〔毒矢のたとえ〕仏教で有名な教え
「マールンキャープッタよ、たとえばある人が毒を厚く塗った矢で射られたとしよう。
かれの友人や同僚や親戚の者たちが内科医や外科医に手当をさせようとしたとしよう。
もしかれが、『わたしを射た者がクシャトリヤ階級の者か、バラモン階級の者か、ヴァイシャ階級の者か、シュードラ階級の者かが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た者の名前はこれこれであり、姓はこれこれであると知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た者は背が高いか背が低いか中くらいか知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た者は黒いか褐色か金色の肌をしているかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た者はこれこれの村に、または町に、または都市に住んでいると知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た弓は普通の弓か石弓かが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったり、
またもしかれが、『わたしを射た弓の弦がアッカ草でつくったものか、サンタ草でつくったものか、動物の腱でつくったものか、マルヴァー麻でつくったものか、キーラパンニンでつくったものかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、わたしを射た矢の矢柄がカッチャ葦であるか、ローピマ葦であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た矢の矢柄につけられた羽は鷲の羽であるか、あおさぎの羽であるか、鷹の羽であるか、孔雀の羽であるか、シティラハヌの羽であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、わたしを射た矢の矢柄に巻いてある腱は牛のものであるか、水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た矢は普通の矢であるか、クラッパであるか、ヴェーカンダであるか、ナーラーチャであるか、ヴァッチャダンタであるか、カラヴィーラパッタであるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
マールンキャープッタよ、その者はそれを知らないうちに死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、
これとまったく同様に、『世界は永遠である』とか、『世界は永遠でない』とか、『世界は有限である』とか、『世界は無限である』とか、『生命と身体とは同一である』とか、
『生命と身体とは別異である』とか、『如来は死後存在する』とか、『如来は死後存在しない』とか、『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』とか、『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』とかを、
世尊がわたしに説かないうちは、わたしは世尊のもとで清らかな行ないを実践しない、という人がおれば、マールンキャープッタよ、世尊によって説かれないままに、その人は死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、
『<世界は永遠である>という見解があるとき、清らかな行いを実践するであろう』というのは正しくない。
マールンキャープッタよ、
<世界は永遠でない>という見解があるとき、清らかな行いを実践するであろう』というのも正しくない。『世界は永遠である』という見解があっても、『世界は永遠ではない』という見解があっても、しかも生があり、老いることがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。
わたしは現実に(現世において)これらを制圧することを説く。
「マールンキャープッタよ、たとえばある人が毒を厚く塗った矢で射られたとしよう。
かれの友人や同僚や親戚の者たちが内科医や外科医に手当をさせようとしたとしよう。
もしかれが、『わたしを射た者がクシャトリヤ階級の者か、バラモン階級の者か、ヴァイシャ階級の者か、シュードラ階級の者かが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た者の名前はこれこれであり、姓はこれこれであると知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た者は背が高いか背が低いか中くらいか知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た者は黒いか褐色か金色の肌をしているかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た者はこれこれの村に、または町に、または都市に住んでいると知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た弓は普通の弓か石弓かが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったり、
またもしかれが、『わたしを射た弓の弦がアッカ草でつくったものか、サンタ草でつくったものか、動物の腱でつくったものか、マルヴァー麻でつくったものか、キーラパンニンでつくったものかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、わたしを射た矢の矢柄がカッチャ葦であるか、ローピマ葦であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た矢の矢柄につけられた羽は鷲の羽であるか、あおさぎの羽であるか、鷹の羽であるか、孔雀の羽であるか、シティラハヌの羽であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、わたしを射た矢の矢柄に巻いてある腱は牛のものであるか、水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た矢は普通の矢であるか、クラッパであるか、ヴェーカンダであるか、ナーラーチャであるか、ヴァッチャダンタであるか、カラヴィーラパッタであるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
マールンキャープッタよ、その者はそれを知らないうちに死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、
これとまったく同様に、『世界は永遠である』とか、『世界は永遠でない』とか、『世界は有限である』とか、『世界は無限である』とか、『生命と身体とは同一である』とか、
『生命と身体とは別異である』とか、『如来は死後存在する』とか、『如来は死後存在しない』とか、『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』とか、『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』とかを、
世尊がわたしに説かないうちは、わたしは世尊のもとで清らかな行ないを実践しない、という人がおれば、マールンキャープッタよ、世尊によって説かれないままに、その人は死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、
『<世界は永遠である>という見解があるとき、清らかな行いを実践するであろう』というのは正しくない。
マールンキャープッタよ、
<世界は永遠でない>という見解があるとき、清らかな行いを実践するであろう』というのも正しくない。『世界は永遠である』という見解があっても、『世界は永遠ではない』という見解があっても、しかも生があり、老いることがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。
わたしは現実に(現世において)これらを制圧することを説く。
お経は唱えるのも聴くのも退屈なものですが、ギリシャ神話のようなお経もあるのでした。
浄土宗の『観無量寿経』を採り上げてみました。