真実史観で子孫に遺す日本適者生存99年史

歴史には真実と捏造が有るのみ。東大やマスコミ等、虚業が造語の、自虐も保守も革新も右も左も無い!真実の歴史を子孫に遺そう。

戦陣訓真実虜囚の辱意味変化辞書記載し証明捕虜解釈を否定捏造実証

2008-04-18 18:41:31 | Weblog
戦陣訓虜囚の辱意味変化辞書記載し、識者、報道屋の捏造暴露。正答は、捕虜=捕まえた敵(虜)、虜囚=檻の中の敵(虜)と囚人と、辞書が断定。識者、報道屋の捏造を、辞書が暴露、実証した。「虜囚の辱」、正答は、「日本に囚われ囚人となる恥」。

 意味はどうでも一人歩きさせたから悪いと先人罵倒の愚者(売国奴)がいる、一人歩きしたのは戦後だ、させたのは迎合した報道屋と無検証鵜呑みの識者だ、先人に責任は無い。 

「虜囚」と「捕虜」の意味が戦後変化し真反対の意味を付加。辞書が戦後の捏造を暴露。
大正6年初版昭和3年新版昭和15年華語増補版発行昭和38年第一版発行の講談社大字典
「捕虜」の意味 いけどり。とりこ。(能動)
「虜囚」の意味 とりこ。(能動)

広辞苑初版昭和30年、第二版昭和40年版
「捕虜」の意味 戦争などで敵に捕らえられた者(受動)。とりこ。→ふりょ俘虜。(能動)
「虜囚」の意味 とらわれた人。とりこ(能動)。捕虜(受動)。

大正6年初版昭和3年新版昭和15年華語増補版発行昭和38年第一版発行の講談社大字典より。練馬区立図書館蔵書。

「捕」はホ。ブ。フ。トラフ(動、下ニ) トル、字源 形聲 とらふると故に扌扁。甫は音符。

「俘」はフ。トリコ(名) トラハレ トル、(注・戦後版は、とらわれ/とる。となっている。意味不明だが、「俘」とその熟語、戦前戦後、どの辞書も受動の意味皆無)イケドレ(注・ルが擦れてレに見える。戦後版では、いけどる) 字源 形聲。戦争にて死者の左耳を取るを戫、生きながら捕獲するを俘という、故に人扁。孚は音符。

「虜」はリヨ。ロ。トリコ(名) イケドリ、シモベ、イケドル、生擒ス、化外ノ民、えびす、字源 形聲。虍と母と力の合字。敵を生きながら捕らえ来ること。母は貫の本字にて敵を数珠つなぎに貫き連ぬる意ならん。力は腕力にて引率する義虍は音符。

「囚」はシウ。ジユ。トラウ(動下ニ)トラハル(動下ニ)トリコ(名) メシウド、罪人、俘虜、ツナグ、字源 會意。囗と人の合字。人が囗(かこみ)の中につながれし意にてトラハルルこと。泅は囚を音符とす。

 「捕・俘」単独の意味は全て能動。受動の意味皆無。捕まえる、捕まえられる、俘にする、俘にされる、のように、付加した単語の助けで、能受動を使い分ける。捕虜にする(能動)。捕虜にされる(受動)。「捕・俘」は檻の外の捕まえた敵。「捕・俘」の熟語の意味も全て能動。受動の意味皆無。

 「虜」には、「イケドリ、イケドル、生擒ス(生け捕る行為=日本軍が敵兵を生け捕ること)」と「シモベ、化外ノ民 えびす(生け捕った相手=生け捕った敵兵)」と「母は貫の本字にて敵を数珠つなぎに貫き連ぬる意ならん(相手の状態=拘束)」と記され、生け捕る行為と、日本軍が生け捕った相手と、相手の状態が記され、敵兵は存在し、能動。敵に捕まえられた日本兵は存在しない。受動の意味皆無。

 「囚」は「メシウド、罪人(トラ<囚>えた囚人=トラ<囚>われた囚人)。俘虜(トラ<捕>えた敵兵=トラ<囚>われた敵兵)」=生け捕った相手と、「ツナグ(人が囗(かこみ)の中につながれし意にてトラハルルこと)」=生け捕りツナいだ状態の相手(囲みの中の人)と記され、日本軍が生け捕りツナいだ状態(囲みの中の人)の相手、敵兵は存在し、「トラウ(動下ニ)トラハル(動下ニ)」と能受動が混在する。「囚」は囲みの中の人の総称(トラ<囚>えた人、トラ<囚>われた人)を意味し、能受動が混在し、「囚」は檻の中の捕まえた敵と人。したがって「囚」の熟語には、囚らえた人、囚われた人(檻の中)が混在する。能受動が混在するが、敵に捕まえられた日本兵(檻の外)は存在しない。

 「捕」は捕まえる動作(檻の外)。囚は、「捕」の結果生じた状態(檻の中)。

上記大字典の熟語の意味

「捕縛」の意味 とらえしばること(とらえしばる行為)(能動)。

「捕虜」の意味 いけどり(生け捕る行為)。とりこ(生け捕った相手)。

 主語が日本の訓。日本が生け捕った敵兵(檻の外)。能動態。敵につかまった日本兵ではない。受動の意味皆無。

「俘虜」の意味 とりこ。捕虜。

 主語が日本の訓。日本が生け捕った敵兵(檻の外)。能動態。敵につかまった日本兵ではない。受動の意味皆無。

「囚人」の意味 つみびと。めしうど。「囲みの中の人(囚らえた人、囚われた人)。能受動」(檻の中)

「囚徒」の意味 とらわれびと(囚われ人)。めしうど。「囲みの中の人(囚らえた人、囚われた人)。能受動」(檻の中)

「虜囚」の意味 とりこ。

 主語が日本の訓。囲みの中(牢獄、檻の中)に閉じ込めた状態にした、日本が生け捕った相手、「囚人=日本にとら<囚>われた人。敵兵=日本にとら<囚>われた敵兵」となる。(状態は檻の中)。能動受動。敵に捕まった日本兵(檻の外)ではない。

 「虜囚」は能受動が混在。「捕虜」は、「捕虜にする」(敵を捕まえる)。「捕虜にされる」(敵に捕まる)、「捕虜になる」(敵に捕まる)、と付加した単語の助けで意味変化し能受動表現となる。捕虜には単語の助けで変化した意味、「捕虜になる(敵に捕まる)(受動)」があるが、「捕虜」(名詞)単独では、「生け捕りした敵兵(檻の外)」(能動)だけの意味となる。

 「虜囚」は「囚」により、囲みの中に閉じ込めた人の総称「囚人=日本にとら<囚>われた人、敵兵=日本にとら<囚>われた敵兵(状態は檻の中)」となる。簡略すると、捕虜=捕獲した敵兵(檻に入っていない)だが、虜囚=檻の中の敵兵と囚人。「捕虜=捕獲した敵兵」の処遇が、「虜囚=檻の中の敵兵」となる。「虜囚」は、「捕虜」の処遇を意味し、「囚」(檻の中)と「捕」(檻の外)の違いは明白だ。「捕虜」=「虜囚」は捏造。

 「捕虜」単独の意味は、生け捕りした敵兵(檻の外)。「虜囚」は、閉じ込めた人「(囚人=とら<囚>われた人)。(生け捕りした敵兵=生け捕りされた敵兵)」(檻の中)。と成り、「虜囚・捕虜」には、生け捕りした敵兵はいるが、「虜囚・捕虜」には、敵につかまった日本兵は存在しない(受動)。

 「虜囚の辱」=捕虜(生け捕りした敵兵)の辱。では戦陣訓と成らないのだ。虜囚の辱は、敵兵への訓ではない、日本国の兵への訓である。したがって、「虜囚の辱」=「(囚人=とら<囚>われた人)の辱」=「虜囚の辱」=「日本国に捕まって囚人となる辱」と、なる。「捕虜」=「虜囚」は捏造。

 検証したように虜囚=捕虜とするなら「捕虜単独の意味は、生け捕りした敵兵」以外に無い。「捕虜」の意味は前述のように単語の付加(受動)により意味が変化する。付加の単語無き文で捏造の「戦争などで敵に捕らえられた者(受動)」と解釈するのは不可。

 「捕虜となる辱」・「捕虜にされる辱」・「捕虜になる辱」と、単語(受動)の付加が成されて初めて変化した意味となり「敵に捕まる(受動)=戦争などで敵に捕らえられた者(受動)」捏造した捕虜の意味となる。「捕虜」の文字と単語(受動)の付加など、どこにも無い「虜囚」を、「虜囚」=「捕虜」と解釈は、捏造以外の何物でもない。

 「捕虜」単独の意味「生け捕りした敵兵(能動)」を戦争などで敵に捕らえられた者(受動)にし、捕虜の意味を改竄し、捕虜=虜囚、虜囚の辱=戦争などで敵に捕らえられた者の辱=降伏禁止と捏造した。報道屋は用意周到に、捕虜の意味から捏造していたのだ。虜囚を繰ると戦前の辞書には「とりこ」、戦後の辞書には「とら<囚・捕>われた人(檻の中・檻の外)」とでてくる。戦前、戦後の辞書で「囚」を繰ると「とら<囚>われる(檻の中)」とでてくる、これに皆だまされた。「とら<囚>われた人(辞書の意味はとら<囚>われた敵兵、主語日本、日本にとら<囚>われた敵兵)(檻の中)」の意味を、「敵にとら<捕>われた日本国の兵(檻の外)」と錯覚してしまったのだ。主語を把握し、虜囚だけの検証ではなく、「捕虜」単独の意味をも検証すれば、当の昔に氷解したのだ。

 戦時下一部の報道屋は「日本にとら<囚>われた人」を、「敵にとら<捕>われた人」とつまみ食いし、報道したため、信じた者もいた。戦後、虜囚の辱=とら<囚>われた人の辱=捕虜(敵に捕まえられた日本兵と捏造)の辱=降伏禁止=玉砕=集団自決=極悪日本軍とし、扇動した。戦後は報道屋総動員で迎合し、徹底的に扇動、結果皆洗脳され続けている。「捕虜」単独の意味日本がとら<捕>えた敵兵を、真反対の敵に捕まえられた日本兵と捏造、先人罵倒の起因がこの捏造に在る。

 捏造のため戦前の辞書と整合せず、戦後の辞書は皆変化したが、後述の「鯨に捕まった捕鯨船』のような矛盾が生まれ、捕虜限定の意味となった。しょせん捏造は捏造なのだ、矛盾が証明している。

昭和27(1952)年初版昭和49(1974)年新装発行、三省堂「辞海」。練馬区立図書館蔵書。

「捕虜」の意味 とりこ。俘虜。(受動の意味皆無)

「虜囚」の意味 とらわれ人(虜囚の主語日本。日本にとら<囚>われた人、囚人と敵兵。敵にとら<捕>われた日本兵ではない)。めしうど。とりこ。

 まだこの時代では、日本国に捕まった人(囚人や敵)の意味だけである。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」の受動記載皆無。

前述の講談社大字典昭和38(1963)年復刻、1993年第一刷、新大字典。

 戦前の大字典「捕」。ホ。ブ。フ。 トラフ(動、下ニ) トル。戦前の「捕」は受動の意味皆無。

 戦後の新大字典「捕」はホ。ブ。フ。 とーらえる・とーらわれる・とーる・つかーまえる・つかーまる字義(一)(ニ)とらえる(とらふ)(動)/とる(動)。つかまえる(つかまふ)(動)。字源 形声 とらえること。ゆえに扌偏。甫。音符。語尾で受動。「捕」は能動のままで変化無し。

 「捕」の熟語を繰ると、「捕虜」の意味 いけどり。とりこ。戦前と変わらず、変化無し。

 戦後の新大字典「虜」はリヨ。ロ。ル。トリコ(名) いけどり。しもべ。いけどる/化外ノ民。えびす。「いけどり。いけどる。(生け捕る行為=日本軍が敵兵を生け捕ること)」と「しもべ。化外ノ民。えびす。(生け捕った相手=生け捕った敵兵)」と記され、生け捕る行為と、日本軍が生け捕った相手、敵兵は存在し、能動。敵兵に捕まえられた日本兵は存在しない。受動の意味皆無。戦前と変わらず、変化無し。

 「慮」の熟語を繰ると、「虜囚」の意味 とりこ(日本が捕まえた敵)。捕虜。」と、あらたに捕虜が加筆。「とりこ」には日本が捕まえた敵(捕虜)の意味、既に在り。加筆は、捕虜=戦後の捏造=戦闘で敵軍に捕らえられた者(敵に捕らえられた日本兵)=受動態の意味、加筆である。「虜囚」=囚人、敵兵に、真反対の新たな意味(戦闘で敵軍に捕らえられた者=敵に捕らえられた日本兵)が付加された。

 講談社大字典「捕」「慮」の意味、戦前も戦後も変化無し。

 熟語「虜囚」の意味だけが能受動(新たな意味)混在(日本がトラ<囚>えた敵兵=日本にトラ<囚>われた敵兵=檻の中、本来の意味に、敵がトラ<捕>えた日本兵=敵にトラ<捕>われた日本兵=檻の外と、新たな意味が付加された)し戦後変化した。戦陣訓主語日本が、日本の兵に対しての訓、「虜囚」の主語日本、敵ではない。日本が捕まえた囲いの中の人「虜囚」=囚人、敵兵に、敵軍に捕らえられた日本兵が同居しているというのだ。居るはずの無い人がいるのだ。日本の「虜囚」に、敵軍に捕らえられた日本兵が存在するわけなど無い。「虜囚」の主語が、日本なのか敵なのか、考えれば氷解することだ。このことだけでも捏造は明白なのだ。戦陣訓「虜囚」の主語は、日本だ。

新選漢和辞典小学館昭和38(1963)年初版昭和60(1985)年新版

「捕」。ホ。ブ。 とら・える。つか・まえる。つかま・る。とらわ・れる。(とらは・る)。とる。語尾で受動。「捕」は能動のままで戦前と同じ。

「捕」の熟語「捕虜」の意味  とらわれた人。とりこ。俘虜。

 能動の意味生け捕った敵「捕虜」の意味が、真反対の意味を含む、「とら<捕>えた敵兵と、とら<捕>われた日本兵」能受動混在に変化した。唯一「捕虜」の意味だけが能受動混在。他の熟語は能受動混在皆無。

「慮」は戦前の大字典と同じ。

「慮」の熟語「虜囚」の意味  とりこ。捕虜。

 「虜囚」には日本が囚えた敵(捕虜)=とら<囚>われた人の意味、既に在り。捕虜加筆は、捕虜=戦後の捏造=(敵に)とら<捕>われた人(日本兵)=受動態の意味、加筆である。「虜囚」=囚人、敵兵に、真反対の新たな意味「(敵に)とら<捕>われた人(日本兵)」が付加された。

 新選漢和辞典「捕」「慮」の意味、戦前と同じ。熟語「捕虜」「虜囚」の意味だけが戦前と異なり「捕虜」能動に受動付加。「虜囚」にとら<捕>われた人(日本兵)が付加され、変化した。他の辞書も同様、変化したのは熟語だけ。これも前述同様、日本が捕まえた囲いの中の人「虜囚」=囚人、敵兵に、(敵に)とら<捕>われた人(日本兵)同居となる。「虜囚」の主語が、日本なのか敵なのか、考えれば氷解することだ。戦陣訓「虜囚」の主語は、日本だ。

広辞苑初版昭和30年、第二版昭和40年版

 「捕虜の意味・戦争などで敵に捕らえられた者。とりこ。→ふりょ俘虜」。

 「虜囚の意味・とらわれた人。とりこ。捕虜」

「捕虜」  戦前の生け捕った敵「捕虜」の能動の意味が、真反対の意味を含む、「戦争などでとら<捕>えた者(敵)と、戦争などで敵にとら<捕>われた者(日本兵)」能受動混在に変化した。

「虜囚」  戦前の虜囚の意味 日本にとら<囚>われた(檻の中)、囚人、敵兵。に、とら<捕>われた人。捕虜(戦争などで敵に捕らえられた者=主語日本なので日本兵。受動)を付加。真反対の意味、戦争などで敵に捕らえられた日本兵、が付加された。これも前述同様、日本が捕まえた囲いの中の人「虜囚」=囚人、敵兵に、戦争などで敵に捕らえられた者(日本兵)同居となる。

「辭林」1907(明治40)年発行「広辞林第六版」1983(昭和58)年三省堂(現在知りえる、唯一意味変化の無かった、正答の辞書。戦前初版の辞書は、変化が少ない。整合がない真反対の意味とするのに、ためらいがあったのだろう)

[捕虜の意味] とりこ。いけどり。「ー収容所」。(受動の意味皆無)

[虜囚の意味] とりこ。とらわれ。「ーのはずかしめを受ける」

「虜囚」  とら<囚>われ(檻の中)(日本兵への訓、虜囚の主語日本)。=日本にとら<囚>われる。敵にとら<捕>われた日本兵ではない。「ーのはずかしめを受ける」(日本兵への訓、虜囚の主語日本)=「日本に囚われ、とら<囚>われのはずかしめを受ける」。

 唯一意味変化の無かった辞書であるが、主語を把握して解釈しないと、「敵にとら<捕>われる」になる。日本が日本兵に対しての訓なので、「虜囚」単独記載の主語は日本しかない。ありえない敵を主語にしていることに気付けば、もっと早く捏造を暴露できた。「虜囚」単独記載の主語「日本」は明白なので、「虜囚」の意味の中に主語、「敵」を入れるため、「捕虜」を、「敵に捕らえられた者」受動にして、辞書は整合させた。上記「広辞林第六版」は主語に気付いたから、[捕虜の意味]も変えなかったのだ。こまごまと検証したが、「虜囚」単独記載の主語を把握し、日本が捕らえ檻の中にいれた「虜囚」と主語を明確にすれば、「虜囚」=檻の中の敵兵(虜)と囚人(囚)が自ずと現出する。日本兵への訓単独記載の「虜囚」に、主語「敵」介入の余地など微塵も無い。

 辞書が捏造に追随し変化したが、虜囚=囚人、敵兵、戦争などで敵に捕らえられた者(日本兵)同居。などの矛盾を導き出し、辞書が結局捏造を暴露した。

 敵が主語の「虜囚」ではない、日本が主語、日本が捕らえ檻に入れた「虜囚=とりこ(囚人、敵兵)」に、敵に捕まえられた日本兵の存在など有得ない、不可能。「虜囚」の主語が、日本なのか敵なのか、考えれば氷解することだ。戦陣訓「虜囚」の主語は、日本だ。

 言葉は時代に追随する、戦後の解釈に整合しないから、辞書の熟語だけが、真反対の意味を含む能受動に変化した。能動が能受動混在に変化。変化はしたが、捕鯨=捕鯨船が鯨をとる、が、捕鯨=鯨にとらえられた捕鯨船となったため、「捕」は変化せず、熟語「捕虜」だけに限定された、特異変化となった。ここでも辞書は戦後の捏造を実証した。

 戦後の解釈「虜囚=捕虜=敵にとら<捕>われた日本兵」に整合しないから、辞書が真反対の意味を含む能受動に変化し整合させた。つまり、辞書が変化し戦後の解釈を完全否定、意味変化することで、戦後の捏造を辞書が実証したといえる。辞書が変化し、解釈不適を露呈、虜囚=捕虜の捏造を辞書が暴露。正答は、捕虜=捕まえた敵(虜)(檻の外)、虜囚=檻の中の敵(虜)と囚人以外該当せずと、辞書が断定した。

 しかしながら、辞書の真意は伝わらず、今ではこのように、すべての辞書が逆に捏造ウイルスと化している。辞書も捏造の坩堝と化し、混乱し洗脳を助長しているのが現実だ。63年間撒き散らされ、嘘が真実になった実例がこれだ。まさに、ナチス・ドイツの宣伝大臣ゲッペルスの有名な言葉「嘘でも充分に繰り返し続ければ、真実になる」・・・。捏造亡国。

戦陣訓

『第八 名を惜しむ 

 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱(囚人の汚名)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。』

戦陣訓意訳

『第八 名を惜しむ(名誉の尊重)

 恥を恥として知ることは強い。いつも故郷の人々や家族の名誉を忘れず、ますます奉公にはげんで、生きてる時も、皇軍の兵が法を犯し囚人と成るような辱めを受けず、死んだ時も、罪や過ちの汚名を残さず、恥を知り、名を汚さず、故郷の、戦功の期待に答えるように』 真実史観意訳

内容は今村均将軍が証言したように、正に「諭したもの」だ。

戦陣訓(せんじんくん)は兵士はもちろん国民も皆覚えていたか?証言

山本七平と安岡章太郎のマスコミ批判掲載の山本七平著『私の中の日本軍』文春文庫より。

(ジャングルの中で飢えとマラリアにバタバタと兵士が倒れる状態の中)
 ・・・『ではそんな状態にいて、いずれ近々死ぬことが分かっていて、なぜ投降も降伏もしなかったのか、という疑問は、当然誰の頭にも浮かぶであろう。投降も降伏も念頭になかったのは、もちろん明確な具体的な理由があるからである。

 ・・・ただはっきり断言できることは、私たちの場合は『戦陣訓』はなんら関係が無かったということである。私自身『戦陣訓』を読んだこともなければ、読まされた記憶もなければ、講義されたこともない。第一、一度も手にしたことがないから、一体全体どんな本なのか、その外観すら知らない』。

 ・・・『横井(庄一)さんのとき、まず驚いたことは、マスコミがいきなりそれを『戦陣訓』に結びつけた事であった。

 ・・・『報道の偏向』とは実に恐ろしいことである。横井さんの時、私はある週刊誌記者に、私自身『戦陣訓』を読んだことも、読まされたこともないし、軍隊でこれが奉読された記憶もない。従ってその内容も体裁も知らない、と言ったが、その人は私の言葉を信用しなかった。

 ・・・その人は戦後生まれだから日本軍なるものを全く知らない。それでいて、『戦陣訓』が一兵士に至るまでを拘束し、戦後三十年近く横井さんを拘束し続けたと信じて疑わないのであった」。

 ・・・『横井さんの時も、多くの記者が取材に来たが、「二十七年間のジャングル生活を『戦陣訓』が規制し続けたなどということはあり得ない』と私がいくら言っても、誰一人うけつけず、「本当ですか」「考えられませんね」「それこそあり得ないと思いますね」を連発するだけであった。

安岡章太郎の発言「私の中の日本軍下巻」

 ・・・『戦陣訓』に戻って言えば私自身も一年半の軍隊生活で、『戦陣訓』を強制的に読まされたり、講義されたりしたことは一度もない。それは軍隊内で、いわば体よく無視されていたと言えるだろう。しかるに現代のマスコミは、なぜ『戦陣訓』を重視したがるのか?それは山本氏(山本七平)も言うように『戦陣訓』は実は当時のマスコミにかつぎ上げられてマスコミの中だけで拡まっていたものであり、それは現代のマスコミにも体質的に通い合うものがあるからではないか。

陸軍で小隊長を務めていた経験のある司馬遼太郎

 ・・・「そんなものがある位の事は知っていたが、特に意識もしなかったし、暗誦させられたこともなかった」とエッセイで語った。

 自称作家と称する物書き屋小田 実が「生きて虜囚の辱を受けずのよみがえりか・私は、昔、沖縄で米空軍の司令官と会って話をしたことがある。・・・「生きて虜囚の辱を受けず」は、大東亜戦争開始に当たってつくられた「戦陣訓」にあった軍律・・・軍のオキテだった。・・・」などと捏造を撒き散らしている。売国を生活の糧にする人々だ。哀れの一言に尽きる。

 1944年(昭和19年)の7月9日サイパン陥落。サイパンで玉砕した一日本兵は「生きて捕虜となる辱」などの「私心」ではなく、「護国」と言う「公」のために、玉砕の直前まで「此ノ島ガ陥チタラ日本ノ存在ハ薄氷ヲ踏ムガ如シダドウシテモ死ナレナイ生キテ― ― ―生キ抜イテ此ノ島ヲ守ラネバ・・・」「生きて生きて生きて生きて生き抜いて此の島を守らねば」と日本へ書きしるしています。玉砕とはつまみ食い識者がいうところの自殺ではない、生ある限り戦い、自由を希求し自由に殉ずることだ。http://blogs.yahoo.co.jp/drmusou

 先人は皇民化ロボットなどではない、食民治主義と凶産主義という人類の敵侵略者、破壊のため戦った祖国防衛軍、人類防衛軍だ。世界の侵略者、食民治主義者と凶産主義者に追い詰められ、無い無い尽くしの資源なき小国日本、子孫に残せるものは、比類なき戦いざましかなかったのだ。

 「虜囚=捕虜=敵にとらわれた日本兵」の解釈が正答なら、辞書の意味変化など不要。それが戦後に変化加筆。変化加筆は、戦前と戦後の意味の変化を、証明した。結果辞書は、「虜囚=捕虜=敵にとらわれた日本兵」を完全に否定し、戦後の捏造を実証した。辞書も混乱の坩堝と化し洗脳を助長していたが、良心の呵責の念に駆られ、実証し、辞書が捏造を暴いた。職責者のあまりの不甲斐無さ、無検証売国奴振りに、見るに見かねて、愛国者辞書が、捏造を暴いたともいえる。辞書が職責者の正体、たんなる知識録音機、無検証鵜人を、暴露したともいえる。

 職責者の正体が辞書により暴露され、判明したのだ。鵜呑みせず、立派な親から授かった自分の頭脳で考えよう。資源なき小国日本、鵜人の集となったら亡国だ。 真実史観

大東亜戦争人類への先人の遺言軍民一丸共生共死玉砕インパール作戦特攻隊集団自決

2008-04-10 14:02:19 | Weblog
 弱肉強食は最適者生存の生命体の戦いで、開闢以来不適者は滅び適者が生存して、現在に至っている。生命体の宿命である。善悪、正邪にとらわれず、俯瞰して歴史は検証しなければならない。とらわれると、歴史を見誤る。日清、日露、WW1、大東亜戦争は、最適者生存戦争で、軍民一丸の日本軍は適者生存軍である。
 対峙し威嚇だけの野良猫大小二匹の戦い3時間、見届けたことがある。戦いによる怪我は野生では即、死。最適者生存の本能で知っている野生の猫は、互いに後ずさりして、戦わずして離れた。戦争賛成などだれもいない。しかし、絶対優位の超大国の侵略戦争。侵略された小国の自存自衛戦争は存在する。小国が超大国侵略皆無は、歴史の常識。
 下記の言葉を一読した時、「先人罵倒」は愚行と確信し覚醒した。30分ほどである。
 
「戦わざれば亡国、戦うもまた亡国であれば、戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国である。戦って死中に活を見いだし護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも、護国(祖父母、父母妻子、ふるさとを守る)に徹した日本精神さえ残せば、我らの子孫はかならずや再起、三起するであろう」永野修身昭和16(1941)年9月6日に開催された御前会議での発言。

 この発言は戦後教育「日本は侵略者」の「侵略者の発言」などではなく、超大国に侵略されれば確実に亡国、祖国存亡の危機、小国窮鼠の自存自衛発言なのだ。「侵略者」の影など微塵もない。

迫る超大国の侵略者
1858年王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出で、1858年の北京条約、1860年のアイグン条約の2つの不平等条約によって、満州地域の黒竜江以北及びウスリー川以東の外満州地域は、ロシアに割譲された。ウラジオストックを得、ロシア征服さらに南下。
1861年2月3日~7月25日まで日本の対馬を占領したロシア艦隊。当時ロシアの南下政策を警戒した英国は、軍艦を対馬に派遣して、ロシア軍を対馬から排除。
1863年幕末の薩英戦争(英対薩摩)
1864年馬関戦争(英米仏蘭対長州藩)
1868年9月8日明治時代
 ロシアの征服侵略南下、米英仏蘭の食民治侵略、明治維新開国時、日本だけが世界で唯一の非干渉独立国家であった。弱肉強食、最適者生存の時代対処のため、小国日本が取り得る唯一の手段天皇の基に軍民一致団結、軍民一丸適者生存軍と化した。資源なき島国日本、朝鮮半島が敵となれば存亡の危機は明白。ロシアの征服侵略南下が当面の脅威であった日本は半島に進出し、開国要求。
1876年明治新政府と日朝修好条規を結ぶ。
1884年日本を征伐しようとしていた清国。日清戦争前、清国はすでに日本を征伐するための軍略的偵察を行ない、清国駐日大使館随員姚文棟の兵略書『日本地理兵要』(1884年)を作成している。
1899~1900/義和団事件(白蓮教系の宗教団体)。「扶清滅洋」を旗印に、北京の11カ国公使館員4000人を包囲。日(1万人)英米仏露伊独(1万人)が、これを解放した。義和団事変(北清事変)の際、清とロシアは満州を巡って衝突。6月に義和団が黒河対岸のブラゴヴェシチェンスクを占領したことの報復としてロシア軍は7月、江東六十四屯を襲い占領し、居住していた清国民少なくとも3,000人以上(資料によっては2万人以上)をアムール川に追い込んで虐殺するという事件が発生した。以後ロシアが、事件波及の防止の口実で満州を占領し、独占支配と朝鮮日本進出の具体化に着手。ロシアの征服侵略南下は満州まで迫り、侵略港不凍港を得、日本侵略の手はずも整った。正に日本は風前の灯火となった。
1894年6月東学党の乱(甲午農民戦争)をきっかけに日本派兵し、日清戦争。
1894年~95年日清戦争に日本勝利。下関条約成立。朝鮮が独立国であることを確認。朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される。
 1882年の福沢諭吉の『兵論』によれば、清国の兵力108万に対して、日本はたったの7万8千だった。日本軍艦52隻に対して清国軍艦107隻。世界各国が清国勝利を信じていた。清国朝鮮独立を確認し、軍費2億テール賠償、遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲、沙市、重慶、蘇州、杭州を交易史上とした。その後、独仏露の三国干渉のため遼東半島を、返還。
1902年1月対露戦略のため、日英同盟を結んだ。
1904年2月8日日露戦争勃発。島国日本侵略の要不凍港旅順港奇襲。日露戦争(朝鮮半島や満州は、日本の生命線である。その朝鮮半島と満州の制覇を争った、ロシアとの戦争)清国は中立国と称し他国のように傍観していた。国家の歳入ロシア約20億円、日本約2億5千万円。常備兵力ロシア約300万人、日本約20万人。軍艦の総排水量約ロシア51万トン、日本約26万トン。正に象と蟻の戦いである。世界各国がロシア勝利を信じていた。
1904年~05年1905/8/20  日露戦争、日本勝利。日本の朝鮮における権益確認韓国を保護国化、関東州の租借権および長春・旅順間の鉄道を清国の同意を得て、ロシア、日本へ譲渡、南満州を勢力範囲とした。遼東半島を租借地とし、樺太南半の割譲。満州は侵略ではなく清国の同意を得て占領していたロシアから譲渡されたもの。日露戦争における日本の勝利は、アジアの人民に独立への大きな希望を与えた。清国からも、2万人とも3 万人とも言われる留学生が日本にきた。日本に亡命中の孫文は、滔天らの支援を受け、「中国革命同盟会」を結成、3千の会員を集めた。中国同盟会総理となり「三民主義」を発表。同会機関誌「民報」の発行名義所は、宮崎滔天の自宅。

日本の日露戦争勝利の外国の感想
 「世界に人類の運命を決する大きな危機が近づいている。その第一回の戦争は、我ら白色人種のロシア人と有色人種 日本人との間で戦われ 白色人種は、不幸にして破れ日本人は、白人を憎んでいる白人が悪魔を憎むように憎んでいる。しかし我等にとって日本そのものが危険な訳ではない。統一されたアジアのリーダーに日本がなることが危険なのである。日本による中国の統一、それが世界に脅威を与える最も不吉なことである」 ドイツ皇帝 ウィルヘルム二世

 「日本に加え、眠れる獅子と称されたアジアの大国中国が、日本化されて協力したらどうなるか。日本が眠れる隣人を目覚めさせ、手を携えたとき、だれがこの2国が世界のヘゲモニー(主導権)を取らないと言い切れるか」   イタリア ムッソリーニ

 日露戦争勝利は、小国(白人)や植民地や有色人の虐げられし人類の星となると同時に、白人(大国、宗主国)の標的となった。食民治主義の白人は、有色人日本中国が手を組み、虐げられた有色人(植民地)や小国(白人)への独立の号令、宗主国の瞬時の破壊、小国(白人)の抵抗これを恐れた。そして以後の、食民治主義対有色人の対立小国(白人)対大国の対立復讐を恐れた。以後食民治主義者は、徹底的に日本中国の対立を画策し続いている。

 食民治主義者と凶産党が恐れた大アジア主義(日本を中心にアジア諸民族が団結して、欧米列強の圧迫に対抗すべきであると説く思想。1881年玄洋社を結成した頭山満が唱えた。宮崎滔天、松井石根、孫文、汪兆銘が継承し広めた。大東亜共栄圏の原点)
反凶戦争(日中戦争)の背景
凶産党の画策 1919/ソ連凶産党が撒き餌をばら撒いた。
1919/大正8年レーニン指導下のソ連が誕生した直後の1919年、ソ連は中国に「帝政ロシアの中国に対するすべての不平等条約は廃止されるべき(ロシア領となった外満州返還)」との宣言を行い、中国側に領土返還の一縷の希望、撒き餌をまいた。これによって中国国民の間には親ソ意識が生まれ、大正10(1921)年には中国共産党が結成され誕生した。しかし1924年の中ソの新条約交渉時、帝政ロシアの結んだすべての条約類を廃止するとした条項が用意されたが、ソ連代表の帰国により締結には至らなかった。後のヨシフ・スターリンは不平等条約廃止の宣言を否認し、中国への領土返還を拒否。正に凶産党は捏造が国是だ。
 日本と共に大アジア主義を画策していた孫文(1925年3月12日朝、孫文北京にて肝臓癌病死行年59歳)、汪兆銘、蒋介石は、この撒き餌にだまされ、親ソとなり、日本から一時離れた。以後凶産に気付いた汪兆銘、蒋介石は再び日本と手を結び凶産党を最後の5分間まで追い詰めた。が、またまたソ連の画策にあい、ソ連の傀儡毛沢東との「国共合作」となる。孫文後継者筆頭汪兆銘は、中国凶産化から決別、孫文の遺志を継ぎ再び日本と共に、大アジア主義確立を目指した。

1927年にスターリンに追われて米国に亡命したトロッキーは、米国人に「なぜ、共産主義を忌避しソ連を警戒するのか。共通の敵は日本の黄禍ではないか。強硬なクルミの殻に籠もる日本であっても、白色人種として米ソが協力できるなら、米ソがクルミ割りの両テコのように容易に割ることができる」と発言。 ソ連 トロッキー

1932/フーバー第31代(共和党)(1929~1933)大統領。反凶主義者である共和党のフーバーはソ連の国家承認を拒み「日本はアジアにおける防凶の砦」と常々口にしていた。
1933/フランクリン・D・ルーズベルト(民主党)第32代(1933~1945)米国史上初めての4期連続の大統領。T(セオドア).ルーズベルト(共和党)第26代の遠縁。
1933/1発足問もない民主党のルーズベルト政権は、共和党の反対を押しきってソ連を国家承認した。
食民治主義と凶産党の画策中国支援 
 米国1927~1941.4億2000万ドルの援助。1941開戦後に17億3000万ドル援助。英国1939~1940.2000万ポンドの借款。ソ連1億5000万ドルの援助。その他数回援助。フランス1938年1億5000万フランの借款。1939年96000万フランの援助(蒋介石支援ルートへの援助)。
 日本は反共戦争。食民治主義と凶産党は中国に隠れ、寄ってたかっての日本(有色人種)潰し、食民治化が真相なのだ。
1938年12月1937(昭和12年)年7月に勃発した支那事変の推移は、1938年12月までには、首都南京はじめ、主要貿易都市、工業都市を日本が押さえたことにより、中国独自では継戦は不可能な状態となっていた。従って、日中関係の和平が回復してもおかしくないのだが、それがそうならなかった、食民治主義と凶産党が「対日戦継続を条件」に上記のように武器・資金援助を行ったからである。したがって売国奴が叫ぶ日本軍の暴走などではけしてない。
 米国はルーズベルト政権になってからの援助がほとんどだ。追随した援助はルーズベルト主導と考えて間違いはない。
 反凶戦争(日中戦争)の背景は売国奴が叫ぶ日本軍の暴走などではない。日本は日中共通の敵凶産ソ連と対処のため、早期和平を望んでいた。しかし、日本と中国の対立を望む食民治主義と凶産党が国民党・凶産党を支援し、中国凶産党拡大のための強引な反日攻勢が、戦線を拡大させた。中国が凶産化すれば日本は存亡の危機となるため、凶産と手を組んだ中国との反凶戦争は、止めるわけにはいかなかった。
1940/開戦1年前昭和15年日本の主要物資の輸入先
〇鉄類①アメリカ69,9% ②中国15,6%(注・米、中、合計で85,5%) ③インド7,5% ④その他7,0%
〇石油①アメリカ76,7% ②オランダ領インドネシア14,5%(注・米蘭合計で91,2%) ③その他8,8%
〇機械類①アメリカ66,2% ②ドイツ24,9% ③その他8,9%
 主要な輸入国を相手に戦争をするのは自殺と同じだ。
 反共戦争(日中戦争)を継続中で、多数の人的損失と戦費をすでに費やしていた。その状況下で更に英米蘭などの大国を相手に、新たな戦争を始めなければならない動機など、日本には皆無。日本が戦争を仕掛けたのではなく、仕掛けられたのは明白な事実だ。明らかに米(侵略植民地化)英(侵略植民地化)蘭(侵略植民地化)中(侵略狂惨化)ソ(侵略狂惨化)側に戦争の意図や動機があった。
食民治主義者と凶産党の宣戦布告
1941年7月25日~8月1日アジアにおける植民地支配体制の維持に障害となる日本の叩き潰しを図り、日米開戦の四ヶ月前の昭和十六年七月二十五日から八月一日にかけて、産業必需品である石油、錫、ゴム、鉄材などの対日禁輸をおこなうと共に、日本の在外資産一億三千万ドルを凍結した。英国、オランダも追随して共謀、経済封鎖を実施。
1941年8月1日米国の大統領ルーズベルトは八月一日に英国、オランダと協力して石油など戦略物資の対日輸出禁止の追い打ちを掛け、しかも南米産油国からの輸入を防ぐためパナマ運河も閉鎖したのである。米国には、この行為が日米戦争につながるとの認識は当然明確にあった。当時の日本の石油自給率は5パーセント、95パーセントを対日経済凍結地域からの輸入に頼っていたため、存亡の危機に見舞われた。開戦前年の昭和十五年の石油製品の需要は年間五百六万キロリットルなので、当時の石油備蓄量からは一年前後で在庫がゼロになる事態が予想された。ABCDラインは現代日本でも即、宣戦布告である。オイルショックを想起せよ。
 このように資源なき小国日本が追い詰められての、昭和16(1941)年9月6日に開催された御前会議に於ける、永野修身発言なのだ。

『戦わざれば亡国』
資源なき小国日本は再び包囲されて餓死か、降伏して奴隷。弱肉強食の時代の戦わずは、無条件降伏で、奪われても犯されても殺されても従うこと。(終戦時の韓国、ソ連の侵略を想起せよ・・・あれが現実の世界だ)。

『戦うもまた亡国』
世界の超大国米英仏蘭中ソが相手では必滅。
『であれば、戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国である』。
不屈の抵抗の歴史を子孫に残し、国名が消滅してもポーランドは復活した。抵抗もせず降伏すれば、屈辱、屈伏の歴史は隠蔽され、抵抗の歴史は無きものと成る。さらに征服者に洗脳され愚民化された抵抗の歴史無き子孫は、二度と立ち上がることなどなく日本は消え、食民治と化し、正に日本民族永遠の亡国となる。(南北アメリカの先住民族、・・・あれが現実の世界だ)

『戦って死中に活を見いだし』
戦うもまた亡国かもしれないが、食民治主義と戦えば、一縷の望み(食民治を解放し貿易の自由化)が生まれる。戦って一縷の望みに挑戦し、
『護国の精神に徹するならば』
勝者に隠蔽されないような、子孫を守るための必死な姿、生きざま、戦いざま、死にざまさえ残せば、

『たとい戦い勝たずとも、護国(祖父母、父母妻子、ふるさとを守る)に徹した日本精神さえ残せば、我らの子孫はかならずや再起、三起するであろう』。
たとえ占領され食民治にされ征服者に愚民化されても、残した挑戦の心や生きざま、戦いざま、死にざまを想起し、必ずや子孫は覚醒し、再び独立し、日本は復活する。我々はただの戦いではなく、子孫が必ずや想起し、覚醒復活するような、勝者に隠蔽されない史上比類なき戦いを残す、子孫のために。

 永野修身個人の発言だけではなく、出席者全員のほとばしる総意が集まり成したのだろう。子孫へのほとばしるおもい「最適者生存」は深く重い。・・・

食民治主義者の二度目の宣戦布告
ハル・ノートは昭和16年11月25日、ホワイトハウスでの戦争閣僚会議において翌26日、日本に手渡すことと決定した。この会議の出席者は、大統領・ハル国務長官・スチムソン陸軍長官・ノックス海軍長官・マーシャル陸軍大将・スターク海軍提督だった。ハル・ノートの内容は極秘で、米国議会さえも知らなかった。
「ハル・ノート」(概要)
1・日本軍の支那・仏印からの無条件撤兵。
2・支那における重慶政権(蒋介石)以外の政府・政権の否定(日本と南京国民政府=汪兆銘政権の対反共戦争を停止し、汪兆銘政権を裏切り見殺しにする)
3・日独伊三国同盟破棄(伊独両国との同盟を一方的に解消)。
 日本に対して、開国「明治維新1868年」以来、先人が最適者生存の時代を乗り切るため、血を流して護国のため戦い、営々と築いてきた、大陸における適者生存の生命線を全て放棄しろと、言ってきたのだ。これは、アメリカに対して、侵略し王国を滅ぼして併合したハワイや、ロシアから買ったアラスカ、更にメキシコを侵略して奪ったカリフォルニア、ニューメキシコ、テキサス等の諸州を全て放棄し、建国当初の東部十三州に戻れ、と言っている様なものなのだ。最適者生存の時代を乗り切るための日本護国の生命線を放棄。応ずれば、確実に弱体化、戦うことなく再度経済封鎖されて確実に亡国である。
 これだけのことを一方的に要求だけして、一言も、「経済封鎖の解除」には触れていない。「ハル・ノート」に従えば、ただ話し合いに応ずると言うことだけなのだ。ハル・ノートには日本が回答すべき期限は定められていないので、最後通牒とみなす必要はなかったという愚論がある。資源封鎖下でなにもせず坐すれば坐するほど、確実に亡国なのは、誰の目にも明白。こんなものを受諾する国家などない。
 大東亜戦争(大東亜団結戦争)侵略者食民治主義と凶産主義が、資源なき小国島国日本を資源封鎖し、兵糧攻めにした。資源無き日本、座すれば確実に亡国。要求に応じても、再度資源封鎖されれば、確実にこれまた亡国。目の上の瘤、資源封鎖。最適者生存の時代、資源なき小国島国日本の弱点払拭の選択肢は唯一、資源封鎖する侵略者の食民治からの追放だった。追放し、東亜(食民治)を解放し、独立国家貿易自由化圏、大東亜共栄圏を建設、互いに貿易自由化で資源を確保し、東亜が団結し一丸と化し侵略者と対峙すれば、一縷の望みが生まれる。蹶然「けつぜん(地を蹴って立ち上がる)」と起(た)って欧米の食民治支配を打破し、アジア地域に共存共栄東亜の自給自足共同体、大東亜共栄圏建設を目指した。大東亜共栄圏建設戦争、日本が戦争目的を冠し大東亜戦争と名づけた。植民地解放を掲げた名称なので、宗主国が忌み嫌い太平洋戦争と名称変更。名称変更までしたのは、正しくそうであったからだ。アジアへの侵略者と、のたまう愚者がいる。超大国米英蘭中豪に、さらにプラスしての全アジアとの戦争、となれば、戦争ではなく自殺だ。侵略者呼ばわりは、売国奴の輩のこじつけだ。大東亜戦争は、聖戦争や、侵略戦争や、正邪戦争などではない、東亜(食民治)を解放し、東亜が結束し大東亜となり、侵略者と対峙が目的の大東亜団結戦争、最適者生存戦争であった。
 かくして日本は蹶然と起って軍民一丸、共生共死、玉砕、インパール作戦、特攻隊、集団自決、無い無い尽くしの小国日本適者生存軍が唯一子孫に残せるもの、生きざま、戦いざま、死にざまを残した。そして人類は史上比類なき戦いの有り様を見せつけられた。凄まじい戦いざまは虐げられし人類のこころの琴線を共振させた。虐げられし人類は皆蹶然と起って、一切の障礙を破砕した。去った食民治主義者も覚醒し消滅。戦後わずか15年後の昭和35年(1960)に、国連が植民地を保有することを不法行為であると宣言し、その後、国連総会が植民地の保有を犯罪として規定すらした。開闢以来延々と続いた最適者生存の、弱肉強食本能の食民治主義は破壊され、先人の旗印、共存共栄平等に基づく新秩序が創造された。
 軍民一丸、戦って戦って戦って、矢尽き、刀折れ、力尽きた、無い無い尽くしの小国日本適者生存軍が唯一残したもの、軍民一丸、共生共死、玉砕、インパール作戦、特攻隊、集団自決、先人の子孫への遺言は、今正に世界を覚醒させ人類への遺言となった。
 ただの戦いであれば、誰も覚醒せず、決然として立つものなど無く、日本は分断され消滅していただろう。覚醒した虐げられし人類の追随が、食民治主義者の覚醒となり緩和され、分断されず早期の独立となった。先人の残したものは、先人の予言そのもの、敵をも覚醒させまさに子孫を守りきった。
 覚醒した旧宗主国は、かつての植民地の人々を受け入れ今は暮らしている。そして日本が共産を凶産と暴き、拡散防御した凶産国のチベットでの横暴を、みな率先して抗議してくれている。先人の残したものは今、計り知れない進歩を遂げ、先人、孫文、汪兆銘の思い「凶産の破壊」は間近に迫っている。
 生命体は、最適者生存の戦い弱肉強食を経て今が在る。食民治主義や凶産主義は最適者生存の戦いなので、善悪、正邪の尺度では決められない。覚醒せし人々に対してとやかく言うべきではない。それが人類の新たな進歩となる。
 しかし旧宗主国や小国を虐げた大国には、今でも虐げた小国や植民地の報復を恐れている妖怪が存在している。日本が覚醒し再び小国白色人種、有色人種の雄となり立ち向かう恐怖だ。憲法九条の制定から始まり、63年経てもいまだに続くアメリカ軍日本駐留はその証しだ。日本覚醒に反対し、売国奴活動する九条の会や識者、売国奴報道するNHKや新聞、週刊金曜日、日教組、みな妖怪の手先だ。売国奴大江健三郎に史上初のノーベル贋賞を授けたのも妖怪だ。大江の書き物は、賞に値する代物でないことが証明している。
 売国奴ノーベル贋賞大江健三郎らが叫ぶところの、戦わざればどうだったろうか。再度資源封鎖され日本亡国、人類は食民治主義と凶産主義に支配され、日本中国台湾朝鮮や世界の小国の国名は全て消滅、いやそれどころでは済まず、原爆戦争となり人類の消滅の可能性の方がはるかに高い。手術しなければ治らない病気もあるのだ。戦争全て悪とはいえない。ましてや日本の戦いは防衛戦争だ。防衛戦争を悪と呼んだ歴史皆無。金で国を売った正真正銘の売国奴であることは、明白である。
 敵味方悲惨なのを戦争と呼ぶ。ところが売国奴は、悲惨な話をする人を選択し報道する。それを見た視聴者は、そんな目に合わした日本軍極悪日本軍と、錯覚する。なぜ誰もがしたくない悲惨な戦争など、史上比類なき軍民一丸、共生共死、玉砕、特攻、集団自決など、しなければならなかったか、一番大事なことを、どうして報道しない、検証しない。天皇や日本軍の命令一言で、片付ける問題などではない。真っ先に、なぜどうしてと考えるのが、真の子孫だろう。考えもせず、極悪日本軍と先人罵倒だ。最適者生存戦争と語る人の報道一切無し。最適者生存戦争を直隠しに隠し、戦陣訓、「虜囚の辱(軍紀や法律違反)」を降伏禁止と捏造し、子孫死守した適者生存軍先人冒涜、語るに落ちた売国奴だ。中国、韓国への侮日施設見学土下座修学旅行主催、買われた犬日教組。曲学阿世の輩の巣窟、と化した日本。御前会議に於ける、永野修身の予言、正に適中だ。
 大東亜戦争はルーズベルトが捏造した陰謀に、アメリカ国民がだまされた揚げ句の戦争だ。日本の目ざしたものは共存共栄平等、八紘一宇の世界平和で、反凶自存最適者生存戦争で、食民治主義や凶産主義の侵略戦争ではない。もはや今は、世界の識者の定説と化している。アメリカは是々非々の国だ、ルーズベルトの陰謀、トルーマンの愚行を是々非々で認め、負い目を払拭すべきだ。
 そして日本もアメリカも、中国、北朝鮮、韓国を鏡として学び、子供に真実の教育をすべきだ。ルーズベルトの捏造から両国は戦争となった。捏造は恐怖を生み戦争を引き起こす。嘘で国家は成り立たない。捏造が国是の国家は崩壊するのが世の習いだ。ソ連・東ドイツ・ルーマニア・アフガニスタン・イラク、ものの見事に崩壊している。真実だけが国を造り、物を成し、友好を生む。真実を基にした世界だけが平和を成す。平和は真実からしか生まれない。 
 「軍民一丸、共生共死、玉砕、インパール作戦、特攻隊、集団自決」は、体を筆にし、流れる血で書いた子孫への、軍民一丸適者生存軍先人の遺書。人類は、犬死に無駄死にとは、とらなかった。人類への、比類無き遺書として受け取り、開闢以来延々と続いた最適者生存の、弱肉強食本能の食民治主義を破壊した。真の子孫ならば、先人の遺書を真っ先に精読することだ。 真実史観 2008.4.21.