いのちの源

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クリスチャンの結婚-やっとの思いで掴んだ結婚の裏に隠された神の愛

2020-06-18 23:58:52 | 賛美の心

寄稿家:リー・チアン(ドイツ)

 「リン、リン、リン⋯⋯」

 近所の教会から心地の良いベルの音が聞こえてきました。コンピュータの前に座っていたリン・ユアンはご機嫌でした。彼は手を止めて、ストレッチをするために立ち上がろうとしました。立ち上がろうとしたその時、壁に掛かっていたある写真が彼の目に留まり、その写真には4人家族が写っていました。中年層の大人が2人、笑顔を見せながら隣通しで立っており、ある少女が弟の手を掴みながら両親の前に立ち、わんぱくな笑みを浮かべた幼い男の子はお姉ちゃんの肩に頭を寄り掛けていました。

 リン・ユアンはクリスチャン、そしてこの写真に写っているホストでもありました。この写真の円満な家族を見つめた彼は笑顔を浮かべ、思わず過去を振り返りました。

クリスチャンの恋愛・結婚,やっとの思いで掴んだ結婚,神の愛

 リン・ユアンは田舎で貧しい家庭に生まれ、友達たちよりも矮小でした。彼が結婚年齢に達した時、大勢の人が彼に結婚相手になりうる女性を紹介しましたが、彼は背が低く家庭も貧乏だったので、女性たちは彼に興味を持ちませんでした。友人たちが相次いでパートナーを見つけているのを知ったリン・ユアンはとても動揺し、彼らに嫉妬しました。彼はこう思いました:「私はいつになったら、一緒に手をつないで日向を歩き、膝を交えて語り合い、人生を共にする妻を持つことができるんだ?」しかし、これらは全て彼の手の届かない所にありました。こう考えると、リン・ユアンは気が沈み、心の中でこう文句を言いました:「裕福な家庭、もしくは権力のある家庭に生まれていたら、そしてもっと背が高かったら、今頃は妻と一緒に人生の道を歩んでいたかもしれない。この現実に直面したリン・ユアンは、今よりも良い生活を求めて努力しなければならない、そして可愛くて善良なパートナーを手にするために奮闘しなければならないと自分に言い聞かせ、専門学校で技術を修得することに努力を注ぎました。

 卒業した後、リン・ユアンは地元に帰郷ました。技能があり、人の頼みによく応える彼はすぐに村の人気者になりました。彼は、「これで直ぐに好みのパートナーに出会えるぞ」と思いました。しかし、事態は彼の期待に反する展開となりました。リン・ユアンは他人から女性を何人か紹介されましたが、ブランドデートに現れた女性が彼に興味を持たなかったり、彼が彼女たちに心を引かれなかったりしたため、彼は依然として適切な結婚相手を見つけることができなかったのです。リン・ユアンはがっかりして落ち込み、誰が自分の妻になるのかは分からないままでした。

 1年後、リン・ユアンは他の地域の仕事から帰郷しました。他人の紹介で、彼はヂィハンと出会いました。彼女は小柄で可愛く、瞳は黒く輝き、赤いリンゴのようにピンク色でふっくらとしたほっぺたをしていました。彼女はとても内気でいつも下を向いていました。リン・ユアンは素朴なヂィハンをとても良く思いました。しかし、過去数回のブラインドデートに失敗していた彼は今回もこれがお付き合いに発展するという期待は持っていませんでした。しかし、予想外にも彼女は彼と結婚する意欲があり、彼らは喜んで婚約する日を決めたのでした。しかし、リン・ユアンと彼の家族が婚約祝いの宴会をどのように準備するかと話し合っていた時、彼らは突然、ヂィハンの家族は彼の家族を貧乏だという理由で嫌っており、沢山の要求をしていることを耳にしたのです。自尊心の高いリン・ユアンはこの要求を受け入れられず、彼らは別れてしまいました。この時、リン・ユアンはイライラしてこう思いました:「俺はもう独りで死ぬことになるのかもしれない。」彼の心は枯れていき、彼は結婚の希望を失ってしまいました。

 その半年後、リン・ユアンが外で働いていると、彼の家族は突然彼に実家に戻って婚約するように言ってきました。彼はこれを聞いてびっくりしました。彼はこう思いました:「最近はどの女性とも連絡を取っていないのに。一体だれと婚約しろって言うんだ?」緊張を胸に帰宅した彼はヂィハンの家族が彼らの結婚を承諾したことを知ったのです。しかしながら、リン・ユアンはこれを喜びませんでした。なぜなら、以前彼らの間に起こったことが原因で、ヂィハンへの愛情は既に薄くなっていたからです。今、彼は彼女との結婚に対してあまり乗り気ではありませんでした。しかし、彼は自分の両親が自分の結婚について相当心配してくれていたこと、そして、自分が彼らのことを心配してあげていなかったことを考慮し、嫌々ながらも彼女との結婚に合意したのです。

 後に、リン・ユアンは国有の工場の作業場で次長となり、以前よりも沢山給与を稼いでいたので回りの人たちから尊敬され始めました。その一年後、ヂィハンが大事故に遭い、命を落としそうになるとは誰も思っていませんでした。その時、リン・ユアンの親戚と友人たちが、ヂィハンはもうあまり働くことができないから彼女との婚約を破棄するようにと彼に勧めてきたのです。リン・ユアンは途方に暮れました。彼はヂィハンに対し特別な愛情を抱いてはいませんでしたが、彼女が極めて大変な状況でとても辛い思いをしている時に婚約を破棄するのは良心に欠けることだと思いました。従って、彼は彼女と別れるのではなく、むしろ時間を割いて彼女の世話をしました。ヂィハンと会話をしていると、リン・ユアンは彼女は優しくて思いやりがると思った上に、以前彼女が興味を持っていながらも彼と別れたのは家族からの圧力のせいであったということを知りました。これを知った後、彼女に対する誤解は解消されました。この時、彼は、彼女が未だに初めて出会った時の可愛くて純粋な女の子のままであることに気が付いたのです。その2年後、彼らは結婚し、すぐに可愛い赤ちゃんを授かりました。ヂィハンは善良で思慮深く、リン・ユアンの両親を大切にしました。彼女は神の御国の福音を受け入れた後、リン・ユアンを神の前に連れていきました。彼らは頻繁に一緒に神の御言葉を読み、神を讃えながら讃美歌を歌いました。リン・ユアンが職場で不満な状況や困難に遭遇すると、彼女は彼が問題を切り抜けられるよう積極的に彼と神の御言葉を語り合い、彼を支え、彼に付き添いました。リン・ユアンは神の愛が彼に幸せな生活をもたらしてくれたことを知りました。

 ある日、リン・ユアンは神の御言葉のこのパラグラフを読みました:「人間は、人生において多数の人々に出会うが、誰が結婚相手となるかを知っている者はいない。誰もが結婚という問題に対する個人的な概念や意見を持っているものの、結婚に関して、最終的に誰が相手となるかを予測出来る者はいない。また、自分の意向はほぼ問題外である。自分が好きな人物と出会い、その後その人物を追いかけることは出来るが、その人物が自分に関心を持っているか、自分の配偶者となり得るかは、自分自身で決められる問題ではない。自分が慕う人物は、必ずしも自分が人生を共に出来る相手ではない。その一方で、全く意外な人物が自分の人生に登場し、自分の運命において最も重要な要素であり、自分の運命が不可分に結びついている人物、すなわち配偶者となる。…結婚そのものがもたらすのが幸福であるか苦悶であるかを問わず、結婚における各人の使命は創造主により予め定められ、変わる事が無く、したがって皆それを全うする必要がある。また、それぞれの結婚の背景にある運命は変わらない。なぜなら、それは創造主により遙か以前に定められているからである。」
リン・ユアンは神の御言葉をこう理解しました:「人の結婚は神によって支配され、予め定められており、それに関し人々は何もできないのです。人はその身分、地位、そして外見に関わらず、自らの結婚も、自らの結婚相手も決めることはできないのです。」過去失敗に終わった幾つかのブラインドデートを振り返ってみると、リン・ユアンが好きだった人は彼を好まず、彼に興味を持っていた人は彼にとって魅力的ではありませんでした。そして、彼とヂィハンの結婚は全くの予想外でした。最初、彼は彼女の家族から受けた多大なる要求が原因で彼女と別れ、彼は彼女を誤解してもいました。しかし、彼女の病気のおかげで二人はよりを戻し、彼は彼女と仲良くしているうちに彼女に対する誤解を取り除いただけでなく、彼女のことをもっとよく知ることになったのです。幾つもの失敗を経て、彼女は彼の妻になりました。リン・ユアンは人の結婚は自らが決めるものではなく、神によって支配され、計画されているということを身をもって体験したのです。彼はブラインドデートに失敗し、動揺して悲しみを味わい、結婚を諦めさえしました。これは全て神の主権を知らなかったことが原因であったことを彼はやっと知ったのです。

 後に、リン・ユアンはこの神の御言葉を目にしました:「神は人間を選択すると同時に人間のためにこうした環境を用意しますが、それは神が人間を救う働きに大いに有益です。外面的には、神は人間のために何ら劇的なことをしていないように見えますが、神は全てを秘密裏かつ謙虚に、そして静かに行うからです。しかし実際には、神がすることは全て人間の救いのための基盤を築き、将来の道を用意し、救いに必要な全ての条件を用意するためのものです。」神の御言葉から、リン・ユアンは神が人類を救われる善良なる御旨を知りました。神は誰かを救おうとされる時、その人のために、結婚を含め沢山の環境を苦心して用意され、その各環境には神の御心が宿っています。ヂィハンは見た目が普通で、背も低かったのですが、彼女は優しく思いやりがあり、リン・ユアンの両親を敬いました。最も大切なのは、ヂィハンが神の御国の福音を受け入れた後にリン・ユアンを神の前に導いたことでした。これは神の善良な御旨であったのではないでしょうか?彼はヂィハン以外の女性と結婚していたら、神の前に行く機会を手にしていなかったかもしれません。更に、彼は自分が手にしたものと自分が体験したことをふり返りました。貧しい家庭に生まれ、背が低く、ブライドデートで失敗し、幾度となく結婚が遅れ、そしてついに掴んだこの結婚。彼はこの全てに神からの愛が込められていたことを知ったのです。こう思ったリン・ユアンは神に対する感謝の気持でいっぱいになりました。
以前、彼はブラインドデートで挫折を経験した時、誤解と不平を抱き、失敗したのは自分の平凡な外見と貧しい家族のせいだと思っていました。しかし、神の御言葉を読んだ後、結婚は結婚生活において2人のパートナーが取り組むべき使命によって決まり、人間の好みや、まして外的要因で決まるものではないことを彼は知りました。リン・ユアンは神がこのような適切な結婚を用意してくださったこと、円満な家庭を与えてくださったこと、そして更には救われる機会を与えてくださったことを神にとても感謝しました。

 「リン、リン、リン⋯⋯」

 近所の教会からもう一度心地の良いベルの音が聞こえてきました。


あなたはなぜ主イエスが天の神様を父の名で祈るのかを知っていますか

2020-06-18 00:21:43 | 賛美の心

 祈りの会の後、私は3人の教会の姉妹を自宅に招きました。彼女たちは王さん、于さん、賛美歌を教えている趙さんで、3人とも長年にわたり主への信仰における霊的仲間でした。一緒に自宅に着いた後、私はお茶を沸かして彼女たちに出し、皆で歓談を始めました。

 趙さんがこう言いました。「あの、まだ分からないことがあります。普通、説教者はいつも『主イエスが神の子だ』と言いますね。それに聖書を見る限り、主イエスは人に説教や話をされている時はいつも、天の神のことを父と呼ばれました。だから主イエスが神の子だということ私は信じていますけど、聖書の話では、主イエスは聖霊によって宿されましたし、主は弟子たちにこう仰ったことがあります。『わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい』(ヨハネ 14:11)、『わたしと父とは一つだ』(ヨハネ10:30)と。それで混乱しています。主イエスは神ご自身ですか、それとも神の子なのですか。」

 于さんは皆の前で思わず「神の子に決まってますよ」と答え、そこで趙さんは「何を根拠にそう言うんです」と尋ねました。于さんは次のように説明します。

あなたはなぜ主イエスが天の神様を父の名で祈るのかを知っていますか

 「マタイによる福音書第3章16と17節にこう記されています、『イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 また天から声があって言った。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」』

 この2つの聖句から、主イエスがバプテスマを受けられたとき、聖霊が直々に主イエスが神の愛する子だと証ししたことが分かります。主イエスは愛する御子と呼ばれたということは、主がまさに神の子だということではありませんか。しかも、主イエスはゲツセマネの園で祈られていたとき、天の神のことを父と呼ばれていました。こういうことこそが根拠じゃないでしょうか」

 この話を聞いた後、趙さんはしばらく考え込んで、「于さんが言ったことは最もです。これらの聖句によれば、主イエスが神の子であることは簡単に確認できます。刘さんと王さんはどのように理解していますか。ただ聞いていないで、話してくれませんか」と言いながら私たちの方を見て返事を待っていました。

 王さんと私は微笑み合いました。趙さんも于さんもそれを見て、「何を笑っているの」と不思議に思いました。このとき、王さんが先ず次のように話し始めました。「主イエス・キリストは神ご自身か、それとも神の子か。これは宗教界全体がいつも議論している問題です。私たちは聖書に記されていることから、主イエスが何度も天の神を父と呼ばれたこと、そして聖霊も直々に主イエスが神の愛する子だと証したことを知った時点で、イエスが神の子であると一層確信します。このようにして、この父子関係という概念が形成されました。以前は私もそう考えていましたけど、刘さんと一緒に秦さんという姉妹の伝道者の説教を聞いて初めてこのことについて新しい洞察を得たのです。」

 于さんは「頼むから早く教えてください。どんな説教だったんです。2人ともどんな新しい知識を得たんですか」と躍起になって聞きました。

 王さんは「于さんは相変わらず結果に対してせっかちですね」とにっこり笑って話しながら、聖書をかばんから取り出して言いました。

 「主イエスが神ご自身か神の子か知りたいなら、先ず聖句をいくつか読みましょう。ピリポが主イエスに天の父を見せるように求めたとき、主は彼にこう仰いました。『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。』(ヨハネ14:9-10)。

 これらの言葉を通して、主イエスは、ご自身と父が一つであり、同じ霊であること、主が神の霊の受肉であり、天における御父の具現であることを人々に告げられていたのです。明らかに、主イエスは完全に神ご自身であって、神の子ではありません。でも現在の人々は、聖書に対する自分たちの理解から、主イエスが神の子だと推論します。実際には、主イエスご自身はそのような話を認められませんでした。ご自身について証しされたときは、完全に神ご自身だと仰いました。パリサイ人が主イエスに『あなたの父はどこにいるのか』(ヨハネ8:19)と尋ねると、主は『あなたがたは、わたしをもわたしの父をも知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう』(ヨハネ8:19)と答えられたのです。

 また別の例を見ましょう。主はユダヤ人たちにこう仰いました。『しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう』(ヨハネ 10:38)。それからヨハネの第12章44と45節では、『わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである』とあります。

 これらの聖句を通して、主イエスは人類に『私は神ご自身だ』と直接は仰らなかったとはいえ、ご自身が神の顕現だと証しされていたのです。主イエスのこれらの御言葉をよく思案すれば、主がまさに神ご自身だと確認できます。」

 于さんは聖句を聞いて検討し、王さんの声が鎮まるとすぐに聖書を閉じ、首を上げてこう言いました。「そうですね。主イエスは確かに、『わたしと父とは一つである』と仰いました。ご自身が神の子ではなく受肉した神だとはっきり私たちに教えてくださったのですね。私もこれらの聖句も見たことがありますけど、主が仰ったことに注意せず、ごく一部の聖句を根拠に主イエスを神の子と見なしていました。どうして主の御言葉を心で考えなかったのでしょう。」

 そこで趙さんが言いました。「王さんの話は理にかなっていて根拠もしっかりしていますけど、私はこれがよくわかりません。主イエスが明らかに神ご自身なら、どうしてそれでもお祈りの時、天の神を父と呼ばれたのですか。どうして聖霊は、主イエスが神の愛する子だと証しされたのでしょう。」于さんも我慢できず、「そう、その通りです。私もそこが引っかかります。いまいちよくわかりません。それについて話を聞かせてくれませんか」と言います。

 私はうなずいて答えました。「その問題には私たちも戸惑いました。そのとき、秦さんがそれに関して私たちに御言葉を3節を読んでくれたのです。」そこで私は自分のノートを開けて読みあげました、「イエスが祈る間、父の名で天の神を呼んだ時、これは被造物の人の観点だけから行われたのであり、それはただ神の霊が普通の正常な人として身を装い、被造物の人の外見をしていたためであった。彼の中には神の霊があったとしても、外観は普通の人であった。言い換えれば彼は、イエス自身を含め、すべての人が言うところの『人の子』になった。彼が人の子と呼ばれるならば、彼は普通の人々の通常の家庭に生まれた人(男でも女でも、とにかく、人間の外見を持つ者)である。従って、父の名で天の神を呼ぶことは、あなたたちが最初天の神を父と呼んだ時と同じであった。彼は創造された人の観点からそうした。イエスが覚えるようにとあなたたちに教えた主の祈りをまだ覚えているか。『天にいますわれらの父よ……』イエスはすべての人に天の神を父の名で呼ぶよう求めた。そして彼も天の神を父と呼んだので、彼はあなたたちすべてと対等の立場に立つ者の観点からそうしていた。」「それでも、イエスは自分の愛する子と神ははっきり述べなかったかと言う人たちがいる。『イエスは神の愛する子、神の心にかなう者である』と、確かに神自身が語った。神は自身の証しをしていたのだが、それは異なる観点から、すなわち天の霊の観点から自身の受肉の証しをしていたのである。イエスは神の受肉であって、天にいる神の子ではない。わかるか。『父はわたしの中にあり、わたしは父の中にある』というイエスの言葉は、二者が一つの霊であることを示しているのではないだろうか。そして、彼らが天と地に分けられたのは受肉のためではないだろうか。実際には彼らはやはり一つである。たとえ何であれ、神が自身の証しをしているに過ぎない。」「イエスが去ったあと、父と子というこの考えもなくなった。この考えはイエスが肉体になった年月にのみ適切であった。それ以外のすべての状況下では、その関係は、あなたたちが神を父と呼ぶときの創造主と被造物の間の関係である。父と子と聖霊という三位一体のこの考えが有効である時はない。それは諸時代を通じてめったに見られない誤った考えであり、存在しない。」

 これらの御言葉を読み終えた後、私は続けました、「秦さんの説教のおかげで、私は次のことが分かりました。私たちが想像したのとは違って、主イエスが祈りの時、天の神を父と呼ばれたのは、神の子という身分でそうなさっていたのではありません。実は、創造物の視点に立ってそうなさっていたのであり、そうしてキリストの謙虚さと従順を示されたのです。そのとき、聖霊は主イエスが神の愛する子だと証しされましたが、神の子だとは言われていません。そうではなく、聖霊は主イエスが神ご自身の受肉であることを霊の視点から証しされていたのです。神の肉の姿を愛する子と呼ばれましたが、神の子とは呼ばれていません。

 現実には、神は唯一の真の神なのです。天にて宇宙全体に指令を出しておられようと、人の間で働きをするために肉になられようと、肉となった神と聖霊はなおも一つの神です。

あなたはなぜ主イエスが天の神様を父の名で祈るのかを知っていますか

 受肉されたキリストは本来的に神ご自身であり、神の霊が肉において真に実現された姿だから、神の本質を持っておられます。そしてこの御方が表されるものは神の性質すべてなのです。主イエス・キリストは外見上は普通で正常の肉体でしたが、その本質は神ご自身です。主が働きに来られたことで、旧約聖書の律法の時代が終わって、恵みの時代がもたらされ、私たちは悔い改めの道を賜りました。それに、主イエスの御言葉には権威と力があります。主が風と海を叱責されたとき、海は再び穏やかになりました。ラザロに墓から出ろと命じられたとき、ラザロは死から蘇りました。ですから、キリストは完全に神ご自身なのです。主イエスが天の神を父と呼ばれたのは、肉となって働かれていたからに過ぎません。主の肉としての働きが終わったとき、この父と子という観念もなくなったのです。」

 私がこのように話した後、趙さんは喜んで言いました。「今日の刘さんと王さんの話は目から鱗でした。主イエスは天の神を父と呼ばれたとき、肉の視点からそうされたということなのですね。天の神が主イエスを我が愛する子と呼ばれたとき、神は聖霊の視点からご自身の受肉を証しされていたというわけですね。」于さんもうなずいて納得してくれました。「主イエスが天の神を父と言われた本当の理由も、聖霊が主を神の愛する子と証しされたことの意味もやっとわかりました。ついに謎が解けました。」これらの言葉を聞いて、私たちは皆喜んで微笑みました。