お久しぶりです、にゃんこ丸です。
2年前に、もう記事は投稿しないと決めていたのですが、実はこのブログにも登場する母がこの秋に亡くなり、その報告や、私自身の気持ちの変化などをお伝えしたく、久しぶりに更新させていただくことにしました。
母が亡くなったのは本当に突然のことでした。
私はこのブログを書き終えた後、自ら母に連絡を取ることは一切していませんでした。
もちろん、創価学会とも一切の関わりを持っていません。
ですが、2年以上経った今も、ご本尊を燃えるゴミで処理したにも関わらず、何の罰も当たらず、むしろ、ご本尊を持っていたときよりも今のほうが数百万倍幸せだと言い切ることができます。
さて……亡くなった母のことですが。
今年の秋の初め頃、母は通所中のデイサービスで、職員の人たちに暴言を吐いて興奮していたようで、困った職員の人が私に連絡をして「ちょっと尋常ではない様子なので、一度精神科への入院も検討された方が良い」と提案してくださり、施設の関連の精神病院へ母を連れて行ってくれるということになりました。
私は入院の手続きなどのためにすぐに準備をして病院へ向かおうとしていたのですが、その最中に再び職員の方から連絡がありました。
母が意識を失ったために、救急車で搬送するので、精神病院のほうではなく搬送先の病院に行って欲しいということでした。
私は母が搬送された病院のICUで、数年ぶりに母と対面しました。
意識はなく、医師の説明では「てんかん」による発作だということでした。
脳梗塞を以前に母は患っていますが、今のところ梗塞は見られないので、てんかんの治療をしていますと説明を受けました。
母がてんかんというのは聞いたことがなかったのですが、脳梗塞の後遺症でそういうこともあるという説明でした。
しかし、翌日の早朝、病院から連絡があり、やはり脳梗塞だったということ、すでに梗塞が脳の大部分に広がっていることを告げられました。
延命治療をしますかどうしますかと問われましたが、脳がもう真っ白になりかけている画像を見せられ、妹とも相談して延命治療は断りました。
その後、危篤状態になった母のために病院は個室を提供してくれ、私と妹、そして弟は、ゆっくりと母との最期の時間を過ごすことができました。
ただ、母は危篤状態でありながら容態が悪いなりに安定しており、この状態のまま、意識は取り戻すことなく数年単位で生きる可能性があるとも説明がありました。
それでも、何となくこれがお別れだという気が私も妹もしていましたので、毎日のように、面会時間ギリギリまで病室で母と過ごしました。
母の意識があるうちは、会えば創価学会の話にもなるし、お金の無心もされてしまうので、会うことすらできず、
こうして意識がなくなったおかげで、ゆっくりと会えるというのも皮肉な話だなと思いました。
ただ、母は母なりに、精神に疾患を持ちながらも、創価学会を押しつけながらも、必死に私たちを育ててくれたんだなという気持ちがこみ上げてきました。
母が危篤状態になってちょうど一週間が経ったとき、病院から、長期療養に向けて「今日から鼻チューブでの食事を取っていただきます」と言われました。
そして、その食事代は保険が利かないのですが、1日3食、一回100円ちょっとですが、毎日とってもらいますと。
その鼻チューブでの一回目の食事が終わった後、帰りの車の中で、「いくら寝たきりになっても、あれはされたくない」という話を妹としていました。
おそらく、病院の利益確保のための処置だとは思うのですが、点滴をしている上に、鼻から強制的にとらされる食事を望む人なんて誰もいないと思います。
そして、おそらく母もそうだったのでしょう。
鼻チューブでの食事が行われた6時間後に、母の容態は急変し、亡くなりました。
何とか間に合えばと思いましたが、病院に着いたときには、母はすでに亡くなっていました。
危篤状態が続いていたので、すでに葬儀の見積もりなどもとってありましたので、その後は悲しむ余裕もなくばたばたとしました。
母としては学会の友人葬でという遺言を残していたのですが、危篤状態の時に、「ごめんね、友人葬はできません。許してね」と言い続けました。
今後、私や妹、そして弟たちが創価学会と関わっていく意思を持っていないと言うことが最大の理由でした。
また、費用の問題、家族の負担の問題もあります。
かつて祖父や祖母の時に学会の友人葬だったのですが、その際にはまるでイベントのように(功徳目的で)やってくる婦人部の人たちへの対応が大変で、導師をする人への対応にも口うるさくいろいろ言われた記憶があり、そこまでのことをする気持ちになれませんでした。
ちょっと長くなりましたので、いったん記事を切りたいと思います。
2年前に、もう記事は投稿しないと決めていたのですが、実はこのブログにも登場する母がこの秋に亡くなり、その報告や、私自身の気持ちの変化などをお伝えしたく、久しぶりに更新させていただくことにしました。
母が亡くなったのは本当に突然のことでした。
私はこのブログを書き終えた後、自ら母に連絡を取ることは一切していませんでした。
もちろん、創価学会とも一切の関わりを持っていません。
ですが、2年以上経った今も、ご本尊を燃えるゴミで処理したにも関わらず、何の罰も当たらず、むしろ、ご本尊を持っていたときよりも今のほうが数百万倍幸せだと言い切ることができます。
さて……亡くなった母のことですが。
今年の秋の初め頃、母は通所中のデイサービスで、職員の人たちに暴言を吐いて興奮していたようで、困った職員の人が私に連絡をして「ちょっと尋常ではない様子なので、一度精神科への入院も検討された方が良い」と提案してくださり、施設の関連の精神病院へ母を連れて行ってくれるということになりました。
私は入院の手続きなどのためにすぐに準備をして病院へ向かおうとしていたのですが、その最中に再び職員の方から連絡がありました。
母が意識を失ったために、救急車で搬送するので、精神病院のほうではなく搬送先の病院に行って欲しいということでした。
私は母が搬送された病院のICUで、数年ぶりに母と対面しました。
意識はなく、医師の説明では「てんかん」による発作だということでした。
脳梗塞を以前に母は患っていますが、今のところ梗塞は見られないので、てんかんの治療をしていますと説明を受けました。
母がてんかんというのは聞いたことがなかったのですが、脳梗塞の後遺症でそういうこともあるという説明でした。
しかし、翌日の早朝、病院から連絡があり、やはり脳梗塞だったということ、すでに梗塞が脳の大部分に広がっていることを告げられました。
延命治療をしますかどうしますかと問われましたが、脳がもう真っ白になりかけている画像を見せられ、妹とも相談して延命治療は断りました。
その後、危篤状態になった母のために病院は個室を提供してくれ、私と妹、そして弟は、ゆっくりと母との最期の時間を過ごすことができました。
ただ、母は危篤状態でありながら容態が悪いなりに安定しており、この状態のまま、意識は取り戻すことなく数年単位で生きる可能性があるとも説明がありました。
それでも、何となくこれがお別れだという気が私も妹もしていましたので、毎日のように、面会時間ギリギリまで病室で母と過ごしました。
母の意識があるうちは、会えば創価学会の話にもなるし、お金の無心もされてしまうので、会うことすらできず、
こうして意識がなくなったおかげで、ゆっくりと会えるというのも皮肉な話だなと思いました。
ただ、母は母なりに、精神に疾患を持ちながらも、創価学会を押しつけながらも、必死に私たちを育ててくれたんだなという気持ちがこみ上げてきました。
母が危篤状態になってちょうど一週間が経ったとき、病院から、長期療養に向けて「今日から鼻チューブでの食事を取っていただきます」と言われました。
そして、その食事代は保険が利かないのですが、1日3食、一回100円ちょっとですが、毎日とってもらいますと。
その鼻チューブでの一回目の食事が終わった後、帰りの車の中で、「いくら寝たきりになっても、あれはされたくない」という話を妹としていました。
おそらく、病院の利益確保のための処置だとは思うのですが、点滴をしている上に、鼻から強制的にとらされる食事を望む人なんて誰もいないと思います。
そして、おそらく母もそうだったのでしょう。
鼻チューブでの食事が行われた6時間後に、母の容態は急変し、亡くなりました。
何とか間に合えばと思いましたが、病院に着いたときには、母はすでに亡くなっていました。
危篤状態が続いていたので、すでに葬儀の見積もりなどもとってありましたので、その後は悲しむ余裕もなくばたばたとしました。
母としては学会の友人葬でという遺言を残していたのですが、危篤状態の時に、「ごめんね、友人葬はできません。許してね」と言い続けました。
今後、私や妹、そして弟たちが創価学会と関わっていく意思を持っていないと言うことが最大の理由でした。
また、費用の問題、家族の負担の問題もあります。
かつて祖父や祖母の時に学会の友人葬だったのですが、その際にはまるでイベントのように(功徳目的で)やってくる婦人部の人たちへの対応が大変で、導師をする人への対応にも口うるさくいろいろ言われた記憶があり、そこまでのことをする気持ちになれませんでした。
ちょっと長くなりましたので、いったん記事を切りたいと思います。
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