いのちの源

こちらはあなたにいのちのマナを提供し、あなたを満腹させ、いのちの源を見つけ、一日も早く主に立ち返るように導きます。

ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意すべきだ

2019-12-25 10:30:16 | 賛美の心

 「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」(マタ16:6)

 主イエスはどんな背景の下でこう言われましたか。聖書にこう書かれています。「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。『あなたたちは、夕方には「夕焼けだから、晴れだ」と言い、朝には「朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ」と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない』。そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、『ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい』と言われた。弟子たちは、『これは、パンを持って来なかったからだ』と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい』。そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った」(マタ16:1-12)。

 聖書のこの箇所から、わたしたちは主イエスが弟子たちにファリサイ派とサドカイ派の人々の教えに注意するように教えたということがはっきり分かりました。わたしたちが知っているように、当時ファリサイ派とサドカイ派の人々は教会の上層部の人でした。では、なぜ主イエスは弟子たちにこれらの人を警戒するように教えられたのですか。わたしたちは、主イエスが働かれた時期に、ファリサイ派とサドカイ派の人々がどんなことをしたかを見てみましょう。

 

 主イエスがこの世に来て働かれた時、人がよりよく彼を認識し、彼の贖いを受け入れるためには、神は盲人が見えるようにし、足の不自由な人が立ち上がって歩くことができるようにし、悪霊にとりつかれている者をきよめ、しかも死人を復活させられました。主イエスは多くのしるしと奇跡を行われました。当時のユダヤの民は、主イエスから多くの恵みと祝福を得、また神の多くのすばらしいみわざを見ました。そのため、彼らは次々に主イエスに追従して彼の道を聞きました。ファリサイ派とサドカイ派の人々は多くの人が主イエスの追従者になったのを見た後、自分の地位、生活の道を守るために、絶えず主イエスを誹謗し、罪定めし、また主イエスに関する多くのデマをでっち上げました。しかし愚昧なユダヤの民はデマを聞いた後、弁別力を持たなくて正しい立場をしっかり守ることができないため、ファリサイ派とサドカイ派の人々と一緒に主イエスを否み、裁きました。こうして、主イエスを罪定めする声がユダヤ教全体に満ちていました。このような背景の下で、主イエスは弟子たちに「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」(マタ16:6)と教えられました。

 主イエスの弟子たちは主の働きと言葉のゆえに、主イエスが来たるべきメシアだと分かり、彼の病気をいやし、悪霊を追い出す力が神の権威から来るのだと信じていました。彼らはファリサイ派とサドカイ派の人々のまき散らしたさまざまな謬論やデマを見破り、動揺せずに主イエスに追従していました。しかし、それらのユダヤの民はファリサイ派とサドカイ派の人々のデマに惑わされたため、彼らと一緒に主イエスを十字架につけました。こうして、ユダヤの民は神に逆らい、神を罪定めした人になりました。最終的に、全民族は国の滅亡のつらさを味わいました。

 聖書にはすでにこう預言されています。「『見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである』。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む物、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる」(黙22:12-15)。聖書のこの数節から、わたしたちは世の終わりに主イエスが再来される時、うそいつわりをでっち上げるようなことがたくさん現れるということが分かりました。では、ユダヤ人の二の舞を演じないためには、わたしたちはどのように「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意する」べきですか。これは、主が戻ることを心から望むあらゆる兄弟姉妹が分からなければならない真理です。

 どのようにファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意すれば、賢いクリスチャンになれるかという話題は、わたしたちは明日、聖書読解シリーズの文章の中で続けて交流しましょう。


神の働きと人の働きの本質的な違いは何か

2019-12-24 09:58:31 | 賛美の心

 神自身の働きは全人類に対する働きを含み、時代全体に対する働きも表す。すなわち、神自身の働きは聖霊の働きすべての活動と動向を表し、一方使徒の働きは神自身の働きに従うことであり、時代を導くことはないし、時代全体において聖霊が働く動向を表すこともない。彼らは人がなすべき働きをするだけで、経営の働きは全く含まれない。神自身の働きは、経営する働きの範囲内の計画である。人の働きは用いられる人々の本分だけであり、経営の働きとは何の関係もない。働きのアイデンティティや表すものが異なるため、どちらも聖霊の働きであるという事実にもかかわらず、神自身の働きと人の働きの間には明確で、実質的な違いがある。さらに、異なるアイデンティティをもつ対象に作用する聖霊の働きの程度もさまざまである。これらが聖霊の働きの原則と範囲である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より


 

 人の姿になった神の言葉は新しい時代を開始し、人類全体を導き、奥義を明らかにし、人に新しい時代に向かう方向を示す。人が獲得する啓示は単純な実践、あるいは認識にすぎず、人類全体を新しい時代に導くことはできないし、神自身の奥義を明らかにすることもできない。神は結局神であり、人は人である。神は神の本質を持っており、人は人の本質を持っている。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

 受肉した神の働きは新たな時代を開き、神の働きを続ける人々は、神に用いられる者たちだ。人間による働きはみな、受肉した神の職分の範囲内で、その範囲を出るものではない。もし受肉した神が働きを行うために来なければ、人間は古い時代を終わらせることができず、新たな時代を開くこともできない。人間による働きは、単に人間に可能な範囲の任務であり、神の働きの代わりにはならない。受肉した神だけが、するべき働きを完了するべく来ることができるのであり、神をおいては誰一人代わってその働きをすることができない。もちろん、わたしの言っているのは、受肉しての働きのことである。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救いをより必要としている」より

 つまり、受肉した神は、神によって用いられる人々とは本質的に異なる。受肉した神は神性の働きを行なえるが、神によって用いられる人々にはできない。それぞれの時代の始まりにおいて、神の霊は自ら語り、新しい時代を始め、人間を新しい始まりへと導く。神が語り終えたときは、それは神性における神の働きが終了したことを意味する。その後は、人々はみな神によって用いられる人々の導きに従い、いのちの経験に入る。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神と神に使われる人々との本質的な違い」より

 神自身が行なう働きはすべて、神の経営(救いの)計画の中で神が行なおうとする働きであり、偉大な経営(救い)に関係している。人(聖霊に用いられる人)によってなされる働きは、その人の個人的体験を提供することである。それは以前の人たちが歩いた道を越えて新しい体験の道を見つけ、兄弟姉妹を聖霊の指導の下で導くことである。この人たちが提供するのは、彼ら個人の体験や霊的な人たちの霊的書物である。彼らは聖霊によって用いられているが、その働きは六千年計画の偉大な経営(救い)の働きとは関係していない。彼らはただ自分たちが果たしている役目が終わるか、自分たちの生涯が終わるまでの間、聖霊の流れの中で人々を導くために、様々な時代に聖霊によって立てられている人たちにすぎない。彼らが行なう働きはただ神のために適切な道を用意するか、あるいは地上における神自身による経営(救い)のある側面を続けていくことだけである。そのような人たちは、神の経営(救い)の中で偉大な働きをすることはできず、新しい道を開拓することもできず、ましてや前の時代からの神のすべての働きを終わらせることなどできない。よって、彼らがする働きはただ被造物が己の役目を果たすことを表しているだけで、神自身が行なう職分を表すことはできない。これは、彼らがする働きは神自身の行なうものとは同じではないからである。新しい時代を招き入れる働きは神に代わって人がすることはできない。神以外の誰によってもなされることはない。人がする働きのすべては被造物の一人としての本分を果たすことだけで、聖霊によって動かされ、啓かれたときに果たされる。そのような人たちが与える指導は、人が日常生活でどのように実践し、神の心に一致してどのように行動すべきかということを人に示すことである。人の働きは神の経営(救い)に関わることも霊の働きを表すこともない。たとえば、ウィットネス・リー(李常受)やウオッチマン・ニー(倪柝聲)の働きは道を先導することであった。道が新しいものであろうと古いものであろうと、働きの前提は聖書の原則を超えないということであった。地方教会の復興であれ設立であれ、彼らの働きは教会を築くことであった。彼らの働きは、イエスや弟子たちが恵みの時代にやり終えなかった働き、或いはさらに展開しなかった働きを引き継いでいた。彼らがその働きにおいて行なったのは、頭を覆うこと、バプテスマを受けること、パンをさくこと、ぶどう酒を飲むことなど、イエスがその初期の働きにおいて自分以降の世代の人々に行なうように命じたことを復活させることであった。彼らの働きは単に聖書を守り、聖書の中に道を求めることであったと言うことができる。彼らは新しい進歩を一切遂げなかった。したがって、彼らの働きには聖書内における新しい道の発見と、以前よりは良い現実的な実践しか見受けられない。彼らの働きには、神の現在の意図を見受けることはできず、ましてや終わりの日に神が行なうである新しい働きに関しては何もない。これは、彼らが歩んだ道はやはり古い道であったので、刷新や進歩はなかったからである。彼らはイエスの磔刑の事実にこだわり、人々に悔い改め罪を告白させるという実践や、最後まで耐えるものが救われるということわざや「男は女の頭である」「妻は夫に従え」といった聖句、さらに女性信者は説教できず、従うことのみできるという伝統的な観念を維持した。もしもこのような指導が継続していたなら、聖霊が新しい働きを行ない人々を教義から解放し、自由と美の領域へと導くことはできなかったであろう。そういうわけで、時代が変わるこの段階の働きは、神自身が行ない語らなくてはならないのである。そうしなければ、神の代わりにこれらの働きを行なえる人はいない。今までは、この流れの外側では聖霊のあらゆる働きは行き詰まり、聖霊に使われていた人々は道に迷ってしまった。よって、聖霊に用いられた人の働きは神自身による働きと同じではないので、その身分や誰に代わって行動しているかもまた異なっている。これは聖霊が意図する働きが異なるため、働くすべての人たちに異なった身分や地位が与えられるためである。聖霊によって用いられる人たちはまた新しい働きをするかもしれないし、また昔なされた働きを排除するかもしれないが、彼らの働きは新しい時代の神の性質や心を表現することはできない。彼らはただ前代の働きを取り除くためだけに働き、神の性質を直接表すために新しい働きをするわけではない。このように、彼らがどれだけ多くの時代遅れの実践を廃止し、新しい実践を導入しようとも、彼らは依然として人や被造物を代表しているのである。しかし、神自身が働くとき、神は公然と古い時代の実践の撤廃を宣言したり、新しい時代の始まりを直接宣言することはない。神はその働きにおいて直接的で率直である。神は意図する働きを遂行する上で率直である。すなわち、神は自身がもたらした働きを直接表現し、本来意図したように自身の働きを遂行し、神であることと神の性質を表現する。人の見方では、神の性質、また神の働きはかつての時代とは異なっている。しかし、神の見地からは、これは神の働きの継続でありさらなる展開に過ぎない。神自身が働くとき、神はその言葉を表現し、直接新しい働きをもたらす。それとは対照的に、人が働くときは、熟考と研究によってなされるか、あるいは他人の働きに基づいて築かれた知識の発展と実践の体系化である。すなわち、人によってなされる働きの本質は設立された秩序に従い「新しい靴で古い道を歩く」ことである。これは聖霊に用いられる人が歩く道でさえ神自身によって開かれたものに基づいているという意味である。所詮人は人であり、神は神である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

 預言者たちや、聖霊に用いられる者たちの言葉と働きはみな、人間としての本分を尽くしていたのであり、被造物として自分の役割を果たし、人間がやるべきことを為していたのであった。しかしながら、受肉の神の言葉と働きとは、神の職分を実行することであった。受肉の神の外形は被造物と同じだが、その働きは、その役割を果たすことではなく、神の職分を遂行することであった。「本分」とは、被造物に関して用いられ、一方「職分」とは受肉の神の「肉」に関して用いられる。両者には本質的な違いがあり、この二つを置き換えることはできない。人間の働きはその本分を尽くすことだけであるが、神の働きとは、経営する(救い)ことと、神の職分を行うことである。だから、多くの使徒が聖霊に用いられ、多くの預言者たちが聖霊に満たされたが、その働きと言葉は単に被造物としての本分を尽くすことであった。彼らの預言は受肉した神の語ったいのちの道よりも偉大であったかもしれないが、また、彼らの人間性は受肉した神よりも非凡なものであったが、彼らは本分を尽くしていたのであって、職分を果たしたのではない。人間の本分とは、人間の役割のことをいい、人間が達成できるものである。しかしながら、受肉した神に行われる職分は、神の経営に関連しており、これは人間には達成できない。語ることであれ、働きを為すことであれ、ふしぎを現すことであれ、受肉の神はその経営の中で偉大な働きを行っているのであり、このような働きは、人間が受肉の神に代わってすることはできない。人間の働きは、神の経営の働きのある段階において被造物としてただその本分を尽くすことである。神の経営なしに、つまり、受肉の神の職分が失われるならば、被造物の本分もまたそうなるであろう。自分の職分を遂行する受肉の神の働きは人間を経営する(救い)ことであり、他方、本分を尽くしている人間は、創造主の要求に応えるために自分の義務を実行しているのであって、職分を果たしているとはいわれることは決してない。神の元来の本質、つまり、神の霊にとって、神の働きとはその経営のことであるが、創られたものと同じ外形をまとう受肉の神にとって、その働きとは、職分を果たすことである。どのような働きを受肉の神が行なおうと、それは自分の職分を果たすことであり、人間にできるのは、神の経営の範囲内で神に導かれて最善を尽くすだけである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より

 ヨハネ、ペテロ、そしてパウロは、イエスと同様多くの言葉を語ったが、彼らがイエスと同じ身分を持っていなかったのはなぜか。それは主に、彼らの働きが違ったからである。イエスは神の霊を現し、彼には神の霊が直接働いていたのである。イエスは、新しい時代の働き、それまで誰も行ったことのない働きをしたのである。イエスは新たな道を切り開き、ヤーウェを現し、神自身を現したのである。一方、ペテロやパウロやダビデは、彼らが何と呼ばれていたかに関係なく、被造物としての身分を現しただけ、また、イエスかヤーウェによって遣わされただけであった。だから、いかに多くの働きをしようとも、どれほど大きな奇跡を行おうとも、彼らはやはり神の被造物にすぎず、神の霊を現すことはできなかったのである。彼らは神の名によって、もしくは神に遣わされて働いたのである。更に、彼らはイエスあるいはヤーウェによって始められた時代の中で働いたのであり、彼らが行った働きはその時代と切り離されるものではなかった。結局のところ、彼らは神の被造物にすぎなかった。

『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より

 イエスの働きとヨハネの働きの違いは正確に言って何だったのだろうか。ヨハネはイエスのために道を整える人であったことが唯一の理由だろうか。あるいは、神にあらかじめ定められたからだろうか。ヨハネはまた「悔い改めよ、天国は近づいた」と言って、天の国の福音も宣べ伝えたが、彼の働きはさらに展開されず、導入部分だけであった。それとは対照的に、イエスは新しい時代を切り開き古い時代を終わらせたが、イエスはまた旧約聖書の律法を成就した。イエスの働きはヨハネの働きより偉大で、さらにイエスは全人類を贖うために来たのであり、その段階の働きを達成した。ヨハネはただ道を整えただけであった。彼の働きは偉大で、言葉もたくさん語り、彼に従った弟子たちも数多かったが、ヨハネの働きは人に新しい始まりをもたらす以上のことは何もなかった。人は彼からいのちも、道も、より深い真理も受けておらず、彼を通して神の旨の理解を得ることもなかった。ヨハネはイエスの働きのために新境地を切り開き、選ばれた人を準備した偉大な預言者(エリヤ)であった。ヨハネは恵みの時代の先駆者であった。そのような事柄はただ彼らの普通の人間の外観を見ていても分からない。特にヨハネは、極めて偉大で、その上聖霊に約束され、聖霊によって支えられた働きをしていたので余計にそうである。だから彼らのそれぞれの身分はその働きを通してでなければ区別することはできない。というのは人の外観からその人の本質を知ることはできないし、人は聖霊の真の証を確認することはできないからである。ヨハネによってなされた働きとイエスの働きとは同じではなく、性質が違っている。それが、神であるかどうかを決定するものである。イエスの働きとは、始めて、続けて、終わらせて、達成することであった。これらの段階をそれぞれイエスは実行したが、一方ヨハネの働きは、始まりの働き以上ではなかった。最初にイエスは福音を伝え、悔い改めの道を説き、それから人々にバプテスマを授け、病を癒し、悪霊を追い出した。最後にイエスは人類を罪から贖い、その時代全体のための働きを完成した。イエスは人々に説教し、あらゆる場所で天の国の福音を宣べ伝えた。この点ではイエスとヨハネは同じであったが、イエスは新しい時代の到来を告げ、人間に恵みの時代をもたらしたという違いがあった。人が恵みの時代に実践すべきことと従うべき道に関する言葉がイエスの口から発せられた。そして、最終的にイエスは贖いの働きを終えた。ヨハネはそのような働きを決して実行することはできなかった。だから、神自身の働きを行なったのはイエスで、イエスが神自身であり、神を直接表すのもイエスである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より

 聖霊の流れの中での働きは、それが神自身の働きであろうと、用いられている人々の働きであろうと、聖霊の働きである。神自身の本質は聖霊であり、聖霊あるいは7倍に強化された聖霊と呼ぶことができる。とにかく、それらは神の霊であり、時代によって神の霊の呼び方が異なっているだけのことなのだ。しかしそれでも本質は一つである。したがって、神自身の働きは聖霊の働きであり、肉となった神の働きは働いている聖霊以外の何物でもない。用いられている人々の働きも聖霊の働きである。神の働きは聖霊の完全な表現というだけのことで、違いはまったくないのだが、一方用いられている人々の働きは多くの人間らしい事情と混ぜ合わされており、聖霊の直接的表現ではなく、ましてや完全な表現ではない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

 神が表すものは神自身であり、これは人の力が及ばないもの、つまり、人の考えの及ばないものである。神はすべての人類を導くという働きを表し、これは人の経験の詳細とは関係なく、むしろ神自身の経営に関係している。人は自分の経験を表し、神は自身の存在を表す──この存在は神に固有の性質であり、人の力の及ばないものである。人の経験は、神が表した神の存在に基づいて獲得した見識や認識である。このような見識や認識は人の存在と呼ばれる。それらは人の本来備わっている性質、および人の実際の力量を基礎に表される。そこで、それらも人の存在と呼ばれる。…人が言うことは彼らが経験してきたことであり、見てきたもの、彼らの精神が到達できるもの、彼らの判断力で感じることができるものである。それなら彼らは語ることができる。人間の姿をした神の肉が語る言葉は聖霊の直接的表現であり、聖霊によってなされた働きを表している。肉はそれを経験しても、見てもいないが、それでも神の存在を表しているのは、肉の本質は聖霊であり、神は聖霊の働きを示しているからである。肉では到達することができなくても、それは聖霊によってすでになされた働きである。受肉のあと、肉の表現を通して神は人々に神の存在を知らしめ、人々が神の性質、ならびに神がした働きを見ることを許す。人の働きによって、人々は何において成長するべきか、何を理解するべきかについてもっと明確にすることができる。人の働きには、真理を理解し、経験する方向に人々を導くことが含まれる。人の働きは人々を支えることである。神の働きは人類のために新しい道を開拓し、新しい時代を開拓し、人々に、普通の人間には知られていないことを明らかにし、神の性質をわからせることである。神の働きは人類すべてを導くことである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

 あなた方は神の働きと人の働きの区別の仕方を知らなければならない。あなたは人の働きから何を見ることができるか。人の働きの中には人の経験による要素がたくさんある。人が表すものはその人そのものである。神自身の働きも神そのものを表すが、神そのものは人そのものとは異なる。人そのものは人の経験や人生を表し(人生やその人が持つ人生哲学において人が経験したり、遭遇したりするもの)、異なる環境に住む人々は異なる存在を表す。あなたに社会的経験があるか否か、あなたが家族の中で実際どのように生活し、経験しているかはあなたが表すものの中に見ることができるが、あなたは肉となった神の働きから神に社会的経験があるか否か見ることはできない。神は人の本質を十分承知しており、あらゆる種類の人々に関連するあらゆる種類の行為を明らかにすることができる。神は人間の堕落した性質や反抗的行動を明らかにするのはなおさら得意である。神は世俗的な人々の中には住まわないが、人間の本性や世俗的人々の堕落のすべてを承知している。これこそが神である。神は世間を取り扱わないが、世間を取り扱う規則は知っている。なぜなら人間の本性を十分に理解しているからである。神は人の目では見ることのできず、人の耳では聞くことのできない聖霊の働きについて、現在のものも、過去のものも知っている。これには、人生哲学ではない知恵や、人々が推測するのは難しいと思う奇跡も含まれている。これが、人々に明らかにされており、また隠されてもいる神そのものである。神が表すものは、特別な人のことではなく、聖霊に本来備わっている特質と存在である。神は世界中を巡回しないが世界のすべてを知っている。神は知識も洞察力もない「類人猿」と接触するが、知識よりも高く、偉人を超えた言葉を述べる。神は、人間性を持たず、人間の慣習や生活を理解しない鈍感で頭の鈍い人々の集団の中で暮らすが、人類に通常の人間性のままに生きるよう要求し、同時に人類の卑劣で粗野な人間性を明らかにする。このすべてが、どの生身の人間そのものよりも高い神そのものである。神は、なさなければならない仕事をし、堕落した人間の本質を完全に明らかにするために、複雑で、扱いにくく、浅ましい社会生活を経験する必要はない。浅ましい社会生活は、神の肉を啓発しない。神の働きと言葉は人の不従順を明らかにするだけで、人に世界と取り組むための経験や教訓を与えはしない。神が人にいのちを与えるとき、社会や人の家族を調べる必要はない。人を暴き、裁くことは神の肉の経験の表現ではない。それは人の不従順を長いこと知り、人類の堕落を忌み嫌ったあと、人の不義を明らかにすることである。神が行う働きはすべて、神の性質を人に明らかにし、神であることを表すことである。この働きができるのは神のみであり、生身の人が達成できることではない。神の働きに関し、人は神がどのような存在か言うことはできない。神を神の働きに基づいて創造された人として分類することも不可能である。神そのものも神を創造された人として分類できないようにしている。人は神を人間以外のものと考えるしかなく、どの範疇に神を入れるかはわからない。そこで、人は神を神の範疇に入れざるをえない。こうすることは、人にとって不合理なことではない。なぜなら、神は人が行うことのできないたくさんの働きをしてきたからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

 人の働きには範囲と限界がある。一人では一定の段階の働きしかできず、時代全体の働きをすることはできない──さもなければ、その人は人々を規則に導くだろう。人の働きは特定の時間または段階にしか適用できない。人の経験には範囲があるからである。人の働きを神の働きと比較することはできない。人の実践方法と真理の認識はすべて特定の範囲に適用される。人が歩む道は完全に聖霊の意志であると言うことはできない。人は聖霊によって啓発されるだけで、聖霊で完全に満たされることはできないからである。人が経験できることはすべて通常の人間の範囲内のもので、通常の人間の心の中の考えの範囲を越えることはできない。実践的表現をする人々はすべてこの範囲内で経験する。彼らが真理を経験するとき、それはいつも聖霊の啓発を受けた通常の人間生活の経験であり、通常の人間生活から逸脱した方法による経験ではない。彼らは人間生活に基づいて聖霊に啓発された真理を経験する。そのうえ、この真理は人によって異なり、その深さは人の状態に関連している。彼らが歩む道は真理を追及する人の通常の人間生活であり、その道は聖霊によって啓発された通常の人間が歩む道であると言えるだけである。彼らが歩む道は聖霊が取る道であると言うことはできない。通常の人間の経験では、追求する人々が異なるので、聖霊の働きも異なっている。さらに、彼らが経験する環境や経験の範囲は同じではなく、彼らの精神や考えが混ざり合うため、その経験の混ざり合う程度もさまざまになる。各人は個々の異なる条件に従って真理を理解する。真理の本当の意味を完全に理解することはなく、ほんの一部にすぎない。人が真理を経験する範囲はいつも個人の異なる条件に基づいているため、同じにはならない。こうして、同じ真理を表した認識でも人が異なれば同じにはならない。つまり、人の経験にはいつも限界があり、聖霊の意志を完全に表すことはできず、たとえ人の表すものが神の心にかなり一致していても、たとえ人の経験が聖霊の実行する人を完全にする働きに非常に近くても、人の働きを神の働きとして把握することはできない。人は神の僕にすぎず、神に任せられた働きしかできない。人は聖霊の啓発を受けた認識や自分の個人的経験から得た真理しか表すことはできない。人は無資格で、聖霊の流出口となる条件を持たない。人の働きは神の働きであると言う資格は与えられていない。人には人の働く原則があり、すべての人は異なる経験を持ち、さまざまな条件を所有している。人の働きには聖霊の啓発を受けたその人の経験のすべてが含まれる。これらの経験は人の存在を表すだけで神の存在、あるいは聖霊の意志は表さない。したがって、人が歩む道は聖霊が歩む道ということはできない。なぜなら人の働きは神の働きを表すことはできず、人の働きと人の経験は聖霊の完全な意志ではないからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

 人の働きは規則に陥りがちであり、その方法はすぐに限られた範囲に限定されてしまい、人々を自由な道に導くことはできない。ほとんどの信奉者は限られた範囲内に住んでいて、彼らの経験する道もその範囲内に限られている。人の経験はいつも限られている。働く方法もいくつかに限られており、聖霊の働きや神自身の働きと比較することはできない──これは、人の経験が結局は限られているからである。神がどのように働きを行おうと、それには規則がない。どのようになされようと、神の働きは一方向に限られはしない。神の働きに規則はまったくなく、働きはすべて自由に解放される。どんなに多くの時間をかけて神に従おうとも、人々は神が働く方法のいかなる規範も総括することはできない。神の働きは原則に基づいているが、いつも新しい方法で行われ、いつも新しい進展があり、人の手の届く範囲のものではない。一期間の間に、神はいくつかの異なる種類の働き、異なる導き方を示すことがあり、人々がいつも新たな成長や新たな変化を持てるようにする。神の働きの規範を見つけ出すことができないのは、神がいつも新しい方法で働いているからである。このようにしてのみ、神の信奉者は規則に陥らないで済む。神自身の働きはいつも人々の見解を避け、彼らの見解に反論する。本当の心で神に従い、神を追い求める人々だけが自分の性質を変えることができ、いかなる規則にも支配されず、いかなる宗教的見解にも拘束されず、自由に生きることができる。人の働きが人々に要求することはその人自身の経験および自分自身が達成できることに基づいている。これらの要求の基準は一定の範囲内に限られており、実践方法も非常に限られている。したがって信奉者は無意識のうちにこの限られた範囲内で生きることになる。時が経つにつれてそれらは規則と儀式になる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

 神の働きは、神の肉の経験を表すのではない。人が行う働きは人の経験を表す。誰もが自分の個人的経験について話す。神は直接真理を表し、一方人は真理を経験したあと、付随する経験を表せるだけである。神の働きに規則はなく、時間や地理的制約に支配されない。神はいつでも、どこでも自分が何かを表すことができる。神は好きなように働く。人の働きには条件と事情がある。そうでなければ、人は働くことはできず、神に関する認識や真理の経験を表すことができない。あなたは、神自身の働きか、人の働きか伝えるためには両方の違いを比較するしかない。神自身のする働きはなく、あるのは人の働きのみであれば、あなたは単に人の教えは高度で、ほかの誰の能力も及ばないと知るだろう。彼らの話す調子、事を扱う際の原則、働く際の経験豊かで、落ち着いた態度は他の人々の力の及ぶところではないと知るだろう。あなた方はみな高い人間性を持つこれらの人々を称賛するが、神の働きと言葉から神の人間性がどれほど高いか知ることはできない。それどころか、神は普通であり、働くときは通常で現実的だが、人間には計り知れないものでもあり、そのため、人々は一種の畏敬の念を神に感じる。おそらく、働きにおける人の経験は特に高い、あるいは想像力や論理的思考は特に高く、人間性は特に良い。これらのことは人々の称賛は得られても、畏敬の念や畏れを喚起することはできない。働く能力を持ち、特に深い経験を持ち、真理を実践できる人々は誰もが称賛するが、彼らは畏敬の念を呼び起こすことは決してできず、称賛と羨望がせいぜいである。しかし神の働きを経験した人々は神を称賛するのではなく、その代わり、神の働きは人間の力の及ばないもので、人には計り知れず、新鮮で素晴らしいと感じる。人々が神の働きを経験する時、神に対して最初に持つ認識は、神は計り知れず、賢明で素晴らしいということであり、彼らは無意識のうちに神を敬い、神の働きの神秘性を感じ、人の考えの及ばないものだと思う。人々はひとえに神の要求に応じられること、神の希望を満たせることを望み、神を超えようとは思わない。なぜなら、神の働きは人の考えや想像のおよばないものであり、人が神に代わって行うことはできないからである。人自身が自分の力不足を知らないのに、神は新しい道を開拓して、人をより新しく、より美しい世界へ至らせるようにしたので、人類は新たに進歩し、新しいスタートを切った。神に対して人が感じるのは称賛ではない、というより、称賛だけではない。彼らのもっとも深い経験は畏敬の念と愛であり、彼らの抱く感情は、神は実に素晴らしいということである。神は人ができない働きをし、人が言えないことを言う。神の働きを経験した人々はいつも言葉では言い表せない感情を経験する。より深い経験を持つ人々は特に神を愛する。彼らはいつも神の素晴しさを感じ、神の働きは非常に賢く、非常にみごとだと感じ、そう感じることによって彼らの中には限りない力が生み出される。それは恐れ、あるいは時折生じる愛と尊敬ではなく、人に対する神の慈悲と寛容を深く感じる気持ちである。しかし、神の刑罰と裁きを経験した人々は、神を威厳で、犯すことができないと感じる。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

 もし人がこの働きをしようものなら、それはあまりにも制限されたものになるだろう。人はある所までは行くことができても、永遠の終着点まで行くことはできないであろう。人は自分の運命を決めることはできないし、自分の前途や未来の終着点を保証することなど、尚更できない。しかし神によってなされる働きは異なる。彼は人を造ったからには、人を導く。彼は人を救ったからには、完全に救い、完全に人を獲得する。彼は人を導くからには、人を適切な終着点に連れて行く。そして、神は人を創造し、経営するからには、人の運命と前途のために責任を負わなければならない。これこそが造り主によってなされる働きである。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行くこと」より


片意地を捨てて、異なる意見を聞いてみるべきだ

2019-12-23 09:43:24 | 賛美の心

 森の中に、大大という名のフクロウがいます。五羽のかわいい赤ちゃんを産んだ後、大大は赤ちゃんたちが健やかに楽しく育つために、もっと大きな巣を探すことを決めました。そして、森の奥深い所のあの大きな木を選んで、その上に巣を作ることを計画しました

 だが、よい友達本本は大大にこう勧めました。その木の下に狐さんが住んでいるから、新しい家をそこに建ってはならない、と。森の中で狐と隣同士になるのは非常に危険ですが、大大は何とも思いませんでした。狐は確かに恐ろしいが、木の下で活動することしかできない、自分と赤ちゃんたちは木の上に住んでいる、それではどうして危険があるだろうか、と大大が考えていました。そういうわけで、本本の意見を聞き入れませんでした。


 本本は大大が勧告に耳を傾けてくれないのを見て、「どうしても新しい家をそこに建てたいなら、わたしはあなたに右側の巣を選ぶことを勧める。その巣は狐から遠いだけでなく、また探しにくい。そこに住めば、赤ちゃんたちはずっと安全だ」と言いました。しかし大大はもう一度本本の意見を否定しました。左側の巣は広いばかりでなく、そのうえ日当たりもよい、それなのに、どうしてよい巣を捨てて劣る巣を求めなければならないのかと、大大はそう思っていました。そのため、赤ちゃんたちを連れて左側の巣に引っ越しました。

 ある嵐の夜、食物を捜しに行った大大はずっと帰ってきませんでした。いらいらして待っている赤ちゃんたちは次々に小さな頭を突き出し、周りを見回してお母さんの姿を探し、だれもよだれを垂らす木の下のあの狐に気づいていませんでした。突然風が吹いてきました。小さな赤ちゃんたちは巣の中から吹き出され、ちょうど狐の前に落ちました。かわいそうな赤ちゃんたちは最後に、狐の光った目しか見ませんでした。……

 想像できることですが、大大が戻ってきて、自分の赤ちゃんたちが狐の晩餐になるのを見る時、きっと自分の当時の傲慢さ、独りよがりを後悔します。大大は本本の意見を聞き入れなかったため、このような悲劇を招きました。

 聖書にこう書かれています。「太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ」(コヘ9:3)。「増長し、高慢な者、その名は不遜。高慢のかぎりを尽くす」(箴21:24)。

 現実生活の中で、わたしたちは多くの時、大大と同じです。他人が自分の観点を否認し、また異なる意見を出す時、傲慢な本性に支配されているわたしたちは拒絶し、断り、相手の意見が合理的かどうか、自分の固守する意見が正しいかどうかを全然考えません。相手の意見が正しいが、自分が傲慢的であって、メンツを投げ捨てられず、謙虚に受け入れられないとすれば、最終的に損をするのは自分だけです。

 主イエスがこう言われたことがあります。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ14:11)。わたしたちが自分を低くし、正しい意見に従うことができれば、神はわたしたちを喜んで受け入れられます。進んで自分を低くする者であればあるほど、神に好かれ、他人に尊重され、敬愛されます。しかしわたしたち腐敗した人類はこう思っています。他人におだてられ、重視されればされるほど光栄だ、他人に従うことは恥辱だ、と。この思想、観点にむしばまれたため、わたしたちの本性は非常に傲慢で、おごり高ぶり、唯我独尊で、人の下に付くのを好みません。実は、謙虚に正しい意見に耳を傾けることは、無知無能の表れではなくて、進歩を遂げる前提です。

 一人の能力はいくら高くても、限りがあるのです。「みんながまきを拾って燃やせば炎が高くなる」というのがそのとおりです。正しい意見に耳を傾けることを学び、他人の長所を取り入れ、自分の短所を補ってこそ、大きな進歩を遂げることができます。


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祈りの方法 – 4つの要素を把握したら、あなたはどのように祈るべきか分かる

2019-12-22 20:23:11 | 賛美の心

 祈りはクリスチャンが神様と正常な関係を確立する一つの道です。私たちがデボーションするときに祈る必要があるだけではなく、生活中でさらに私たちが神様の前に来て祈ることが必要です。そのため、祈りの実践はクリスチャンにとって極めて重要です。では、どのように祈れば効果を達成できるのでしょうか。

1.主イエスの言葉を理解するためにいつも神に祈らなければならず、また主イエスの言葉の実際の意義を探究し、理解しなければなりません。
 ヨハネによる福音書第14章6-7節にこう書かれています。主イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」。主イエスは彼が道、真理、命だと言われました。わたしたちも主イエスがわたしたちの牧者、また暗やみの中で模索しているわたしたちのともし火、案内者だと信じています。主イエスはすでに彼の言葉を通してわたしたちに道を指し示し、また命をわたしたちに与えられました。今日主イエスにつき従うわたしたちは、主イエスの言葉を通して主イエスの言葉の真意をもっと多く理解すべきであり、また主イエスの言葉を理解するためにいつも祈りをささげて、神の導き、啓きを求めるべきです。

2.祈るのは、主の言葉の中の真理、主の言葉の意図を理解することによって、神に従い、神を礼拝するという効果を収めるためであって、宗教的儀式をやって神を欺くためではありません。
 祈ることは、わたしたちが直接神とコミュニケーションする方法です。わたしたちは、祈りの意義が真理を理解して神に従い、神を礼拝することだと知らなければなりません。主イエスはかつてわたしたちにこう教えられました。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(マタイによる福音書6:5)。主イエスはまたこのようにパリサイ人をしかられました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(マタ23:14)。神に祈ることは神聖なことであって、宗教的儀式をやってはなりません。決してパリサイ人のように見せかけの祈りをしてはなりません。あのような祈りはうわべでは敬虔なように見えるが、実質的には神をだましているのです。主イエスは「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネによる福音書4:24)と言われました。そのため、わたしたちが神に祈る時、敬虔な心を持たなければなりません。

3.祈る時には、わたしたちは実際の生活の中の困難、問題に結びつけて神に祈り求め、祈るべきで、現実から離れて空論や文字の中の教理を説いてはなりません。
 主イエスは祈りについてこう言われました。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイによる福音書6:7-8)。主イエスの言葉から分かりますが、祈る時にくどくどと無意味な言葉を話すなら、主イエスはそれを異邦人の祈りだと言い、それを喜びません。そのため、わたしたちは実際の生活の中の困難、問題に結びつけて神に祈り、誠実な祈りをするべきです。なぜなら、神はわたしたちに必要なもの、わたしたちの求めるものを知っておられるからです。

4.祈り求め、祈る過程の中で、神を畏れる心と理知を持たなければなりません。祈る中で、神に要求し、無理強いし、神を利用してはならず、また神と取引してはなりません。
 旧約聖書の中のヨブの祈りはわたしに最も深い感動を与えました。ヨブが子女と財産を失った後、「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。『わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ』」(ヨブ記1:20-21)。ヨブは祈る時、神になぜそうするかと詰問せず、また神に彼の子女と財産を返すように要求せず、神がそれを返さなければ、彼が神を信じなくなるとも言いませんでした。このすべては神の手によって支配されているので、被造物としては、造物主に従うべきだと、ヨブはよく知っていたからです。ヨブの祈りには神に対する従順、畏れ敬いがあります。

 ゲツセマネの園での主イエスの祈りは新約聖書にこう記されています。「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた、『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに』」(マタイによる福音書26:39)。「更に、二度目に向こうへ行って祈られた。『父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように』」(マタイによる福音書26:42)。主イエスの祈りからこういうことが分かります。主イエスは天の父の御心を行なうために祈られたのです。主イエスも人性の弱さがありますが、でも彼の祈りには従順さ、理知があります。


正しい祈り方を見つけば、主から答えを得られる

2019-12-21 20:00:45 | 賛美の心

 兄弟姉妹たち、主にあって平安でありますように。今日、わたしたちは命の面の真理について交流します。主につき従うすべての信徒が知っているように、祈りは主につき従うのに欠かせない一項目であり、クリスチャンが祈らなければ、クリスチャンと呼ばれる資格がありません。祈りのゆえに、わたしたちは主の教えを実行する信仰を持ちました。祈りのゆえに、わたしたちは神の啓きと導きを得ることができます。祈りのゆえに、わたしたちは自分の働きと費やしが主の心にかなうようにすることができます。祈りのゆえに、わたしたちは一回また一回と弱さの中で起き上がりました。祈りのゆえに、わたしたちは主の十字架を負って主から与えられる苦杯を飲む力を持ちました。……明らかに、クリスチャンのすべての生活には祈りが欠かせません。しかし、多くの信徒は「わたしが祈りましたが、なぜ主の返事を得られないのですか。なぜわたしの祈りが主に聞き入れられないのですか。なぜわたしは祈る時に主の臨在を感じられないのですか……」と言っています。あなたもこのように困惑しているなら、あなたの祈りに問題が起こるかもしれません!

なぜパリサイ人の祈りが主に良しとされることができなかったのですか
 この問題の答えは、聖書の記録からでも見つけられます。聖書に二人の人の祈りが記されています。一人の祈りは主に聞き入れられましたが、もう一人の祈りは主に聞き入れられませんでした。聖書を熟読する多くの兄弟姉妹はもう、わたしの言っているあの二人がだれかを知ったと、わたしは信じています。では、わたしたちはまずこの数節の聖書の言葉を読みましょう。ルカによる福音書第18章9-14節にこう書かれています。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上がった。一人はファリサ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』」。この数節の聖書の言葉から分かりますが、パリサイ人の祈りは神に受け入れられず、徴税人の祈りは神に受け入れられました

 兄弟姉妹たち、わたしたちはパリサイ人の祈りが主に良しとされず、かえって主に嫌われた原因を知っていますか。実は、主イエスはとっくにこれをわたしたちに教えられました。主はこう言われました。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」(マタ6:5)。ここから分かりますが、パリサイ人の祈りはみな偽善的なものです。彼らが大通りの角に立て祈った時、通りかかった人は彼らの、文才の優れている祈りを聞くと羨ましがりました。彼らがそうする目的は、自分をひけらかし、自己アピールし、わざと見せかけをやって、人が彼らの祈りを褒めるようにさせ、人の心の中で彼ら自身のイメージを作り上げることでした。彼らが祈るのは、神との正常な関係を築くためではなく、見せかけをやるためでした。主の前では、彼らは全然自分が罪を持っていると思わず、かえって自分をもちあげ、他人をけなしました。彼らが祈ったように、「わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもない……。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。そういうわけで、主は彼らのこのような祈りを忌み嫌い、罪定めされました。

 では、わたしたちは徴税人がどのように主に祈ったかを見ましょう。徴税人は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。徴税人の祈りから分かりますが、彼は祈る時、言葉数が少ないが、誠実に腹蔵のない話、本当の話をし、本心から出た言葉を言いました。彼らは思ったことをそのまま言い、自分をひけらかさず、しかも主の前では、自分が卑しいのだと認識し、罪人の立場に立って神に祈りました。徴税人は心と真理をもって神を礼拝し、考えることと言うことが一致するのでした。徴税人は人の多いところで祈らず、ほかの人が彼のことをどう思うかを重んじず、神が彼のことをどう思うかを重んじていました。彼が祈るのは、神との正常な関係を築くためであって、見せかけをやるためではありませんでした。だから、神は彼の祈りを喜んで受け入れました。

どのように祈れば、主に良しとされることができますか
 主はこのようにわたしたちに言われました。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」(マタ6:6-7)。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4:23-24)。

 主イエスの言葉、およびパリサイ人と徴税人の祈りの対比を通して、わたしたちは正しい祈り方を見つけ、祈りが神に良しとされない原因も知りました。わたしたちはまた、その中からこういうことが分かりました。祈る時、主に聞き入れられ、神に導かれることを望むなら、偽りの祈り、自分をもちあげ他人をけなす祈り、わざと自分をひけらかす祈り、自己を認識していないような祈り、繰り返しの理論的な祈り、口先だけの祈り、見せかけをやるような祈り、大きなことばかり言って実質を伴わないような祈り……を取り除かなければなりません。例えば、わたしたちは集会の中で、そばの人に自分が神を信じることに非常に優れているのを見せようとして、祈る時いつも聞こえのよいことを言い、自分がどのくらいの代価を払ったか、どのくらい費やしたかを言います。これは偽善的な祈りです。多くの時、わたしたちは祈りの中で同じ言葉を繰り返します。祈る時間が長いですが、祈った後、主に何を言ったかさえも忘れるかもしれません。これは口先だけで神をごまかす祈りです。多くの時、わたしたちは他人に偏見を抱きます。でも、わたしたちは主の前にひざまずいた後、主の意志を求めず、どのように主の教えを実行するかを探究せず、むしろ神に苦しみを訴え、相手の過ちを言い、そして自分がどのように相手を大目に見、譲歩したかを言います。これは自分をもちあげ他人をけなす祈りです。多くの時、主の恵みを見た後のわたしたちは勝手に主に約束し、主を満足させようと誓いを立てますが、事が臨むと、やはり古い己、血気によって事を行ない、言葉を言います。これは、大きなことばかり言って実質を伴わないような祈りです。……現実生活の中で、わたしたちのこのような、神の心にかなわない祈りはいつも現れます。だから、わたしたちの祈りは主に聞き入れられることができません。わたしたちが祈る時に神に導かれることを望むなら、神に嫌われるこれらの祈りを解決しなければなりません。それでこそ、わたしたちと神の関係はますますよくなることができます。

 主イエスの言葉から、わたしたちはこういうことが分かりました。主イエスがわたしたちに要求される祈りは、霊と誠実さをもって本音を語ることです。祈る時、そんなに多くの言葉を言う必要がなく、そんなに聞こえがよい言葉を言う必要もなく、誠実な心を持つべきです。このような祈りこそ神に良しとされることができます。