戦陣訓虜囚の辱虜囚の意味敵を生きながら捕らえ来ること大正6年初版昭和15年改訂の講談社大字典
戦後辞書まで捏造された虜囚仮説から真実へ終戦までの虜囚の真意は
「虜」は、生け捕りにした人、奴隷、敵、野蛮人。捕まえるという能動的な意味が強い。<解字>力ずくで捕らえ、じゅずつなぎにしたとりこのこと。
「囚」は、とらえて拘束する。枠の中に人を閉じ込めるのように能動的意味が強い。(囚人)。<解字>枠の中に人を閉じ込めること。
「俘」は、とらえて枠の中へ入れる。能動的意味が強い。<解字>囲んで逃げないようにする。
虜囚の類語(終戦までの意味)。
○「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」は明らかに罪過を犯し捕まった囚人だ。
○「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)・虜(とりこ)」は、日本国が捕まえ枠の中に閉じ込めた者「(とらえた人・囚人・めしうど)。日本国が捕まえた者「とりこ(生け捕りにした人・敵)」。終戦までの「虜囚」には、捕虜「戦争で敵国に捕まえられた者」のような受動的意味が全く無かった。
○ 「捕虜・俘虜(ふりょ)」は、「戦争で敵に捕まえられた者(捕まった者)」。主語が敵の、受動的意味だ。
「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)」のように「囚」を含む文字の本来の意味は、枠の中に人を閉じ込める能動的意味が強いので、日本国が捕らえて閉じ込めた者、自国の兵、敵兵、主語が日本国の能動的意味だけだった。が、下記のように変化した。
終戦までの「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)」と囚を含む言葉は、「囚人」の婉曲表現となった。
終戦前の「虜囚」は、皇軍の兵が罪過を犯し日本国に捕まること、兵の囚人を意味し、皇軍の兵なので婉曲表現で呼称した。
整理しよう。終戦前の「虜囚」の類語の意味は、下記のように使い分けされていた。
○「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」は罪科を犯し日本国に捕まった囚人。
○「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)・虜(とりこ)」は、日本国が捕まえた者(囚人)の婉曲表現か、皇軍の兵(囚人)の呼称。または、日本国が捕まえた敵兵。
○「捕虜・俘虜(ふりょ)」は、「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」。主語が敵国。
大正6年初版昭和15年改訂の講談社大字典には「虜囚」・とりこ(イケドリ、シモベ、イケドル、生擒ス、化外ノ民えびす)字源・形聲。虍と母と力の合字。敵を生きながら捕らえ来ること。母は貫の本字にて敵を数珠つなぎに貫き連ぬる意ならん。力は腕力にて引率する義虍は音符。と記載されている。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」の記載皆無。
昭和27年初版昭和49年新装発行、三省堂「辞海」「虜囚」・とらわれ人。めしうど。とりこ。まだこの時代では、日本国に捕まった人(囚人や敵)の意味だけである。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」の記載皆無。練馬区立図書館蔵書。
結果、1/2行つまみ食い解釈でも戦前の解釈は「生きてる時も、皇軍の兵が日本国に捕まって囚人となるような辱めをするな」となる。
戦後マスコミや鵜人や便乗した反日に、「虜囚の辱」が喧伝されたため、能動的な意味しかなかった虜囚に、全く無かった受動としての意味がだんだんと濃くなり、61年間歪曲喧伝され、捕虜「戦争で敵国に捕まえられた者」が入り込んだ。結果「日本が捕まえた者」が「戦争で敵国に捕まえられた者」となり、全く逆の意味となったというのが真相ではないのか。前述の講談社大字典1963年復刻、1993年第一刷、新大字典には「虜囚・とりこ。捕虜。」と、捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」が追加されている。仮説が適中した。言葉は時代に迎合するのだ。
戦前は、「軍人勅諭」に記載無く、実行不可能な訓(教え)虜囚には、捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」の意味は、全くなかった。なぜなら、言葉に、はるかに鋭敏な方々が、起案責任者は人格者として誉れ高い今村均が、目を通し、なにも問題にしていない。戦前、「虜囚」は、いけどりにした敵、または囚人の婉曲表現、もしくは、囚人となった皇軍の兵を、意味する言葉だった。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」ではなかった。だから誰も問題にしなかった。と推測しないと、辻褄が合わないのだ。いかに戦時下とはいえ言葉にはるかに鋭敏な方々が、史上類の無い、実行不可能な訓(教え)「捕虜となるよりは自殺せよ」を採択する訳が無い。大義(公)(軍人勅諭)に生きる皇軍の兵に、規範の軍人勅諭に記載の無い捕虜は恥辱なので(私心)死ねと、臣(けらい)東條英機が教える(訓)ことなど、不可。よって虜囚の辱=捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」は捏造となる。
がしかし、戦後、戦犯として処罰されることを極度に恐れていたマスコミに、「捕虜となるよりは自殺せよ」と、嘘の繰り返し喧伝報道を、反日も便乗して、61年間撒き散らされ、嘘が真実になってしまったのだ。まさに、ナチス・ドイツの宣伝大臣ゲッペルスの有名な言葉「嘘でも充分に繰り返し続ければ、真実になる」なのだ。戦前の虜囚の意味は「とりこ」。戦後の虜囚の意味は「とりこ。捕虜」と、マスコミの捏造により拡大し、変化した。言葉は時代に迎合し嘘が真実になった実例が、まさしくこれなのだ。
検証の結果、虜囚の主語は正に日本国だ。「虜囚の辱(はずかしめ)」は(軍人が罪禍を犯し、日本国にとらわれ、軍人として恥ずかしい罪過の汚名をうけること。)のように一つの単語として考えるべきだろう。こうすると「第八 名を惜しむ」に、帰結し文意が合う。『戦陣訓』示達の目的 「(盗むな)(殺すな)(犯すな)を徹底させる」にも、「軍人勅諭」にも、合致する。戦時下一部マスコミのつまみ食いはあったが、「軍人勅諭』に記載無く、実行不可能な訓(教え)、虜囚=戦争で敵に捕まった捕虜と、だれも曲解しなかったので、なんら問題とならなかった。
起案責任者人格者として誉れ高い今村均将軍の言葉
「戦陣訓」起案責任者・今村均将軍は、戦時下も戦後も、「戦陣訓」の本意に従い、ひと筋に生きた。まさしく名将である。
戦陣訓の本意。・・・本来は、中国大陸で戦闘をしている将兵に対して「戦闘の興奮」に紛れて強奪、強姦などをしてはならない、そんな事をすれば帝国軍人として「生きて虜囚の辱めを受けず・・・」と諭したもの。「続今村均回顧録」165ページ芙蓉書房
戦後、報道されている定説となった「戦陣訓」の内容(捕虜となるよりは自殺せよ)は、「戦陣訓」の本意(真の意味)では無いと発言した。1954年11月 刑期を終え巣鴨拘置所を出所。マスコミにワンカット(つまみ食い)拡大報道され、反日も便乗した似非「戦陣訓」の大激流は、起案担当「責任の人」今村均でも、止めようが無かったのだろう。重要なのは、起案担当者自ら、今、報道されている「戦陣訓」の内容は、本意「ほんい(真の意味)」で無い、「誤解された」と発言していることだ。
「戦陣訓」起案担当者・今村均陸軍大将・(1886~1968・行年82歳)は戦犯の刑期を終え天寿をまっとうしている。ラバウルでは要塞を築き、兵に自給自足制を確立させ終戦まで持ちこたえている。本土からの補給無しであるにも関わらず、無事に10万の兵を玉砕や自殺などさせず、帰国させた名将である(逃亡もせず日本国戦争指導者は粛々と帰国している。これは世界史上非常に稀有なことなのだ。先人冒涜者はこの事を熟慮すべきだ)。戦犯で戦犯収容所に服役し、出所し、自決などせず天寿をまっとうした。捕虜は恥ずかしいことではなく、虜囚の辱は(捕虜となるよりは自殺せよ)では無いということをみずから証明した。出所後は元部下の就職の世話をしたり、遺族を手助けしたり、まさしく「戦陣訓」ひと筋の生涯だった、「戦陣訓」最終章に殉じている。
戦陣訓・『第八 名を惜しむ 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱(囚人の汚名)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。』
○戦陣訓第八の意訳文
『第八 名を惜しむ(名誉の尊重)
恥を恥として知ることは強い。いつも故郷の人々や家族の名誉を忘れず、ますます奉公にはげんで、生きてる時も、皇軍の兵が法を犯し囚人と成るような辱めを受けず、死んだ時も、罪や過ちの汚名を残さず、恥を知り、名を汚さず、故郷の、戦功の期待に答えるように』 真実史観意訳
これがマスコミや反日に61年間歪曲され続けた戦陣訓、今村均将軍の本意、真実の戦陣訓だ。61年後にやっと導き出された。このたった1/2行が、61年間先人を冒涜し続け、子孫の誇りをズタズタにしてきたのだ。鵜呑みし、鸚鵡返しに鵜呑知識を撒き散らし続け、61年を経た。なんと静かな鵜呑みの恐怖だったのか。今ではもう全日本人が洗脳されてしまった。
検証しない鵜呑みの恐怖は現代にもある。ソニーの電池、三菱の自動車、雪印、外務省などのプール金、・・・等々たくさんある。どこかで誰かが検証し、踏ん張って止めておれば、いずれも事件にならなかったのだ。物事は真実が基準だ。捏造は亡国だ。
上記の文は下記サイトの要約です。『戦陣訓』、アメリカの東條英機自殺捏造の詳細は下記。
真実史観日本護国史戦勝国歪曲党売国党狂惨党に仕組まれ捏造された大東亜戦争
http://www.tofu-ryohin.co.jp/siten.htm
戦後辞書まで捏造された虜囚仮説から真実へ終戦までの虜囚の真意は
「虜」は、生け捕りにした人、奴隷、敵、野蛮人。捕まえるという能動的な意味が強い。<解字>力ずくで捕らえ、じゅずつなぎにしたとりこのこと。
「囚」は、とらえて拘束する。枠の中に人を閉じ込めるのように能動的意味が強い。(囚人)。<解字>枠の中に人を閉じ込めること。
「俘」は、とらえて枠の中へ入れる。能動的意味が強い。<解字>囲んで逃げないようにする。
虜囚の類語(終戦までの意味)。
○「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」は明らかに罪過を犯し捕まった囚人だ。
○「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)・虜(とりこ)」は、日本国が捕まえ枠の中に閉じ込めた者「(とらえた人・囚人・めしうど)。日本国が捕まえた者「とりこ(生け捕りにした人・敵)」。終戦までの「虜囚」には、捕虜「戦争で敵国に捕まえられた者」のような受動的意味が全く無かった。
○ 「捕虜・俘虜(ふりょ)」は、「戦争で敵に捕まえられた者(捕まった者)」。主語が敵の、受動的意味だ。
「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)」のように「囚」を含む文字の本来の意味は、枠の中に人を閉じ込める能動的意味が強いので、日本国が捕らえて閉じ込めた者、自国の兵、敵兵、主語が日本国の能動的意味だけだった。が、下記のように変化した。
終戦までの「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)」と囚を含む言葉は、「囚人」の婉曲表現となった。
終戦前の「虜囚」は、皇軍の兵が罪過を犯し日本国に捕まること、兵の囚人を意味し、皇軍の兵なので婉曲表現で呼称した。
整理しよう。終戦前の「虜囚」の類語の意味は、下記のように使い分けされていた。
○「囚人・囚徒・獄囚・囚人(めしうど)」は罪科を犯し日本国に捕まった囚人。
○「虜囚・囚虜・俘囚(ふしゅう)・虜(とりこ)」は、日本国が捕まえた者(囚人)の婉曲表現か、皇軍の兵(囚人)の呼称。または、日本国が捕まえた敵兵。
○「捕虜・俘虜(ふりょ)」は、「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」。主語が敵国。
大正6年初版昭和15年改訂の講談社大字典には「虜囚」・とりこ(イケドリ、シモベ、イケドル、生擒ス、化外ノ民えびす)字源・形聲。虍と母と力の合字。敵を生きながら捕らえ来ること。母は貫の本字にて敵を数珠つなぎに貫き連ぬる意ならん。力は腕力にて引率する義虍は音符。と記載されている。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」の記載皆無。
昭和27年初版昭和49年新装発行、三省堂「辞海」「虜囚」・とらわれ人。めしうど。とりこ。まだこの時代では、日本国に捕まった人(囚人や敵)の意味だけである。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人(捕まった人)」の記載皆無。練馬区立図書館蔵書。
結果、1/2行つまみ食い解釈でも戦前の解釈は「生きてる時も、皇軍の兵が日本国に捕まって囚人となるような辱めをするな」となる。
戦後マスコミや鵜人や便乗した反日に、「虜囚の辱」が喧伝されたため、能動的な意味しかなかった虜囚に、全く無かった受動としての意味がだんだんと濃くなり、61年間歪曲喧伝され、捕虜「戦争で敵国に捕まえられた者」が入り込んだ。結果「日本が捕まえた者」が「戦争で敵国に捕まえられた者」となり、全く逆の意味となったというのが真相ではないのか。前述の講談社大字典1963年復刻、1993年第一刷、新大字典には「虜囚・とりこ。捕虜。」と、捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」が追加されている。仮説が適中した。言葉は時代に迎合するのだ。
戦前は、「軍人勅諭」に記載無く、実行不可能な訓(教え)虜囚には、捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」の意味は、全くなかった。なぜなら、言葉に、はるかに鋭敏な方々が、起案責任者は人格者として誉れ高い今村均が、目を通し、なにも問題にしていない。戦前、「虜囚」は、いけどりにした敵、または囚人の婉曲表現、もしくは、囚人となった皇軍の兵を、意味する言葉だった。捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」ではなかった。だから誰も問題にしなかった。と推測しないと、辻褄が合わないのだ。いかに戦時下とはいえ言葉にはるかに鋭敏な方々が、史上類の無い、実行不可能な訓(教え)「捕虜となるよりは自殺せよ」を採択する訳が無い。大義(公)(軍人勅諭)に生きる皇軍の兵に、規範の軍人勅諭に記載の無い捕虜は恥辱なので(私心)死ねと、臣(けらい)東條英機が教える(訓)ことなど、不可。よって虜囚の辱=捕虜「戦争で敵に捕まえられた人」は捏造となる。
がしかし、戦後、戦犯として処罰されることを極度に恐れていたマスコミに、「捕虜となるよりは自殺せよ」と、嘘の繰り返し喧伝報道を、反日も便乗して、61年間撒き散らされ、嘘が真実になってしまったのだ。まさに、ナチス・ドイツの宣伝大臣ゲッペルスの有名な言葉「嘘でも充分に繰り返し続ければ、真実になる」なのだ。戦前の虜囚の意味は「とりこ」。戦後の虜囚の意味は「とりこ。捕虜」と、マスコミの捏造により拡大し、変化した。言葉は時代に迎合し嘘が真実になった実例が、まさしくこれなのだ。
検証の結果、虜囚の主語は正に日本国だ。「虜囚の辱(はずかしめ)」は(軍人が罪禍を犯し、日本国にとらわれ、軍人として恥ずかしい罪過の汚名をうけること。)のように一つの単語として考えるべきだろう。こうすると「第八 名を惜しむ」に、帰結し文意が合う。『戦陣訓』示達の目的 「(盗むな)(殺すな)(犯すな)を徹底させる」にも、「軍人勅諭」にも、合致する。戦時下一部マスコミのつまみ食いはあったが、「軍人勅諭』に記載無く、実行不可能な訓(教え)、虜囚=戦争で敵に捕まった捕虜と、だれも曲解しなかったので、なんら問題とならなかった。
起案責任者人格者として誉れ高い今村均将軍の言葉
「戦陣訓」起案責任者・今村均将軍は、戦時下も戦後も、「戦陣訓」の本意に従い、ひと筋に生きた。まさしく名将である。
戦陣訓の本意。・・・本来は、中国大陸で戦闘をしている将兵に対して「戦闘の興奮」に紛れて強奪、強姦などをしてはならない、そんな事をすれば帝国軍人として「生きて虜囚の辱めを受けず・・・」と諭したもの。「続今村均回顧録」165ページ芙蓉書房
戦後、報道されている定説となった「戦陣訓」の内容(捕虜となるよりは自殺せよ)は、「戦陣訓」の本意(真の意味)では無いと発言した。1954年11月 刑期を終え巣鴨拘置所を出所。マスコミにワンカット(つまみ食い)拡大報道され、反日も便乗した似非「戦陣訓」の大激流は、起案担当「責任の人」今村均でも、止めようが無かったのだろう。重要なのは、起案担当者自ら、今、報道されている「戦陣訓」の内容は、本意「ほんい(真の意味)」で無い、「誤解された」と発言していることだ。
「戦陣訓」起案担当者・今村均陸軍大将・(1886~1968・行年82歳)は戦犯の刑期を終え天寿をまっとうしている。ラバウルでは要塞を築き、兵に自給自足制を確立させ終戦まで持ちこたえている。本土からの補給無しであるにも関わらず、無事に10万の兵を玉砕や自殺などさせず、帰国させた名将である(逃亡もせず日本国戦争指導者は粛々と帰国している。これは世界史上非常に稀有なことなのだ。先人冒涜者はこの事を熟慮すべきだ)。戦犯で戦犯収容所に服役し、出所し、自決などせず天寿をまっとうした。捕虜は恥ずかしいことではなく、虜囚の辱は(捕虜となるよりは自殺せよ)では無いということをみずから証明した。出所後は元部下の就職の世話をしたり、遺族を手助けしたり、まさしく「戦陣訓」ひと筋の生涯だった、「戦陣訓」最終章に殉じている。
戦陣訓・『第八 名を惜しむ 恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱(囚人の汚名)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。』
○戦陣訓第八の意訳文
『第八 名を惜しむ(名誉の尊重)
恥を恥として知ることは強い。いつも故郷の人々や家族の名誉を忘れず、ますます奉公にはげんで、生きてる時も、皇軍の兵が法を犯し囚人と成るような辱めを受けず、死んだ時も、罪や過ちの汚名を残さず、恥を知り、名を汚さず、故郷の、戦功の期待に答えるように』 真実史観意訳
これがマスコミや反日に61年間歪曲され続けた戦陣訓、今村均将軍の本意、真実の戦陣訓だ。61年後にやっと導き出された。このたった1/2行が、61年間先人を冒涜し続け、子孫の誇りをズタズタにしてきたのだ。鵜呑みし、鸚鵡返しに鵜呑知識を撒き散らし続け、61年を経た。なんと静かな鵜呑みの恐怖だったのか。今ではもう全日本人が洗脳されてしまった。
検証しない鵜呑みの恐怖は現代にもある。ソニーの電池、三菱の自動車、雪印、外務省などのプール金、・・・等々たくさんある。どこかで誰かが検証し、踏ん張って止めておれば、いずれも事件にならなかったのだ。物事は真実が基準だ。捏造は亡国だ。
上記の文は下記サイトの要約です。『戦陣訓』、アメリカの東條英機自殺捏造の詳細は下記。
真実史観日本護国史戦勝国歪曲党売国党狂惨党に仕組まれ捏造された大東亜戦争
http://www.tofu-ryohin.co.jp/siten.htm