山城知佳子  プカリー水辺の物語 ー

  YAMASHIRO Chikako
水面に漂う水草物語

『オキナワTOURIST』I like Okinawa Sweet

2009年02月15日 | 山城知佳子作品集
『オキナワTOURIST』
OKINAWA TOURIST
I like Okinawa Sweet
ビデオ /Video

オキナワ TOURIST
                              
「女体体操」なるイフーなことをやっている山城知佳子は、以前、亀甲墓の墓庭で真夜中?のダンスダンスをやってみせる『墓庭の女』をつくっていた。人づてに聞くところによると、何でも「聖なる場所を冒涜(ぼうとく)する」ものとひんしゅくを買ったという。だが、山城の試みは、常識や日常や無意識の裏にまわり、意表をつくように繰り出されるパフォーマティブな芸の力にあるといってよいだろう。
 『オキナワTOURIST』は、墓庭で、今度は夜ではなく白昼、白い袋をかぶった男女がエイサーを踊る「墓庭エイサー」、国会議事堂正門前で亀甲墓の写真を頭上にかざし、オキナワ観光PRする「にほんへのたび」、そして、フェンスの前でアイスクリームを与えられ喜々としてむさぼりつづける「I like Okinawa Sweet」の3つの掌編からなる。
 これらのショートショート映像は、観光化されたオキナワの現在への批評的レスポンスである。観光とは、差異の記号を売ることである。訪ねる人たちはその差異の記号を買い、作られたイメージや物語を消費する。年間600万人に達しようとする観光客は、いわば、生産された沖縄イメージの大量消費者たちである。この現象は厄介なことに、当の沖縄(人)自身が観光エージェントのまなざしや作られた沖縄イメージに同化し、ツーリズムの視線でこの土地やこの土地に住む人をまなざし、作られた沖縄イメージを演じることになるという、実に皮肉なことが起こってしまう。
 山城知佳子の『オキナワTOURIST』は、こうした観光オキナワの記号の体系とシミュラークル(構造)なオキナワを同時代として生きてしまっていることを引き受けつつ、その背後から異貌の〈何か〉を差し出してみせる。その〈何か〉とは、国会議事堂正門前で亀甲墓の写真をかざす女、フェンスの前でトロピカル衣装をまとい甘いものをむさぼる女、そう、山城知佳子自身のパフォーマンスに装てんされた異化のヴィジョンといえよう。
 あのフェンスの前の甘モノ過食症なトロピカルドールは、まぎれもないオキナワの自画像だが、そこに生じる裂け目やズレからもうひとつの別な声と視線の瞬きを、たしかに映像は際立たせている。
 
― 仲里 効(「EDGE」編集長)
展評「オキナワTOURIST」山城知佳子映像展(前島アートセンター、那覇)               
                                  2004年琉球新報文化面掲載




Anyway...

2009年02月15日 | 山城知佳子作品集
Anyway…
ラムダプリント・、木製パネル/
Lambda print,wooden panel

Anway…
                       
県立芸大卒展での山城知佳子のインスタレーション作品は、見るものを揺さぶる力があった。積まれた膨大な量の新聞紙の圧倒的重量感と、暴力的な物質感、自然との強引な組み合わせが群を抜いていた。卒業制作の前に山城は長い期間部屋に籠ってユングの著作を読み続け、巡礼のように御嶽(ウタキ)を巡った。その際ユングの「集合の記憶」に触れ、それが新しい表現の展開となったという。さらに留学中のアイルランドで体感した、ケルト文化の基層にある体験によって沖縄の後生(グソウ)観と融合、沖縄的かつ普遍性なるものの確信へとつながっていった。
 そして次の展開が、山城自身が被写体となる、墓の前でのパフォーマンスシリーズである。墓庭で踊るという発想は、最初奇抜な印象を与えたが、考えるに墓前で踊るという行為自体は優れて沖縄の伝統的な心性の本質を掬(すく)いとったものではないか。山城は基層文化のモダンな身体性の異種混合に止まらず、さらに、社会批評的な作品作りへと展開していく。
 昨年(2004年)発表した「オキナワTOURIST」は、国会議事堂前でプロテストする女性が、なぜか口をついて出る言葉がステレオタイプな沖縄観光イメージへの、あまりにも控えめな疑義という「日本への旅」。沖縄の夏、基地の前で大きなアイスクリームをいくつも貪(むさぼ)り、喜悦に浸る女性=沖縄を撮った「I Like Okinawa Sweet」。基地=植民地的暴力とエロスの組み合わせが、自らの内部のおぞましさを見せつける。目隠しの白い袋を被った集団が踊る「墓庭エイサー」。3作とも痛烈な沖縄への自己批判が横溢(おういつ)していた。おそらくこの作品は、映像では初めて沖縄を自己批判した作品である。
 一転して、今回展示されている写真作品で、昨年の倉敷ビエンナーレで優秀賞を受賞した「Anyway…」は、山城自身が墓の前で花を放りなげ、自己肯定的に生命を謳歌(おうか)することによって、時間の表層である「現在」をかえって意識させるものである。
 写真を中心にした今展においては、山城知佳子は新しい展開を試みている。これまで正面に撮っていた墓から、今回は周辺=世界に視線を移しているのが目につく。秀逸は大きなデイゴのある広場の2点対の「life」である。時間の差による微妙な変化により、かえって世界を凝視させるような仕組みになっている。
静かな中心のない風景が広がる。
 ダイナミックな身体感覚で走り抜けてきたこの作家は、とりあえず次のステップへのインターバルに入っているのかも知れない。次はどのような走りを見せてくれるのか、目が離せない。
  ― 翁長直樹(沖縄県立博物館・美術館学芸員)               
展評「Anyway…」山城知佳子個展(ギャラリーラファイエット、那覇市銘刈)
                              2005年6月4日琉球新報文化面掲載


久々のRAFUTEビル

2009年02月14日 | Weblog
今日は2年前に短期アトリエとして使わせて頂いたRAFUTEビルへ。
その後、場所を変え韓国料理のお店で建築家の親泊さんと前島アートセンターの岡田さん、助監督の砂川氏とともに。
あーだこーだと話が行きつつ、
『アマテラス』の神のお話と我々の未来についてのお話に発展!?

意義のある夕食会。

「たゆたう視線と世界観」フォトエッセーまなざしの行方

2009年02月09日 | フォト&エッセー
フォトエッセーまなざしの行方(沖縄タイムス文化面2009.2.2)
「たゆたう視線と世界観」

 昨年東京近代美術館で開催された「沖縄・プリズム」展に「アーサ女」という
写真と映像作品を発表した。海藻のアーサを身体にまとい、浮きつ沈みつ沖縄の近
海を漂っている「アーサ女」の視点で沖縄を見つめ、新たな沖縄像を発見すると
いうテーマの作品だ。
 「沖縄プリズム」展でも過去から現在まで沖縄に注がれてきたまなざし、「内なる
視線」「外なる視線」を乱反射させ、今まで闇だった箇所に光を当てることで立
ち上がる新しい表現というものを求めていた。 
 私はそれを受けて「戦争」「基地」「観光」「自然・文化・芸能・癒し」など、
これまで語られて身体化し、無意識に定着させてしまった沖縄像を自分なりに解体して
新しい目で見た表現を試みた。  
 「アーサ女」にはひげがついている。身体にまとわりついたアーサがいつの間に
か口元をひげのようにかたどっているのだ。自分の中で身体化してしまったあるイメー
ジを解体するため、新しい身体に変革しようと海に飛び込み、形を流動的に変え
ながら絶えず循環し息絶え絶えに不安定に死と生の間を、女から男に男から女に
性別をまたいで行ったり来たりする「アーサ女」は変身物語として読めなくもな
い。
 心理学など勉強しなければとても説明できることではないけれど、「世界」を
見る為に今までにない新しい目を持とうとする事はいかに大変なことか、死の危
険も孕むような精神・身体改革が必要なんだと改めて思った。
 制作途中、ある評論家とお互いの近況を話す機会があった。その人は子ども番
組で戦隊モノに出演する女性戦闘士の描き方を、ジェンダーの観点で分析している
と言った。私もある意味、戦隊モノの変身系アート作品に取り組んでいるところ
だと笑って返した。
 だが展覧会が始まり、ある思想家に「アーサ女はもうすでに人間じゃない、あなた
人間じゃないのよ」と言われた。その言葉は変身説より突拍子なく、驚いた。
 「アーサ女」は人間ではなく海藻そのものであり、島を「内」や「外」から「
見る」「見られる」という視点の構図を外したのかもしれない。
 もしそんな視点を持てたのだとしたら、それは新しい沖縄を見るための第3の目
として「アーサ女」が生まれて来たのだろう。
 「アーサ女」が生まれるまでの過程に起こった心的変化には「謎」がたくさん
ある。作った本人もすぐに解読できない「謎」があるのが芸術作品だろうと思う
し、制作後の「謎とき」が次の創作意欲をかき立て、作り続ける力になっている
気がする。(おわり)

◇写真説明:県内各地の海で撮影した映像作品「アーサ女」のワンシーン。
      沖には「海上保安庁」と書かれた船がある=(2008年9月、名護市辺野古沖)

アトミック・サンシャイン in 沖縄

2009年02月09日 | アート活動速報
 現在、沖縄県立博物館・美術館の美術館の方で開かれている展覧会、
『移動と表現』展も河原温さんや、柳幸典さんなどの沖縄で見れるなんて!という作家さんの並ぶ
とても興味深い展覧会ですが、その後に続く『アトミック・サンシャイン』@沖縄の展覧会も
今から待ち遠しい展覧会です。
 すでにNY、東京と開催してきた展覧会の最後の場所として沖縄の地で開催されます。

「ー日本国憲法第9条下における戦後美術ー」とある副題に、立ち止まる方通り過ぎては行けない方が沖縄にも
、大勢いるのではないでしょうか。


http://www.spikyart.org/atomicsunshine/indexj.html

展示コンセプト
by 渡辺真也(本展示キュレーター)

日本国憲法は、1947年、アメリカ占領軍によって実質的に書かれた歴史がある。そして平和憲法として知られる第九条には、主権国家としての交戦権の放棄と戦力不保持が明記されている。
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この世界的に見ても非常に珍しくユニークな憲法上の平和主義の規定は、アメリカのニューディーラーの理想主義が反映されている。この平和主義を含んだ新憲法は、第二次大戦の苦しみを経験した当時の日本の一般市民に受け入れられ60年間改正されることなく今日に至るが、アジアの不安定化とナショナリズムの高揚と共に、この平和憲法の基盤である第九条が、現在、その存在を問われている。
美術展覧会「アトミック・サンシャインの中へ - 日本国平和憲法第九条下における戦後美術」は、日本国憲法改正の可能性を目前とする今、戦後の国民・国家形成の根幹を担った平和憲法と、それに反応した日本の戦後美術を検証する試みである。
憲法第九条は、戦後日本の復興と再形成に多大な影響を与えたのみならず、60年間他国との直接交戦の回避を可能にした。しかし、九条を持つことで日本は直接交戦から回避することに成功したが、日本の実質的戦争協力は、第九条が保持される限り、ねじれた状況を生み出し続ける。この日本の特異な磁場から、多くのアーティストたちは取り組むべき新たな課題を発見し、彼らの芸術に表現してきた。日本の戦後やアイデンティティ問題などをテーマとした美術作品の中には、戦後の問題、アイデンティティ問題、また憲法第九条や世界平和をテーマとしたものが少なくない。
アトミック・サンシャインとは、1946年2月13日、GHQのホイットニー准将が、吉田茂とその側近であった白洲次郎、憲法改正を担当した国務大臣の松本烝治らと行った憲法改正会議のことである。ここで、ホイットニー准将は保守的な松本試案を一蹴し、GHQ民政局の憲法試案を「日本の状況が要求している諸原則を具体化した案」で、マッカーサーの承認済みのものだと説明した。その後、アメリカ側が公邸の庭に下がり、英文を読む時間を日本側に与えたのだが、その際、英語に長けた白洲次郎が庭に出てアメリカ人のグループに加わっていくと、ホイットニー准将は白洲にこう言った。
「We have been enjoying your atomic sunshine.」
この一言で、ホイットニー准将は日本側に、戦争の勝者・敗者を明確に思い起こさせ、さらにGHQ草案に示された諸規定を受け入れることが、天皇を「安泰」にする最善の保障であり、もし日本政府がこの方針を拒否するならば、最高司令官マッカーサーは日本国民に直接この草案を示す用意がある、と発言した。その後、この憲法改正における日本国とGHQの会議は「アトミック・サンシャイン会議」と呼ばれるようになる。このGHQ草案に添った形で修正した内閣案が、最終的に1946年11月3日に日本国憲法として公布された。


展示の目的

世界的に見て、憲法第九条は非常にユニークなものでありながら、その存在そのものが意外と知られていない。そこで、この展覧会を通じ、日本の戦後美術のみならず、日本国憲法第九条を、ニューヨークの聴衆に紹介する。また、この平和憲法の成り立ち、そしてその為に日本が戦後60年間、直接的交戦における犠牲者を出してこなかったという歴史的意義と重要性を検証する。



日本国憲法第9条をテーマとする美術展制作に当たって

日本国憲法は、アメリカ占領軍によって実質的に書かれた歴史がある。そして平和憲法として知られる日本国憲法第9条には、主権国家としての交戦権の放棄と戦力不保持が明記されている。

この世界的に見ても非常に珍しい憲法上の平和主義の規定は、アメリカのニューディーラーの理想主義が反映されており、平和主義を含んだ新憲法は、第二次大戦の苦しみを経験した当時の日本の一般市民に受け入れられ60年間改正されることなく今日に至る。しかし、冷戦の終結、アジアの不安定化とナショナリズムの高揚と共に、この平和憲法の基盤である第9条が、現在、その存在を問われている。

第9条は、戦後日本の復興と再形成に多大な影響を与えたのみならず、60年間他国との直接交戦の回避を可能にし、直接交戦による死者を一人も出さないことに成功したが、日本の実質的戦争協力は、第9条が保持される限り、ねじれた状況を生み出し続ける。この日本の特異な磁場から、多くのアーティストたちは取り組むべき新たな課題を発見し、彼らの芸術に表現してきた。その中には、日本の戦後やアイデンティティ問題などをテーマとした、また9条や世界平和をテーマとした作品が少なくない。

美術展覧会「アトミック・サンシャインの中へ - 日本国平和憲法第9条下における戦後美術」は、日本国憲法改正の可能性を目前とする今、戦後の国民・国家形成の根幹を担った平和憲法と、その影響下に制作された戦後美術を検証する試みである。