 巴利 支惟 烏奴 つぎに奴有り。

此女王境界所盡
 これが、女王の勢力の及ぶ範囲。

其南有 狗奴國 男子爲王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王 
 女王国の南、狗奴国有り。男子を王と為す。其の官、狗古智卑狗有り。女王に従属せず。

自郡至女王國 萬二千餘里
 帯方郡より女王国までの里程は、一万二千余里である。

男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國 皆自稱大夫 夏后少康之子封於曾稽 斷髪文身 以避蛟龍之害
 男子は大人も子供も、皆顔と身体に刺青をしている。古より、その使者中国を詣でると、皆、大(ダイ、タイ、タ)夫(フ、フウ、フ、ブ)と自称した。夏后(夏王朝)の少康(第六代皇帝)の子が、会稽の領主にされたとき、短髪にして身体に刺青をし、蛟龍(伝説上の怪物)の被害を避けた。

今倭水人好沈沒捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以爲飾 諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差
 今の倭の水人は、水に潜って上手に魚や蛤を採取する。身体の刺青は大魚や水鳥が厭うからである。後世この刺青は、飾りとなる。諸国の文身は各々異なる。左右、大小、身分の尊卑で差がある。

計其道里 當在曾稽東治(冶と改定、原文は治)之東 其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭 其衣横幅 但結束相連 略無縫
 その道里から推測すれば、まさに会稽の東治(冶と改定、原文は治)の東に在る。その風俗、淫らではない。男子は皆頭に何も被らない。木綿で招頭。その衣は横にひろく、ただ互いに連ね結束しただけで、細かな縫製はない。

婦人被髪屈紒 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之
 婦人は垂れた髮を曲げて結び、衣は単被(ひとえ)のように作り、その中央に穴を開け、この衣に頭を突き出す(貫頭衣)。

種禾稻紵麻 蠶桑緝績 出細紵縑緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐡鏃或骨鏃 所有無與耳朱崖同
 粟、稲、紵麻(麻の一種)を種え、養蚕して絹織物を紡ぎ、細い麻、薄絹、綿を産出する。その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)がいない。兵は矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い。竹製の矢は鉄、あるいは骨の鏃で、有無する所は海南島の儋耳や朱崖と同じ。
注・倭の風俗は呉のはるか南からも伝播していることを記載している。擔耳・朱崖は、中国の南海に浮かぶ島、海南島、西はトンキン湾を隔ててベトナムに至る。「武帝の元封元年(BC110年)に略し以って人耳(たんじ)、珠(しゅがい)郡と爲す。民は皆布を服(き)るに單被の如く、中央を穿ち貫頭と爲す。男子は耕農し、禾稻・紵麻を種え、女子は桑蠶織績す。馬と虎亡く、民に五畜有り。山に麈・鹿京(けい・鹿の一種)多し。兵は則ち矛、盾、刀、木弓、弩、竹矢、或は骨を鏃と爲す」(漢書 卷二十八下地理志第八下)。

倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 有屋室 父母兄弟臥息異處 以朱丹塗其身體 如中國用粉也 食飲用邊豆 手食
 倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みんな裸足である。家には部屋があり、父母、兄弟、別々の寝室。朱丹を体に塗るのは、中国の白粉を用いるが如きである。食飲には竹の器や木の器を用い、手で食べる。

其死 有棺無槨 封土作冢 始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 己葬擧家詣水中澡浴 以如練沐
 死者の棺は、槨(ひつぎを入れる外箱)がなく、盛り土をし墓を作る。死去から十余日で喪は終わる。服喪の間は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆、水中で不潔を洗い清める。中国の練り絹を着て沐浴する練沐のようである。
注・北九州地方には甕棺が多数出土している。練沐・中国古代では父母の一周忌に小祥祭を行い、練衣(ねりぎぬの衣)を着て沐浴した。

其行來渡海詣中國 恆使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰 
 渡海する中國詣のその行來には、常に一人、頭髪を櫛で梳(くしけず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを名づけて持衰(じさい)と為す。
注・持衰の習俗はインドネシアやマルタ諸島にも多くみられる。

若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹
 もし、行者の航海が吉善なら、その生口財物を顧み、共す(生口財物に相当する物をさしあげる)。もし、疾病や暴風の災害などに遭ったりすれば、ただちにこれを殺さんと欲す。いわゆる、その持衰の不謹慎が、災いを招いたということである。

出眞珠玉 其山有丹 其木有 (木冉) 杼 豫 樟 楺 櫪 投 橿 鳥 號 楓 香 其竹 篠簳 桃支有 薑 橘 椒 蘘荷 不知以爲滋味 有獮(獼?)猿 雉
 真珠や青玉を産出する。そこの山には丹(赤い結晶、丹砂。水銀の原料、顔料、薬の材料)がある。木は(木冉)、杼(どんぐり)、豫(とち、くぬぎ)、樟(くすのき)、楺(弾力のある木)、櫪(くぬぎ)、 投橿(もちの木)、 鳥號(うごう。中国黄帝の弓の名、クワ科のやまぐわ)、楓香(ふうか。かえでの一種)。 竹は、篠(しの竹)簳(矢竹)桃支有り。薑(ショウガ)、 橘(タチバナ)、 椒(サンショ)、 蘘荷(ミョウガ)の滋味なることを知らず。かり(獮?)をする猿や、黒い雉がいる。

其俗擧事行來 有所云爲 輒灼骨而ト似占吉凶先告所ト 其辭如令龜法火拆占兆
 行來の事を起こすとき、することあり、その風習は、まずうらなう所を告げ、そのたびごとに骨を焼いて、吉凶を占う。その辭は、割れ目を見て兆しをうらなう、令龜法のようだ。

其曾同坐起父子男女無別 人性嗜酒 見大人所敬 但搏手以當跪拜
 倭人の会合、坐起には、父子、男女の区別がない。人性は酒を嗜む。大人に敬意をあらわすときは、ただ手を打って膝を着き、身を屈めて拝むだけである。
其人壽考 或百年 或八九十年 其俗國大人皆四五婦 下戸或二三婦 婦人不淫 不妒忌 不盗竊 少諍訟 其犯法 輕者沒其妻子 重者減其門戸及宗族 尊卑各有差序 足相臣服收租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之
 そこの人々は長命。あるいは百年(50年)、あるいは八、九十年(40、45年)。この国の風習は、大人は皆、四、五人の婦人、下戸(庶民)は二、三人の婦人である。婦人は淫乱ではなく、嫉妬もしない。窃盗をせず、訴訟は少ない。その法を犯せば、軽い者は妻子の没収、重い者はその一門と宗族を滅ぼす。尊卑は、各々に差別や序列があり、互いに臣服し争いはなく、租賦を収めている米倉がある。國國には市があり、双方の有無とする物を交易する。大倭を使い、交易を監視している。
注・真冬と真夏は農閑期。現在の1年を2年としたのではないか。

自女王國以北 特置一大率 儉察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 
 女王国より以北は、特別に一大率を置き、諸国を検察している。諸国はこれを畏れ憚っている。伊都国が常に治めている。國中に於いてあり、中国の州の刺吏のようだ。

王遣使詣京都 帯方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露 傅送文書賜遣之物詣女王 不得差錯
 王が使者を京都(洛陽)や帯方郡、諸韓国に派遣したり、帯方郡からの使が倭に来たばあい、皆船着場に臨み露にし、漏れがないか捜してから、文書や賜遣の物を、伝え送りし、女王に詣るので、間違いがない。

下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傅辭説事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾
 下戸が大人と道路で会えば、退いて草群に入る。言葉で伝える説明事は、うずくまるか、膝まづき、兩手を地に着けて敬意を表す。応答する声は噫(い、あい、え)と言い、これが承諾の意味のようだ。

其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐暦年及共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國 自爲王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傅辭出入 居處宮室樓觀城柵嚴設 常有人持平守衞
 その国、本は男性を王としたが、とどまること七、八十年で倭国は亂れ、互いの攻伐が何年も続いたため、一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼という。鬼道を生業とし、上手に国民をあやつり統率する。年齢は既に高齢で夫はなく、弟が国の政治を助けた。王に就いて以来、まみえたものは少ない。婢(下女)が千人、その側に侍り、ただ一人の男性が食事を給仕し、伝辞の時出入する。居住する宮殿や楼観城柵は、厳重に設けられ、常に武器を持った守衛有り。
注・「鬼道」当時の中国は儒教。反儒教の意味か。神託をうかがい、告げる者(巫女。神子)か。

女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其有東南 船行一年可至
 女王国の東、海を渡ること千余里、また国有り。皆倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺。女王国から去ること四千余里、また、裸国、歯国、在り。また在り、その東南、船行一年(半年)で至る可し。
注・真冬と真夏は農閑期。現在の1年を2年としたのではないか。

參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里
 倭の地に参り訪ねてみると、海に取り囲まれた島、中央の上に在り、隔絶あるいは連結し、倭の地は周旋五千余里ばかり。

景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣都 求詣天子朝獻 太守劉夏遣使將送詣京都
 景初二年(西暦二三八年)六月、倭女王大夫難升米等を都に派遣する。郡に来て、中国の皇帝に貢物をしたいと申し出た。そこで、太守の劉夏は、役人に命じて彼を都(洛陽)に送らせた。

 其年十二月 詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王卑彌呼 帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利奉汝所獻男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝
 その年の十二月、魏の帝、倭の女王に詔書して報じて曰。
「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。帯方太守劉夏が使いを遣わし、汝の大夫難升米と次官都市牛利を送り、男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を献上しに到った。汝の国は遥か遠くにも関わらず、使いを遣わし朝貢したのは、汝のわれに対する忠孝の現れで、我、甚だ汝をいとおしむ」

今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 装封付帯方太守假授汝 其綏撫種人 勉爲考順 汝來使難升米 牛利渉遠 道路勤勞 今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印綬 引見勞賜遣還 
 今、汝を親魏倭王と爲し、金印・紫綬を与える。装封して帯方太守に託して、汝に授ける。それを証拠とし、倭国の人を安心させ、努めて孝順をなせ。汝の使者の難升米と都市牛利は遠きを渡り、旅に苦労した。難升米には率善(そつぜん)中郎将を、牛利には率善校尉という位を与え、銀印綬(青い組みひも)も与える。二人を引見し、慰労してから、記念品を与え帰国させる。

今以地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文綿三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 眞珠 鉛丹各五十斤 皆装封付難升米牛利 還到録受 悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
 そこで、赤いつむぎの布、二頭の竜を配した絹織物を五匹、赤いちぢみ毛の織物を十張、茜色のつむぎを五十匹、紺青の織物を五十匹を与えて、汝がもたらした貢ぎ物の返礼とする。また特に汝には、紺地の模様のついた綿を三匹、斑模様の毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀を二口、銅鏡を百枚、真珠と鉛丹それぞれ五十斤を与える。みな封緘をして、難升米、牛利に託す。帰国したら、録を受けよ。すべての録を国中の人に展示し、国家(魏国)が汝を大事にしていることを知らせよ。そのために、汝に鄭重に、好物を与えたのだ」
注・魏王の法外な喜びと法外な下賜の品である。原文、景初二年は間違いではない。

正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國 拜假倭王 井齎詔賜金 帛 綿罽 刀 鏡 采物 倭王因使上表答謝恩詔
 正始(せいし)元年(二四〇年)、太守の弓遵は、建中校尉の梯儁らを派遣。詔書、印綬を奉じて倭国を詣で。そこで倭王に位を授け、あわせて皇帝の詔書をもたらし、金、しろぎぬ、絹織物や毛織物、刀、鏡などの贈り物を与えた。倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼をした。

其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭綿 絳縑 緜衣 帛布 丹 木(犭付) 短弓 矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
 その四年(二四三年)倭王は、また大夫の伊声耆、掖邪狗など八人をつかわし、奴隷、絹織物、深紅と青の色調の薄絹、綿いれ、しろぎぬ、丹、弓の柄、短弓の矢などを献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を拝受した。

其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
 その六年(245年)、詔を以て倭の難升米に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、帯方郡に託して、これを授けさせた。

其八年 太守王到官 
同八年(247年)、帯方郡の太守王頎(おうき)があらたに任官された。

倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斬 烏越等詣郡説相攻撃(爿犬) 遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢 拜假難升米爲檄告喩之
 倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は、もともと不和。倭国は載斯、烏越らを派遣して、帯方郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。郡は、砦の曹幢史(そうとうし)の張政らを倭へ派遣、皇帝の詔書と黄幢を与え、このかりた力を難升米がおふれにし、告げさとし、これを拝んだ。

卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喩壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 大狗珠二枚 異文雜綿二十匹
 この時卑彌呼は既に死去しており、立派な盛り土の墓を作る。「径(直径)は百余歩「1里(60m)/300が一歩。0,2m×百余=20数m。漢字源」、殉葬するは百余人。あらためて男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人殺した。再び卑彌呼の宗女(卑弥呼と同じ血筋)十三歳の「壹與」を立てる。国中が遂に定まった。張政らは前の回状を使って、壹與を励ました。壹(イツ、イチ、イシ)與(ヨ)は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を派遣し、張政らを送り届けながら、臺(ダイ、タイ、イ。皇帝の居場所)に詣でて、男女生口三十人、白珠五千、大玉の青メノウ二枚、異国の模様のある絹織物二十匹を獻上した。完
HPは2009年3月18日で事情により一旦閉鎖します。めどがつき次第再開しますので、おまちください。真実史観

あの日僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かったgoo

2008-07-12 06:38:48 | Weblog
オーストラリア・カウラ・日本人捕虜1104人大脱走(COWRA BREAK OUT) 
戦陣訓にあらずカウラの悲劇のすべての元凶は朝日新聞捏造記事だ。

 「あの日僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かったーカウラ捕虜収容所からの大脱走」2008年7月8日(火)午後9:00日本系で放送。発案脚本は中園ミホ。伯父の佐藤憲司(87)の証言が基だという。「しんぶん赤旗」(2008年6月22日付「テレビ・ラジオ」欄)報道 カウラ捕虜収容所脱走事件 ドラマ化/「戦陣訓」の悲劇を問う ...

 降伏禁止を命令した極悪軍と蹴落とし捏造、か弱き国民の味方を演じる仮想現実界の道理無視捏造番組。またまた偽善者番組だ。仮想現実界はまさに、秋葉原殺戮者やオウム殺戮者と同類の、無道理の輩の巣だ。日本系にもナベツネが工作員を住まわせたのか。中園ミホも、絵に描いたような無検証無道理だ。軍人勅諭軍法に記載無き「降伏禁止」が、訓に記載ありとは、現実界の道理には無い。検証せずとも現実界の道理があれば、明白なことだ。何度も記載しているが。再度記す。「虜囚は日本国の囚人。虜囚の辱は、日本国の囚人となる辱めだ」

戦陣訓
『第八 名を惜しむ 
 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱(囚人の汚名)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。』

戦陣訓意訳
『第八 名を惜しむ(名誉の尊重) 
 恥を恥として知ることは強い。いつも故郷の人々や家族の名誉を忘れず、ますます奉公にはげんで、生きてる時も、皇軍の兵が法を犯し囚人と成るような辱めを受けず、死んだ時も、罪や過ちの汚名を残さず、恥を知り、名を汚さず、故郷の、戦功の期待に答えるように』 真実史観意訳
 内容は今村均将軍が証言したように、正に「諭したもの」だ。

詳細は下記(憂国の辞書の解析)へ
戦陣訓虜囚の辱真実辞書意味変化改竄証明捕虜解釈辞書が捏造と断定
http://sinzitusikan.iza.ne.jp/blog/entry/548368/

カウラの大脱走 1944年8月5日、午前1時55分、オーストラリア・シドニーの西約320キロに位置するカウラ戦争捕虜収容所で、1104人(約80%が陸軍で、20%が海軍。)の日本人捕虜が一斉に脱走した。日本兵の死者231人、負傷者108人、成功者ゼロ。オーストラリア側の死者4人。捕虜脱走事件は、オーストラリアと日本の両国政府によって長く隠蔽され、事件が公開されたのは、事件から40年後の1984年だ。

 NHK制作の「カウラの大脱走」2005年9月4日に放映された。内容は、カウラ事件の生存者の「証言」を主体に編成したものだ。日本兵の大半は、捕虜となったときに偽名を名乗って入所し、姓名が日本に伝わることを避けたという(捕虜になっての偽名や家族への音信不通は、捕虜は公表されていないので、自分たちだけが捕虜になったのだという、うしろめたさがそうさせた。また捕虜同志の面子もあり、おのずとそうなった。「常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし」(公)に、応えられないことを恥じたからである)。

 戦陣訓を意識せずに平和な捕虜として暮らしていた。ところが、ある日、日本軍の下士官の一群が収容されて来た。一人の下士官が軍人手帳を示し『諸君は捕虜である。戦場に臨む軍人の心得として、戦陣訓には「生きて虜囚の辱めを受けず」と書いてある。生きて捕虜になっていることはこの上なき恥辱である。国に残してきた家族に対しても申し開きができないではないか』と話し始めた。「これは敵につかまるぐらいなら自決しろということだ」とつまみ食い読みし、説明し、皆、戦陣訓に納得し、票決の上決行した、のだという。NHKは戦陣訓原因説だ。

『ウィキペディア(Wikipedia)』の見解 

 士官と兵の信頼関係は厚く結ばれたものであると言う理論に基づき、全体一緒の移送ならば良いが、分離しての移管を受け入れる事が出来ない日本兵はそれを "契機" として捕虜収容所からの脱走を計画する事になる。(以前から計画はしていなかった。) 

 日本人はミーティングで、要求を受け入れるか、反対して脱走をするか の多数決投票を行い、 "移送計画へ協調しない=脱走" となる ('脱走へ非参加' への投票者も居た)
 この際、紙に移送受諾なら○、反対は×として行ったが、当時の集団心理としてのけ者になる、目立つことへの恐怖の心理が投票に強く働いていた可能性を、現生存者は証言。

 「カウラの大脱走」はNHKのように、戦陣訓に責任転嫁だけでは語れない事は確かだ。下記は詳細に語られている「カウラの大脱走」だ。戦陣訓はWGIP解釈。

カウラ (COWRA)―ひそやかに眠る日本の兵士たち
http://www1.odn.ne.jp/kminami/sub16.html

真実史観の検証
 真実史観の検証はこうだ。カウラの1000人余りの日本兵は、戦陣訓を降伏禁止とは思っていなかったので、皆平和な捕虜生活を送っていた。そこへ戦陣訓を降伏禁止とした捏造解釈を信じた下士官が現れ、戦陣訓に白紙の兵士は、洗脳され、自虐し、逃亡が目的ではなく自死目的の、大脱走となったというのが「カウラの大脱走」のあらすじだ。

 捏造解釈を信じた下士官さえ現れなければ、平和に捕虜生活をおくり、皆帰還していた。皆戦陣訓を、降伏禁止とは思っていなかったのが、ここで証明されている。

 捏造解釈の元ネタが、下記の1943年5月31日朝刊朝日新聞捏造記事だ。この記事は1944年7月3日サイパン島守備隊南雲忠一海軍(戦陣訓示達陸軍のみ)中将訓示の元ネタにもなっている。まったくこの記事は罪の巨魁だ。

1942年2月24日 一等飛行兵、22歳の南忠男、日本人としてのカウラの捕虜第1号となる。
1942年8月~1943年1月 捕虜収容所にいた大部分は、ガダルカナル島での日米両軍の死闘後瀕死の状態で収容された兵士である。
1943年5月31日朝刊朝日新聞捏造記事。

アッツ島玉砕
「1943年5月29日 北海守備隊第二地区隊山崎保代大佐発令

 非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り、陸海軍共一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたり 」(注・戦陣訓の虜囚の辱ではない、捕虜の辱めをと、なっている)。

 なお、アッツ島玉砕をつたえる朝日新聞1943年5月31日朝刊には、「一兵も増援求めず。烈々、戦陣訓を実践」との見出しを見ることができる。(谷荻報道部長の談話)」戦陣訓 - Wikipedia

1943年5月31日朝刊朝日新聞捏造記事以後「虜囚の辱=降伏禁止」が、兵士としての旗印「最後まであきらめずに戦う」と結合し、日本軍の一部に蔓延した。


1944年3月23日 佐藤憲司(87才。中園ミホの伯父、原案提供者)捕虜となる。戦陣訓を降伏禁止と解釈していた。
1944年3月~1944年8月 下士官の一群が捕虜となり入所。戦陣訓を降伏禁止とした捏造解釈を信じ、同胞を呪縛。
1944年8月5日午前1時55分 カウラの大脱走(COWRA BREAK OUT)

 「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」を、陸軍刑法第7章 逃亡ノ罪、陸(第77条)海(第76条)軍刑法、敵二奔「はし(走る・逃亡する)」リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役又ハ禁錮二処スの逃亡罪と、混同し、呪縛したのだ。捕虜(職責を果たしたが捕らわれる。不可抗力)と逃亡罪(職責をまったく果たさず逃亡、又は投降)を混同し、帰国しても死刑になるとつまみ食い読みしてしまったのだ。さらに、日本軍人の捕虜数を一切軍が公表していなかったので、自分たちだけが捕虜なのではないかという自虐心が、戦陣訓のつまみ食い読みであおられ「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし」(公)に応えられないことを恥じ、脱走して逃げるのが目的ではなく、自虐し、自損自死が目的の脱走となった。私心(捕虜の辱め)が大脱走の直接の起因ではない。

 つまり、戦陣訓を降伏禁止とは誰も思っていなかった。戦陣訓を読み解いた者が一人もおらず、つまみ食い読みし、捕虜(職責を果たしたが捕らわれる。不可抗力)と逃亡罪(職責をまったく果たさず逃亡、又は投降)を混同し、悲劇となった。

 降伏禁止で無い陸海軍刑法第三章 辱職の罪(部下の兵士ではなく、司令官個人への罰則)、を見逃していた。

第40条司令官其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ敵二降リ又ハ要塞「ようさい(とりで)」ヲ敵二委(まか)シタルトキハ死刑ニ処ス

第41条 司令官野戦ノ時二在リテ隊兵ヲ率イ敵二降リタルトキハ其ノ尽スヘキ所ヲ尽シタル場合ト雖六月以下ノ禁錮二処ス

第42条 司令官敵前二於テ其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ隊兵ヲ率イ逃避シタルトキハ死刑二処ス

 戦陣訓の内容を皆、知らなかったから、つまみ食い読みの間違い〔陸海軍の軍人が空で覚えている軍人勅諭に、義(公)は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ其「その」操「みさお(定めた意志を固く守ってかえないこと)」を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれと述べているのに、私心(捕虜の辱め)で、死ねという矛盾〕に気付かなかったのだ。軍人勅諭にも軍法にも記載無き降伏禁止が、訓に記載は不可能。戦陣訓を読み解いた者が一人でもおれば、皆帰還していた。捕虜収容所という異常下におきた事件とはいえ、なんという悲劇だ。カウラの悲劇のすべての原因は朝日新聞捏造記事だ。この朝日新聞捏造記事さえなければ、全員無事に帰還していた。

 射殺183名、自殺31名、焼死体12名、その他5名の231名の日本兵、オーストラリア兵4名が犠牲者となった。107人負傷 3人の日本人がそのときに受けた傷がもとで、後に死亡。帰還した870名のうち捕虜を名乗り出たもの300余人で、その内カワラ会を結成したのは一割に満たない80人にすぎない(皆WGIP迎合者で軍や戦陣訓に責任転嫁し、責任逃れ)。帰還者のほとんど790人(九割以上)は、つまみ食い読みの間違いに気付き不名誉な行動を恥じて発言無し。ほとばしる名誉を重んじる愛国心「公」が起因の行動だ、そこまで深く国を思い故郷の名誉を重んじ戦った先人の純真、責める子孫など皆無。列強の侵略戦争に斯までして戦へり。

 リーダー等が「民間人には絶対に被害を与えてはならない」と厳命し、民間人にはまったく被害がなかった。二人の日本人脱走兵が疲労と空腹から、近在の農家に救いを求めた際、たった一人で家にいたメイ・ウイアー夫人(May Weir)は少しも動ぜす、紅茶とスコーン・パンを与え、駆けつけた警備兵に対し「あの人たちが敵国人であるかどうかは関係ありません。彼らは何日も飲まず食わずだったのだから、同じ人間として、あの人たちに最低限の食糧を与えるのは当然です」と、ウイアー夫人はこたえ、食事が済むまで引渡しを拒否したという。

 40年後に二人はカウラを再訪し、ウイアー家の農場を訪れて、たいへん親切にしてくれた家族に、お礼を述べたことが後日談として伝わっている。日本兵からにじみ出ていたある種の気配が、ウイアー夫人を促したのだろう。

 「あの日僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」と、先人罵倒した日本系と中園ミホは、子孫としてあるまじき行為で、子孫とは呼べない。特に当事者の佐藤憲司(87才。中園ミホの伯父、原案提供者)は、国賊だ。解釈の間違いはあったが、名誉(公)を重んじての自死行為は事実だ。その戦友を、「僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった」と茶化し、生存者が死者を冒涜するとは、何たる愚者だ。「超大国の侵略者を相手に、名誉を重んじ国を思い、当時の先人はそれほどまで軍民団結し「公」に徹し、資源無き小国日本を護ろうとしていたのだ。その強い思いが私心(捕虜の辱め)などではなく『常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし』の『公』に応えられないことを恥じ、脱走して逃げるのが目的ではなく、自虐し、自損自死が目的の脱走となった」と、歴史の真実をどうして語れない。あの世での戦友の糾弾は覚悟しておくことだ。

 オーストラリアは4名も死亡しているにもかかわらず、日本兵の死者を丁重に葬り、生存者の罪は一切問わず、翌年8月、終戦を迎えると直ちに日本に帰還させている。それは世界各地に抑留された日本兵の本国帰還の中でも最も早かった。同じ兵士として、ある種の、崇高な共感を感じとったからだろう。

 生還者870名もいるのに一割に満たないWGIP迎合者カワラ会。戦陣訓、日本軍に罪をかぶせ、ぬくぬくと暮らしている80人のWGIP偽善迎合者。そのうちのたった一人、佐藤憲司(87才)の偽善者発言を基にした物語だ。全帰還者870名のうちのたった1名(1名/870名)の証言で、ほか869名の帰還者証言は、無視されている。WGIP迎合無き789名の真実の声が隠蔽されている。これは真実ではなく正しく捏造だ。「元兵士の証言(極悪日本軍)」で「極悪日本軍対虐げられたかわいそうな兵士や国民」と、ありもしなかった軍と民の対立を捏造。我々はかわいそうな兵士の味方を演じる、NHK等の工作員の輩のお馴染みの手法である。読売新聞、日本TVにもどうやら工作員が巣くったようだ。

 NHK朝日毎日等に巣くう、工作員のお馴染みの手法「極悪日本軍対、虐げられたかわいそうな兵士や国民」など無かった。戦後、戦犯追及を恐れたマスコミや、鵜呑み識者が米軍に迎合し、「虜囚の辱=降伏禁止」と捏造、先人冒涜をし続けた捏造報道の嵐の中での、日本人成人のとった行動が下記。

 「終戦から7年後の昭和27(1952)年に日本が独立すると、戦犯釈放運動が全国に広まり、当時の成人のほとんどいってもよいくらいの四千万人もの署名が集り、昭和28年に戦犯の赦免に関する決議が国会で、社会党や共産党まで含めて一人の反対もなく決議された」

 ハリー・ゴードンはオーストラリアの作家 で、カウラ事件に長い間取り組んできた。
 「DIE LIKE THE CARP 」(鯉のごとく死ね)Harry Gordon1978年出版「鯉のごとく死ね」というのは、カウラの捕虜の、小城清治が 母親に教えられた言葉で「滝を登る鯉のように勇気を持ち、死ぬときは潔く」という意味からとられ、原題となっている。大脱走(COWRA BREAK OUT)の起因とし著者が原題にした。鯉はまな板に乗せられると、もう身動きしないという意味で。翻訳本題名は「俎上の鯉」 とした。豊田穣訳1979年双葉社。

 「VOYAGE FROM SHAME」(恥辱からの旅立ち)Harry Gordon1994年出版。翻訳本は「生きて虜囚の辱めを受けず」山田真美訳1995年清流出版。(注・マスコミがいかに安易に戦陣訓に結び付けているかがよく分かる。原題「恥辱からの旅立ち」が、翻訳では、WGIP解釈「生きて虜囚の辱めを受けず」となるのだ。内容は推して知るべし)

 「カウラの大脱走」は戦後の日本と同じだ。WGIPでありもしない極悪軍対国民を捏造され、降伏禁止で無い陸海軍刑法や戦陣訓に白紙の日本人は、戦陣訓を、つまみ食い読みした鵜人識者やマスコミに、瞬く間に洗脳され染まってしまった。後に巣くった反日侮日工作員に、日本精神をずたずたにされながら、63年を経た。日本軍(適者生存自衛軍)冒涜者は自虐史観者などではなく、偽善者史観者。国民の味方を装った工作員である。工作員の宣伝など鵜呑みせず、立派な親から授かった頭脳で、陸海軍刑法や手本の軍人勅諭を読み、戦陣訓を読み解き、二度とカウラの悲劇を繰り返してはならない。同胞よ、二度とカウラの悲劇の、轍を踏むなかれ。

 検証などしなくても、手本の軍人勅諭や刑法に記載無き「降伏禁止」が、「訓え」の戦陣訓に存在不可は、現実社会の常識、道理で考えれば分かることだ。今回の放映は、オウム殺戮者や秋葉原殺戮者と同類の、無道理の輩と工作員に、仮想現実界がいかに占領されているかの、証明だ。

 食民治主義凶産主義に世界が征服される寸前に、先人はたった一カ国で立ち向かい、食民治主義と独占貿易を破壊、共産を凶産主義と暴露し拡散防止、人種平等共存共栄、人類の新秩序を創造した。これが真の先人の姿である。

 下記は昭和61年に発見された重光葵の手記である

 「・・・昨日迄軍閥の機関であった新聞は、挙げて過去を清算し、掌を翻すが如く占領軍を謳歌し、軍部及び過去の指導者を攻撃し始めた。他人を攻撃し又は誣「し(事実をねじ曲げる)」ゆることは自分を擁護し、自分の責任を軽くするものと早合点した。終戦直後の昨今の状況ほど情けない日本の姿は又とあるまい」

 現実界物づくりの捏造はご承知のとおり、即、存亡の危機。仮想現実界はこのように捏造がまかりとおり、しかも日本TV記念番組として多数のスポンサーが賛同しての放映である。捏造必滅の物づくり業界のスポンサーがほとんどだ。なんと物づくり業界のスポンサーも捏造の共犯者なのだ。

 63年経てもこのざまだ。なんと情けない日本の姿だ。サミットの席に最初(1975年)から有色人種日本が、なぜただ一カ国着席しているか、立派な親から授かった自分の頭脳で考えろ。大東亜戦争は、体を筆にし流れる血で書いた人類への、先人の遺書だ。真の子孫なら、決して忘却すること無かれ。 

真実史観

戦陣訓虜囚の辱意味捏造無検証コピペ鵜人売国奴の巣毎日朝日NHK日教組解体

2008-05-12 19:33:08 | Weblog
戦陣訓虜囚の辱意味捏造無検証コピペ鵜人売国奴の巣毎日朝日NHK日教組解体

 日本侵略戦争、東條英機自殺、戦陣訓降伏禁止、集団自決軍命令、玉砕、バンザイ突撃、百人斬り、戦場にかける橋、等々検証の結果全て戦後の捏造で真反対が正答と判明した。先生、教授、評論家、小説家、国会議員、新聞、NHK、報道屋、司法界、言論界を信じ、愚民と化していたのだ。正に永野修身の御前会議における予言は適中していた。江藤淳、曽野綾子、指摘に目もくれず、61年間職責者がWGIP無検証で、捏造を撒き散らしていた。唖然呆然が実感であった。まさに勝者が歴史を捏造するのだ。実技界物づくりでの捏造は、即崩壊し消滅が世の習いだ。物づくりで無い実技皆無の言論界では、このように嘘が通用するのだ。実技皆無の言論は空論だ。検証無き言論は正に空論だ。

 言論界での捏造はやりたい放題だ。毎日新聞の報道姿勢を「百人切り」裁判で証言。毎日新聞社発行の昭和史全記録のなかに「百人切りは事実無根」と記述していることを原告稲田弁護士から指摘され、「それは、毎日新聞社の公式見解ではない」と答弁。さらに「新聞に真実を報道する義務はない」と断言した。 百人斬り裁判から南京へ・稲田 朋美・文藝春秋 2007-04 

売国奴コピペ屋・ノーベル贋賞作家大江発言。「僕は日本の戦争犯罪を認める」「『あまりにも巨きい罪の巨塊』の犯人は日本軍」「広島・長崎の原爆投下は天罰のようなもの」「広島・長崎の原爆投下は日本人の責任」「中国などにとっては原爆は救世主だった」 「広島・長崎の原爆投下は天罰だ。日本の悪魔の所業に対する当然の報い」「原爆投下は日本の戦争に究極の責任があり、日本人が人類に対する罪を犯した報いだ」「防衛大学生は恥辱」

鵜人・芥川賞作家石原都知事発言。「東条英機だけは絶対に許せないんだ、『戦陣訓』を作って捕虜になるなという教えを徹底したのは国際法にも違反していたからだ。戦前の日本は天皇を神格化して、いまの北朝鮮よりもファナティック(狂信的)だった」。「あの戦争は軍部の責任。東條英機は絶対に許せない。当時の日本は強権的で今の北朝鮮より酷かった」。「A級戦犯の象徴的存在、かつ開戦時の首相東条英機は、戦犯として収容にきたMPに隠れて拳銃で自殺を図ったが果たさずに法廷にさらされた。彼を運び出したアメリカ兵は、彼が手にしていた拳銃が決して致命に至らぬ最小の22口径なのを見て失笑したそうな」

 物づくりは材料の吟味が始まりだ、ノーベル贋賞大江はソースを吟味検証せずコピペ。石原都知事もソースを吟味せず鵜呑みし、東條や当時の体制を批判し罵倒している。正体は単なるコピペ屋と鵜呑屋だ、識者などと呼べる代物ではない。共通するのは学生時代からマスコミが持ち上げたため実社会経験無し、実技皆無の物書き屋の空論だ。民主党前原副代表も同類だが、丸暗記で記憶した学生時代の知識を金科玉条のように唯我独尊と信じ空論を吐いているに過ぎない。教授教師も同類だ。いわば実技無くペーパーテストで段位を得た柔道屋だ。運転もせずいつも助手席に乗って、福だけつまみ食いしている同乗者だ。運転者は常時禍福運転だ。検証無き論はコピペ論。

売国奴読売新聞渡辺恒雄会長は2006年02月11日(現地時間)、発刊されたニューヨーク・タイムズ(侮日東京支局長ノリミツ・オオニシ)との週末ワイドインタビューの中で、Japan's most powerful media baron(日本の最もパワフルナなメディア男爵)the shadow shogun.(影の将軍)とノリミツ・オオニシ(極端な侮日、親朝鮮で日系カナダ人と称している)にヨイショされての、うぬぼれ成金発言。"I think I can change all of Japan,"「私は、私が日本の全てを変えることができると思う」。ニューヨーク・タイムズ東京支局は侮日朝日新聞と同じ住所。さらに下記のように発言した。

 小泉首相は軍国主義を称賛する聖地(靖国神社)に参拝していると批判。そして東條英機をヒトラーに比喩しながら「・・・小泉、この人は歴史や哲学が分からないのに勉強もしないし、教養もない」と語り、さらに特攻隊に対して下記のように語った。

「・・・日本の右翼は現在、特攻隊を天皇のための自発的な殉教者として称賛する。しかし、特攻隊員が『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったというのは全てうそだ。
・・・彼らは、場の羊だった。誰もがよろめいていた。何人かは立ち上がることさえできず、運ばれて、機関兵達により無理矢理に飛行機に押し込まれた」

 渡辺恒夫1945年、東京帝国大学文学部に入学。同年7月に陸軍砲兵連隊に入隊。同年8月13日除隊。終戦2日前までの、わずか30日程度の陸軍砲兵連隊経歴なのだ。飛行隊でない陸軍砲兵連隊の経歴で、特攻隊の体験を出来る筈など無いし、特攻隊と行動を共にした形跡も無い。語るに落ちている。非生産者は平気で嘘をつく。

WGIP愚民・司馬遼太郎「調べていけばいくほど空しくなってきましてね。世界に冠たる帝国といい気になって、夜郎自大となった昭和の軍人を、つまりは日本そのものを、きちんと描くには莫大なエネルギーを要します。昭和12年に日中戦争が起こって、どろ沼化し、その間にノモンハンの大敗北があり、そしてノモンハンの敗戦からわずか2年で太平洋戦争をやる国です。合理的なきちんと統治能力をもった国なら、そんな愚かなことをやるはずがない。これもまたこの国のかたちのひとつと言えますが、上手に焚きつけられたからって、よし承知したという具合にはいきません(笑)淋しい話になりましたね」 (『プレジデント』96年9月号半藤一利「司馬遼太郎とノモンハン事件」)

 小国日本が超大国ソ連凶産主義、超大国米英蘭仏中豪食民治主義に、戦争を仕掛けたと幼稚な勘違をしている。当事者(下士官)は部分だけ見て全体が見えず、戦後WGIPにすぐ洗脳され愚民化した。風見鶏中曽根もそうだ。永野修身大将や市丸利之助少将は喝破し戦後の有様まで予言している、対比が際立つ。侵略者は日本軍と洗脳された当事者証言は、ほとんどがこの類の、WGIP愚民証言である。司馬史観などではない、WGIP愚民史観だ。売国奴の巣窟NHK朝日毎日は、この証言を針小棒大に報道する。

朝日新聞「虜囚の辱」=「囚人の辱」を、降伏禁止と捏造報道。詳細文末ブログ参照。

 「アッツ島玉砕をつたえる朝日新聞1943年5月31日朝刊には、『一兵も増援求めず。烈々、戦陣訓を実践』との見出しを見ることができる。(谷荻報道部長の談話) 」ウィキペディア「戦陣訓」

 「注・ここで朝日新聞が戦陣訓(虜囚の辱は表に出さず、戦陣訓と婉曲表現しているところが、実に巧妙だ)の内容を降伏禁止と捏造したため、1944年7月3日 サイパン島守備隊南雲忠一海軍(戦陣訓示達陸軍のみ)中将が捏造報道を信じ、下記の訓示(公私混同)となった。アッツ島以後、サイパン、カウラ、沖縄などの自決を戦陣訓起因とするなら、悲劇の原因は、朝日新聞捏造報道だ、戦陣訓ではない。ウィキペディアはこの資料を戦陣訓=降伏禁止の証拠としているが、訓示(公私混同)の元ネタは捏造報道だ。だから(公私混同)下記の訓示となった。戦陣訓は公を訓える目的で作成したもので、私を訓えるためのものではない」

1944年7月3日 サイパン島守備隊南雲忠一、斉藤義次中将連名「サイパン島守備兵に与える訓示」

 「断乎(だんこ)進んで米鬼(べいき)に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず(私)』。勇躍全力を尽して従容(しょうよう)として悠久(ゆうきゅう)の大義(公)に生きるを悦びとすべし。」ウィキペディア最終更新 2008年4月26日 (土) 01:24。

 2007年9月29日、来年度から使われる高校教科書の沖縄戦の記述について、文部省の検定意見の修正を求める沖縄県民集会が開かれた。高校生代表が「・・・私は将来高校の日本史の教師になりたい。このまま検定意見が通れば、わたしは事実でないことを教えなければならない。教科書のたった一文、一言かもしれないが、その中には失われた命と、二度と戦争を繰り返してはいけないという県民の思いがある。うそを真実と言わないでほしい。あの醜い戦争を美化しないでほしい。例え醜くても真実を知りたい、学びたい、そして伝えたい・・・」と絶叫しているシーンをNHKとテレ朝が繰り返し報道していた。超大国侵略者米軍に対し、資源なき小国日本がとり得る最後の手段、適者生存を懸け軍民一丸と化し、「沖縄県民斯ク戦ヘリ・・・」と戦ったのが真実だ。美醜などの言葉で簡単に論ずる問題などではない。高校生は教師の教えた「侵略者を隠蔽し極悪軍対市民と捏造」の嘘を、信じ叫んでいるのだ。先人罵倒の点教育などではなく、なぜ、どうして、こうなったか、一番大事なこと(線=過程)を教えるのが教師の役目だろう。日本は侵略者ではない、侵略者は食民治主義の米英仏蘭、凶産主義のソ連、そして侵略者の傀儡毛沢東と蒋介石だ。人類の敵、食民治主義凶産主義が日本を襲ったのが真相だ。真実に目覚めた時、職責者罵倒は必然だ。

 今後職責者は子孫に糾弾され、冒涜されるのは必須だ。特に教授教師の権威は失墜するのは明白だ。次の時代の宝、子供の教育者が、検証もせずWGPIの録音機と化し、嘘を教えていたのだ。中国韓国への侮日施設見学、土下座修学旅行主催、買われた犬の巣窟日教組は解散し、再生し、教え子に謝罪するのが日本国民としての義務だ。売国奴の巣窟NHK朝日毎日は即刻解体。

 敗戦国の宿命、戦勝国の歴史捏造だ、売国奴以外の職責者は素直に総懺悔し謝罪し終止符を打つのは、日本国民としての義務だ。敵味方戦争なので醜いのは同じ。弱肉強食最適者生存の時代、資源なき小国島国日本が兵糧攻めされ、子孫生存を願い天皇の基、軍民一丸適者生存を懸けて戦ったのは事実だ。検証し証明した。言論界は無視し、反論も無く捏造を撒き散らすのであれば、今後皆売国奴とみなされる。

 63年間職責者がWGIP洗脳者と化した諸悪の根源は、無検証だ。特に文系は知識の記憶量で高学歴となる。咀嚼せず丸暗記しても高学歴者なのだ。知識の記憶量の多少で判断の言論界採用テスト。こうして言論界は、実技なし丸暗記鵜人の巣と化すのだ。人にも記憶容量がある、古びた知識満杯で検証容量の無い人は、単なる知識記憶機無検証の鵜人、歩く事典となる。ノーベル贋賞大江は、単なる知識記憶機無検証の鵜人、正に生きた見本だ。

 実技(一般社会人の常識)があれば、WGIPの矛盾に気付くはずだ。食民治主義が西進し、南北アメリカの征服。東進しアジアの征服。ロシアの東進しアラスカ征服。ロシアの南下征服。凶産主義ソ連の西進南下征服。征服の時代、最適者生存の時代対処のため、資源無き島国日本如何にすれば適者生存可能か、熟慮の末に、小国が超大国に対しての唯一の手段、天皇の基に軍民一丸化を選択したに過ぎない。結果日清日露の超大国相手の適者生存戦争に勝利。

 凶産主義ソ連の傀儡毛沢東との反凶戦争。凶産主義ソ連と食民治主義米英仏蘭の傀儡毛沢東蒋介石と孫文主義筆頭の汪兆銘と日本連合軍の反凶戦争。服従を拒否した資源なき小国島国日本を、食民治主義米英仏蘭は、資源封鎖し兵糧攻めにした。座すれば確実に亡国。要求に応じても、再度資源封鎖されれば、確実にこれまた亡国。目の上の瘤、資源封鎖。最適者生存の時代、資源なき小国島国日本の弱点払拭の選択肢は唯一、資源封鎖する侵略者の食民治からの追放だった。追放し、東亜(食民治)を解放し、独立国家貿易自由化圏、大東亜共栄圏を建設、互いに貿易自由化で資源を確保し、東亜が団結し一丸と化し、侵略者食民治主義と凶産主義と対峙すれば、一縷の望みが生まれる。アジア独立のため、ひいては日本適者生存のため、大東亜団結目的の大東亜戦争に挑んだ。

 インド独立のため、ひいては日本生存のためのインパール作戦、玉砕、特攻、集団自決、軍民一丸共生共死の比類なき戦いであったが、敗戦。日本の比類なき戦いに同胞が皆覚醒、決然と起ち侵略者食民治主義を追放。戦後わずか15年後の昭和35年(1960)に、国連が植民地を保有することを不法行為であると宣言し、その後、国連総会が植民地の保有を犯罪として規定すらした。開闢以来延々と続いた最適者生存の、弱肉強食本能の食民治主義は破壊され、先人の旗印、共存共栄平等に基づく新秩序が創造された。

 実技(一般社会人の常識)でなぜ、どうしてと検証すれば簡単に帰結する。アジアを侵略し征服しようとしたと考えるのは、机上の空論で一般社会人としての常識欠如。超大国米英仏蘭中ソ豪に、さらにプラスしての全アジアとの戦争、となれば、戦争ではなく自殺だ。人類の敵侵略者食民治主義凶産主義対日本と汪兆銘の適者生存戦争、これが常識見解だ。最適者生存の時代、追い詰められたから、軍民一丸適者生存軍となり戦ったのだ。したがって先人軍隊天皇当時の体制批判は、常識欠如者の空論か、売国奴やスパイ発言となる。生命体の今は、適者生存の結果だ。最適者生存戦争なので謝罪も謝罪要求も無意味。

 教育界の日の丸君が代侮蔑。報道界の捏造報道。戦後の実技なき丸暗記教育皆鵜呑み教育が、WGIPを助長したといっても過言ではない。司法界の被害者無視の加害者の人権、加害者の心神喪失による減刑など、一般社会人の常識から隔離したものになっているのも、実技なき知識記憶多少だけでの合否が原因だ。

 実技の伴なわない知識記憶多少だけでの合否が、諸悪の根源なのだ。現代は知識など電子手帳があれば事足りるのだ。公職者採用は、一般社会での就職を条件とすべきだ。実社会経験が無いと実社会の常識から外れたことを平気でやリ、赤字でも平気となる。実社会で赤字が続けば夜逃げ倒産だ。実社会経験有りの採用とし、実社会と同様に他もすべきだ。

 現実社会は事実に基づき動いている、捏造が溢れ出すと即亡国は世の習いだ。物づくり実技界での捏造は即、滅亡。

 敗戦国の宿命、戦勝国の歴史捏造だ、人は皆錯誤する、私も錯誤した。子孫であれば覚醒は容易だが、巨魁捏造言論界は、反論もせず無視するでしょう。破壊の突破口は、「辞書が暴いた虜囚の辱の本意。当ブログ内下記」です。ネチズンの皆さんの日本救国の強力な応援があれば、巨魁破壊は容易です。日本もすぐまともになります。売国奴を一掃し、真実史観で子孫に、日本適者生存史を残しましょう。

戦陣訓真実虜囚の辱意味変化辞書記載し証明捕虜解釈を否定捏造実証

凶産主義(物事の基準は捏造)と民主主義(物事の基準は真実)

2008-05-09 12:34:56 | Weblog
凶産主義(物事の基準は捏造)と民主主義(物事の基準は真実)

民主主義(指導者の選択可)=物事の基準は真実

「民主主義は最悪の政治形態だ。しかし、惜しむらくはそれより良いものがない」 チャーチル・ウインストン

政治とは、人民が天寿を全うするように、決定することである。何何主義と名前を変えて色々あるようであるが、決定に人民が参加出来るか出来ないかの二つしか無い。民主主義は共産主義(農家や漁師や商店や会社等々。)の集合体である。民主主義の根幹は多数決である。決定までは、喧々諤々でも良いが、良かれ悪しかれ多数決で決定すれば、反対した人も決定に従うのが、民主主義の根幹となる、最も基本のルールである。それでも反対であれば離党し反対すればよい。離党もせず、多数決の決定にも従わず、反対を唱え続けるのは駄々っ子で、民主主義の根幹を知らないルール違反で、民主主義が成立しない。

 船にたとえると分かりやすい。多数決で決定した行き先に向かい、反対者も共に漕ぐから、舟は進む。決定に従わず、船を漕がないでまだ反対するのであれば、船は重くなり進まない、下船してもらうしかないのだ。再び、乗船したいのであれば、意見は言うが決定には従い船を漕ぐ事を宣誓しなければ、乗船許可は下りない。これが民主主義の根幹のルールだ。
 
 家庭も共産主義。会社も共産主義。共産主義の集合体が民主主義。8時間共産主義。転職、言論自由。政治に参加できる。多数決、決定社会だ。道理が通る常識社会だ。無階級、無差別社会だ。物事の基準は真実だ。

 政治家が選挙人の太鼓持ちと化し、票集めに精を出し、政治を役人任せにし、一握りの役人のし放題で亡国。政治家の世襲で、馬鹿殿が政治を役人任せにし、一握りの役人のし放題で亡国。与野党政治家が、一握りの私利私欲役人の御用聞きと化しているのが今の日本だ。結果、与野党政治家は、役人の不正を見抜けない。与野党全代議士が、代議士の責任を果たさず役人の不正を看過していたのだから、役人の不正看過は、与党だけでなく与野党全代議士に責任有。全代議士が、まず国民に謝罪し、責任のなすりあいなどせず、一丸となり、対処すべきだ。それが代議士たるゆえんの、職責だ。 自遊官主主義で亡国。
 
 拝金思想で亡国。政治資金と称し金集めの上手いものが議員となり、少数意見(一握りの金持ちの意見)での政治、それが今の日本の政治の実体だ。政治家は一握りの金持ちの御用聞きと化しているのだ。与野党問わずこれが政治家の実体だ。今の日本は民主主義ではなく金主主義だ。政治資金を税金でまかない、均等にし、金主主義の悪の根源政治資金を禁止し、政治を一握りの金持ちから民の手に奪取すべきだ。

 民主主義国家は民意が反映されて初めて民主主義国家となり得る。民意を託された代議士が民意を繁栄させず、一握りの役人(自遊官主主義)、一握りの金持ち(金主主義)のロボットと化した時、民主主義国家は消滅し、民意消滅独裁国家となる。狂惨主義と同様で、民意から隔離し、間違いなく亡国となる。亡国の諸悪の根源を絶ち、民主主義の根幹に回帰しよう。凶産中国の犬政治屋は論外。探究隆盛。

 日教組、NHK、朝日、TV朝日、毎日、TBS、外務省、などのように、物事の基準真実を捏造する凶産侮日の犬売国奴が増殖し、国民を愚民化して亡国。ネチズンへの愛国者からの内部告発は、日増しに数を増している。ほとんどが凶産国、侮日国家、から帰国後に成金になり、凶産、侮日の売国奴と化している。報道や行動を照らし合わせるとピタリ符合する。捏造亡国。

凶産化しているNHK
 パール博士、ガンジー、ネルーも、インパール作戦までは、日本を侵略者としてみていた。そのパール博士の当初の発言をつまみ食いして「パール判事の真実」として凶産の犬と化して報道したNHK2007.8。

 水木しげる原作の「ドラマ・鬼太郎が見た玉砕」もそうだ。物量豊富な侵略するアメリカと、資源なき小国日本適者生存軍護国の兵の戦いを、侵略者アメリカと、自由を希求し適者生存のため斯くまでして戦えり、護られた子孫は感謝の念を忘るべからずではなく、玉砕せよと命令した極悪日本軍と、いかにも得意げにNHKが放送した。2007.8.12。侵略者食民治主義アメリカを冒涜せず、服従することを拒否し、ただひたすら子孫のためにだけ戦った自由希求の適者生存護国の兵を、護られた恩しらずな子孫が、冒涜しているのだ。なんと異常な放送局だ。物量乏しき日本軍は、超大国の侵略者(米英仏蘭中ソ豪)相手に、精神で勝るしかすべが無かったのだ。玉砕は力尽きるまで生き抜いて戦い、力尽きた結果が玉砕だ。自殺ではない。玉砕を、貴いとか美談とか私利私欲で考えるからおかしくなる。欲で玉砕はできない。軍隊極悪非難論者は護国せず侵略者アメリカに屈服し、服従すれば良かったというのか。降伏が目的の戦争など皆無。屈服を拒否し、適者生存するために、ここまで必死に戦ったのだ、美談のためにではない。NHKはいつも「木だけ見る」命令された側の証言ばかりで、二等兵史観での放送なのだ。「森を見る」命令する側の証言や放送皆無。なぜどうしてそんなにしてまで戦わなければならなかったか、当時の世界史をまったく検証もせず、先人がさも狂人のように冒涜報道するNHK。なぜ、どうしてと、一番大事なことを検証もしない、まさにNHKは狂人集団だ。NHKは命令する者(極悪日本軍人)対命令される者(か弱い庶民)の対立(対立など皆無。団結していたから超大国日清日露戦争に勝てた)を捏造し、いつもNHKは(か弱い庶民)の味方ですよを、演じている。物事には両面があるつまみ食い常習犯はNHKだ。物事すべてに禍福がある、つまみ食い不可。大東亜戦争は大東亜団結戦争で、侵略者植民地主義凶産主義に対処するための最適者生存戦争である。検証すれば、瞬時に氷解することもしないNHKは、売国奴の巣窟だ。

下記は読売新聞放送塔欄の投書「木だけ見る人」愚民と「森を見る人」である。

「玉砕戦はひどい戦法」2007.8.22.

「ドラマ・鬼太郎が見た玉砕」日本軍がとった玉砕戦が、いかに兵隊の命を軽んじたひどい戦法であったかがよく分かった。一人残らず戦って死んだということが貴く、そのために生き残った兵がいれば美談にならないとしたが、全く逆ではないかと感じた。(神奈川県・教員・鈴木淳平44)(同様3通)

 (注・教員で44才にもなって、いまだ木だけ見る人で偉そうに先人の戦法批判とは、なんともはやなさけない。子供はこんな愚民教師に教育を受けているのだ、親が子に、先人の適者生存史真実史観を残そう。こんなひどい戦法まで用いて先人は適者生存に懸け、子孫を守ったのだ、生かされた子孫は感謝以外の何物も無いはずだ。それをNHKは日本軍のせいにする。アメリカが侵略して追い詰めたから、この悲惨な戦法を取らざるを得なかったのだ。集団自決も玉砕も起因はアメリカの侵略だ。日本軍ではない)

「回天隊員の心情分かった」2007.8.28.

テレビ朝日系19日の映画「出口の無い海は、第二次世界大戦中の回天特攻隊員の生き様を描いている。私は水上特攻艇の乗組員だったので、人間魚雷回天の訓練の厳しさ、隊員の心情が痛いほど分かった。家族や愛する人を守るため、生還できない回天で死んでいった若者を知ってほしい。(千葉県・無職・里見三男79)

狂惨主義(指導者の選択不可)=愚民政策=賄賂社会=権力の世襲=物事の基準は捏造 

「二十歳までに共産主義にかぶれない者は情熱が足りないが、二十歳を過ぎて共産主義にかぶれている者は知能が足りない。」「共産主義を知らないというだけで、そいつは既に共産主義者の手先である」 チャーチル,ウインストン

 共産主義は人間の醜さをあぶりだし、凶産主義となる。国家が凶産主義に成ると白も黒と言う一党独裁、独裁国家。無理がとおれば道理がひっこむ社会だ。憐憫の情皆無で、すべて自己中心、道理が皆無の社会だ。政治参加不可。一生階級差別社会。管理者と労働者二極社会。管理者(支配者)のロボットは労働者。管理者は洗脳愚民政策をとり、愚民化。報道はすべて洗脳のための道具、内容はほとんど捏造と考えてよい、嘘の上塗りの繰り返し国家だ。生涯24時間狂惨主義。言論統制。一握りの管理者だけ政治に参加できる。主義変更は亡命。管理者が世襲し亡国。ペンネーム、狂惨主義(支配者に植民地支配される)本名独裁者。捏造化集団。捏造をばら撒き土台にしている捏造国。労働者(植民地)は管理者(宗主国)から生涯搾取されつづける、労働者は植民地と同じだ。

 狂惨主義の恐ろしさは、目的のためなら暗殺、殺人、盗聴、捏造と、この世のあらゆる悪を用いることだ。民主主義の常識など一切通用しない、疑心暗鬼な暗黒の世界だ。

 国民は生涯、階級という枠にはめられるため、枠内思考しかせず自己検証しない、進化は止まり、さらに洗脳愚民化教育され、愚民となり亡国。階級差別社会、両班(やんばん)思想と同じ。

 共産という甘い仮面、甘いワナにだまされてはいけない、凶産なのだ。実態は生涯監視つきの独裁階級社会だ。甘いワナで誘い独裁のために人間を愚民にし、同化し、ロボットにする。歴史を捏造してまで延命を図る醜くく歪んだ精神が狂惨主義だ。狂惨主義は人間を醜くする。

 遺書にほとばしる護国への思い、超大国の侵略者、食民治主義者共産主義者(米英仏蘭中ソ豪)相手である、日本国民は適者生存のために、適者生存軍と化し軍民一丸となった。独裁主義や狂惨主義の愚民化、ロボット化ではない。

 閉鎖して、言論統制し、愚民化、孤立でしか狂産主義は成立しない。物の交流、人の交流で国は進化する、孤立では進化しない。つまり、建国のほんの一時期しか狂産主義は役に立たないのだ。物の交流、人の交流、流れることで国は進化する。澱んでは、国が腐るだけだ。思想が形骸化し、録音されたお経となり、指導者の人相が悪人顔となり、顎を上げ、ふんぞり返って物言い出すと、亡国の兆し、間も無く亡国。物事の基準は自己中心独裁捏造だ。物事の基準は捏造。無理が通る非常識社会。共産主義は人間の醜さをあぶりだし、増長させ、狂惨主義となる。真実の宗教は人間の美点をあぶりだし、増長させ、真の宗教となる。

 世界の真実史観ネチズン(network+citizen=netizen=ネットワーク達人)は捏造を次々と暴きネチズン革命に取り組んでいる。洗脳愚民化教育されたアジア最後の植民地西南北の愚民と在日を、ネチズン革命で救民し良民復活だ。大東亜共栄圏はまだ完遂していない。  

 捏造が国是の国家が、必滅するのは、歴史が証明している。大東亜戦争の元凶、世界征服を企てたソ連共産党(1903~1991)は88年間で解散した。中国共産党(1921~)創立。アジアの真の夜明けは、間近に足音となって聞こえている。満州、新疆ウイグル自治区、内モンゴル自治区、チベット自治区などの万里の長城以外の軍事占領されている約半分の領土を有する国家は、ソ連崩壊後のように皆独立するのは間違いない。中国人も覚醒し始めている。狂惨党の一党独裁政治を打破し、中国史上初めて、自らの手で政治を治める記念日も近い。世界の元凶、大東亜戦争の起因、狂惨党が滅び、先人の思い描いた、真の大東亜共栄圏が完成するのは間近い。日本の役割は甚大だ。我々子孫は禍福史観で至急覚醒し、先人の大願成就のために、その時以後を念頭において、すべて行動すべきだ。まず子孫の日本と台湾が先導して、インド、アメリカ、オーストラリア、アジア近隣諸国に呼びかけ、軟着陸の方法を協議し役割を分担し、その時に備えるべきだ。

(注・核保有狂惨国が崩壊し、核が拡散し、アメリカへの核攻撃。このシナリオがアメリカの恐怖なのだ。狂惨国へのアメリカの急接近、あわただしい動きが、崩壊が間近かなことを物語っている。軟着陸させ、核の不拡散。アメリカの本意はここにある。日本も核保有との声もあるが、原子炉を攻撃されれば一溜まりも無い。瞬時に撃墜可能な、レーザー迎撃装置の開発保有のほうが、より現実的だ)

なぜ凶産党は世界征服をすぐ企むか 
 閉鎖し国民を愚民化することで、狂惨党国家は成り立つ。宗主国(搾取する者)が植民地の国(搾取される者)に用いる政策だ。それを国内で国民に用い愚民化(搾取される者)し、(搾取する者)として君臨するのが狂惨主義者だ。共産にだまされてはいけない、実体は狂惨主義者の独裁国家、私利私欲賄賂国家、人間差別国家なのだ。凶産党国家は国民を愚民化するため、植民地のように進歩せず、他国に遅れることは必然なのだ。結果、狂惨党国家として未来永劫存続する為には、世界をすべて凶産国にすることが条件となる。

世界の共産主義国(2006.11.1.)

中華人民共和国(一握りの党幹部の独裁)
朝鮮民主主義人民共和国(金正日独裁)
キューバ共和国(フィデル・カストロ独裁)
沿(えん )ドニエストル共和国(スミルノフ大統領一族による独裁。現在、国際的には国家として承認されていない。)
ラオス人民民主共和国(ラオス人民革命党独裁)
ベトナム社会主義共和国(ベトナム共産党独裁)
モルドバ共和国(モルドバ共産党71名・ブランギシュ連合19名・キリスト教民主人民戦線11名・2001年2月選挙結果)

捏造が党是の凶産は世界の元凶、人類の敵である。捏造亡国は世の習い。

大東亜戦争は大東亜団結戦争適者生存戦争侵略者食民治主義凶産主義追放目的

2008-05-07 12:42:35 | Weblog
大東亜戦争は侵略者食民治主義凶産主義追放目的の大東亜団結戦争適者生存戦争

大東亜戦争(大東亜団結戦争)

 侵略者食民治主義と凶産主義が、資源なき小国島国日本を資源封鎖し、兵糧攻めにした。侵略者食民治主義と凶産主義が隠れて操る、反凶戦争継続中の資源無き日本、座すれば確実に亡国。要求に応じても、再度資源封鎖されれば、確実にこれまた亡国。目の上の瘤、資源封鎖。最適者生存の時代、資源なき小国島国日本の弱点払拭の選択肢は唯一、資源封鎖する侵略者の食民治からの追放だった。追放し、東亜(食民治)を解放し、独立国家貿易自由化圏、大東亜共栄圏を建設、互いに貿易自由化で資源を確保し、東亜が団結し一丸と化し、侵略者食民治主義と凶産主義と対峙すれば、一縷の望みが生まれる。蹶然「けつぜん(地を蹴って立ち上がる)」と起(た)って欧米の食民治支配を打破し、アジア地域に共存共栄東亜の自給自足共同体、大東亜共栄圏建設を目指した。侵略者食民治主義を追放し、正体は凶産の侵略者を追放し、東亜が、ひいては日本が生存するため、大東亜団結目的の戦争に挑んだ。日本が戦争目的を冠し大東亜戦争と名づけた。植民地解放を掲げた名称なので、宗主国が忌み嫌い太平洋戦争と名称変更。名称変更までしたのは、正しくそうであったからだ。NHK 、朝日などの売国奴の輩は、戦後63年経てもいまだに太平洋戦争と呼称、売国奴の極みだ。輩は、日本人の仮面を被ったスパイだ。語るに落ちている。

 アジアへの侵略者と、のたまう売国奴がいる。超大国米英仏蘭中ソ豪に、さらにプラスしての全アジアとの戦争、となれば、戦争ではなく自殺だ。侵略者呼ばわりは、売国奴の輩のこじつけだ。台湾朝鮮の統治を、世界の識者は比類が無いと、皆評価している。インド独立のため、ひいては日本適者生存のため流した赤心の血、インパール作戦、世界の識者は比類なき赤心日本の本意を、皆評価しているのは事実だ。大東亜戦争は、聖戦争や、侵略戦争や、正邪戦争などではない、東亜(食民治)を解放し、東亜が結束し大東亜となり、侵略者食民治主義と凶産主義と対峙、が目的の、大東亜団結戦争、最適者生存戦争であった。

 弱肉強食最適者生存の時代、資源なき小国日本生存、生き残りの唯一の選択肢は、戦い、だけであった。侵略者(米英仏蘭中ソ豪)超大国相手のたった一カ国の戦い、小国日本が挑むには、天皇の基に軍民一丸共生共死、比類無き戦法のみが、唯一の適者生存の術だった。

押し寄せた時代の激流、生命体の本能、最適者生存。子孫死守のため自然権「私」を捨て「公」に殉じ、時代の衣を纏い、軍民一丸適者生存軍と化し、子孫の生存を懸けて戦い、開闢以来延々と続いた侵略と差別の弱肉強食の本能の歴史を破壊、共産は凶産と暴露、共存共栄と平等に基づく新たな人類の歴史を世界に創造した先人に、捧ぐ。 

真実史観

戦陣訓真実虜囚の辱意味変化辞書記載し証明捕虜解釈を否定捏造実証

2008-04-18 18:41:31 | Weblog
戦陣訓虜囚の辱意味変化辞書記載し、識者、報道屋の捏造暴露。正答は、捕虜=捕まえた敵(虜)、虜囚=檻の中の敵(虜)と囚人と、辞書が断定。識者、報道屋の捏造を、辞書が暴露、実証した。「虜囚の辱」、正答は、「日本に囚われ囚人となる恥」。

 意味はどうでも一人歩きさせたから悪いと先人罵倒の愚者(売国奴)がいる、一人歩きしたのは戦後だ、させたのは迎合した報道屋と無検証鵜呑みの識者だ、先人に責任は無い。 

「虜囚」と「捕虜」の意味が戦後変化し真反対の意味を付加。辞書が戦後の捏造を暴露。
大正6年初版昭和3年新版昭和15年華語増補版発行昭和38年第一版発行の講談社大字典
「捕虜」の意味 いけどり。とりこ。(能動)
「虜囚」の意味 とりこ。(能動)

広辞苑初版昭和30年、第二版昭和40年版
「捕虜」の意味 戦争などで敵に捕らえられた者(受動)。とりこ。→ふりょ俘虜。(能動)
「虜囚」の意味 とらわれた人。とりこ(能動)。捕虜(受動)。

大正6年初版昭和3年新版昭和15年華語増補版発行昭和38年第一版発行の講談社大字典より。練馬区立図書館蔵書。

「捕」はホ。ブ。フ。トラフ(動、下ニ) トル、字源 形聲 とらふると故に扌扁。甫は音符。

「俘」はフ。トリコ(名) トラハレ トル、(注・戦後版は、とらわれ/とる。となっている。意味不明だが、「俘」とその熟語、戦前戦後、どの辞書も受動の意味皆無)イケドレ(注・ルが擦れてレに見える。戦後版では、いけどる) 字源 形聲。戦争にて死者の左耳を取るを戫、生きながら捕獲するを俘という、故に人扁。孚は音符。

「虜」はリヨ。ロ。トリコ(名) イケドリ、シモベ、イケドル、生擒ス、化外ノ民、えびす、字源 形聲。虍と母と力の合字。敵を生きながら捕らえ来ること。母は貫の本字にて敵を数珠つなぎに貫き連ぬる意ならん。力は腕力にて引率する義虍は音符。

「囚」はシウ。ジユ。トラウ(動下ニ)トラハル(動下ニ)トリコ(名) メシウド、罪人、俘虜、ツナグ、字源 會意。囗と人の合字。人が囗(かこみ)の中につながれし意にてトラハルルこと。泅は囚を音符とす。

 「捕・俘」単独の意味は全て能動。受動の意味皆無。捕まえる、捕まえられる、俘にする、俘にされる、のように、付加した単語の助けで、能受動を使い分ける。捕虜にする(能動)。捕虜にされる(受動)。「捕・俘」は檻の外の捕まえた敵。「捕・俘」の熟語の意味も全て能動。受動の意味皆無。

 「虜」には、「イケドリ、イケドル、生擒ス(生け捕る行為=日本軍が敵兵を生け捕ること)」と「シモベ、化外ノ民 えびす(生け捕った相手=生け捕った敵兵)」と「母は貫の本字にて敵を数珠つなぎに貫き連ぬる意ならん(相手の状態=拘束)」と記され、生け捕る行為と、日本軍が生け捕った相手と、相手の状態が記され、敵兵は存在し、能動。敵に捕まえられた日本兵は存在しない。受動の意味皆無。

 「囚」は「メシウド、罪人(トラ<囚>えた囚人=トラ<囚>われた囚人)。俘虜(トラ<捕>えた敵兵=トラ<囚>われた敵兵)」=生け捕った相手と、「ツナグ(人が囗(かこみ)の中につながれし意にてトラハルルこと)」=生け捕りツナいだ状態の相手(囲みの中の人)と記され、日本軍が生け捕りツナいだ状態(囲みの中の人)の相手、敵兵は存在し、「トラウ(動下ニ)トラハル(動下ニ)」と能受動が混在する。「囚」は囲みの中の人の総称(トラ<囚>えた人、トラ<囚>われた人)を意味し、能受動が混在し、「囚」は檻の中の捕まえた敵と人。したがって「囚」の熟語には、囚らえた人、囚われた人(檻の中)が混在する。能受動が混在するが、敵に捕まえられた日本兵(檻の外)は存在しない。

 「捕」は捕まえる動作(檻の外)。囚は、「捕」の結果生じた状態(檻の中)。

上記大字典の熟語の意味

「捕縛」の意味 とらえしばること(とらえしばる行為)(能動)。

「捕虜」の意味 いけどり(生け捕る行為)。とりこ(生け捕った相手)。

 主語が日本の訓。日本が生け捕った敵兵(檻の外)。能動態。敵につかまった日本兵ではない。受動の意味皆無。

「俘虜」の意味 とりこ。捕虜。

 主語が日本の訓。日本が生け捕った敵兵(檻の外)。能動態。敵につかまった日本兵ではない。受動の意味皆無。

「囚人」の意味 つみびと。めしうど。「囲みの中の人(囚らえた人、囚われた人)。能受動」(檻の中)

「囚徒」の意味 とらわれびと(囚われ人)。めしうど。「囲みの中の人(囚らえた人、囚われた人)。能受動」(檻の中)

「虜囚」の意味 とりこ。

 主語が日本の訓。囲みの中(牢獄、檻の中)に閉じ込めた状態にした、日本が生け捕った相手、「囚人=日本にとら<囚>われた人。敵兵=日本にとら<囚>われた敵兵」となる。(状態は檻の中)。能動受動。敵に捕まった日本兵(檻の外)ではない。

 「虜囚」は能受動が混在。「捕虜」は、「捕虜にする」(敵を捕まえる)。「捕虜にされる」(敵に捕まる)、「捕虜になる」(敵に捕まる)、と付加した単語の助けで意味変化し能受動表現となる。捕虜には単語の助けで変化した意味、「捕虜になる(敵に捕まる)(受動)」があるが、「捕虜」(名詞)単独では、「生け捕りした敵兵(檻の外)」(能動)だけの意味となる。

 「虜囚」は「囚」により、囲みの中に閉じ込めた人の総称「囚人=日本にとら<囚>われた人、敵兵=日本にとら<囚>われた敵兵(状態は檻の中)」となる。簡略すると、捕虜=捕獲した敵兵(檻に入っていない)だが、虜囚=檻の中の敵兵と囚人。「捕虜=捕獲した敵兵」の処遇が、「虜囚=檻の中の敵兵」となる。「虜囚」は、「捕虜」の処遇を意味し、「囚」(檻の中)と「捕」(檻の外)の違いは明白だ。「捕虜」=「虜囚」は捏造。

 「捕虜」単独の意味は、生け捕りした敵兵(檻の外)。「虜囚」は、閉じ込めた人「(囚人=とら<囚>われた人)。(生け捕りした敵兵=生け捕りされた敵兵)」(檻の中)。と成り、「虜囚・捕虜」には、生け捕りした敵兵はいるが、「虜囚・捕虜」には、敵につかまった日本兵は存在しない(受動)。

 「虜囚の辱」=捕虜(生け捕りした敵兵)の辱。では戦陣訓と成らないのだ。虜囚の辱は、敵兵への訓ではない、日本国の兵への訓である。したがって、「虜囚の辱」=「(囚人=とら<囚>われた人)の辱」=「虜囚の辱」=「日本国に捕まって囚人となる辱」と、なる。「捕虜」=「虜囚」は捏造。

 検証したように虜囚=捕虜とするなら「捕虜単独の意味は、生け捕りした敵兵」以外に無い。「捕虜」の意味は前述のように単語の付加(受動)により意味が変化する。付加の単語無き文で捏造の「戦争などで敵に捕らえられた者(受動)」と解釈するのは不可。

 「捕虜となる辱」・「捕虜にされる辱」・「捕虜になる辱」と、単語(受動)の付加が成されて初めて変化した意味となり「敵に捕まる(受動)=戦争などで敵に捕らえられた者(受動)」捏造した捕虜の意味となる。「捕虜」の文字と単語(受動)の付加など、どこにも無い「虜囚」を、「虜囚」=「捕虜」と解釈は、捏造以外の何物でもない。

 「捕虜」単独の意味「生け捕りした敵兵(能動)」を戦争などで敵に捕らえられた者(受動)にし、捕虜の意味を改竄し、捕虜=虜囚、虜囚の辱=戦争などで敵に捕らえられた者の辱=降伏禁止と捏造した。報道屋は用意周到に、捕虜の意味から捏造していたのだ。虜囚を繰ると戦前の辞書には「とりこ」、戦後の辞書には「とら<囚・捕>われた人(檻の中・檻の外)」とでてくる。戦前、戦後の辞書で「囚」を繰ると「とら<囚>われる(檻の中)」とでてくる、これに皆だまされた。「とら<囚>われた人(辞書の意味はとら<囚>われた敵兵、主語日本、日本にとら<囚>われた敵兵)(檻の中)」の意味を、「敵にとら<捕>われた日本国の兵(檻の外)」と錯覚してしまったのだ。主語を把握し、虜囚だけの検証ではなく、「捕虜」単独の意味をも検証すれば、当の昔に氷解したのだ。

 戦時下一部の報道屋は「日本にとら<囚>われた人」を、「敵にとら<捕>われた人」とつまみ食いし、報道したため、信じた者もいた。戦後、虜囚の辱=とら<囚>われた人の辱=捕虜(敵に捕まえられた日本兵と捏造)の辱=降伏禁止=玉砕=集団自決=極悪日本軍とし、扇動した。戦後は報道屋総動員で迎合し、徹底的に扇動、結果皆洗脳され続けている。「捕虜」単独の意味日本がとら<捕>えた敵兵を、真反対の敵に捕まえられた日本兵と捏造、先人罵倒の起因がこの捏造に在る。

 捏造のため戦前の辞書と整合せず、戦後の辞書は皆変化したが、後述の「鯨に捕まった捕鯨船』のような矛盾が生まれ、捕虜限定の意味となった。しょせん捏造は捏造なのだ、矛盾が証明している。

昭和27(1952)年初版昭和49(1974)年新装発行、三省堂「辞海」。練馬区立図書館蔵書。

「捕虜」の意味 とりこ。俘虜。(受動の意味皆無)

「虜囚」の意味 とらわれ人(虜囚の主語日本。日本にとら<囚>われた人、囚人と敵兵。敵にとら<捕>われた日本兵ではない)。めしうど。とりこ。

 まだこの時代では、日本国に捕まった人(囚人や敵)の意味だけである。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」の受動記載皆無。

前述の講談社大字典昭和38(1963)年復刻、1993年第一刷、新大字典。

 戦前の大字典「捕」。ホ。ブ。フ。 トラフ(動、下ニ) トル。戦前の「捕」は受動の意味皆無。

 戦後の新大字典「捕」はホ。ブ。フ。 とーらえる・とーらわれる・とーる・つかーまえる・つかーまる字義(一)(ニ)とらえる(とらふ)(動)/とる(動)。つかまえる(つかまふ)(動)。字源 形声 とらえること。ゆえに扌偏。甫。音符。語尾で受動。「捕」は能動のままで変化無し。

 「捕」の熟語を繰ると、「捕虜」の意味 いけどり。とりこ。戦前と変わらず、変化無し。

 戦後の新大字典「虜」はリヨ。ロ。ル。トリコ(名) いけどり。しもべ。いけどる/化外ノ民。えびす。「いけどり。いけどる。(生け捕る行為=日本軍が敵兵を生け捕ること)」と「しもべ。化外ノ民。えびす。(生け捕った相手=生け捕った敵兵)」と記され、生け捕る行為と、日本軍が生け捕った相手、敵兵は存在し、能動。敵兵に捕まえられた日本兵は存在しない。受動の意味皆無。戦前と変わらず、変化無し。

 「慮」の熟語を繰ると、「虜囚」の意味 とりこ(日本が捕まえた敵)。捕虜。」と、あらたに捕虜が加筆。「とりこ」には日本が捕まえた敵(捕虜)の意味、既に在り。加筆は、捕虜=戦後の捏造=戦闘で敵軍に捕らえられた者(敵に捕らえられた日本兵)=受動態の意味、加筆である。「虜囚」=囚人、敵兵に、真反対の新たな意味(戦闘で敵軍に捕らえられた者=敵に捕らえられた日本兵)が付加された。

 講談社大字典「捕」「慮」の意味、戦前も戦後も変化無し。

 熟語「虜囚」の意味だけが能受動(新たな意味)混在(日本がトラ<囚>えた敵兵=日本にトラ<囚>われた敵兵=檻の中、本来の意味に、敵がトラ<捕>えた日本兵=敵にトラ<捕>われた日本兵=檻の外と、新たな意味が付加された)し戦後変化した。戦陣訓主語日本が、日本の兵に対しての訓、「虜囚」の主語日本、敵ではない。日本が捕まえた囲いの中の人「虜囚」=囚人、敵兵に、敵軍に捕らえられた日本兵が同居しているというのだ。居るはずの無い人がいるのだ。日本の「虜囚」に、敵軍に捕らえられた日本兵が存在するわけなど無い。「虜囚」の主語が、日本なのか敵なのか、考えれば氷解することだ。このことだけでも捏造は明白なのだ。戦陣訓「虜囚」の主語は、日本だ。

新選漢和辞典小学館昭和38(1963)年初版昭和60(1985)年新版

「捕」。ホ。ブ。 とら・える。つか・まえる。つかま・る。とらわ・れる。(とらは・る)。とる。語尾で受動。「捕」は能動のままで戦前と同じ。

「捕」の熟語「捕虜」の意味  とらわれた人。とりこ。俘虜。

 能動の意味生け捕った敵「捕虜」の意味が、真反対の意味を含む、「とら<捕>えた敵兵と、とら<捕>われた日本兵」能受動混在に変化した。唯一「捕虜」の意味だけが能受動混在。他の熟語は能受動混在皆無。

「慮」は戦前の大字典と同じ。

「慮」の熟語「虜囚」の意味  とりこ。捕虜。

 「虜囚」には日本が囚えた敵(捕虜)=とら<囚>われた人の意味、既に在り。捕虜加筆は、捕虜=戦後の捏造=(敵に)とら<捕>われた人(日本兵)=受動態の意味、加筆である。「虜囚」=囚人、敵兵に、真反対の新たな意味「(敵に)とら<捕>われた人(日本兵)」が付加された。

 新選漢和辞典「捕」「慮」の意味、戦前と同じ。熟語「捕虜」「虜囚」の意味だけが戦前と異なり「捕虜」能動に受動付加。「虜囚」にとら<捕>われた人(日本兵)が付加され、変化した。他の辞書も同様、変化したのは熟語だけ。これも前述同様、日本が捕まえた囲いの中の人「虜囚」=囚人、敵兵に、(敵に)とら<捕>われた人(日本兵)同居となる。「虜囚」の主語が、日本なのか敵なのか、考えれば氷解することだ。戦陣訓「虜囚」の主語は、日本だ。

広辞苑初版昭和30年、第二版昭和40年版

 「捕虜の意味・戦争などで敵に捕らえられた者。とりこ。→ふりょ俘虜」。

 「虜囚の意味・とらわれた人。とりこ。捕虜」

「捕虜」  戦前の生け捕った敵「捕虜」の能動の意味が、真反対の意味を含む、「戦争などでとら<捕>えた者(敵)と、戦争などで敵にとら<捕>われた者(日本兵)」能受動混在に変化した。

「虜囚」  戦前の虜囚の意味 日本にとら<囚>われた(檻の中)、囚人、敵兵。に、とら<捕>われた人。捕虜(戦争などで敵に捕らえられた者=主語日本なので日本兵。受動)を付加。真反対の意味、戦争などで敵に捕らえられた日本兵、が付加された。これも前述同様、日本が捕まえた囲いの中の人「虜囚」=囚人、敵兵に、戦争などで敵に捕らえられた者(日本兵)同居となる。

「辭林」1907(明治40)年発行「広辞林第六版」1983(昭和58)年三省堂(現在知りえる、唯一意味変化の無かった、正答の辞書。戦前初版の辞書は、変化が少ない。整合がない真反対の意味とするのに、ためらいがあったのだろう)

[捕虜の意味] とりこ。いけどり。「ー収容所」。(受動の意味皆無)

[虜囚の意味] とりこ。とらわれ。「ーのはずかしめを受ける」

「虜囚」  とら<囚>われ(檻の中)(日本兵への訓、虜囚の主語日本)。=日本にとら<囚>われる。敵にとら<捕>われた日本兵ではない。「ーのはずかしめを受ける」(日本兵への訓、虜囚の主語日本)=「日本に囚われ、とら<囚>われのはずかしめを受ける」。

 唯一意味変化の無かった辞書であるが、主語を把握して解釈しないと、「敵にとら<捕>われる」になる。日本が日本兵に対しての訓なので、「虜囚」単独記載の主語は日本しかない。ありえない敵を主語にしていることに気付けば、もっと早く捏造を暴露できた。「虜囚」単独記載の主語「日本」は明白なので、「虜囚」の意味の中に主語、「敵」を入れるため、「捕虜」を、「敵に捕らえられた者」受動にして、辞書は整合させた。上記「広辞林第六版」は主語に気付いたから、[捕虜の意味]も変えなかったのだ。こまごまと検証したが、「虜囚」単独記載の主語を把握し、日本が捕らえ檻の中にいれた「虜囚」と主語を明確にすれば、「虜囚」=檻の中の敵兵(虜)と囚人(囚)が自ずと現出する。日本兵への訓単独記載の「虜囚」に、主語「敵」介入の余地など微塵も無い。

 辞書が捏造に追随し変化したが、虜囚=囚人、敵兵、戦争などで敵に捕らえられた者(日本兵)同居。などの矛盾を導き出し、辞書が結局捏造を暴露した。

 敵が主語の「虜囚」ではない、日本が主語、日本が捕らえ檻に入れた「虜囚=とりこ(囚人、敵兵)」に、敵に捕まえられた日本兵の存在など有得ない、不可能。「虜囚」の主語が、日本なのか敵なのか、考えれば氷解することだ。戦陣訓「虜囚」の主語は、日本だ。

 言葉は時代に追随する、戦後の解釈に整合しないから、辞書の熟語だけが、真反対の意味を含む能受動に変化した。能動が能受動混在に変化。変化はしたが、捕鯨=捕鯨船が鯨をとる、が、捕鯨=鯨にとらえられた捕鯨船となったため、「捕」は変化せず、熟語「捕虜」だけに限定された、特異変化となった。ここでも辞書は戦後の捏造を実証した。

 戦後の解釈「虜囚=捕虜=敵にとら<捕>われた日本兵」に整合しないから、辞書が真反対の意味を含む能受動に変化し整合させた。つまり、辞書が変化し戦後の解釈を完全否定、意味変化することで、戦後の捏造を辞書が実証したといえる。辞書が変化し、解釈不適を露呈、虜囚=捕虜の捏造を辞書が暴露。正答は、捕虜=捕まえた敵(虜)(檻の外)、虜囚=檻の中の敵(虜)と囚人以外該当せずと、辞書が断定した。

 しかしながら、辞書の真意は伝わらず、今ではこのように、すべての辞書が逆に捏造ウイルスと化している。辞書も捏造の坩堝と化し、混乱し洗脳を助長しているのが現実だ。63年間撒き散らされ、嘘が真実になった実例がこれだ。まさに、ナチス・ドイツの宣伝大臣ゲッペルスの有名な言葉「嘘でも充分に繰り返し続ければ、真実になる」・・・。捏造亡国。

戦陣訓

『第八 名を惜しむ 

 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱(囚人の汚名)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。』

戦陣訓意訳

『第八 名を惜しむ(名誉の尊重)

 恥を恥として知ることは強い。いつも故郷の人々や家族の名誉を忘れず、ますます奉公にはげんで、生きてる時も、皇軍の兵が法を犯し囚人と成るような辱めを受けず、死んだ時も、罪や過ちの汚名を残さず、恥を知り、名を汚さず、故郷の、戦功の期待に答えるように』 真実史観意訳

内容は今村均将軍が証言したように、正に「諭したもの」だ。

戦陣訓(せんじんくん)は兵士はもちろん国民も皆覚えていたか?証言

山本七平と安岡章太郎のマスコミ批判掲載の山本七平著『私の中の日本軍』文春文庫より。

(ジャングルの中で飢えとマラリアにバタバタと兵士が倒れる状態の中)
 ・・・『ではそんな状態にいて、いずれ近々死ぬことが分かっていて、なぜ投降も降伏もしなかったのか、という疑問は、当然誰の頭にも浮かぶであろう。投降も降伏も念頭になかったのは、もちろん明確な具体的な理由があるからである。

 ・・・ただはっきり断言できることは、私たちの場合は『戦陣訓』はなんら関係が無かったということである。私自身『戦陣訓』を読んだこともなければ、読まされた記憶もなければ、講義されたこともない。第一、一度も手にしたことがないから、一体全体どんな本なのか、その外観すら知らない』。

 ・・・『横井(庄一)さんのとき、まず驚いたことは、マスコミがいきなりそれを『戦陣訓』に結びつけた事であった。

 ・・・『報道の偏向』とは実に恐ろしいことである。横井さんの時、私はある週刊誌記者に、私自身『戦陣訓』を読んだことも、読まされたこともないし、軍隊でこれが奉読された記憶もない。従ってその内容も体裁も知らない、と言ったが、その人は私の言葉を信用しなかった。

 ・・・その人は戦後生まれだから日本軍なるものを全く知らない。それでいて、『戦陣訓』が一兵士に至るまでを拘束し、戦後三十年近く横井さんを拘束し続けたと信じて疑わないのであった」。

 ・・・『横井さんの時も、多くの記者が取材に来たが、「二十七年間のジャングル生活を『戦陣訓』が規制し続けたなどということはあり得ない』と私がいくら言っても、誰一人うけつけず、「本当ですか」「考えられませんね」「それこそあり得ないと思いますね」を連発するだけであった。

安岡章太郎の発言「私の中の日本軍下巻」

 ・・・『戦陣訓』に戻って言えば私自身も一年半の軍隊生活で、『戦陣訓』を強制的に読まされたり、講義されたりしたことは一度もない。それは軍隊内で、いわば体よく無視されていたと言えるだろう。しかるに現代のマスコミは、なぜ『戦陣訓』を重視したがるのか?それは山本氏(山本七平)も言うように『戦陣訓』は実は当時のマスコミにかつぎ上げられてマスコミの中だけで拡まっていたものであり、それは現代のマスコミにも体質的に通い合うものがあるからではないか。

陸軍で小隊長を務めていた経験のある司馬遼太郎

 ・・・「そんなものがある位の事は知っていたが、特に意識もしなかったし、暗誦させられたこともなかった」とエッセイで語った。

 自称作家と称する物書き屋小田 実が「生きて虜囚の辱を受けずのよみがえりか・私は、昔、沖縄で米空軍の司令官と会って話をしたことがある。・・・「生きて虜囚の辱を受けず」は、大東亜戦争開始に当たってつくられた「戦陣訓」にあった軍律・・・軍のオキテだった。・・・」などと捏造を撒き散らしている。売国を生活の糧にする人々だ。哀れの一言に尽きる。

 1944年(昭和19年)の7月9日サイパン陥落。サイパンで玉砕した一日本兵は「生きて捕虜となる辱」などの「私心」ではなく、「護国」と言う「公」のために、玉砕の直前まで「此ノ島ガ陥チタラ日本ノ存在ハ薄氷ヲ踏ムガ如シダドウシテモ死ナレナイ生キテ― ― ―生キ抜イテ此ノ島ヲ守ラネバ・・・」「生きて生きて生きて生きて生き抜いて此の島を守らねば」と日本へ書きしるしています。玉砕とはつまみ食い識者がいうところの自殺ではない、生ある限り戦い、自由を希求し自由に殉ずることだ。http://blogs.yahoo.co.jp/drmusou

 先人は皇民化ロボットなどではない、食民治主義と凶産主義という人類の敵侵略者、破壊のため戦った祖国防衛軍、人類防衛軍だ。世界の侵略者、食民治主義者と凶産主義者に追い詰められ、無い無い尽くしの資源なき小国日本、子孫に残せるものは、比類なき戦いざましかなかったのだ。

 「虜囚=捕虜=敵にとらわれた日本兵」の解釈が正答なら、辞書の意味変化など不要。それが戦後に変化加筆。変化加筆は、戦前と戦後の意味の変化を、証明した。結果辞書は、「虜囚=捕虜=敵にとらわれた日本兵」を完全に否定し、戦後の捏造を実証した。辞書も混乱の坩堝と化し洗脳を助長していたが、良心の呵責の念に駆られ、実証し、辞書が捏造を暴いた。職責者のあまりの不甲斐無さ、無検証売国奴振りに、見るに見かねて、愛国者辞書が、捏造を暴いたともいえる。辞書が職責者の正体、たんなる知識録音機、無検証鵜人を、暴露したともいえる。

 職責者の正体が辞書により暴露され、判明したのだ。鵜呑みせず、立派な親から授かった自分の頭脳で考えよう。資源なき小国日本、鵜人の集となったら亡国だ。 真実史観

大東亜戦争人類への先人の遺言軍民一丸共生共死玉砕インパール作戦特攻隊集団自決

2008-04-10 14:02:19 | Weblog
 弱肉強食は最適者生存の生命体の戦いで、開闢以来不適者は滅び適者が生存して、現在に至っている。生命体の宿命である。善悪、正邪にとらわれず、俯瞰して歴史は検証しなければならない。とらわれると、歴史を見誤る。日清、日露、WW1、大東亜戦争は、最適者生存戦争で、軍民一丸の日本軍は適者生存軍である。
 対峙し威嚇だけの野良猫大小二匹の戦い3時間、見届けたことがある。戦いによる怪我は野生では即、死。最適者生存の本能で知っている野生の猫は、互いに後ずさりして、戦わずして離れた。戦争賛成などだれもいない。しかし、絶対優位の超大国の侵略戦争。侵略された小国の自存自衛戦争は存在する。小国が超大国侵略皆無は、歴史の常識。
 下記の言葉を一読した時、「先人罵倒」は愚行と確信し覚醒した。30分ほどである。
 
「戦わざれば亡国、戦うもまた亡国であれば、戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国である。戦って死中に活を見いだし護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも、護国(祖父母、父母妻子、ふるさとを守る)に徹した日本精神さえ残せば、我らの子孫はかならずや再起、三起するであろう」永野修身昭和16(1941)年9月6日に開催された御前会議での発言。

 この発言は戦後教育「日本は侵略者」の「侵略者の発言」などではなく、超大国に侵略されれば確実に亡国、祖国存亡の危機、小国窮鼠の自存自衛発言なのだ。「侵略者」の影など微塵もない。

迫る超大国の侵略者
1858年王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出で、1858年の北京条約、1860年のアイグン条約の2つの不平等条約によって、満州地域の黒竜江以北及びウスリー川以東の外満州地域は、ロシアに割譲された。ウラジオストックを得、ロシア征服さらに南下。
1861年2月3日~7月25日まで日本の対馬を占領したロシア艦隊。当時ロシアの南下政策を警戒した英国は、軍艦を対馬に派遣して、ロシア軍を対馬から排除。
1863年幕末の薩英戦争(英対薩摩)
1864年馬関戦争(英米仏蘭対長州藩)
1868年9月8日明治時代
 ロシアの征服侵略南下、米英仏蘭の食民治侵略、明治維新開国時、日本だけが世界で唯一の非干渉独立国家であった。弱肉強食、最適者生存の時代対処のため、小国日本が取り得る唯一の手段天皇の基に軍民一致団結、軍民一丸適者生存軍と化した。資源なき島国日本、朝鮮半島が敵となれば存亡の危機は明白。ロシアの征服侵略南下が当面の脅威であった日本は半島に進出し、開国要求。
1876年明治新政府と日朝修好条規を結ぶ。
1884年日本を征伐しようとしていた清国。日清戦争前、清国はすでに日本を征伐するための軍略的偵察を行ない、清国駐日大使館随員姚文棟の兵略書『日本地理兵要』(1884年)を作成している。
1899~1900/義和団事件(白蓮教系の宗教団体)。「扶清滅洋」を旗印に、北京の11カ国公使館員4000人を包囲。日(1万人)英米仏露伊独(1万人)が、これを解放した。義和団事変(北清事変)の際、清とロシアは満州を巡って衝突。6月に義和団が黒河対岸のブラゴヴェシチェンスクを占領したことの報復としてロシア軍は7月、江東六十四屯を襲い占領し、居住していた清国民少なくとも3,000人以上(資料によっては2万人以上)をアムール川に追い込んで虐殺するという事件が発生した。以後ロシアが、事件波及の防止の口実で満州を占領し、独占支配と朝鮮日本進出の具体化に着手。ロシアの征服侵略南下は満州まで迫り、侵略港不凍港を得、日本侵略の手はずも整った。正に日本は風前の灯火となった。
1894年6月東学党の乱(甲午農民戦争)をきっかけに日本派兵し、日清戦争。
1894年~95年日清戦争に日本勝利。下関条約成立。朝鮮が独立国であることを確認。朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される。
 1882年の福沢諭吉の『兵論』によれば、清国の兵力108万に対して、日本はたったの7万8千だった。日本軍艦52隻に対して清国軍艦107隻。世界各国が清国勝利を信じていた。清国朝鮮独立を確認し、軍費2億テール賠償、遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲、沙市、重慶、蘇州、杭州を交易史上とした。その後、独仏露の三国干渉のため遼東半島を、返還。
1902年1月対露戦略のため、日英同盟を結んだ。
1904年2月8日日露戦争勃発。島国日本侵略の要不凍港旅順港奇襲。日露戦争(朝鮮半島や満州は、日本の生命線である。その朝鮮半島と満州の制覇を争った、ロシアとの戦争)清国は中立国と称し他国のように傍観していた。国家の歳入ロシア約20億円、日本約2億5千万円。常備兵力ロシア約300万人、日本約20万人。軍艦の総排水量約ロシア51万トン、日本約26万トン。正に象と蟻の戦いである。世界各国がロシア勝利を信じていた。
1904年~05年1905/8/20  日露戦争、日本勝利。日本の朝鮮における権益確認韓国を保護国化、関東州の租借権および長春・旅順間の鉄道を清国の同意を得て、ロシア、日本へ譲渡、南満州を勢力範囲とした。遼東半島を租借地とし、樺太南半の割譲。満州は侵略ではなく清国の同意を得て占領していたロシアから譲渡されたもの。日露戦争における日本の勝利は、アジアの人民に独立への大きな希望を与えた。清国からも、2万人とも3 万人とも言われる留学生が日本にきた。日本に亡命中の孫文は、滔天らの支援を受け、「中国革命同盟会」を結成、3千の会員を集めた。中国同盟会総理となり「三民主義」を発表。同会機関誌「民報」の発行名義所は、宮崎滔天の自宅。

日本の日露戦争勝利の外国の感想
 「世界に人類の運命を決する大きな危機が近づいている。その第一回の戦争は、我ら白色人種のロシア人と有色人種 日本人との間で戦われ 白色人種は、不幸にして破れ日本人は、白人を憎んでいる白人が悪魔を憎むように憎んでいる。しかし我等にとって日本そのものが危険な訳ではない。統一されたアジアのリーダーに日本がなることが危険なのである。日本による中国の統一、それが世界に脅威を与える最も不吉なことである」 ドイツ皇帝 ウィルヘルム二世

 「日本に加え、眠れる獅子と称されたアジアの大国中国が、日本化されて協力したらどうなるか。日本が眠れる隣人を目覚めさせ、手を携えたとき、だれがこの2国が世界のヘゲモニー(主導権)を取らないと言い切れるか」   イタリア ムッソリーニ

 日露戦争勝利は、小国(白人)や植民地や有色人の虐げられし人類の星となると同時に、白人(大国、宗主国)の標的となった。食民治主義の白人は、有色人日本中国が手を組み、虐げられた有色人(植民地)や小国(白人)への独立の号令、宗主国の瞬時の破壊、小国(白人)の抵抗これを恐れた。そして以後の、食民治主義対有色人の対立小国(白人)対大国の対立復讐を恐れた。以後食民治主義者は、徹底的に日本中国の対立を画策し続いている。

 食民治主義者と凶産党が恐れた大アジア主義(日本を中心にアジア諸民族が団結して、欧米列強の圧迫に対抗すべきであると説く思想。1881年玄洋社を結成した頭山満が唱えた。宮崎滔天、松井石根、孫文、汪兆銘が継承し広めた。大東亜共栄圏の原点)
反凶戦争(日中戦争)の背景
凶産党の画策 1919/ソ連凶産党が撒き餌をばら撒いた。
1919/大正8年レーニン指導下のソ連が誕生した直後の1919年、ソ連は中国に「帝政ロシアの中国に対するすべての不平等条約は廃止されるべき(ロシア領となった外満州返還)」との宣言を行い、中国側に領土返還の一縷の希望、撒き餌をまいた。これによって中国国民の間には親ソ意識が生まれ、大正10(1921)年には中国共産党が結成され誕生した。しかし1924年の中ソの新条約交渉時、帝政ロシアの結んだすべての条約類を廃止するとした条項が用意されたが、ソ連代表の帰国により締結には至らなかった。後のヨシフ・スターリンは不平等条約廃止の宣言を否認し、中国への領土返還を拒否。正に凶産党は捏造が国是だ。
 日本と共に大アジア主義を画策していた孫文(1925年3月12日朝、孫文北京にて肝臓癌病死行年59歳)、汪兆銘、蒋介石は、この撒き餌にだまされ、親ソとなり、日本から一時離れた。以後凶産に気付いた汪兆銘、蒋介石は再び日本と手を結び凶産党を最後の5分間まで追い詰めた。が、またまたソ連の画策にあい、ソ連の傀儡毛沢東との「国共合作」となる。孫文後継者筆頭汪兆銘は、中国凶産化から決別、孫文の遺志を継ぎ再び日本と共に、大アジア主義確立を目指した。

1927年にスターリンに追われて米国に亡命したトロッキーは、米国人に「なぜ、共産主義を忌避しソ連を警戒するのか。共通の敵は日本の黄禍ではないか。強硬なクルミの殻に籠もる日本であっても、白色人種として米ソが協力できるなら、米ソがクルミ割りの両テコのように容易に割ることができる」と発言。 ソ連 トロッキー

1932/フーバー第31代(共和党)(1929~1933)大統領。反凶主義者である共和党のフーバーはソ連の国家承認を拒み「日本はアジアにおける防凶の砦」と常々口にしていた。
1933/フランクリン・D・ルーズベルト(民主党)第32代(1933~1945)米国史上初めての4期連続の大統領。T(セオドア).ルーズベルト(共和党)第26代の遠縁。
1933/1発足問もない民主党のルーズベルト政権は、共和党の反対を押しきってソ連を国家承認した。
食民治主義と凶産党の画策中国支援 
 米国1927~1941.4億2000万ドルの援助。1941開戦後に17億3000万ドル援助。英国1939~1940.2000万ポンドの借款。ソ連1億5000万ドルの援助。その他数回援助。フランス1938年1億5000万フランの借款。1939年96000万フランの援助(蒋介石支援ルートへの援助)。
 日本は反共戦争。食民治主義と凶産党は中国に隠れ、寄ってたかっての日本(有色人種)潰し、食民治化が真相なのだ。
1938年12月1937(昭和12年)年7月に勃発した支那事変の推移は、1938年12月までには、首都南京はじめ、主要貿易都市、工業都市を日本が押さえたことにより、中国独自では継戦は不可能な状態となっていた。従って、日中関係の和平が回復してもおかしくないのだが、それがそうならなかった、食民治主義と凶産党が「対日戦継続を条件」に上記のように武器・資金援助を行ったからである。したがって売国奴が叫ぶ日本軍の暴走などではけしてない。
 米国はルーズベルト政権になってからの援助がほとんどだ。追随した援助はルーズベルト主導と考えて間違いはない。
 反凶戦争(日中戦争)の背景は売国奴が叫ぶ日本軍の暴走などではない。日本は日中共通の敵凶産ソ連と対処のため、早期和平を望んでいた。しかし、日本と中国の対立を望む食民治主義と凶産党が国民党・凶産党を支援し、中国凶産党拡大のための強引な反日攻勢が、戦線を拡大させた。中国が凶産化すれば日本は存亡の危機となるため、凶産と手を組んだ中国との反凶戦争は、止めるわけにはいかなかった。
1940/開戦1年前昭和15年日本の主要物資の輸入先
〇鉄類①アメリカ69,9% ②中国15,6%(注・米、中、合計で85,5%) ③インド7,5% ④その他7,0%
〇石油①アメリカ76,7% ②オランダ領インドネシア14,5%(注・米蘭合計で91,2%) ③その他8,8%
〇機械類①アメリカ66,2% ②ドイツ24,9% ③その他8,9%
 主要な輸入国を相手に戦争をするのは自殺と同じだ。
 反共戦争(日中戦争)を継続中で、多数の人的損失と戦費をすでに費やしていた。その状況下で更に英米蘭などの大国を相手に、新たな戦争を始めなければならない動機など、日本には皆無。日本が戦争を仕掛けたのではなく、仕掛けられたのは明白な事実だ。明らかに米(侵略植民地化)英(侵略植民地化)蘭(侵略植民地化)中(侵略狂惨化)ソ(侵略狂惨化)側に戦争の意図や動機があった。
食民治主義者と凶産党の宣戦布告
1941年7月25日~8月1日アジアにおける植民地支配体制の維持に障害となる日本の叩き潰しを図り、日米開戦の四ヶ月前の昭和十六年七月二十五日から八月一日にかけて、産業必需品である石油、錫、ゴム、鉄材などの対日禁輸をおこなうと共に、日本の在外資産一億三千万ドルを凍結した。英国、オランダも追随して共謀、経済封鎖を実施。
1941年8月1日米国の大統領ルーズベルトは八月一日に英国、オランダと協力して石油など戦略物資の対日輸出禁止の追い打ちを掛け、しかも南米産油国からの輸入を防ぐためパナマ運河も閉鎖したのである。米国には、この行為が日米戦争につながるとの認識は当然明確にあった。当時の日本の石油自給率は5パーセント、95パーセントを対日経済凍結地域からの輸入に頼っていたため、存亡の危機に見舞われた。開戦前年の昭和十五年の石油製品の需要は年間五百六万キロリットルなので、当時の石油備蓄量からは一年前後で在庫がゼロになる事態が予想された。ABCDラインは現代日本でも即、宣戦布告である。オイルショックを想起せよ。
 このように資源なき小国日本が追い詰められての、昭和16(1941)年9月6日に開催された御前会議に於ける、永野修身発言なのだ。

『戦わざれば亡国』
資源なき小国日本は再び包囲されて餓死か、降伏して奴隷。弱肉強食の時代の戦わずは、無条件降伏で、奪われても犯されても殺されても従うこと。(終戦時の韓国、ソ連の侵略を想起せよ・・・あれが現実の世界だ)。

『戦うもまた亡国』
世界の超大国米英仏蘭中ソが相手では必滅。
『であれば、戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国である』。
不屈の抵抗の歴史を子孫に残し、国名が消滅してもポーランドは復活した。抵抗もせず降伏すれば、屈辱、屈伏の歴史は隠蔽され、抵抗の歴史は無きものと成る。さらに征服者に洗脳され愚民化された抵抗の歴史無き子孫は、二度と立ち上がることなどなく日本は消え、食民治と化し、正に日本民族永遠の亡国となる。(南北アメリカの先住民族、・・・あれが現実の世界だ)

『戦って死中に活を見いだし』
戦うもまた亡国かもしれないが、食民治主義と戦えば、一縷の望み(食民治を解放し貿易の自由化)が生まれる。戦って一縷の望みに挑戦し、
『護国の精神に徹するならば』
勝者に隠蔽されないような、子孫を守るための必死な姿、生きざま、戦いざま、死にざまさえ残せば、

『たとい戦い勝たずとも、護国(祖父母、父母妻子、ふるさとを守る)に徹した日本精神さえ残せば、我らの子孫はかならずや再起、三起するであろう』。
たとえ占領され食民治にされ征服者に愚民化されても、残した挑戦の心や生きざま、戦いざま、死にざまを想起し、必ずや子孫は覚醒し、再び独立し、日本は復活する。我々はただの戦いではなく、子孫が必ずや想起し、覚醒復活するような、勝者に隠蔽されない史上比類なき戦いを残す、子孫のために。

 永野修身個人の発言だけではなく、出席者全員のほとばしる総意が集まり成したのだろう。子孫へのほとばしるおもい「最適者生存」は深く重い。・・・

食民治主義者の二度目の宣戦布告
ハル・ノートは昭和16年11月25日、ホワイトハウスでの戦争閣僚会議において翌26日、日本に手渡すことと決定した。この会議の出席者は、大統領・ハル国務長官・スチムソン陸軍長官・ノックス海軍長官・マーシャル陸軍大将・スターク海軍提督だった。ハル・ノートの内容は極秘で、米国議会さえも知らなかった。
「ハル・ノート」(概要)
1・日本軍の支那・仏印からの無条件撤兵。
2・支那における重慶政権(蒋介石)以外の政府・政権の否定(日本と南京国民政府=汪兆銘政権の対反共戦争を停止し、汪兆銘政権を裏切り見殺しにする)
3・日独伊三国同盟破棄(伊独両国との同盟を一方的に解消)。
 日本に対して、開国「明治維新1868年」以来、先人が最適者生存の時代を乗り切るため、血を流して護国のため戦い、営々と築いてきた、大陸における適者生存の生命線を全て放棄しろと、言ってきたのだ。これは、アメリカに対して、侵略し王国を滅ぼして併合したハワイや、ロシアから買ったアラスカ、更にメキシコを侵略して奪ったカリフォルニア、ニューメキシコ、テキサス等の諸州を全て放棄し、建国当初の東部十三州に戻れ、と言っている様なものなのだ。最適者生存の時代を乗り切るための日本護国の生命線を放棄。応ずれば、確実に弱体化、戦うことなく再度経済封鎖されて確実に亡国である。
 これだけのことを一方的に要求だけして、一言も、「経済封鎖の解除」には触れていない。「ハル・ノート」に従えば、ただ話し合いに応ずると言うことだけなのだ。ハル・ノートには日本が回答すべき期限は定められていないので、最後通牒とみなす必要はなかったという愚論がある。資源封鎖下でなにもせず坐すれば坐するほど、確実に亡国なのは、誰の目にも明白。こんなものを受諾する国家などない。
 大東亜戦争(大東亜団結戦争)侵略者食民治主義と凶産主義が、資源なき小国島国日本を資源封鎖し、兵糧攻めにした。資源無き日本、座すれば確実に亡国。要求に応じても、再度資源封鎖されれば、確実にこれまた亡国。目の上の瘤、資源封鎖。最適者生存の時代、資源なき小国島国日本の弱点払拭の選択肢は唯一、資源封鎖する侵略者の食民治からの追放だった。追放し、東亜(食民治)を解放し、独立国家貿易自由化圏、大東亜共栄圏を建設、互いに貿易自由化で資源を確保し、東亜が団結し一丸と化し侵略者と対峙すれば、一縷の望みが生まれる。蹶然「けつぜん(地を蹴って立ち上がる)」と起(た)って欧米の食民治支配を打破し、アジア地域に共存共栄東亜の自給自足共同体、大東亜共栄圏建設を目指した。大東亜共栄圏建設戦争、日本が戦争目的を冠し大東亜戦争と名づけた。植民地解放を掲げた名称なので、宗主国が忌み嫌い太平洋戦争と名称変更。名称変更までしたのは、正しくそうであったからだ。アジアへの侵略者と、のたまう愚者がいる。超大国米英蘭中豪に、さらにプラスしての全アジアとの戦争、となれば、戦争ではなく自殺だ。侵略者呼ばわりは、売国奴の輩のこじつけだ。大東亜戦争は、聖戦争や、侵略戦争や、正邪戦争などではない、東亜(食民治)を解放し、東亜が結束し大東亜となり、侵略者と対峙が目的の大東亜団結戦争、最適者生存戦争であった。
 かくして日本は蹶然と起って軍民一丸、共生共死、玉砕、インパール作戦、特攻隊、集団自決、無い無い尽くしの小国日本適者生存軍が唯一子孫に残せるもの、生きざま、戦いざま、死にざまを残した。そして人類は史上比類なき戦いの有り様を見せつけられた。凄まじい戦いざまは虐げられし人類のこころの琴線を共振させた。虐げられし人類は皆蹶然と起って、一切の障礙を破砕した。去った食民治主義者も覚醒し消滅。戦後わずか15年後の昭和35年(1960)に、国連が植民地を保有することを不法行為であると宣言し、その後、国連総会が植民地の保有を犯罪として規定すらした。開闢以来延々と続いた最適者生存の、弱肉強食本能の食民治主義は破壊され、先人の旗印、共存共栄平等に基づく新秩序が創造された。
 軍民一丸、戦って戦って戦って、矢尽き、刀折れ、力尽きた、無い無い尽くしの小国日本適者生存軍が唯一残したもの、軍民一丸、共生共死、玉砕、インパール作戦、特攻隊、集団自決、先人の子孫への遺言は、今正に世界を覚醒させ人類への遺言となった。
 ただの戦いであれば、誰も覚醒せず、決然として立つものなど無く、日本は分断され消滅していただろう。覚醒した虐げられし人類の追随が、食民治主義者の覚醒となり緩和され、分断されず早期の独立となった。先人の残したものは、先人の予言そのもの、敵をも覚醒させまさに子孫を守りきった。
 覚醒した旧宗主国は、かつての植民地の人々を受け入れ今は暮らしている。そして日本が共産を凶産と暴き、拡散防御した凶産国のチベットでの横暴を、みな率先して抗議してくれている。先人の残したものは今、計り知れない進歩を遂げ、先人、孫文、汪兆銘の思い「凶産の破壊」は間近に迫っている。
 生命体は、最適者生存の戦い弱肉強食を経て今が在る。食民治主義や凶産主義は最適者生存の戦いなので、善悪、正邪の尺度では決められない。覚醒せし人々に対してとやかく言うべきではない。それが人類の新たな進歩となる。
 しかし旧宗主国や小国を虐げた大国には、今でも虐げた小国や植民地の報復を恐れている妖怪が存在している。日本が覚醒し再び小国白色人種、有色人種の雄となり立ち向かう恐怖だ。憲法九条の制定から始まり、63年経てもいまだに続くアメリカ軍日本駐留はその証しだ。日本覚醒に反対し、売国奴活動する九条の会や識者、売国奴報道するNHKや新聞、週刊金曜日、日教組、みな妖怪の手先だ。売国奴大江健三郎に史上初のノーベル贋賞を授けたのも妖怪だ。大江の書き物は、賞に値する代物でないことが証明している。
 売国奴ノーベル贋賞大江健三郎らが叫ぶところの、戦わざればどうだったろうか。再度資源封鎖され日本亡国、人類は食民治主義と凶産主義に支配され、日本中国台湾朝鮮や世界の小国の国名は全て消滅、いやそれどころでは済まず、原爆戦争となり人類の消滅の可能性の方がはるかに高い。手術しなければ治らない病気もあるのだ。戦争全て悪とはいえない。ましてや日本の戦いは防衛戦争だ。防衛戦争を悪と呼んだ歴史皆無。金で国を売った正真正銘の売国奴であることは、明白である。
 敵味方悲惨なのを戦争と呼ぶ。ところが売国奴は、悲惨な話をする人を選択し報道する。それを見た視聴者は、そんな目に合わした日本軍極悪日本軍と、錯覚する。なぜ誰もがしたくない悲惨な戦争など、史上比類なき軍民一丸、共生共死、玉砕、特攻、集団自決など、しなければならなかったか、一番大事なことを、どうして報道しない、検証しない。天皇や日本軍の命令一言で、片付ける問題などではない。真っ先に、なぜどうしてと考えるのが、真の子孫だろう。考えもせず、極悪日本軍と先人罵倒だ。最適者生存戦争と語る人の報道一切無し。最適者生存戦争を直隠しに隠し、戦陣訓、「虜囚の辱(軍紀や法律違反)」を降伏禁止と捏造し、子孫死守した適者生存軍先人冒涜、語るに落ちた売国奴だ。中国、韓国への侮日施設見学土下座修学旅行主催、買われた犬日教組。曲学阿世の輩の巣窟、と化した日本。御前会議に於ける、永野修身の予言、正に適中だ。
 大東亜戦争はルーズベルトが捏造した陰謀に、アメリカ国民がだまされた揚げ句の戦争だ。日本の目ざしたものは共存共栄平等、八紘一宇の世界平和で、反凶自存最適者生存戦争で、食民治主義や凶産主義の侵略戦争ではない。もはや今は、世界の識者の定説と化している。アメリカは是々非々の国だ、ルーズベルトの陰謀、トルーマンの愚行を是々非々で認め、負い目を払拭すべきだ。
 そして日本もアメリカも、中国、北朝鮮、韓国を鏡として学び、子供に真実の教育をすべきだ。ルーズベルトの捏造から両国は戦争となった。捏造は恐怖を生み戦争を引き起こす。嘘で国家は成り立たない。捏造が国是の国家は崩壊するのが世の習いだ。ソ連・東ドイツ・ルーマニア・アフガニスタン・イラク、ものの見事に崩壊している。真実だけが国を造り、物を成し、友好を生む。真実を基にした世界だけが平和を成す。平和は真実からしか生まれない。 
 「軍民一丸、共生共死、玉砕、インパール作戦、特攻隊、集団自決」は、体を筆にし、流れる血で書いた子孫への、軍民一丸適者生存軍先人の遺書。人類は、犬死に無駄死にとは、とらなかった。人類への、比類無き遺書として受け取り、開闢以来延々と続いた最適者生存の、弱肉強食本能の食民治主義を破壊した。真の子孫ならば、先人の遺書を真っ先に精読することだ。 真実史観 2008.4.21.

戦陣訓虜囚の辱虜囚の意味敵を生きながら捕らえ来ること大正6年初版昭和15年改訂の講談社大字典

2008-03-31 09:29:45 | Weblog
戦陣訓虜囚の辱虜囚の意味敵を生きながら捕らえ来ること大正6年初版昭和15年改訂の講談社大字典

戦後辞書まで捏造された虜囚仮説から真実へ終戦までの虜囚の真意は

 「虜」は、生け捕りにした人、奴隷、敵、野蛮人。捕まえるという能動的な意味が強い。<解字>力ずくで捕らえ、じゅずつなぎにしたとりこのこと。

 「囚」は、とらえて拘束する。枠の中に人を閉じ込めるのように能動的意味が強い。(囚人)。<解字>枠の中に人を閉じ込めること。

 「俘」は、とらえて枠の中へ入れる。能動的意味が強い。<解字>囲んで逃げないようにする。

虜囚の類語(終戦までの意味)。

○「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」は明らかに罪過を犯し捕まった囚人だ。

○「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)・虜(とりこ)」は、日本国が捕まえ枠の中に閉じ込めた者「(とらえた人・囚人・めしうど)。日本国が捕まえた者「とりこ(生け捕りにした人・敵)」。終戦までの「虜囚」には、捕虜「戦争で敵国に捕まえられた者」のような受動的意味が全く無かった。

○ 「捕虜・俘虜(ふりょ)」は、「戦争で敵に捕まえられた者(捕まった者)」。主語が敵の、受動的意味だ。

 「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)」のように「囚」を含む文字の本来の意味は、枠の中に人を閉じ込める能動的意味が強いので、日本国が捕らえて閉じ込めた者、自国の兵、敵兵、主語が日本国の能動的意味だけだった。が、下記のように変化した。

 終戦までの「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)」と囚を含む言葉は、「囚人」の婉曲表現となった。

 終戦前の「虜囚」は、皇軍の兵が罪過を犯し日本国に捕まること、兵の囚人を意味し、皇軍の兵なので婉曲表現で呼称した。

 整理しよう。終戦前の「虜囚」の類語の意味は、下記のように使い分けされていた。

○「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」は罪科を犯し日本国に捕まった囚人。

○「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)・虜(とりこ)」は、日本国が捕まえた者(囚人)の婉曲表現か、皇軍の兵(囚人)の呼称。または、日本国が捕まえた敵兵。

○「捕虜・俘虜(ふりょ)」は、「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」。主語が敵国。

 大正6年初版昭和15年改訂の講談社大字典には「虜囚」・とりこ(イケドリ、シモベ、イケドル、生擒ス、化外ノ民えびす)字源・形聲。虍と母と力の合字。敵を生きながら捕らえ来ること。母は貫の本字にて敵を数珠つなぎに貫き連ぬる意ならん。力は腕力にて引率する義虍は音符。と記載されている。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」の記載皆無。

 昭和27年初版昭和49年新装発行、三省堂「辞海」「虜囚」・とらわれ人。めしうど。とりこ。まだこの時代では、日本国に捕まった人(囚人や敵)の意味だけである。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」の記載皆無。練馬区立図書館蔵書。

 結果、1/2行つまみ食い解釈でも戦前の解釈は「生きてる時も、皇軍の兵が日本国に捕まって囚人となるような辱めをするな」となる。

 戦後マスコミや鵜人や便乗した反日に、「虜囚の辱」が喧伝されたため、能動的な意味しかなかった虜囚に、全く無かった受動としての意味がだんだんと濃くなり、61年間歪曲喧伝され、捕虜「戦争で敵国に捕まえられた者」が入り込んだ。結果「日本が捕まえた者」が「戦争で敵国に捕まえられた者」となり、全く逆の意味となったというのが真相ではないのか。前述の講談社大字典1963年復刻、1993年第一刷、新大字典には「虜囚・とりこ。捕虜。」と、捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」が追加されている。仮説が適中した。言葉は時代に迎合するのだ。

 戦前は、「軍人勅諭」に記載無く、実行不可能な訓(教え)虜囚には、捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」の意味は、全くなかった。なぜなら、言葉に、はるかに鋭敏な方々が、起案責任者は人格者として誉れ高い今村均が、目を通し、なにも問題にしていない。戦前、「虜囚」は、いけどりにした敵、または囚人の婉曲表現、もしくは、囚人となった皇軍の兵を、意味する言葉だった。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」ではなかった。だから誰も問題にしなかった。と推測しないと、辻褄が合わないのだ。いかに戦時下とはいえ言葉にはるかに鋭敏な方々が、史上類の無い、実行不可能な訓(教え)「捕虜となるよりは自殺せよ」を採択する訳が無い。大義(公)(軍人勅諭)に生きる皇軍の兵に、規範の軍人勅諭に記載の無い捕虜は恥辱なので(私心)死ねと、臣(けらい)東條英機が教える(訓)ことなど、不可。よって虜囚の辱=捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」は捏造となる。

 がしかし、戦後、戦犯として処罰されることを極度に恐れていたマスコミに、「捕虜となるよりは自殺せよ」と、嘘の繰り返し喧伝報道を、反日も便乗して、61年間撒き散らされ、嘘が真実になってしまったのだ。まさに、ナチス・ドイツの宣伝大臣ゲッペルスの有名な言葉「嘘でも充分に繰り返し続ければ、真実になる」なのだ。戦前の虜囚の意味は「とりこ」。戦後の虜囚の意味は「とりこ。捕虜」と、マスコミの捏造により拡大し、変化した。言葉は時代に迎合し嘘が真実になった実例が、まさしくこれなのだ。

 検証の結果、虜囚の主語は正に日本国だ。「虜囚の辱(はずかしめ)」は(軍人が罪禍を犯し、日本国にとらわれ、軍人として恥ずかしい罪過の汚名をうけること。)のように一つの単語として考えるべきだろう。こうすると「第八 名を惜しむ」に、帰結し文意が合う。『戦陣訓』示達の目的 「(盗むな)(殺すな)(犯すな)を徹底させる」にも、「軍人勅諭」にも、合致する。戦時下一部マスコミのつまみ食いはあったが、「軍人勅諭』に記載無く、実行不可能な訓(教え)、虜囚=戦争で敵に捕まった捕虜と、だれも曲解しなかったので、なんら問題とならなかった。

起案責任者人格者として誉れ高い今村均将軍の言葉 

 「戦陣訓」起案責任者・今村均将軍は、戦時下も戦後も、「戦陣訓」の本意に従い、ひと筋に生きた。まさしく名将である。

 戦陣訓の本意。・・・本来は、中国大陸で戦闘をしている将兵に対して「戦闘の興奮」に紛れて強奪、強姦などをしてはならない、そんな事をすれば帝国軍人として「生きて虜囚の辱めを受けず・・・」と諭したもの。「続今村均回顧録」165ページ芙蓉書房

 戦後、報道されている定説となった「戦陣訓」の内容(捕虜となるよりは自殺せよ)は、「戦陣訓」の本意(真の意味)では無いと発言した。1954年11月 刑期を終え巣鴨拘置所を出所。マスコミにワンカット(つまみ食い)拡大報道され、反日も便乗した似非「戦陣訓」の大激流は、起案担当「責任の人」今村均でも、止めようが無かったのだろう。重要なのは、起案担当者自ら、今、報道されている「戦陣訓」の内容は、本意「ほんい(真の意味)」で無い、「誤解された」と発言していることだ。

 「戦陣訓」起案担当者・今村均陸軍大将・(1886~1968・行年82歳)は戦犯の刑期を終え天寿をまっとうしている。ラバウルでは要塞を築き、兵に自給自足制を確立させ終戦まで持ちこたえている。本土からの補給無しであるにも関わらず、無事に10万の兵を玉砕や自殺などさせず、帰国させた名将である(逃亡もせず日本国戦争指導者は粛々と帰国している。これは世界史上非常に稀有なことなのだ。先人冒涜者はこの事を熟慮すべきだ)。戦犯で戦犯収容所に服役し、出所し、自決などせず天寿をまっとうした。捕虜は恥ずかしいことではなく、虜囚の辱は(捕虜となるよりは自殺せよ)では無いということをみずから証明した。出所後は元部下の就職の世話をしたり、遺族を手助けしたり、まさしく「戦陣訓」ひと筋の生涯だった、「戦陣訓」最終章に殉じている。

 戦陣訓・『第八 名を惜しむ 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱(囚人の汚名)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。』

○戦陣訓第八の意訳文

『第八  名を惜しむ(名誉の尊重)

 恥を恥として知ることは強い。いつも故郷の人々や家族の名誉を忘れず、ますます奉公にはげんで、生きてる時も、皇軍の兵が法を犯し囚人と成るような辱めを受けず、死んだ時も、罪や過ちの汚名を残さず、恥を知り、名を汚さず、故郷の、戦功の期待に答えるように』 真実史観意訳

 これがマスコミや反日に61年間歪曲され続けた戦陣訓、今村均将軍の本意、真実の戦陣訓だ。61年後にやっと導き出された。このたった1/2行が、61年間先人を冒涜し続け、子孫の誇りをズタズタにしてきたのだ。鵜呑みし、鸚鵡返しに鵜呑知識を撒き散らし続け、61年を経た。なんと静かな鵜呑みの恐怖だったのか。今ではもう全日本人が洗脳されてしまった。

 検証しない鵜呑みの恐怖は現代にもある。ソニーの電池、三菱の自動車、雪印、外務省などのプール金、・・・等々たくさんある。どこかで誰かが検証し、踏ん張って止めておれば、いずれも事件にならなかったのだ。物事は真実が基準だ。捏造は亡国だ。

上記の文は下記サイトの要約です。『戦陣訓』、アメリカの東條英機自殺捏造の詳細は下記。

真実史観日本護国史戦勝国歪曲党売国党狂惨党に仕組まれ捏造された大東亜戦争
http://www.tofu-ryohin.co.jp/siten.htm



虜囚の辱の意味戦陣訓真意囚人を捕虜と捏造ウィキペディア捏造事典思想戦展開ついに馬脚を露す

2008-03-31 08:10:23 | Weblog
虜囚の辱の意味戦陣訓真意囚人を捕虜と捏造ウィキペディア捏造事典思想戦展開ついに馬脚を露す

 囁かれている『ウィキペディア(Wikipedia)』に潜む闇 馬脚をあらわす
捏造宣伝し、つまみ食いし、「思想戦」を展開するウィキペディア、鵜呑み危険。

『ウィキペディア(Wikipedia)』「戦陣訓」2007年3月30日 (金) 16:10

 ・・・同時に出撃した10名の写真から酒巻だけを削除し、「九軍神」として発表した。日本人捕虜第1号となった酒巻和男の家族は、人々によって「非国民」と非難された。そして、以後に捕虜になった者たちは親族が「非国民」とされるのを恐れ、偽名を申告し、ジュネーブ条約に基づいて家族に手紙を送るようなことも控えることが多かった。と、捏造記載。

 捕虜となったことは文頭のように削除され、終戦まで酒巻だけでなく皆、公表されなかったので、家族を「非国民」と非難することなど、出来るわけが無い。戦時下日本兵には一人も捕虜がゐない、と宣傳されていた。捕虜公表一切皆無は、明白な事実だ。これはまさしく侮日のためのウィキペディアの巧妙な(事実の中に嘘を混ぜ込む真相箱の手法)捏造宣伝だ。捕虜になっての偽名や家族への音信不通は、捕虜は公表されていないので、自分たちだけが捕虜になったのだという、うしろめたさがそうさせた。また捕虜同志の面子もあり、おのずとそうなった。

 ・・・そして、戰爭中、敗戰によつて眞相が暴露されるまで、日本兵には一人も捕虜がゐない、といふことがまことしやかに宣傳されたのである。しかし、兵隊として各地を轉戰した私は、多くの戰友が捕虜となつて敵軍中にゐることを知つて居り、戰場では捕虜たるべき状態は不可抗力であることも知つてゐた。火野葦平著「バタアン死の行進」小説朝日社P.24

戦陣訓『ウィキペディア(Wikipedia)』の捏造

 戦陣訓で示された規範に付いては『軍人勅諭』の内容とほぼ同じであるが、『国史大辞典』は『生きて虜囚の辱を受けず』の徳目を例にあげて「(軍人勅諭)を敷衍「ふえん(分かりやすくし広める)」するための説明であるという態度をとっているが」、「新たに強調した徳目も多い」としている。・・・当時は単に「軍人勅諭」の「施行細則」とのみ意識し、「新たに強調した徳目」に気づかぬ者もいたのである。国史大辞典編纂委員会『国史大辞典』第8巻(吉川弘文館、1987年)、441頁。

  (注・戦後42年後の1987年の辞典を引用し、規範の「軍人勅諭」に「降伏禁止」の記載が一切無いため、「新たに強調した徳目も多い」と、「降伏禁止」がさも書かれてあるかのように辻褄あわせのための捏造をしている。語るに落ちて捏造を自ら白状している。臣東條や臣今村に、規範の「軍人勅諭」を無視し、改竄は不可能。ウィキペディアの巧妙な、事実の中に嘘を混ぜ込む真相箱の手法だ)

「戦陣訓」原文

『第八 名を惜しむ 

 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。』

ウィキペディアの解釈=これは解釈ではなく、捏造だ。

 以下、解釈が分かれているので両論並記とする。(ただし、2つ目のものは現時点では論拠が不明な個所が多く、事実性・信頼性は低い。)

 1・「郷党家門の面目を思い、捕虜となって恥を晒したり、捕虜として相手に協力してあとでその罪を問われるようなことが無いように覚悟している者は強い。だから強くあるためにはそのような覚悟をしておけ。」という意味である。

(真実史観検証・捕虜として相手に協力してあとでその罪を問われるようなことが無いように覚悟している者、原文に記載なし。だから強くあるためにはそのような覚悟をしておけ、原文に記載なし。原文に記載の無いものを記載するのは、解釈ではなく、明々白々な捏造だ。)

 2・「軍人として恥ずかしい行いをすれば、捕虜になった時はもちろん、死んでからも罪禍の汚名を着ることになったり、同郷の者や故郷の家族から面目の立たない事になるのであるから、そういった軍人として恥ずべき行いはやってはいけない。」という意味である。

(真実史観検証・恥ずかしい行いをすれば、原文、汚名を残すこと勿れ。捕虜になった時はもちろん、原文に記載なし。罪禍の汚名を着る、原文、汚名を残す。同郷の者や故郷の家族から面目の立たない事になるのであるから、意味不明。原文無視の捏造意訳)

真実史観の解釈

 大正6年初版昭和15年改訂の講談社大字典には「虜囚」・とりこ(イケドリ、シモベ、イケドル、生擒ス、化外ノ民えびす)字源・形聲。虍と母と力の合字。敵を生きながら捕らえ来ること。母は貫の本字にて敵を数珠つなぎに貫き連ぬる意ならん。力は腕力にて引率する義虍は音符。と記載されている。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」の記載皆無。

 第八 名を惜しむ 恥を知る者は強し。常に郷党 〔きょうとう(同郷の人々)〕家門〔かもん(家柄)〕の面目〔めんもく(名誉)〕を思ひ、愈々〔いよいよ(ますます)〕奮励〔ふんれい(はげむ)〕して其の期待に答ふべし。生きて(生きてる時も)〔虜囚の辱〕(りょしゅうのはずかしめ)〔皇軍の兵が、罪禍(法律)を犯し、日本国の囚人となり、実刑で服役するような軍人としての恥ずかしい汚名。〕を受けず、死して(死んだ時も)罪禍〔ざいか(法律や道徳に背いた行為)〕の汚名を残すこと勿(なか)れ。』

『第八  名を惜しむ(名誉の尊重)

 恥を恥として知ることは強い。いつも故郷の人々や家族の名誉を忘れず、ますます奉公にはげんで、生きてる時も、皇軍の兵が法を犯し囚人と成るような辱めを受けず、死んだ時も、罪や過ちの汚名を残さず、恥を知り、名を汚さず、故郷の、戦功の期待に答えるように。』真実史観意訳

ウィキペディア戦陣訓捏造宣伝工作会議 このサイトがノート戦陣訓で右翼にされてますよとの読者の連絡、そのまま下記に貼り付けました。

 ・・・これは右翼などののブログの、戦陣訓は国民と海軍は全く知らず、陸軍でも一部の者しか知らなかったら、「戦陣訓」で自殺した者は皆無であり、東条英機にはまったく罪がない、という主張を補完する論調でした。例1、例2、例3 。世間にこのような歪曲された情報が流れている以上、きちんと研究の成果によって明確になっている情報を提供するべきだと思います。ですから、「生きて虜囚の辱めを受けず」の項目は縮小よりも、詳説が望ましいと思います。それから、「出典」が出てくるまで待つことには異論はありません。--Kafuka1964 2007年4月2日 (月) 01:17 (UTC)修正--Kafuka1964 2007年4月2日 (月) 01:20 (UTC) 

 ・・・とにかく、現状では「戦陣訓は必ずしも重要視されていなかった」証拠を示せば、「戦陣訓が自決を強いる思想では無かった」ことが正しい、と誤解しかねない表現になっているので、修正したい。(上記の歪曲された情報がこの論理を展開しているので、間違っていることをはっきりさせたい) Kome 2007年4月2日 (月) 15:20 (UTC)

 それが一番きれいなまとめ方に見えそうですね。賛成です。それと、個人的には出典でてこなければ解釈2は削除するのが正しいあり方だと思うのですが、変な話、ぶっちゃけこのままおいといてもいいのかなとも思ってます。というのも、解釈2を消して解釈1のみにすると、上記の右翼ブログを見た人、または関係者が、Wikiの解釈は間違っている、として改変してぐちゃぐちゃになるような気がしまして。いまのように併記でのせておけば、普通の人は解釈1と2でどっちをとるかといえば、1をとる(理論的に自然なほうをとるので)と思いますので、それほど2を載せても心配することはないように思いますが、どうでしょうか。(もちろん、タブをはったままは問題あると思うので、出典がわからない、または一部の人の解釈である旨を文章で補足するような形に直して)まあ、まだ書いた人が出典出してくるのを待つのが先の話ですが。-218.139.18.40 2007年4月2日 (月) 16:28 (UTC)ノート戦陣訓

 例1、はこのサイト。例2、例3は「戦陣訓の検証」を筆者が投稿した掲示板です。このサイトでは一字一句戦陣訓に関して検証し、理由も述べています。検証には検証で答えるのが礼儀でしょう。検証もせず、いきなり「右翼」「歪曲された情報」とは。「歪曲された情報」と非難するのなら、どうしてあのような飛躍した捏造解釈になるのか、ウィキペディア解釈の根拠をまず示すことだ。そしてどこがどう歪曲なのか、事例を挙げ検証し、筆者が挙げた理由に反論するのが道理でしょう。どうやらこの方々は検証姿勢皆無で、既設の固定観念が先にあり、そこに帰結しようと捏造工作しているようだ。

 このような意見もあるので、みんなで検証してみようではなく、「右翼」「歪曲された情報」と決め付けている。語るに落ちている。ウィキペディア基本方針「偏見を避ける 。中立的な観点に基づいて記述されなければならない」が欠如。偏見記述となっている。東条英機が鍵となっているので、今後どのように偏見記述し「思想戦」を展開するのかお手並み拝見し、「思想戦」に備えましょう。

 読者より、2の戦陣訓解釈の間違いや、特異な一人のご指摘等たくさんありましたが、すでに読者の皆さんは、語法の異なる一人に気付かれたことでしょう。囁かれているウィキペディアに潜む闇がついに馬脚をあらわしたようだ。捏造宣伝し、つまみ食いし、「思想戦」を展開するウィキペディア、鵜呑み危険。

戦陣訓とリンクさせるため戦後マスコミに捏造されたバンザイ突撃

 戦時下バンザイ突撃などと言う日本の作戦は無い。日系二世部隊第442連隊が、絶体絶命の苦境に立たされた時、一斉射撃のあと、銃剣を着けて掛け声気合をかけて、勇敢に突撃するので、(banzai attack)、または(Banzai charge)と呼ばれ勇敢な日系二世部隊の代名詞となっていた。弾は尽きても最後の最後まで生きて、生き抜いて弁慶のように戦い、死中に活を求め、戦い抜いて果てた日本軍人の勇敢に戦うさまを、米軍が日系二世部隊になぞらえて、良い意味で呼称した。

 日系二世は皇民化教育、戦陣訓教育一切皆無なのだ。このことはつまり、後付けの皇民化、戦陣訓など一切無関係で、日本民族は死中に活を求めて戦う民族であることを証明している。思想教育などでにわかに後付けされたものではなく、いにしえより流れる日本民族由縁の魂であることを物語っている。 日系二世部隊、ヨーロッパ戦線に参戦←戦い方が日本軍そっくりだ。

 戦後マスコミは戦陣訓とリンクさせるため、自殺のための攻撃と貶めて報じ、「バンザイ突撃」なる作戦があったかのようにを捏造し、報道した。死中に活を求めた戦いを、自殺行為と貶めた。結果下記の、ウィキペディアの巧妙な(事実の中に嘘を混ぜ込む真相箱の手法)捏造記述となった。戦い抜いて果てた先人に、こんな冒涜をする子孫は、世界中で日本人だけだ。何と異常なことだ。先人冒涜者は本当に子孫なのか、疑わざるをえない。捏造宣伝し、つまみ食いし、「思想戦」を展開するウィキペディア(捏造事典)の記述、鵜呑み危険。
 
 ・・・最初から全滅を覚悟して行われる場合が多い。自滅的攻撃と解釈されるのが一般的である。

 ・・・狂信的な兵士達の理解不能な自殺行為として恐れられた。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 ウィキペディアの創始者のジミー・ウェルズ(40)は「慈善的に人間の知識を集める事業であり、ブリタニカと同様以上の質をめざして努力している。ただ、百科事典(ウィキペディア)の引用は学術研究の文書には適切でないと言い続けてきた」と話す。  『ウィキペディア(Wikipedia)』頼み、誤答続々米大学が試験で引用禁止2007年02月23日

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(捏造事典)は百科事典とは呼べない代物だ、鵜呑みキケン。ウイキペディアは誰でも編集可能。狂惨党、愚民化政策党は徒党を組んで、捏造文章を作成している。 また、その捏造文章を、削除すると、書き込みブロックなどをされて書き込みを出来ない状態にされる。ウイキペディア は捏造の巣窟だ。名称は「捏造事典」がふさわしい。特に、アジアの捏造集団、狂惨党、愚民化政策党、侮日に関するものは、逆が真実だ。

戦陣訓虜囚の辱の意味戦陣訓真意囚人を捕虜と63年間捏造(つまみ食い)報道

2008-03-31 07:35:43 | Weblog
戦陣訓虜囚の辱の意味戦陣訓本意囚人を捕虜と63年間捏造(つまみ食い)報道

 「生きて捕虜の辱」そんな「私心」で玉砕したのではない。生きて生きて生きて生きて生き抜いて護国「公」(義)のため戦ったが、最後に力尽きて、結果が玉砕となったのだ。皆「公」、『軍人勅諭』「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ其「その」操「みさお(定めた意志を固く守ってかえないこと)」を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ」に対しての殉死だ。「義」(公)は死よりもはるかに重い、「公」(義)を果たさない汚名を受くるなかれと『軍人勅諭』は述べている。

 「義」(公)は死よりもはるかに重い『軍人勅諭』の皇軍の兵に、臣(けらい)東條英機は手本の『軍人勅諭』を無視し、「義」(公)の為ではなく、「私心・私利私欲」(捕虜になるのは辱だ)で死ねと教え(訓)たというのだ。規範の『軍人勅諭』を完全否定。ヒトラーはスターリングラード戦で、直々に「降伏禁止令」という、 狂気の極みとも言える命令を出し、凄まじい悲劇となった。東條英機をヒトラーと 同罪にするため、ただの単なる教え(戦陣訓)さえも、「降伏禁止令」であるかのように報道させた。明々白々な捏造だ。

 軍人が敵の捕虜になる場合は、投降(戦時下の降伏と、終戦のための降伏)と負傷(戦時下)により捕虜になる。気を失ったり、動けない負傷者までもが捕虜にならず死ねとは、動けないのに自殺などできない。終戦後も捕虜とならないで自殺せよ。こんな無茶苦茶な実現不可能な命令は、どこにも無いし、在りえないし、誰一人実行しなかった(戦陣訓ごときが原因で、だれも自決していない。東条英機が自決の理由「私心」にしたのは訳があったからだ。アメリカの東條英機自殺捏造の項目参照)。実現不可能な命令は、命令にならないので、出すはずが無い。結果、古今東西の歴史上に、こんな命令は存在しない。訓(教え)を命令にすり替えた、捏造だ。

 戦陣訓を過大評価しすぎです。皆さんは紙切れに書かれた1/2行で死ねますか?。

 命令としては存在し得ない命令を、あたかも在ったかのように61年間マスコミと咀嚼せず鵜呑み知識の鵜人と反日が、撒き散らし続け、終戦後戦陣訓を一人歩きさせた。結果嘘が定説となってしまった。 

 日本のマスコミと鵜呑み知識の鵜人は、戦争をあおったことによって、戦後、戦犯として処罰されることを極度に恐れていた。だから、戦争責任を逃れんがために、責任を軍人に全て押し付け、米軍に迎合し、プロパガンダ(捏造宣伝)に励んだ。後に、反日が侮日目的で便乗した。

 「捕虜となるよりは自殺せよ」は、戦時下一部マスコミがつまみ食いし、戦後に、米軍とマスコミと反日に、大々的に捏造宣伝されたものだ。

 軍人が不可抗力で敵の捕虜になることと、軍人が罪禍「ざいか(法律や道徳に背いた行為)」を犯し日本国にとらわれ処罰される事と、皆さんは、どちらが軍人としての虜囚の辱(はずかしめ)だとおもわれますか。

 「戦陣訓」示達の目的。中国戦線での軍紀の乱れを正すため、陸軍軍人だけに示達された。大東亜戦争の為にではない。内容は、「盗むな・殺すな・犯すな」を、「訓」なので直接表現せず、婉曲表現している。命令ではなく、法律でもなく、単なる「訓(教え)」である。

①戦陣訓・文意からの考察

戦陣訓

『第七 死生観
 死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
 生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容〔しょうよう(ゆったり)〕として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。』

『第八 名を惜しむ 

 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。』

『第八 名を惜しむ

 恥を知る者は強し。常に郷党〔きょうとう(同郷の人々)〕家門〔かもん(家柄)〕の面目〔めんもく(名誉)〕を思ひ、愈々〔いよいよ(ますます)〕奮励〔ふんれい(はげむ)〕して其の期待に答ふべし。生きて(生きてる時も)〔虜囚の辱〕(りょしゅうのはずかしめ)〔皇軍の兵が、罪禍(法律)を犯し、日本国の囚人となり、実刑で服役するような軍人としての恥ずかしい汚名。〕を受けず、死して(死んだ時も)罪禍〔ざいか(法律や道徳に背いた行為)〕の汚名を残すこと勿(なか)れ。』 補筆真実史観

○戦陣訓第八の意訳文

『第八  名を惜しむ(名誉の尊重)

 恥を恥として知ることは強い。いつも故郷の人々や家族の名誉を忘れず、ますます奉公にはげんで、生きてる時も、皇軍の兵が法を犯し囚人と成るような辱めを受けず、死んだ時も、罪や過ちの汚名を残さず、恥を知り、名を汚さず、故郷の、戦功の期待に答えるように』 真実史観意訳

 『第七 死生観・生死を超越し・・・悠久の大義(公)に生くることを悦びとすべし。』と教え『第八名を惜しむ・捕虜は辱(恥辱)(私心)なので捕虜にならず(大義でなく私心で)死ね。』こんな矛盾した解釈は成立しない。明白な捏造だ。

 広辞苑で虜囚を引くと、「とらわれた人(とらわれ人・囚人・めしうど)(主語が日本)。とりこ(生け捕りにした者・敵国に捕まえられた者)(主語が日本と敵国)。捕虜(敵国に捕まえられた者・生け捕りにした者)」(主語が日本と敵国)」と出てくる。虜囚、は、日本国の囚人(罪科を犯し捕まえられた者)と、とりこ、捕虜(生け捕りにした者と敵国に捕まえられた者)、の意味があるということになる(戦後61年後の現代においては)。意味が混濁しているのが判明する。言葉の意味に能動と受動相反する意味が存在することはおかしい。どちらかが後付けされた意味で、本来の意味から変化したものだ。辞書を繰ると「虜囚」の最後尾は「捕虜」、「捕虜」の最後尾は「とりこ」、「とりこ」の最後尾は「捕虜」。仮説とぴたり一致した。辞書は皆、新しい意味を書き足す、書き足された意味を外して整理してみよう。

 虜囚の意味「とらわれた人(とらわれ人・囚人・めしうど)(主語が日本)。とりこ(生け捕りにした者)(主語が日本)」となり明確になる。「捕虜」の意味は(敵国に捕まえられた者)となりこれも明確になる。意味の変遷は時代の証人。捏造の巨魁は報道屋。なんと辞書が暴いたのだ。

 なぜ虜囚を用いたか?。類語には、「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」、「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)」、「捕虜・俘虜(ふりょ)・虜(とりこ)」、がある。

 「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」は、明らかに囚人だ。

 「捕虜・俘虜(ふりょ)」は、明らかに敵国の捕虜だ。

 「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)・とりこ」は、日本国の囚人と敵国の捕虜両方の意味が有るという(戦後61年後の現代においては)。

 誇り有る軍人の訓だ。生きて「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」の辱、とは余りにあからさまで、使えない。やはり、格調高く、響きも良い(旅愁を連想)、「生きて虜囚(とらわれた人)の辱」、しかない。しかし、この格調の高さが、婉曲表現となり、あいまいさとなって、つけ込まれ、マスコミの歪曲(つまみ食い報道)の起因となった。兵士の中にも、つまみ食い読みをしたものがいた。この項最終章の「カウラの大脱走」も、そうだ。格調の高さが、婉曲表現となり、あいまいさとなって、悲劇を生んでしまった。 「サイパン島守備兵に与える訓示」のように「捕虜の辱め」は「私心」なのに、捕虜とならないで死ぬこと(私心)が、あたかも大義に準じるかのように混同して訓示した者もいた。下記赤字は「大義」で黒字は「私心」だ。なんと中将クラスでさえも、内容を理解していなかったのだ。戦陣訓の内容理解度は、推して知るべしだ。

1944年7月3日 サイパン島守備隊南雲忠一中将、斉藤義次中将連名「サイパン島守備兵に与える訓示」    
 「断乎(だんこ)進んで米鬼(べいき)に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』。勇躍全力を尽して従容(しょうよう)として悠久(ゆうきゅう)の大義に生きるを悦びとすべし。」

 アッツ島玉砕も(1943年5月29日北海守備隊第二地区隊山崎保代大佐発令)は「非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り、陸海軍共一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。共に生きて虜囚(ウイキペデアは捕虜と記載)の恥かしめを受けざる様覚悟せしめたり」と、戦陣訓をつまみ食い読みしている。web大本営発表

 1943年5月29日 北海守備隊第二地区隊山崎保代大佐発令非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り、陸海軍共一隊を編成、攻撃隊の後方を前進せしむ。共に生きて捕虜の辱めを受けざるよう覚悟せしめたりなお、アッツ島玉砕をつたえる朝日新聞1943年5月31日朝刊には、「一兵も増援求めず。烈々、戦陣訓を実践」との見出しを見ることができる。(谷報道部長の談話)ウイキペデア最終更新 2008年3月28日 (金) 04:04。このような朝日新聞の捏造報道で、虜囚=捕虜と雲忠一中将のように信じてしまった人もいる。後述するが当時の「虜囚」は、敵を生きながら捕らえ来ることで、敵に捕まえられる受動の意味皆無。活字が糧の新聞屋が、知らなかったと言ったら嘘になる。当然知ってて捏造した。朝日新聞は戦前も戦後も、捏造の巨魁だ。ウイキペデアの虜囚=捕虜は、この報道や南雲忠一斉藤義次中将の訓示を、根拠にしている。報道1943年5月、訓示 1944年7月、中将が、この報道を知らなかったはずは無い。新聞屋の捏造報道が、ウイキペデアの根拠なのだ。

 マスコミの部分つまみ食い報道の「生きて虜囚の辱めを受けず」には、「生きて虜囚(A敵国の捕虜となった辱め。B日本国にとらわれ囚人となった辱め)を受けず」とA・B二つの解釈が成り立つのだが(戦後61年後の現代においては)、これまでマスコミは降伏禁止の、Aの部分をだけを戦後拡大偏向つまみ食い報道してきた。

 しかし全文は上記である、文意が合わない。

 生きて・・・死して・・・勿(なか)れ。

 生きている時も・・・○を・・・受けず、死んでも罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ。

 簡略すると、「生きても○ず、死しても罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ。」と呼応し、○を強調した文なので、○=罪禍の汚名となる。「A敵国の捕虜=罪禍(法律や道徳に背いた行為)の汚名」では一致しない。B皇軍の兵が罪過(法律)を犯し、日本国の囚人となり、軍人としての恥ずかしい汚名=罪禍(法律や道徳に背いた行為)の汚名となり、一致する。この場合罪禍=『戦陣訓』示達の目的 「(盗むな)(殺すな)(犯すな)」になる。

 結果、生きている時も・・・「皇軍の兵が、罪禍(法律)を犯し日本国の囚人となり、軍人としての恥ずかしい汚名」を・・・受けず、死んでも・・・罪禍「ざいか(法律や道徳に背いた行為)」の汚名を残すこと勿(なか)れ。となる。

 生きて(法律に背く)の汚名、死して(道徳に背く)の汚名=罪禍「ざいか(法律や道徳に背いた行為)」の汚名を残すこと勿(なか)れ=『第八 名を惜しむ』表題と、呼応した文となる。

 戦陣訓戦後の定説は、虜囚の辱=敵国の捕虜。軍人が敵国の捕虜になる場合は、A戦時下の投降(部隊・個人)、B戦時下の負傷のため投降(個人)、C終戦による投降(国の敗戦)と、戦後の定説(虜囚の辱=敵国の捕虜)では三者三様の捕虜になる。Bは動けず実行不可。Cは終戦なのに自殺せよと矛盾し実行不可。よって、(虜囚の辱=敵国の捕虜)は成立せず。

 規範の明治天皇の「軍人勅諭」に一切明記の無い(降伏禁止)を、陸軍大臣(家来)東條示達の「戦陣訓」に記載は出来ない。それでも(降伏禁止)記載ありと主張するのは、捏造以外の何ものでもない。

 訓より上位の陸軍刑法、海軍刑法、法にも「降伏禁止」は、一切記載無し。無いものを有りとするのは、捏造以外の何ものでもない。

 大正6年初版昭和15(1940)年改訂の講談社大字典には「虜囚」・とりこ(イケドリ、シモベ、イケドル、生擒ス、化外ノ民えびす)字源・形聲。虍と母と力の合字。敵を生きながら捕らえ来ること。母は貫の本字にて敵を数珠つなぎに貫き連ぬる意ならん。力は腕力にて引率する義虍は音符。と記載されている。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」の記載皆無。

 上記の文は下記サイトの要約です。『戦陣訓』、アメリカの東條英機自殺捏造の詳細は下記。

真実史観日本護国史戦勝国歪曲党売国党狂惨党に仕組まれ捏造された大東亜戦争
http://www.tofu-ryohin.co.jp/siten.htm

 「今こそ戦後の呪縛を断ち切れ」といくら叫んでも侮日プロパガンダ・捏造戦陣訓が有る限り無駄なのです。NHKを初めとする戦陣訓責任転嫁捏造報道は、日本国民の心を傷つけ、相当に罪深いものがあります。今、日本国民は、パール判事の予言のように、歪められた罪悪感を背負って、卑屈、退廃に流されて生きています。このままでは、あまりにも子孫が哀れです。
○インドのパール判事(ラダ・ビノード・パール) 

「意見書の結語」

時が熱狂と偏見とをやわらげた暁には

また理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には

その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら

過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう

 昨年、虚偽の「戦陣訓」の、その仮面を剥ぎとりました。戦後62年の今年は、正義の女神の出番です。正義の女神となり、今年は、過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求しなければなりません。上述のように国民は戦陣訓で病んでいます。多くの正義の女神の助けが必要です。マス・メディアや国民は戦勝国のプロパガンダを62年経ても未だに引きずっています。日本人の心の戦後は、いまだ訪れてはいません。まず真実の戦陣訓の流布。真実の戦陣訓に覚醒すれば、他は自ずと覚醒します。    
 終戦62年後の今年、正論で戦勝国のプロパガンダを絶ち切り、正義の女神となり、真実の戦陣訓を流布し、日本人の心の戦後を迎えましょう。そして、子孫に実事求是の真実の歴史を残しましょう。