母は躁鬱病の症状による度重なる迷惑行為のため脳梗塞後のリハビリをしていた病院を退院させられ、自宅療養ということになりました。
ただ、このときほとんど身体的な後遺症らしきものがなく、あるのは精神的な後遺症のみでした。
ですので、月に一度の精神科への通院以外は、特に病院に通うことなく過ごしていました。
一年ほど通院し、お薬の調整等もうまくいき、そろそろ減薬していこうというという話になったときのことでした。
学会活動の帰りに母が婦人部の人と肩を組んで歩いていた(学会歌でも歌っていたのか?母が口を濁すので今もなおこの詳細は分からず)ところ転倒し、複雑骨折して救急車で運ばれました。
私は別居なのですぐには連絡が来ず、家にいた父が救急車に乗っていったようでした。
しかし、父はすでにこのときにはアルコール依存症を発症していたと思われ、泥酔状態でしたので、すぐに帰され、私が呼ばれました。
母は入院し、手術することになりました。
ようやく精神的にも何とか安定してきたのに……という不安と、前回の入院時の母の躁状態での迷惑行為が頭によぎりました。
病院の先生には服薬している薬と躁鬱病であることをお伝えしたのですが、
手術を終えて二週間ほど経った頃、また病院から「お母さんが暴れているのですぐ来てください」などと電話がかかってくるようになりました。
どうやらこちらの病院には常駐の精神科医はおらず、通いの精神科医がおられるようなのですが、母の求めに応じて鬱病の薬を出してしまったようなのです。
躁鬱病です……と伝えたにもかかわらず、残念なことでした。
母の迷惑行為は、前回の入院以上の騒ぎとなりました。
薬の影響で幻覚が見えるようになってしまった母は「そこにワンピースを着た女の子がずっといるけど」とか、「おばあさんがベッドの上で座ってる」とか
「夜、衣擦れの音で目が覚めたら隣で男の人がお札を数えていた」とか、ちょっと気味の悪いことを言い続けました。
まだそれはましなほうで、カラスがいると言ってベッドの傍にあるものを片っ端から投げたり、
意味不明の興奮状態になってカーテンを引きちぎろうとしたりしました。
今回のことの原因は確かに母が鬱病の薬を求めたこともあるかも知れませんが、家族は最初に躁鬱病だと伝えています。
だから病院の責任も少なくないと思うのですが、病院側は転院を求めてきました。
最終的にはほとんど身体を動かすことができないほどの強い薬を飲まされ、母はそのまま精神病院の閉鎖病棟に入院することになりました。
母は大学病院の精神科には入院したことがあるんですが、ここは開放病棟のみでした。
閉鎖病棟はこのときが初めてでしたが、そこでは看護師さんたちがとても優しく、家族を労ってくれました。
その理由もすぐに分かりました。
母の症状は閉鎖病棟の患者さんの中でもわりと激しいものでしたが、それほど変わらない状態の患者さんも多く入院されていたのです。
母だけが特別というわけではありませんでした。
のんびりとした感じの精神科医の診察がありました。
これまでは看護師さんのみならず、医師までも母の扱いを持て余し気味だったのですが、
やはり精神科のお医者さんはさすが扱いにも慣れていらっしゃるという感じでした。
普通に病人として対応してもらえるというだけでも、これまでの病院とは違い、家族としてはほっとしました。
診察や聞き取りの結果、母の幻覚や幻聴は、おそらく病院で処方された薬の影響だろうという話になり、
まずは睡眠導入剤も含めて投薬は一切せず、薬を身体から抜こうということになりました。
母の場合は骨折したまま歩くことも出来ない状態なので、まずは閉鎖病棟で薬を全部抜いてから、
その病院の系列のリハビリもできる施設へ入所することが決まりました。
閉鎖病棟への入院は一ヶ月程度の予定ということになりました。
母が入院したこの病棟は、認知症の高齢の患者さんが多く入院されていました。
認知症以外の方もおられましたが、会話のキャッチボールは不可能な患者さんばかりです。
童謡などが流れていて、日中は明るい場所にみんな出されてひなたぼっこをしたりします。
しかし、人手が足りないので、車いすに手や足をくくりつけられている人が多かったです。
通常は面会者がほとんどないそうです。
面会者がなくても、洗濯から買い物まですべてお金を出せば病院が全部やってくれます。
家族も忙しいのかもしれませんが、見捨てられた方々なのかなと思ってしまいました。
ある日の面会の時「ここには創価学会の人が多いの。毎日聖教新聞を持ってきてくれる人もいるのよ」と母は私に嬉しそうに言いました。
幻覚幻聴の中にいる母の言葉なので、話半分に聞きながら「聖教新聞どこにあるの?」と聞くと
「あ、あったけど、誰かが持って行った」と言い直したりします。
「でも、本当よ。ここには創価学会の人、いっぱいいるの」「あ、そう良かったね」と話をしていた時、
別の部屋からいきなり「南無妙法蓮華経!」と聞こえてきました。そしてまた別の部屋からも「南無妙法蓮華経!」と聞こえてきました。
私はそのとき、ぞぞぞぞぉおぉっとしたことを覚えています。
母は「ほら、いっぱいいるでしょ?」と微笑んで言いました。
ちょうどその時に看護師さんが通りがかったので母が「あの人たち創価学会員よね?」と聞きました。
看護師さんは「ああ、たぶんそうですね」と言いました。
母は「ほら、いっぱいいるでしょう」とまた言いました。
「南無妙法蓮華経」の応酬はまだ続いています。
母は「あの人たち、お題目で喧嘩してるの」とにこにこしながら言いました。
意味がよく分からなかったので、私は「あ、そう」とだけ言いました。
精神病院の閉鎖病棟の複数の部屋から「南無妙法蓮華経!」「南無妙法蓮華経!」と響くその状況は私を薄ら寒い思いにさせました。
一生懸命に信心したら、学会活動したら、お題目をあげたら、死ぬ五年前には幸せになるんじゃなかったの?
母も創価学会員、お題目で喧嘩している人たちもおそらく創価学会員。
滅多に家族さえもお見舞いに来ないこんな精神病院の閉鎖病棟で。
南無阿弥陀仏でもなくアーメンでもなく南無妙法蓮華経。
これが広宣流布なら笑っちゃうなと私は思い、すぐに不謹慎だったかなと反省しました。
この日は家に帰っても、別々の病室から別々の声で響き続けた複数の「南無妙法蓮華経」がしばらく頭から離れませんでした。
ただ、このときほとんど身体的な後遺症らしきものがなく、あるのは精神的な後遺症のみでした。
ですので、月に一度の精神科への通院以外は、特に病院に通うことなく過ごしていました。
一年ほど通院し、お薬の調整等もうまくいき、そろそろ減薬していこうというという話になったときのことでした。
学会活動の帰りに母が婦人部の人と肩を組んで歩いていた(学会歌でも歌っていたのか?母が口を濁すので今もなおこの詳細は分からず)ところ転倒し、複雑骨折して救急車で運ばれました。
私は別居なのですぐには連絡が来ず、家にいた父が救急車に乗っていったようでした。
しかし、父はすでにこのときにはアルコール依存症を発症していたと思われ、泥酔状態でしたので、すぐに帰され、私が呼ばれました。
母は入院し、手術することになりました。
ようやく精神的にも何とか安定してきたのに……という不安と、前回の入院時の母の躁状態での迷惑行為が頭によぎりました。
病院の先生には服薬している薬と躁鬱病であることをお伝えしたのですが、
手術を終えて二週間ほど経った頃、また病院から「お母さんが暴れているのですぐ来てください」などと電話がかかってくるようになりました。
どうやらこちらの病院には常駐の精神科医はおらず、通いの精神科医がおられるようなのですが、母の求めに応じて鬱病の薬を出してしまったようなのです。
躁鬱病です……と伝えたにもかかわらず、残念なことでした。
母の迷惑行為は、前回の入院以上の騒ぎとなりました。
薬の影響で幻覚が見えるようになってしまった母は「そこにワンピースを着た女の子がずっといるけど」とか、「おばあさんがベッドの上で座ってる」とか
「夜、衣擦れの音で目が覚めたら隣で男の人がお札を数えていた」とか、ちょっと気味の悪いことを言い続けました。
まだそれはましなほうで、カラスがいると言ってベッドの傍にあるものを片っ端から投げたり、
意味不明の興奮状態になってカーテンを引きちぎろうとしたりしました。
今回のことの原因は確かに母が鬱病の薬を求めたこともあるかも知れませんが、家族は最初に躁鬱病だと伝えています。
だから病院の責任も少なくないと思うのですが、病院側は転院を求めてきました。
最終的にはほとんど身体を動かすことができないほどの強い薬を飲まされ、母はそのまま精神病院の閉鎖病棟に入院することになりました。
母は大学病院の精神科には入院したことがあるんですが、ここは開放病棟のみでした。
閉鎖病棟はこのときが初めてでしたが、そこでは看護師さんたちがとても優しく、家族を労ってくれました。
その理由もすぐに分かりました。
母の症状は閉鎖病棟の患者さんの中でもわりと激しいものでしたが、それほど変わらない状態の患者さんも多く入院されていたのです。
母だけが特別というわけではありませんでした。
のんびりとした感じの精神科医の診察がありました。
これまでは看護師さんのみならず、医師までも母の扱いを持て余し気味だったのですが、
やはり精神科のお医者さんはさすが扱いにも慣れていらっしゃるという感じでした。
普通に病人として対応してもらえるというだけでも、これまでの病院とは違い、家族としてはほっとしました。
診察や聞き取りの結果、母の幻覚や幻聴は、おそらく病院で処方された薬の影響だろうという話になり、
まずは睡眠導入剤も含めて投薬は一切せず、薬を身体から抜こうということになりました。
母の場合は骨折したまま歩くことも出来ない状態なので、まずは閉鎖病棟で薬を全部抜いてから、
その病院の系列のリハビリもできる施設へ入所することが決まりました。
閉鎖病棟への入院は一ヶ月程度の予定ということになりました。
母が入院したこの病棟は、認知症の高齢の患者さんが多く入院されていました。
認知症以外の方もおられましたが、会話のキャッチボールは不可能な患者さんばかりです。
童謡などが流れていて、日中は明るい場所にみんな出されてひなたぼっこをしたりします。
しかし、人手が足りないので、車いすに手や足をくくりつけられている人が多かったです。
通常は面会者がほとんどないそうです。
面会者がなくても、洗濯から買い物まですべてお金を出せば病院が全部やってくれます。
家族も忙しいのかもしれませんが、見捨てられた方々なのかなと思ってしまいました。
ある日の面会の時「ここには創価学会の人が多いの。毎日聖教新聞を持ってきてくれる人もいるのよ」と母は私に嬉しそうに言いました。
幻覚幻聴の中にいる母の言葉なので、話半分に聞きながら「聖教新聞どこにあるの?」と聞くと
「あ、あったけど、誰かが持って行った」と言い直したりします。
「でも、本当よ。ここには創価学会の人、いっぱいいるの」「あ、そう良かったね」と話をしていた時、
別の部屋からいきなり「南無妙法蓮華経!」と聞こえてきました。そしてまた別の部屋からも「南無妙法蓮華経!」と聞こえてきました。
私はそのとき、ぞぞぞぞぉおぉっとしたことを覚えています。
母は「ほら、いっぱいいるでしょ?」と微笑んで言いました。
ちょうどその時に看護師さんが通りがかったので母が「あの人たち創価学会員よね?」と聞きました。
看護師さんは「ああ、たぶんそうですね」と言いました。
母は「ほら、いっぱいいるでしょう」とまた言いました。
「南無妙法蓮華経」の応酬はまだ続いています。
母は「あの人たち、お題目で喧嘩してるの」とにこにこしながら言いました。
意味がよく分からなかったので、私は「あ、そう」とだけ言いました。
精神病院の閉鎖病棟の複数の部屋から「南無妙法蓮華経!」「南無妙法蓮華経!」と響くその状況は私を薄ら寒い思いにさせました。
一生懸命に信心したら、学会活動したら、お題目をあげたら、死ぬ五年前には幸せになるんじゃなかったの?
母も創価学会員、お題目で喧嘩している人たちもおそらく創価学会員。
滅多に家族さえもお見舞いに来ないこんな精神病院の閉鎖病棟で。
南無阿弥陀仏でもなくアーメンでもなく南無妙法蓮華経。
これが広宣流布なら笑っちゃうなと私は思い、すぐに不謹慎だったかなと反省しました。
この日は家に帰っても、別々の病室から別々の声で響き続けた複数の「南無妙法蓮華経」がしばらく頭から離れませんでした。