真実史観で子孫に遺す日本適者生存99年史

歴史には真実と捏造が有るのみ。東大やマスコミ等、虚業が造語の、自虐も保守も革新も右も左も無い!真実の歴史を子孫に遺そう。

資源が無い小さな島国日本は、資源封鎖され兵糧攻めされれば風前の灯だ

2007-03-26 11:14:34 | Weblog
 原点を忘れた人々よ、原点に回帰しよう。まず回帰し、世界全図で日本を見よう。日本は、10~20倍以上の超大国に囲まれた、資源が無い小さな島国なのだ。日本は資源が無いので資源を輸入して加工して輸出、物づくり以外の選択不可の、小さな島国なのだ。資源が無い小さな島国日本は、資源封鎖され兵糧攻めされれば風前の灯なのは、誰の目にも一目瞭然である。なんと時代は、弱肉強食(生命体の自己保存の本能の戦いの為正邪は無い。強いものが勝ち、敗者は従うか、あるいは消滅する)が常識の時代だ。満州や朝鮮半島が敵に占領され、海上封鎖され、兵糧攻めされれば、瞬時に亡国となる弱点克服に、皆苦慮し、封鎖防御のため大陸に進出し、頼ってきた朝鮮を併合し、対清、対露、対中、対ソに備え、弱肉強食の時代を乗り切るため、日本丸に乗船し天皇を中心に護国という「公」のため、一丸となった。いわば開国以来の日本の歴史は、生命体の自己保存の本能に従った、護国のための苦慮史と言える。護国のため皆「公」に殉じた、「公」の時代であると言える。台湾朝鮮も搾取ではなく、資金を投入し開発育成統治し、富国強兵に励み、一丸となった。(注・詳細は後述するが、戦後「私」が蔓延し、現在も蔓延し続け、諸悪の根源となっている。戦後日本国基幹の物づくり社会だけに「公」は残り日本の礎となり、日本は繁栄し、現在も日本繁栄の根幹となっている。)

 弱肉強食の時代に対応した護国の戦いを、攻めなければ攻めて来た時代なので、お互いに、とやかく言うことは出来ない。攻めなければ攻められた(日清、日露戦争)時代なのだ。敵に先手をうたれ、生命線の満州や朝鮮半島が占領され、海上封鎖され、兵糧攻めされれば、資源が無い日本は必滅。後手にまわれば、日本は必滅しかない。小国日本必勝の選択肢は、先手しかなかった。先手(大陸進出)は、資源が無い小国日本の、弱肉強食の時代への唯一の対応策なのだ。読者の皆さんも護国責任者の立場で考えれば、このことは簡単に分かることなのだ。

 弱肉強食が常識の時代の大東亜戦争では、宗主国は、「ABCD包囲網」と呼ばれる経済封鎖網によって対日資源封鎖(対日戦必勝パターンで宣戦布告し、降伏せよとせまった)した。資源封鎖する宗主国からアジアを皆解放し独立(貿易の自由化)させ、資源確保することが、護国への唯一の道であった。仮に日本台湾朝鮮が、ハルノート(最後通牒)に屈服、生命線の満州や朝鮮半島から撤退し、戦争を回避したとしても、列強にアジアが皆植民地にされ、再度対日資源封鎖されれば、日本台湾朝鮮は瞬時に無条件降伏となり亡国。日本の消滅または植民地化は避けられない。戦わざれば亡国、戦うもまた亡国であった。まさに独立国日本の存亡をかけた資源封鎖防御、護国のための、回避絶対不可の自衛戦争なのだ。マッカーサーは、満州や朝鮮半島が資源の無い島国日本の生命線であることを朝鮮戦争で学習し、聴聞会において、聖書に誓い、「・・・戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障(security)の必要に迫られてのことだったのです」と証言した。読者の皆さんも護国責任者の立場で考えれば、このことも簡単に分かることなのだ。

 大東亜戦争の日本台湾朝鮮の真意はアジアの貿易の自由化なのだ。アジアの貿易の自由化のため、アジアの同胞を宗主国から解放する戦い、それが大東亜戦争なのだ。台湾も朝鮮も日本もアジアの同胞も、まさに一丸となって戦った、それが大東亜戦争の真意であり誇りなのだ。アジアの解放を先導した誇りを失った日本への叱咤激励を、戦後続けてくれる台湾やアジアの方々のこの心根を、理解できる日本人は、もういないのか。歴史に学ばず愚かな人々が安易に繰り返す、愚かな国への愚かな謝罪は、先人や、心ある人や国への、最大の冒涜なのだ。

 日本台湾朝鮮や、アジアの同胞のこの努力のおかげで、アジアの総植民地化を防御し、今の日本、独立したアジア(大東亜共栄圏・貿易の自由化圏)が存在している。アジアやアフリカは南北アメリカのようにはならなかったのだ。無策であれば日本は消滅し、アジアはすべて南北アメリカのように征服されていた。つまみ食い史観を撒き散らす人々よ、物事にはすべて禍福がある、つまみ食いはできない。時代の通過に、つまみ食い不可。歴史のつまみ食い解釈は不可なのだ。

 物づくりはあまたの失敗が無ければ、完成しない。卑近な例で述べると、バンダ温室無し皿栽培方法完成のために、私は15年間買っては枯らす失敗を繰り返し、バンダを枯らし続けた。失敗の無い物づくりなど絶無だ。失敗と完成は、表裏一体、禍福一体なのだ。あまたの失敗(敗戦。殉難者)をし、苦労したが、最後に完成(アジアの独立。人種差別の撤廃。貿易の自由化での日本の繁栄)し、子孫はあふれるほどの恩恵を今も受け続けている。あまたの失敗(先人の超大国への挑戦。)が無ければ今の日本、否、日本と言う呼称すら消えていただろう。最後に完成し、先人のあふれるほどの恩恵(貿易の自由化での日本の)を受け続けていながら、過程における先人の失敗を、犬死、無駄死に、敗戦必須の無駄な戦争とあらん限りの罵倒する、NHK(日本国民から料金を徴収し日本の公共放送を放送する局)や子孫と称する輩がいる。失敗(過程)無くしての完成(繁栄)など皆無なのだ。先人に護られた真の子孫や、真の日本公共放送局ならば表裏、禍福を見てものを言え。それが、護られた子孫としての、先人への最低限の礼節だ。真の子孫ならば、「感謝」以外の言葉は存在しないはずだ。歴史は森を見て語れ、木だけ見て語ることなかれ。

『もし日本なかりせば』暗に大東亜戦争の本質を喝破したマレーシア・マハティール首相の演説

2007-03-26 11:06:55 | Weblog
『もし日本なかりせば』暗に大東亜戦争の本質を喝破したマレーシア・マハティール首相の演説(1992年10月14日香港で開かれた欧州・ 東アジア経済フォーラムにて ) 

 ・・・ 日本は、軍国主義が非生産的であることを理解し、その高い技術とエネルギーを、貧者も金持ちも同じように快適に暮らせる社会の建設に注いできた。質を落とすことなくコストを削減することに成功し、かつては贅沢品だったものを誰でも利用できるようにしたのは日本人である。まさに魔法も使わずに、奇跡とも言える成果を創り出したのだ。
 ・・・日本の存在しない世界を想像してみたらよい。もし日本なかりせば、ヨーロッパとアメリカが世界の工業国を支配していただろう。欧米が基準と価格を決め、欧米だけにしか作れない製品を買うために、世界中の国はその価格を押しつけられていただろう。

 ・・・ 貧しい南側諸国から輸出される原材料の価格は、買い手が北側のヨーロッパ諸国しかないので最低水準に固定される。その結果、市場における南側諸国の立場は弱まる。

  ・・・ 南側のいくつかの国の経済開発も、東アジアの強力な工業国家の誕生もありえなかっただろう。多国籍企業が安い労働力を求めて南側の国々に投資したのは、日本と競争せざるをえなかったからにほかならない。日本との競争がなければ、開発途上国への投資はなかった。

 ・・・ また日本と日本のサクセス・ストーリーがなければ、東アジア諸国は模範にすべきものがなかっただろう。ヨーロ ッパが開発・完成させた産業分野では、自分たちは太刀打ちできないと信じ続けていただろう。

 ・・・東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも他の世界各国も驚くような成功をとげた。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、実際にそれを証明してみせた。

 ・・・ もし日本なかりせば、世界は全く違う様相を呈していただろう。富める北側はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨー ロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の顧客の言い値で売り続けていただろう。(植民地のままか、たとえ独立したとしても、植民地と同様であった。筆者注)

 マハティール首相の本心は「もし日本戦わざれば」なのだ、あまりに刺激的なので「もし日本なかりせば」にしたのだ。日本が戦い、有色人種独立の扉を開いたことにより、アジアが覚醒し共に戦い独立し、貿易の自由化を勝ち取り、日本へのよどみない原材料供給の結果、日本は繁栄した。日本を見習い東アジア諸国はあえて挑戦し、世界各国も驚くような成功をとげ、今の東アジア(大東亜共栄圏)があると言っているのだ。日本国がたとえ在っても、戦っていなければ、今の東アジアの存在はない。日本国が在り、日本国が戦った結果、今の東アジアが存在していると言っているのだ。親日などではなく、実事求是に基づいての演説なのだが、大東亜戦争のすべての殉難者に対して、これ以上の頌詞は無い。

 先人冒涜をつづける人々よ、「もし日本戦わざれば」に置き換えて再読してほしい。物事にはすべて禍福がある。禍、判断は半人前史観、つまみ食い史観で、禍福判断は一人前史観、真実史観だ。戦後の日本やアジアの繁栄は、先人と、共に戦った覚醒したアジアの先人のお陰なのだ。歴史には、逃げ場が無く、背水の陣で死に物狂いとなって戦わなければ通過出来ない時代が、必然的に存在する。織田信長の桶狭間がそうだ。日清、日露、大東亜、10~20倍以上の超大国が相手だ、いずれの戦いも、日本においては背水の陣、桶狭間の戦いだったのだ。護国指導者の苦悩が髣髴する。

 弱肉強食が常識の時代に、列強との戦いに日本は敗れたが、覚醒したアジアは皆独立し、貿易は自由化された。アジアの潤沢な原材料供給で、我が国は自由主義国として戦後強大な経済力を持つに至り、アジアも共に繁栄している。アジアやアフリカは南北アメリカのようにはならなかったのだ。この繁栄がアジアの自由主義圏を拡大させ、アジアの狂惨化を防いだ。この事実もけして見逃してはならない事なのだ。歴史は森を見て語れ、木だけ見て語ることなかれ。

正文で無い外務省和訳東京裁判受諾は明白な誤訳だ

2007-03-16 14:18:11 | Weblog
 昭和61(1986)年8月19日の衆議院内閣委員会で、後藤田正晴内閣官房長官は、共産党の柴田睦夫氏が東京裁判についての認識をただしたのに対して、「サンフランシスコ平和条約第11条で国と国との関係において裁判を受諾している事実がある」と発言し、東京裁判の正当性を認めることが政府の統一見解であるとの考えを表明した。 

 サンフランシスコ対日平和条約「1951(昭和26)年9月8日」第11条を自分で検証もせず、正文で無い外務省和訳「東京裁判を受諾」と鵜呑みし、外務省に操られた。

 Japan accepts the judgmentsを外務省は「日本は裁判を受諾し」と和訳。裁判は判決が最終決定するまでの過程なのだ。過程は受諾できない。結果が書いていない白紙に、判は押せない。

 条文の正文は英語、フランス語、スペイン語で、日本語の正文はない。日本の外務省がおこなった和訳が、正文に準ずるものとして締約国の間で承認され、国会承認・内閣批准を受けた公式なテキストとして日本国内では扱われている。

 正文でない外務省和訳で論争するから、おかしくなる。正文で検証すれば、即座に検証出来る。

 accepts(責任や仕事などを引き受ける)。
 the judgments 法律用語でのjudgment は、判決と訳すのが慣例。the judgmentsで諸判決。

 Japan accepts(責任や仕事などを引き受ける) the judgments(諸判決)。文意や正文や用法に沿えばJapan accepts the judgmentsは、「日本は諸判決の責任(刑の執行の継続)を引き受け」となる。
上記は要約、詳細は真実史観HPへ。
真実史観日本護国史戦勝国歪曲党売国党狂惨党に仕組まれ捏造された大東亜戦争
http://www.tofu-ryohin.co.jp/siten.htm

東條英機自殺と捏造したアメリカ

2007-03-16 14:14:24 | Weblog
 インドのパール判事(ラダ・ビノード・パール)の日本人被告の無罪論も、赤穂浪士のあだ討ちも、根底にあるのは実事求是だ。パール判事は職責をまっとうした結果の結論だ。赤穂浪士は幕府の不正を正した結果の結論だ。

アメリカの戦争目的は侵略、植民地化。日本の戦争目的は護国、アジアの解放、人種差別の撤廃、進んで資源の開放(貿易の自由化)。アメリカの原爆「二種類の原爆である。明らかに人体実験目的(ホロコースト・大虐殺)だ」空爆による60万人老若男女無差別殺人C級の罪。アメリカはこの負い目を払拭するため戦後、侵略戦争・南京掃討戦など日本軍隊極悪の多くのプロパガンダ(捏造宣伝)を繰り広げ東京裁判などで軍隊にすべて責任転嫁し、こんなに日本軍隊極悪だから60万人老若男女無差別大虐殺されたのだ、責任はすべて日本軍にあると、軍隊に責任をすり替えた。

 アメリカが日本軍隊極悪の槍玉に挙げ、生け贄にしようとしていたのが総大将東條英機なのだ。その東條が「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ。」と、大義に殉ずる(命を投げ出す)と公言している。東條英機は日本の正義を明確にし、戦勝国の不正を暴くと公言しているのだ。軍人勅諭「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ」に殉ずると公言しているのだ。もはや命をすてた東條英機の証言は阻止出来ずと判断したアメリカは、当然のように東條英機失墜作戦を展開した。ヒトラーはスターリングラード戦で、直々に「降伏禁止令」という、 狂気の極みとも言える命令を出し、凄まじい悲劇となった。東條英機をヒトラーと同罪にするため、ただの単なる教え(戦陣訓)なのに、「降伏禁止令」であるかのように報道させた。総仕上げとしてアメリカは、東條を急襲し、一発の弾丸もしくは弾丸のような刃物で胸を傷つけ、自殺を捏造した。プロパガンダ(捏造宣伝)は真実を覆い隠す仮面だ。叫べば叫ぶほど捏造なのだ。

 戦後、これまで大江健三郎の『沖縄ノート』のように、プロパガンダを鵜呑みし、取材も検証も思考もせず、貼り付け『プロパガンダ貼り付けノート』にしてきた。日本は、とうの昔に独立したのだ、独立国の、人民の、人民による、人民として思考すべきだ。戦後62年を経た、もうプロパガンダを鵜呑みすべきではない。プロパガンダ(捏造宣伝)を探究すべきだ。パール判事や、赤穂浪士の心を失っては駄目だ。

 昨年、虚偽の「戦陣訓」の、その仮面を剥ぎとりました。アメリカのプロパガンダ(捏造宣伝)のシンボル「東條英機」の虚像仮面も昨年剥ぎとりました。東條自殺説では26の矛盾が生じ、米国自殺捏造説では、26の矛盾が氷解する。
 下記の文は下記サイトの要約ですアメリカの東條英機自殺捏造の詳細は下記。

真実史観日本護国史戦勝国歪曲党売国党狂惨党に仕組まれ捏造された大東亜戦争
http://www.tofu-ryohin.co.jp/siten.htm

 まず 「米司令官に陣太刀送る」は前述のように、明白な米軍の捏造。次に、東條英機自殺では、下記26の矛盾点を一切払拭出来ない。下記の矛盾点はすべて一点を指し示している。「沈黙。弁解せず。一切語るなかれ。」が鍵となり、米国、東條英機を撃ち、自殺捏造の一点を導き出した。この一点で、下記の矛盾点すべて一瞬に氷解し、画竜点睛となる。

○「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ。」東條英機は、まさしくこの言葉(米国がもっとも恐れた言葉)に殉じている。「自殺未遂」が無ければ、東條英機は、米国がもっとも恐れたまさに解放の戦士としてアジアの、いや世界の有色人種の英雄となっていた。
○「虜囚の辱=軍人が日本国の囚人となる事」なのに、戦後の捏造(虜囚の辱=敵国の捕虜となる辱=「捕虜となるよりは自殺せよ)を、戦陣訓示達者本人が、なぜ認めたか。(注 検証の順番は戦陣訓が後でした。)
○「死ぬは易い。しかし敵に堂々と日本の所信を明らかにしなければならぬ。」と東條英機は大義を公言していた。戦後生き恥を曝していた理由は、まさにこれなのだ。総大将東條には、総大将として語る責任の「公」と、「臣」として天皇死守の二つの「公」があるのだ。その人が責任を果たさず、「辱」で無い「捕虜」(私)ごときで、なぜ自殺なのか。既に死を決意し、覚悟を決め、「公」の実現のため生き恥を曝し、「公」の大義の実現の為だけに生きている「私」など皆無の東條の脳裡には、「捕虜」(私)の「辱」など、ひとかけらもなかったはずだ。
○なぜMP、CIC(対敵諜報部)が来てから衝動的に自殺なのか。時間はいくらでも今まであった。

○なぜ「沈黙、弁解せず。一切語るなかれ」なのか。

○なぜMP、CICのいるところで自殺なのだ。失敗の場合は敵国に助けられるのは明明白白なのだ。敵国に生かされて虜囚の辱めを受けることになるのだ。それこそ総大将東條には最大の屈辱ではないのか。こんな単純明快なことすら、総大将カミソリ東條はわからなかったというのか。東條は大臣時代に出した戰陣訓に俘虜となるよりは自殺せよと書いてあるのを實行したのだと後日、証言している。証言が真実なら、必殺の頭を撃つのが正解ではないか。撃ちにくく、失敗しやすい心臓では無いだろう。どちらが撃ちやすいか自分で試して見れば、すぐ分かる。心臓を撃つには両手でピストルを持ち、利き手の親指で引き金を引かねばならず、撃ちにくいのだ。だからピストル自殺者はほとんどが頭だ。

○戦犯容疑者の逮捕は、占領軍司令部から日本政府に該当者の氏名を通告し、日本の官憲の手で逮捕するという取り決めになっていた。なぜ取り決め違反の逮捕なのか。事前通告し自殺されるのを恐れたのか?。『東條英機とその時代』矢次一夫

○たまたま本社(朝日新聞)記者は東条邸を訪れたとある。そして記者が口頭の遺言を聞いたというのである。記者が現場に簡単に入れるものだろうか。

○朝日新聞長谷川記者は、なぜ左胸なのに、左腹部と報道したのか。

○朝日新聞長谷川記者が聴いたという口頭の遺言は、不自然な辻褄をあわせるための弁解だ、遺言ではない、内容は遺言になっていない、弁解ばかりだ。

○朝日新聞長谷川記者の記事では生命はとりとめるであり、『眞相箱 』では自分には手を施す術がない、大將は死ぬだらうと一人の日本人の醫者の診察が違う。

○口頭の遺言は誤りが多々あり、日本人記者の文ではない(赤細字で訂正)。手渡された走り書きを、そのまま書き写したものだ。米軍の検閲が有り、勝手に書き直せないので、直さずそのまま載せた。

○朝日新聞長谷川記者の「証言 私の昭和史 6」ではなぜ、あばら骨の四番目と五番目の間なのか。あばら骨は腹ではない、新聞報道となぜ違うのか。

○ピストルで心臓を撃ち自殺する人がいるのだろうか、間違つて生き度くない、一發で死に度かつたのなら撃つのは頭だろう。「ザレイプオブ南京」の著者36歳女性アイリス・チャン頭部への銃弾1発で自殺。ましてや東條は男で軍人だ。敵国に生かされて虜囚の辱めを受け無い必殺は、頭だろう。

○書きかけの、コピーされた遺書が前日日付なのも不自然だ。MP、CIC(対敵諜報部)は取り決め違反で予告無く逮捕に来ているのだ。また覚悟の自殺であれば、前日日付では無く、当日日付ではないのか。

○遺書は未完成なのになぜ自殺をしたか。天皇陛下宛の遺書も清書せず、日にちだけ記載し、不敬のまま、臣(しん「けらい」)英機の自殺は無いだろう。不自然だ。

○未完成な遺書があるのに、口頭でなぜ遺言を話したのか。

○1発で胸を撃ち抜いた人間が2発目3発目を撃たず、長文の遺言を、しゃべったと言うのだ。 治療優先だろう。

○一發で死に度かつたと口頭の遺言の開口一番の言葉だ、一發のいい訳から始まっている、語るに落ちるではないのか。

○遺言を口頭で伝えたといわれた人間が、なぜ生き恥をさらしながら死刑判決まで生き長らえたのか。

○軍人東條が、家族や近親者に死ぬ死ぬと、証言のように詳細に、自殺を公言するものだろうか。

○「忠臣」と言われた東條が、天皇を守らず、死ぬわけにはいかないのだ。ましてや遺書に臣英機と記載し内容は天皇宛である。天皇宛でないところが、追記となっている。臣英機と書き、臣「しん(家来)」の勤めも果たさず自殺は無いだろう。

○ご丁寧に自殺直後の写真まで撮影されている。

○口頭の遺言は朝日の長谷川記者が直接聞いたのではなく、マツクアーサーと記載されたメモとして米軍より手渡されたものを、そのまま転載したものだ。直接の聞き書きであれば、文頭記載のようにマツカーサーと書くはずだ。米軍の検閲が有るので勝手に書き直せない。

○東條大将が自決を図ったのが午後4時、午後7時20分頃、家から運び出し、横浜の米軍病院に収容した。(重光葵の手記より)3時間20分もかかっている、何があったのだろうか。報道されたような重傷であったのだろうか。

○自殺未遂後一月もたたない10月7日、大森俘虜(ふりょ・捕虜)収容所に傷の癒えた東条が送られている。報道されたような重傷ではなかったのだ。


 私が検証した以外にも、反日や戦勝国のプロパガンダはたくさんあります。反日やプロパガンダは真実を隠蔽するためのものです。反日やプロパガンダが叫ぶ、逆が真実です。プロパガンダを鵜呑みせず探究しましょう。

陥落後512日戦い、降伏命令書で下山したサイパン島の47士 

2007-03-16 14:09:56 | Weblog
○陥落後512日戦い、降伏命令書で下山したサイパン島の47士 「捕虜の辱」、そんな「私心」でなく、生きて生きて生きて生きて生き抜いて護国「公」(義)のため最後の最後まで戦い帰還した日本兵47士。「捕虜の辱」で自決の記載一切皆無。
 サイパンが落ちれば、米軍爆撃機の行動圏内に日本本土は全部入ってしまう。それはどうしても防がねばならなかった。「我身を以て太平洋の防波堤たらん」と奮闘したが、昭和19年7月7日最期の反撃戦にてむなしく玉砕。
 しかし、サイパンに於ける戦いはそれで終ったわけではなかった。玉砕後、なお生き残った多数の将兵はタッポーチョ山(標高476m)付近を初め、山地、海岸などのほら穴や岩影に潜入し小集団となって遊撃戦を続行した。民間人を守り最後に皆下山させ、なんと終戦後の昭和20年12月1日まで、護国の戦いを続けたのである。
 アメリカ軍は捕虜をつくりたがらない。もし捕虜にするとしたら、婦女を陵辱し、男を拷問にかけて楽しむためだ。と彼(看護婦青野千恵子の父)は聞かされていた。(P27)一家は洞窟に隠れた、しかし一家は見つかり、父母妹の家族全員を目前で瞬時に殺されてしまった。目の前の家族の仇を討とうと機関銃の引き金を引いたが、撃ちかたが分からず仇を討てなかった看護婦の引きずる思い。復讐の念に燃えながら医療品の袋を背負い、ベルトに長いナイフをさげ、大場部隊と女一人となっても最後まで行動を共にし、助ける、看護婦青野千恵子。蔓草で肩から吊るした九九式軽機関銃を操り、米兵100人殺すまでは自分は死なないと誓い、大場部隊を助ける、はぐれ者一匹狼、元ヤクザ刺青一等兵堀内今朝松。なぜかこの二人のはかなく凄まじい生きざまは、読後も深く胸を打つ。この本の早期の復刻を願う。敵味方当事者合作のこの記録には、先に殺さなければ殺される、戦争の真実が存在している。日本人必読の書だ。
 昭和20年12月1日 天羽少将の降伏命令書に従い下山。最後まで戦いを貫いた将兵の数は47名、指揮官は大場栄大尉。その日47名は髯を剃り軍服に着替えて、タッポーチョ山に設けた潜伏拠点の前で慰霊祭を行い、戦友の霊に3度の弔銃を捧げ、へんぽんとひるがえる日の丸を先頭に、銃をかついで歩調を合わせ隊列を組み、軍歌「歩兵の本領」を唱和し、米兵の真つ只中を式場まで整然と行進した。
 米軍は、彼らを勇士として丁重に扱い歓迎会まで催し、米軍の新聞にも大きく報じられた。彼らは祖国日本に忠義を尽し最期まで戦いを貫き、米兵から尊敬までされたのである。米海兵隊の元兵士のドン・ジョーンズ氏が大場部隊47士の姿に感動して、戦後日本を訪れ(昭40)取材して書き残した本が、『タッポーチョ』ドン・ジョーンズ著中村定訳祥伝社1982(昭57)年出版副題「『敵ながら天晴』大場隊の勇戦512日」だ。何と大場部隊に守られた日本人の執筆者に先駆けること一年前、敵国の元兵士が、誰よりも先んじて大場隊の勇戦を世に知らしめたのだ。
序文
 「本書を、自らの国のために全力を尽くし、報われることのなかった、現代の日本人の父親たちに、祖父たちに、伯父たちに捧げる。」
あとがき
 私は今日の日本で、1945年(昭和20年)以降に生れた人たちの間では、日本にあった戦争についてあまりにも知られていないことが残念で、この本を書きました。
 これを書く前に、・・・調べてみました。・・・多くの人たちの間に、戦争のことを言うのに恥じる感覚があるということでした。そして、その恥の感覚は、事実に基づいたものではなく、知識の欠如に基づいたものでした。
 この人たちは、自分たちの父や祖父や叔父たちが、自分たちの国を守るために戦った精神について、何も知りませんでした。もっと驚いたことは、その人がしたことになんの尊敬の念も払っていないことです。
 私は、このことをとても残念に思います。日本の兵隊は、よく戦ったのです。彼らは、世界の戦士たちの中でも、最も優れた戦士たちでした。彼らは、自分たちの国のために生命を捨てることを恐れませんでした。私は、そのことを、こういう兵士たちと三年戦いましたから、よく知っています。
 しかしこの本は戦争の物語ではありません。日本とアメリカとの双方で、多くの人たちは自分が作ったわけでもない恐ろしい状況に、どのように反応したか、と言うことを書いた物語です。双方の人たちは、それぞれ信じていたことをしたのです。
 ・・・事実(この本に記した真実を日本人が知れば)によって、現在の知識の真空状態は埋められることになるでしょう。また、先述の恥じる感覚は誇りに変わるでしょう。
 ・・・そして、それらのページは、今日の若い日本の人たちにとってだけでなく、その人たちの子供や孫にとっても、誇りの源泉になるでしょう。それが、私がもっとも強く持っている願いです。1982年11月 ドン・ジョーンズ
『タッポーチョ』刊行に寄せて  大場 栄
 この本がどのように読まれるかについては、私には懸念がある。しかし、この本がかっては敵同士だった私たちの戦後の長い交流を経て、敵の目で書かれたわれわれの戦いの記録であることは間違いない。

オーストラリア・カウラ・日本人捕虜1104人大脱走 

2007-03-16 14:03:26 | Weblog
カウラの大脱走 1944年8月5日、午前1時55分、オーストラリア・シドニーの西約320キロに位置するカウラ戦争捕虜収容所で、1104人(約80%が陸軍で、20%が海軍。)の日本人捕虜が一斉に脱走した。日本兵の死者231人、負傷者108人、成功者ゼロ。オーストラリア側の死者4人。捕虜脱走事件は、オーストラリアと日本の両国政府によって長く隠蔽され、事件が公開されたのは、事件から40年後の1984年だ。

 NHK制作の「カウラの大脱走」2005年9月4日に放映された。内容は、カウラ事件の生存者の「証言」を主体に編成したものだ。日本兵の大半は、捕虜となったときに偽名を名乗って入所し、姓名が日本に伝わることを避けたという(捕虜になっての偽名や家族への音信不通は、捕虜は公表されていないので、自分たちだけが捕虜になったのだという、うしろめたさがそうさせた。また捕虜同志の面子もあり、おのずとそうなった)。

 戦陣訓を意識せずに平和な捕虜として暮らしていた。ところが、ある日、日本軍の下士官の一群が収容されて来た。一人の下士官が軍人手帳を示し『諸君は捕虜である。戦場に臨む軍人の心得として、戦陣訓には「生きて虜囚の辱めを受けず」と書いてある。生きて捕虜になっていることはこの上なき恥辱である。国に残してきた家族に対しても申し開きができないではないか』と話し始めた。「これは敵につかまるぐらいなら自決しろということだ」とつまみ食い読みし、説明し、皆、戦陣訓に納得し、票決の上決行した、のだという。NHKは戦陣訓原因説だ。

 下記はNHK放映内容記載
http://www.yamadas.jp/mami/cowra.html ←Mami Yamada|週刊マミ自身 
http://daisukepro.exblog.jp/2652637/ ←発見の同好会 : 続 NHKテレビ「カウラの大脱走」と民主主義

『ウィキペディア(Wikipedia)』の見解 ←http://ja.wikipedia.org/wiki/ォヲゥコサカ

 士官と兵の信頼関係は厚く結ばれたものであると言う理論に基づき、全体一緒の移送ならば良いが、分離しての移管を受け入れる事が出来ない日本兵はそれを "契機" として捕虜収容所からの脱走を計画する事になる。(以前から計画はしていなかった。)

 日本人はミーティングで、要求を受け入れるか、反対して脱走をするか の多数決投票を行い、 "移送計画へ協調しない=脱走" となる ('脱走へ非参加' への投票者も居た)
 この際、紙に移送受諾なら○、反対は×として行ったが、当時の集団心理としてのけ者になる、目立つことへの恐怖の心理が投票に強く働いていた可能性を、現生存者は証言。

「カウラの大脱走」はNHKのように、戦陣訓に責任転嫁だけでは語れない事は確かだ。下記は詳細に語られている「カウラの大脱走」だ。

http://www1.odn.ne.jp/kminami/sub16.html← カウラ (COWRA)―ひそやかに眠る日本の兵士たち 

真実史観の検証 カウラの1100余名の日本兵は、戦陣訓を知らずに平和な捕虜生活を送っていた。そこへ戦陣訓をつまみ食い読みした下士官が現れ、戦陣訓に白紙の兵士は、洗脳され、大脱走となったと言うのが「カウラの大脱走」のあらすじだ。日本軍人の捕虜数を一切軍が公表していなかったので、自分たちだけが捕虜なのではないかという自虐心が、戦陣訓のつまみ食い読みであおられたため、自虐、自損の行動となったのだ。つまり、戦陣訓を読み解いた者が一人もおらず、つまみ食い読みし、悲劇となった。戦陣訓の内容を皆、知らなかったから、つまみ食い読みの間違い〔陸海軍の軍人が空で覚えている軍人勅諭に、義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ其「その」操「みさお(定めた意志を固く守ってかえないこと)」を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれと述べているのに、私心(捕虜の辱め)で、死ねという矛盾〕に気付かなかったのだ。戦陣訓を読み解いた者が一人でもおれば、皆帰還していた。捕虜収容所という異常下におきた事件とはいえ、なんという悲劇だ。

 「カウラの大脱走」は戦後の日本と同じだ。戦陣訓に白紙の日本人は、戦陣訓を、つまみ食い読みした鵜人識者やマスコミに瞬く間に洗脳され染まってしまった。精神に荒廃を来たしながら61年を経た。手本の軍人勅諭を読み、戦陣訓を読み解き、二度とカウラの悲劇を繰り返してはならない。同胞よ、二度とカウラの悲劇の、轍を踏むなかれ。

玉砕直前のサイパンから一日本兵の母国への伝言

2007-03-16 13:39:40 | Weblog
 2007-2-24 NorthernCaliforniaのDr.夢倉さんより「61年間誤報道され続けた戦陣訓の真実」のスレッドに、「サイパン戦で玉砕されたと思える一人の日本兵の残した従軍手帳と出会う事がありました・・・御時間のあるときにご覧になられてください」と投稿がありました。http://blogs.yahoo.co.jp/drmusou

 Dr.夢倉さんは従軍手帳や遺品を写真掲載し、ブログを以下のように結んでいます。
 戦争の遺物品を収集するコレクターは多くいる。・・・インターネットのオークションサイトで日本兵が最後の力を振り絞り書いたと思われる従軍手帖が「商品」として売られているのを発見した。このような貴重な歴史を語る遺物品は、決して金銭価値で計れるものではない。戦争の遺物品を収集する事を趣味にする人間の、単なる個人のコレクションのひとつとして埋もれさせてはいけない。サイパンから日本に届けたかったと思われる、一日本兵の最後の言葉を含むこの従軍手帖は、必ず、日本人の元に戻さねばならない。そういう思いで、私は競り落とした。
 ・・・玉砕する寸前まで、「生キテ生キテ生キ抜イテ」という一日本兵の言葉は、21世紀に生きる日本人の私の胸を熱くする。敗戦後、六十二年、決して、その言葉の重みは失われてはいない。私は、この従軍手帖に書かれた数名の日本兵の玉砕を弔うと共に、最後の最後まで生きる事をあきらめず、無念にも玉砕した日本兵の言葉を死なせてはならないと思う。私には、果たして、どの日本兵がこの従軍手帖に最後の最後まで力を振りしぼって伝言を綴ったのかは、わからない。今、私にできることは、できる限り多くの人に、この日本兵の最後の「伝言」の言葉を読んでもらう事だと考えている。そして、私の手で、これらの遺物品を無事、母国日本に帰国させてあげたい。適した施設に寄贈し、「地獄ノ有様」の戦争を知らずに育った日本人、そして、これから生まれてくる日本人に、「生きる」という意味を考える一つのきっかけにしてもらいたいと願う。

 戦後戦勝国のプロパガンダに洗脳された哀れな子孫と反日は、先人を犬死に、無駄死に、無駄な戦争と、62年を経た現在でも冒涜し続けています。日本は戦争には確かに負けた。しかし、独立し、護国すると言うことは、日本のように命を懸けなければ達成出来ない事を学び、アジアは戦い、南北アメリカのようにはならず、皆独立した。戦後宗主国が退き、貿易が自由化され、アジアが日本が繁栄している。 1944年(昭和19年)の7月9日サイパン陥落。サイパンで玉砕した一日本兵は「生きて捕虜の辱」などの「私心」ではなく、「護国」と言う「公」のために、玉砕の直前まで「此ノ島ガ陥チタラ日本ノ存在ハ薄氷ヲ踏ムガ如シダドウシテモ死ナレナイ生キテ― ― ―生キ抜イテ此ノ島ヲ守ラネバ・・・」「生きて生きて生きて生きて生き抜いて此の島を守らねば」と日本へ書きしるしています。一人の日本人の熱き想いで発見された伝言は、63年を経て今年日本に届きました。子孫は、この熱き想いと、この真実を流布し、この礎石を、未来永劫忘れてはならない。ここには、先人と子孫、過去と現在、呼応する二つの「公」の感動がある。